無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 京急品川駅   

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京浜急行品川駅/品川区高輪
一番西側のホーム、すぐ下が第一京浜です。
ここから乗ることはめったにありませんが、
なかなかの眺め、いいですね~!


品川駅

港区高輪三丁目および港南二丁目にあるJR東日本・JR東海・JR貨物・京急の駅。京急は構内の西側に位置し、23線のホームを有する高架駅である。東側(JR品川駅側)に単式ホーム(1番線)、西側に島式ホーム(23番線)が配置され、3番線は泉岳寺方が行き止まりとなっている。2番線に到着した当駅止まりの列車は泉岳寺寄りにある引き上げ線に入って折り返し1番線に転線する。駅名は古くからの当地の周辺地名、東海道の宿場町品川宿およびその北側の江戸湾沿岸部の呼称品川湊に由来する。(Wikipedia



# by Twalking | 2017-09-25 20:04 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 アガバンサス   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
タネも飛んで茎だけだだけど
見事な枯れ際、美しい
ありがと~!

# by Twalking | 2017-09-25 10:59 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鮫洲駅   

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京急鮫洲駅/品川区東大井
凛々しいお姿、かっいい~!
お疲れさまです、ありがとうございます。


鮫洲駅

品川区東大井一丁目にある京浜急行電鉄本線の駅である。隣の青物横丁駅との駅間距離は0.5kmと近接している。島式ホーム12線の外側に通過線2線を有する高架駅。ホーム有効長は6両編成分である。東方100mほどの所に旧東海道があり、立会川駅とともに土佐藩屋敷があった周辺として歴史上の史跡もいくつか存在するが、品川宿として整備されている青物横丁以北ほどは未だ整備されていない(Wikipedia


# by Twalking | 2017-09-24 22:58 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)02-大森   

日時 2017.9.19(火)
天気 晴れ

蒲田・大森は第一京浜を歩きますので
呑川、梅屋敷くらいで街道の面影はありません。
美浜通りに入るとちょっと一息の感じです。

すぐに内川、暗渠でしたが平間道でもであった川筋、
ここは流れが残り、旧羽田道の案内が立ちます。
大森神社、涌井神社に寄りながら商店街を散策しました。
首都高の先が鈴ヶ森刑場跡、区界で、すぐ海でした。


・・・大森


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大田区の地名または大森駅を中心とする街。東京湾に臨み、古くから農業漁業(特に海苔)の盛んな地域であった。古くは「大杜」とも記され、鎌倉時代の1204年(元久元年)に大井郷の地頭が大井四郎に大杜と永富の郷を譲与したとあるのが文献上の初出である。江戸時代には品川宿と川崎宿を結ぶ東海道の街道のため賑わった。名物である海苔の養殖は天和〜貞享年間(16811688)ごろに浅草から移住してきた漁民によって始められ「浅草海苔」として販売された。1876年(明治9年)に大森駅が開業し、さらに1923年(大正12年)の関東大震災によって住宅の密集した都心から多くの人が移り住むようになった。旧馬込町と旧入新井町の一帯には大正後期から昭和初期にかけて多くの文士や芸術家が居住し馬込文士村と呼ばれる地域でもあったWikipedia 江戸名所百景-八景坂鎧掛松/広重

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街道の風景① 密乗院に寄り道して街道に戻りました/大森中

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密乗院山門/
大森中
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密乗院
およそ800年前に真栄が開創し不動明王を安置した。徳川家康が狩に来て当寺に休んだとの伝説がある。寺領20石を賜ったが天明年間(1781-1789)火災のため朱印および堂宇を焼失した。神仏混淆の頃は大森各神社別当を兼ねたと伝えられている。(大田区の寺院)

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板碑群(大田区文化財)
当寺に保存されている板碑は昭和6年に、隣地三輪厳島神社境内から発掘されたもののうちの16基である。年代銘のあるものは延慶3年(1310年)から文明6年(1474)まで、このうち延慶6年のものは釈迦種子、他は全部阿弥陀種子を刻する。板碑は中世の人が仏を供養するために緑泥片岩で作った卒塔婆で、俗に青石塔婆と呼ばれる。区内においては鵜の木光明寺・池上本門寺・馬込萬福寺等その密集地として知られているが、それらに次ぐ大量の板碑が、海岸に近い当畜から出土した事実は注目に値する。(大田区教育委員会)

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貴菅神社/大森西

江戸時代、東海道に面していた本宿村の鎮守で、後に菅原神社と合祀して貴舩(貴菅)神社となったそうです。祭神は高靄神で水や雨を司る神と菅原道真です。


・・大森東

大田区の東部に位置する。北部は概ね環七通りに接し大森本町になる。東部は平和の森公園やふるさとの浜辺公園になる。地域南部は大森南に接する。西部は第一京浜・産業道路にそれぞれに接しこれらを境に大森西・大森中にそれぞれ接する。東西に内川が流れている。また、第一京浜との交差点である大森警察署前交差点を始点として産業道路が南へ向かって伸びている。
Wikipedia


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街道の風景② 産業道路を横断すると「美原通り」入口、やっと街道らしくなります/大森警察署前

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旧東海道(美原通り)
昭和2年(1927)東海道は拡幅改修され第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのはこの美原通りと六郷地区の一部だけとなった。旧東海道はかつて美原通りといわれた。美原とは宇名の南原中原北原の三原のことで美称して美原となった。歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(うきよづかひよくのいなずま・鶴屋南北作)で有名な旅籠「駿河屋」のあった「するが通り」は内川橋の際から分かれる。(大田区教育委員会)

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川の風景① 内川を渡ります、上流側に第一京浜が並走しています/内川橋

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内川
大田区を流れる河川。二級水系の本流である。全長1.55km、流域面積3.252。大田区中央、大森西の東海道本線橋下、大森学園高等学校前を流れて京浜運河、東京湾に注ぐ。元々は北馬込付近を水源とした天然の小川であった。現在では東海道本線より上流は暗渠化し下水道の幹線とされ、下流が河川法上の指定区間となっている。Wikipedia



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内川橋                旧羽田通り(するがや通り)

羽田道(するがや通り)
羽田道の出発点である内川橋は、昔するがや橋といわれた。「駿河屋」という旅宿があったので現在の「するがや通り」という名が残されています(標柱)

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徳浄寺山門/大森東

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徳浄寺
開基は祐信、俗姓は菅原氏。豊島郡四谷に住む。日世智行の時念仏門に帰依し、寛永4年(1627)に本尊及び親鸞の影像と寺号を本山より下賜された。元禄年間(1688-1704)に13世秀山の子・教伝が当地に移し、徳浄寺の1世となった。9世祐海が天保年間(1830-44)に本堂を建立したが戦災により焼失、昭和35年に再建した。(大田区の寺院)

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街道の風景③ 環七通りを渡ると仲町商店街が続きます/美原通り

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環七通りを横断            京急平和島駅/第一京浜

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大森神社鳥居/大森北


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大森神社
伝説によると昔このあたりが海辺であったが、ある時海上に金色の光が輝き(弥陀の像ともいう)波のまにまに浮んで岸辺に流ついた。里人達は畏れてこの像を沖へ押流したが、再び元の場所に流れつき、押流すこと三度に及んだ。なおも元の場所に寄り来たるのでこの像をを建てて祀ったのが当社の起源だといわれている。そのためこの社を寄来明神と称し、また寄来神社と称した。また流れついた里を美原の里(美原通りのあたり)と呼ぶようになったといわれている。(大田区の神社)

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最徳寺山門/大森北

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最徳寺
開基の永頓藤原氏の一族で、鎌子の玄孫内麻呂の子孫、相模国三浦郡野北郷五明山最宝寺の開基・明光の弟。初めは天台の僧であったが兄に従い鎌倉において親鸞に会い改宗する。文暦元年(12349月当地に住し、兄の名を山号として明光山智慧光院西蓮坊最徳寺と号した。なお「新編武蔵風土記稿」によれば、開山は永順で仁冶2年(1241)入寂、何世代かの後永頓の時に、徳川家康関東入国を慕って鎌倉より当地へ移ったとある。(大田区の寺院)

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街道の風景④ 美原通りから第一京浜へ、左側の杜が磐井神社です/平和島口

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老舗の浅草海苔屋さん         東側入口の道標

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江戸名所図会 大森和中散 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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磐井神社鳥居/大森北


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磐井神社
三代実録」によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、当社を武州の八幡社の総社に定めたといわれる。また「延喜式神名帳」に記載されている古社であり、当社の由緒書によれば徳川家の将軍もここに参詣したことが記されている。万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とはここの笠島弁天を指したものという説もある。(大田区教育委員会)

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鈴石・烏石(非公開)と江戸文人石碑群
鈴石は、社伝によれば延暦年間(782806)に武蔵国の国司であった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石とされる。これを打つと鈴のような音がしたことから「鈴ケ森」の地名の由来になったと伝えられる。また烏石は鳥の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家松下烏石(?~1779)が寄進した。鈴石・烏石はともに屋内に保管されている。江戸文人石碑群はこの烏石の寄進の由来を記した烏石碑をはじめ松下烏石の門人等が建立寄進したもので、向かって右から次のように並んでいる。狸筆塚 文化6(1809) 筆塚 天明6(1786) 烏石碑 元文6(1741) これら、かつて弁天池周辺にあったが神社の境内整備に伴って現在地に移された。(大田区教育委員会)

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磐井の井戸
当社社名の由来となったこの井戸「磐井」と呼ばれる古井で、東海道往来の旅人に利用され、霊水又は薬水と称されて古来有名である。この位置はもと神社の境内であったが、国道の拡幅により境域がせばめられたため社前歩道上に遺存されることになった。土地の人々はこの井戸水を飲むと心正しければ清水、心邪ならば塩水という伝説を昔から伝えている。(大田区教育委員会)

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笠島弁天社              神楽殿と海豊稲荷神社

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江戸名所図会 鈴の森八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑤ 首都高先が鈴ヶ森刑場跡、手前海側には平和島競艇場、品川水族館があります/南大井

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平和島競艇場
大田区にある競艇場である大森競走場として1954年に東京都主催で開催されたのが最初である。現在は府中市による開催のみとなっており、大田区を含む東京23区は開催に関与していない(同じ23区内・江戸川区の江戸川競艇場も同様)。また府中市には多摩川競艇場があるが府中市は一切関与していない。競艇場は平和島と大森の海岸の間の運河を利用している。競走水面は海で水質は海水。潮の満ち引きによる潮位の差はあるが、東京湾からの波は直接入ってくることはないWikipedia

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しながわ水族館
品川区のしながわ区民公園内南端にある水族館。地上一階地下二階建て。一階の「海面フロア」では東京湾の魚や生物などを展示、スタジアムではイルカ・アシカのショーが開催される。地下の「海底フロア」では巨大なトンネル水槽を通ることができる。また、水族館の外部にはレストラン「ドルフィン」とマリンショップ「シーガル」がある。Wikipedia

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街道の風景⑥ 第一京浜から旧道の入口に鈴ヶ森刑場跡があります/南大井

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都旧跡 鈴ヶ森遺跡
寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)であったという。

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歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ
石碑は元禄6年(1693)池上本門寺日顗の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。

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大径寺改題には火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。ここで処刑された者のうち丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡である。(東京都教育委員会)

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鈴森山大経寺
当寺は鈴ヶ森刑場が開設された慶安4年(1651)と前後して堂宇が建立されたらしい。度々の台風等により建物を失いその都度再建された様であるが、記録がない為その間の様子を詳しく知る事は出来ない。明らかな文章によると文久2年(1862)大井村名主大野貫蔵が中心となり刑場に隣接して百姓番小屋を建立し、内々に本尊を安置、密かに刑場受刑者の供養を行うように成ったのを始めと伝えられる。その後、明治4年(1871)刑場廃止と同時に「旭松庵」と称して、無縁受刑者供養を専らとし檀家を持つことなく今日に至っている。その間、昭和17年(1942)品川蓮長寺42世慈洽院日完上人を開山として、寺号公称を行い「鈴森山大経寺」と成り、第2世小越妙誠法尼の時代に戦争を経て建物を維持、昭和29年国の区画整理事業により寺域を大幅に失い縮小された現地に移り、平成2年老朽化した建物を全面改良し近代的寺院として再建、今日を迎えた。(鈴森山大経寺栞)

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江戸名所図会 鈴の森 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大森駅付近地図(180°回転)
(赤:東海道 緑:平間街道・池上道 青:呑川・内川)

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大森周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 緑:平間街道・池上道 青:内川)

平間街道・池上道-大森の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25574003/


・・・・・
資料ファイル

大井氏

紀氏のうち長谷雄流に属する一族は実直の頃、国衙の関係者として武蔵国に土着した。伊勢国との関わりが深い。一族には大井氏の他に品川氏・春日部氏・堤氏・潮田氏が居る。なお春日部氏は源頼政の郎党であったと考えられる。大井実春(さねはる)は寿永3年(11843月、伊勢国の平氏残党(志田義広や平田家継(平田入道)、平信兼)の征討に参加する。元暦2年(11841月、源義経拝賀のカン飯を勤める。文治元年(118511月、伊勢国桑名郡香取五ヶ郷(桑名市多度町香取)を所領とする。元久元年(120412月、大杜郷を所領とする。その後も大井氏は品川氏と共に源頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇されていた。また大井実春は怪力の持ち主で源頼朝の御前で催される相撲の選手でもあったWikipedia

紀氏
(きうじ)

「紀」を氏の名とする氏族。大和国平軍県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。天智天皇朝には大人が御史大夫となり、奈良時代に入ってからは麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、名虎が娘を入内させるが家運は好転せず、応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人歌人を輩出するに留まる。紀氏の流れをくむ末裔として田長流の石清水八幡宮別当家(田中・善法寺家)の他、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)、長谷雄流を称する池田氏・信太氏・細見氏・大井氏・中村氏・品川氏・春日部氏・堀田氏・浦上氏・安富氏・高安氏などが挙げられる。Wikipedia


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中世大井の概念図
大井氏関連の所領および大井地域の想定範囲

鎌倉武士・大井一族
武士の時代・中世には地域名を苗字冠した在地領主が台頭しました。鎌倉時代に大井の地を納めたのは大井実春(さねはる)の率いる武士団でした。大井氏は分家の品河氏らとともに将軍源頼朝や執権北条義時に従って幕府御家人として活躍しました。承久の乱(1221)の後、大井一族は薩摩国(鹿児島県)などに領地を拝領し、活躍の拠点を西へ移していきました(品川歴史館)


品川の海苔

浅草海苔の名が生まれたのは慶長年間(1596 1614)と言われ、続いて品川海苔の名称が有名になった。海苔の大量生産が可能になったのは、品川の漁業者が養殖方法を発明しそれが各地に伝わったからである。初めは各地方とも生産地名で売り出したが、浅草海苔の名に押されて伸び悩み、次第に商いの上から有利である「浅草海苔」の名で売り出すようになっていった。なお、「浅草海苔」の由来については、①品川大森で採れた海苔を浅草に持って行って製造したから②浅草川(現隅田川)で採れたから③大森の野口六郎左衛門が浅草紙の作り方をまねて工夫をこらし、乾海苔を作りこれを浅草海苔と名付けたからといった諸説がある。(品川歴史館解説シート抜粋)


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江戸名所図会 浅草海苔 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

大森品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古かしこの海に産せしゆゑに、その旧称を失はずしてかくは呼び来れり。秋の時正(ひがん)に麁朶(そだ)を建て、春の時正に止まるを定規とす。寒中に採るものを絶品とし、一年の間囲ひ置くとうへどもその色合ひ風味ともに変はることなし。ゆゑに高貴の家にも賞翫せらるるをもって、諸国ともに送り手これを産業とする者は夥しく、実に江戸の名産なり』(江戸名所図会)

# by Twalking | 2017-09-24 19:56 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 真柏   

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真柏
八芳園/港区白金台
推定樹齢500年、
凄い、お見事の一言です。
お墓参りのひと時、安らぎました。


真柏
科名:ヒノキ科 和名:ミヤマビャクシン
サハリンから屋久島までの高山や海岸沿いの崖などに自生するイブキの仲間であるミヤマビャクシン変種シンパクと称して盆栽に用いられている。幹は横に曲がって生長することが多く、樹皮は赤褐色。ジンやシャリを伴い、バラエティに富んだ樹形作りが楽しめることから盆栽界では最も人気の高い樹種のひとつとなっている。とくに葉性のよい「糸魚川シンパク」が人気がある。日当りと風通しの良い場所で管理し、葉水をこまめに与え空中湿度の高い状態を維持する。(用語辞典)



# by Twalking | 2017-09-23 22:39 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-大井鹿島神社   

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阿形

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吽形
大井鹿島神社/品川区大井

精悍な顔つきですね
戦災をまぬがれて現存する
旧社殿を護っていました。

# by Twalking | 2017-09-22 19:14 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 はぐまのき   

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はぐまのき
愛宕下通り/多摩市愛宕
風に吹かれてキラキラと
最後の一花・・・、美しい。


はぐまのき (白熊の木)

ウルシ科ハグマノキ属の落葉低木。中国からヒマラヤ、ヨーロッパ南部にかけて分布しています。わが国へは明治時代に渡来しました。高さは45mになります。葉は卵形で対生し、枝先に輪生状につきます。6月から7月ごろ、枝先の花序に小さな黄緑色の花を咲かせます。花後、花柄が糸状に伸びて長い毛のように枝先を被います。和名は、ヤク(白熊)の尻尾の毛を束ねてつくられた仏具の払子(ほっす)に似ていることから。別名で「スモークツリー」とも呼ばれます。(植物図鑑)


# by Twalking | 2017-09-22 13:29 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)01-蒲田   

日時 2017.9.19(火)
天気 晴れ

品川道、筏道、平間道と歩きましたが
時代は違ってもやはり東海道ですね。
通過のようなものでしたので歩き直してみました。

蒲田は戦災にはあっていますが、古い地名です。
東海道からちょっと外れますが
呑川左岸がかつての中心地、古刹が集まります。


・・・蒲田/大田区


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広義には蒲田駅や京急蒲田駅を中心とした地域、または合併前の旧鎌田区全体の地域を指す広域地名としての呼称。蒲田は古い地名で、かつては蒲田郷と呼ばれていた。927年の延喜式神名帳に荏原郡の社として蒲田の薭田神社(ひえたじんじゃ)が上げられている。中世には武蔵江戸氏の支流一族である江戸蒲田氏が蒲田郷を領地とした。後北条氏が作成した小田原衆所領役帳にも蒲田氏の一族が蒲田周辺を所領としていたことが記されている。新編武蔵風土記稿によると、かつて蒲田は梅の木村と呼ばれ梅の名所であった。江戸時代には歌川広重が蒲田の梅を描いており蒲田梅屋敷と呼ばれた。現在でも蒲田の属する大田区の「区の花」は梅である。1945415日の空襲(城南空襲)により蒲田駅周辺は太平洋戦争末期に焦土となった。地名は湿地に溝を掘ると水が抜けて乾燥地が出来る。これを蒲池と呼ぶがそれが転じた。かつてこの辺り一帯は沼地でありそれにちなみ泥深い田地を示す「蒲田」から来ている。飛び越えた所や沼の中の島などを意味するアイヌ語の「カマタ」から来ているなど諸説ある。昔は「鎌田」とも呼ばれていた。『和妙類聚抄』にも記載があり奈良・平安時代から続く古い地名であるWikipedia 名所江戸百景-蒲田の梅園/広重

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蒲田駅前のモニュメントです、先ず西側へ/東口駅前広場

『上昇気流』
無限なる上昇の軌跡 躍動するエネルギーの渦 出会いに満ちた人々の輪 1989.7.大田区


・・・西蒲田

大田区の中南部に位置する。町域北部は呑川に接しこれを境に中央に接する。東部はJR京浜東北線の線路に接しこれを境に大森西・蒲田に接する。南部は環八通りに接し新蒲田に接する。西部は東急池上線の線路に接し東矢口・池上にそれぞれ接する。町域内を多摩川通りが通っている。
Wikipedia

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女塚神社鳥居、新田義興にまつわる神社です

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女塚神社/西鎌田
御祭神:
誉田別命(ほんだわけのみこと) 創建:不詳。
由緒
当社は以前、八幡社と呼ばれ女塚村429番地(JR蒲田駅東口付近)に鎮座していましたが明治5年京浜間に鉄道が敷設されるため、明治21年現在地に遷座され女塚神社と改称されました。現在の社地は新田義興憤死のおり、侍女であった少将局が忠節を尽くしてともに害せられたのを村民が憐れみ、この地に祀ると伝えられ八幡社を遷座する以前より村民の崇敬の熱い聖地でありました。現在も境内の一隅に女塚霊神の塚が残っています。(女塚神社HP)

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女塚古墳の由緒
南北朝時代の烈士新田義貞の子義興公は越後の國に城郭を構えいたりしも其の勢漸く武蔵の國に萌しければ鎌倉管領足利基氏は家臣畠山國清と計り竹澤右京亮に命じて義興公を矢口の渡しにて欺き討つ。時に正平13(1358) 10月のことなり。義興公憤死の時その侍女少将局忠節を盡して共に害せらる。村民憐れみて此の地に祀り、侍従神と崇敬し爾来女塚と稱す。(碑文)




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女塚古墳と女塚稲荷神社女塚古墳

筏道・新田神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25462327/


・・・蒲田本町
(ほんちょう)

大田区の南東部に位置する。地域北部は環八通りに接しこれを境に蒲田に接する。地域東部は第一京浜に接しこれを境に南蒲田に接する。地域南部は仲六郷に接する。地域西部はJR東海道本線の線路に接しこれを境に新蒲田・西六郷にそれぞれ接する
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蒲田八幡神社鳥居 現在社殿の建替えが行われています/蒲田

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蒲田八幡神社/蒲田
創建年代は不詳。境内に小円墳が存在していたことや伝承などから古くからの聖地・祭祀の場であったことが伺える。江戸時代初頭の慶長年間(15961615)蒲田村より蒲田新宿村が分立するにあたって、鎮守として薭田神社から行基作の神体三座のうち春日の像一体を分祀したところ、霊験あらたかであったという。なお、分村の時期については平安末期か鎌倉初期という説もあり決定的な資料は現存していない。神社側では史実・諸般の事情から創建時期を1600(慶長5)年と推測している。明治維新後の神仏分離令により春日像は別当であった妙安寺に遷され、後に戦災により焼失している。当社自体も1945(昭和20)415日の空襲により社殿が焼失した。戦後の1949(昭和24)8月新宿八幡神社から蒲田八幡神社と改称し、1958(昭和33)88日社殿復興遷宮祭を執行した。(蒲田八幡神社)

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妙安寺山門 斉藤政賢屋敷跡です/蒲田

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妙安寺
永禄(1558-69)年間の当所地頭行方修理亮義安が戦死の後、その室・円光院妙安尼が、斉藤政賢屋敷内に庵室を結んだのがこの地である。尼は法華宗を信奉して池上本門寺第12世仏寿院日現に帰依していたが、天正17年(1589)尼が没した後、庵室をとし開山を日現として開創した。開基は円光院妙安尼、行方の家号を以って山号とし、尼の法号を寺号としている。

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「新編武蔵風土記稿」に所載せる八幡社(蒲田八幡神社)の神体は、明治初年の神仏分離に際して当寺の七面堂に移され、安置していたが戦災により焼失した。この神体は右手に軍配、左手に巻物を持った地蔵像で、寺の言い伝えによれば、開山日現が古川薬師安養寺と寺宝を懸けて法論し、勝った日現が仁王像と地蔵像を持ち帰り、論破の証左として軍配を持たしめたという。また毎年1月に行われていた八幡講大祭は神像の焼失により廃止された。(大田区の寺院)

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日蓮聖人坐像(大田区指定有形文化財)
桧材寄木造、彩色、玉眼。像高36.7cm。
台座の裏に慶長17年(1612)石井新右衛門の発願によって造立された旨の墨書銘がある。この周辺に石井姓は多いが石井新右衛門尉については明らかでない。後年修理塗替えが施されている。在銘の祖師像として本区では池上本門寺祖師像に次ぐ古いものである。(大田区教育委員会)

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妙安尼供養塔
宝篋印塔、高さ124cm。
御北条氏の被官人、当地の地頭行方修理亮義安の室・妙安尼の供養塔である。妙安尼は、義安の死後この地の豪族・兄斉藤政賢屋敷内を結び、池上本門寺12世日現に帰依し天正17年(1589)に没した。その後この庵室が妙安寺となった。この供養塔は台石の銘文により寛永20年(1643)に造立されたと考えられる。大田区指定有形文化財(大田区教育委員会)

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街道の風景① 京急の高架先は第一京浜、旧東海道ですが面影はありません/京急蒲田駅前

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川の風景① 上流側の夫婦橋(旧東海道)を望みます/夫婦橋親水公園

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旧夫婦橋と共同荷揚場跡
夫婦橋は第一京浜国道(かつての東海道)が呑川を渡る場所に架かる橋です。昔は橋のすぐ上流にがあり、呑川の水を分けた小さな川(農業用水として使用された六郷用水)が脇を流れていました。呑川用水に架かる二つの橋が並んでいたことから夫婦橋と呼ばれ、江戸時代からその名が知られていました。呑川河口付近はかつて海苔採取業者が生活し、てんま(ベガ)と呼ばれる舟が行き来していました。水害対策のために新呑川ができた昭和14年、共同舟揚場がつくられたがその後付近の発展にともない種々の荷揚にも利用されました。その跡地がこの夫婦橋親水公園のある場所です。(大田区土木部公園課)


・・・蒲田

町名としての「蒲田」に所在する鉄道駅はJRの蒲田駅、京急本線の梅屋屋敷駅、京急蒲田駅である。蒲田駅周辺は空襲により太平洋戦争末期に焦土となり、復興の土地区画整理事業により現在の街並みの原型が形成された。街は京浜東北線により東西に分断され北端は呑川、南端は環八通り、西端は池上線、東端は第一京浜とするおおよそ東西1.6km、南北800m程度のエリアに商業地が集中し、近隣に伸びる多摩堤通り、大城通り沿道付近にも一定の商業集積が見られる。都心から外れる地区では有数の繁華街、商業地区である
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川の風景② 上流の仲町橋へ、古は呑川の左岸が中心地だったようです/柳橋

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弾正橋
弾正橋の橋名は行方弾正直清に由来しています。行方弾正直清後北条氏の家臣として仕え、六郷領一帯(蒲田から六郷地域)を支配する領主でした。直清は現在の円頓寺のあるあたりに屋敷を構えていましたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際に討死しました。その後、直清の弟・日芸が屋敷跡に円頓寺を創建し供養塔を建立したとされています。呑川を渡った円頓寺に通じるこの道は行方弾正直清との縁の深さから弾正道と呼ばれており、この橋の名のいわれとなっています(案内板)

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明治後期から大正時代の蒲田
この柄は地元の郷土資料家が明治後期から大正時代の蒲田地域を描いたものです。左上から右下にかけて呑川が流れ、左縦に現在のJR線、右縦に京浜急行線、下中央に菖蒲園、下右の呑川と京急の交差部が弾正橋の位置で、中央少し右に弾正橋の由来となった行方弾正直清宅跡の円頓寺が見られます。(案内板)

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街道の風景② 薭田神社から梅屋敷へ続く道です、かつての中心部でしょうか

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薭田神社鳥居/蒲田


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薭田神社
度々の火災や水害で古い記録は残っていないが、旧社格は郷社で貞観6年(864延喜式内社に列し、従五位を賜ったといわれ、延喜式に「荏原郡薭田神社」とあるのが当社であろう。社伝によれば和銅2年(709)僧行基が天照、八幡、春日の三神を創り、当社に安置し、後に僧日蓮が村民の請を容れ改めて開眼したといわれるが明らかでない。近来は応神天皇をまつる八幡社で、隣接の栄林寺が別当寺であったが、明治初年の神仏分離により独立し、近くの小祠をいくつか境内に合祀した。(大田区教育委員会)

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稗田神社の石鳥居
当社は延喜式内の古社といわれている。この鳥居は、柱背面の銘文によって寛政12年(1800)に北蒲田村の氏子により寄進されたことがわかる。花崗岩の明神型鳥居で、高さ310cm、柱間314cm、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額を掲げてある。笠木は、全体にゆるやかな反りをもって柱のつり合いもよく、安定した姿をみせる。区内の鳥居では古いものの一つで貴重な存在といえよう。大田区指定 有形文化財(大田区教育委員会)


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三十番神(さんじゅうばんしん)
神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。太陰太陽暦では月の日数は29日か30日である。最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を布教しようとした日像が布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためである。また、吉田神道も天台宗・日蓮宗とは別の三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」などを唱えた。1868年神仏分離のため明治政府によって配祠を禁じられたWikipedia

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栄林寺山門/
蒲田

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栄林寺
寛永3年(1626429日示寂した千如院日好の開山である。神体が日蓮の開眼と伝えられる延喜式内社・蒲田神社(薭田神社)の別当寺として、安政の地震により大破した社殿を41世日現代に再建したことが、当寺所蔵の「諸寄進帳」により推察される。江戸時代、現在の呑川東岸に鶴寄せ場があり、それを中心にした蒲田寄りの水田地域は当寺の檀徒区域で、将軍が鷹狩りに来て休息したという家も檀徒のなかにあり、現在お成り橋、馬引橋などの橋もあることなど鷹狩りにまつわる伝説がある。また春秋の彼岸中日に檀徒によって仏前に供えられた供物を、法要の終った後で参諸者一同に振る舞い、懇親の時を過ごす慣習は今日も続いている。(大田区の寺院)

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開山供養塔
この寺の開基である千如院日好を供養するために日英が建てたものである。日英については不詳であるが、開基日好が寛永3年(1626)に没したことが銘文からわかり、当寺の歴史を位置づける貴重な資料として注目される。二つの石を積み重ねた塔身からなっていることも様式上珍しく、素朴ではあるが、重厚な趣のあるものであり、開山供養塔としては時代的に古いものと考えられる。大田区指定有形文化財(大田区教育委員会)


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円頓寺山門/鎌田


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円頓寺
「新編武蔵風土記稿」をはじめ「江戸名所図会」その他の地誌にも円頓寺の事跡については記載されているが、寺伝によれば小田原北条氏分国の頃、荏原部南部に行方氏という豪族があった。行方氏ははじめ上杉氏の家人であったが、のち北条氏に属し永禄年間155869弾正明連の時には八幡塚、高畑、吉川、町屋、道塚、雑色の6郷および大師河原を合せて36124文の地の領主であった。明連の子孫は修理亮義安弾正忠直清と引続きこの地を知行していたが、直清は天正18年(1590)北条氏滅亡の際、小田原攻めの先鋒・上杉景勝、前田利家等の諸将の軍と戦い、一門の郎党と共にその館において討死したが、直清のは池上本願寺に逃れ出家して日芸と名乗った。文禄元年(1592)日芸は兄弾正忠直清と一門の追善菩握のため、旧館跡1宇を建立、寺名を直清の法名・性光院殿円安行頓日方居士からとって性光山円頓寺と号した。(大田区の寺院)

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行方弾正直清供養塔(大田区指定史跡)
行方弾正直清は後北条氏の家臣でこの辺りの六郷領を支配していた。直清は天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際に討ち死にしたと伝えられる。当時は行方弾正の居屋敷跡で、その中興開基である日芸(寛永20年・1643没)が、直清の供養のためにこの塔を建立したことが碑面に刻まれた銘文からわかる。寺伝によれば日芸は直清ので出家後、旧宅を寺院とその中興開基となった。(大田区教育委員会設置)

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江戸名所図会 蒲田里梅園 行方弾正宅跡 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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この絵は江戸時代後期に刊行された江戸名所図会の一枚です。上段にかつて梅屋敷と呼ばれた佐左エ門の屋敷周辺の梅園(現蒲田1丁目30番 蒲田小学校付近)、下中央に行方弾正直清宅跡として円頓寺が描かれています。上記の俳句「梅干しを 見知って居るか 梅の花」の作者嵐雪1654-1707)は松尾芭蕉の高弟でした。(案内板/弾正橋)

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街道の風景③ 直進すると梅屋敷公園、左折すると妙典寺があります/椿神社前

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蒲田椿神社

創建は不詳であるが、百日咳の治癒に御神験あらたかなりしとして古くより土地の人の信仰が厚い。(東京都神社名鑑)

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除病習俗
風邪、百日咳、喘息等にかかると境内の額堂に奉納されている麻を借り受けて、病人に首に巻くと咳が止まると言い伝えられ、病気が治ると祈願者は新しい麻を奉納するという現世利益的な習俗が行われている。しかも神社であるのに祈願者は社前に線香を供えるという神仏混淆の習俗が、今なお存続している例として興味深いものがある。また足の病気が治るよう祈願してワラジを奉納するものもあったという。神社の祭神は猿田彦命とされているが、本来は道祖神(道や旅人守護する神)をまつったもので、土地の人は「ドウソジンサマ」「ドウロクジンサマ」と呼んできた。(大田区教育委員会)

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妙典寺山門/蒲田


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妙典寺
古くは天台宗の寺で妙田寺といわれ永徳元年(1381)上杉六郎を開基とする。天台の学僧で、後に日蓮宗に改宗し池上、比企ケ谷、および身延三か寺の学頭となった日饒(13581428)により改宗され、寺号も妙典寺と書き改められたという。関東管領上杉憲政にゆかりのあると考えられる晴天院朗忠日杉(天文12壬子1014日歿)上杉六郎の位牌を安置している。なお天文12年(1543)の干支は癸卯で、壬子が正しいとすれば天文21年(1552)となる。記年の誤りか。当地は草分の旧家といわれる蒲田氏、光浄院蓮光の墓をはじめ大森谷戸宿脇本陣山本氏と、山本氏から分れた和中散梅林堂の梅路翁の墓があり、別墓地には漢方の医家でこの地方にはじめて華道遠州流を伝えた林松庵平林氏、武田家の部将といわれる嶋田氏、荘官とみられる杉原氏の近郷旧家の墓がある。(大田区の寺院)

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聖蹟蒲田梅屋敷公園/鎌田

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梅屋敷の由来
梅屋敷は山本忠左衛門和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地内に、その子久三郎が文政の頃(18181829)に梅の木数百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。当時は後の12代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。(大田区土木部)

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狂歌堂真顔の歌碑(復元)
昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。文面は『旅人の 神に手向の幣代や 白絹咲きし 庭中梅 狂歌堂真顔』であったと伝えられています。(大田区)

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里程票(復元)
昔、梅屋敷山本家の門の傍に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは1mほどでその表面には、距日本橋三里十八丁 蒲田村山本屋と刻されていたと伝えれています。木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。(大田区)

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梅屋敷と和中散売薬所跡
「和中散」は食あたり、暑気あたりなどに効く道中常備薬としてつくられ旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(16181716)大森中原、谷戸(やと)、南原(みなみはら)に三店が開業した。このうち南原にあった店がのちに北蒲田村の忠左衛門に譲られこの地に移転したという。文政年間(18181830)初め、忠左衛門の子の久三郎の代に庭園に梅の銘木を集めて休み茶屋を開いた。亀戸の梅林とともに名所「梅屋敷」として有名になり広重の浮世絵にも描かれた。(大田区教育委員会)

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街道の風景④ 東海道ですが、この右手方向に『堀之内』という地名があるので寄ってみます/梅屋敷公園

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「大井氏」あるいは「蒲田氏」館跡では?とも、地名からですがよく分かりません/谷戸三輪神社


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堀ノ内の起源と三輪神社の由来
当堀ノ内町会の堀ノ内という地名の起源は遠く徳川期以前にまでさかのぼることが出来る古い地名であります。大森の中の本村としてこの地名は輝かしい伝統と古い歴史に刻まれ現在に伝えられて来ました。徳川期以前すでに大森周辺は武蔵国大森と総称され、その字の呼称でありました堀ノ内が今日まで絶えることなく伝承され住民に親しまれて来たのであります。因みに堀ノ内という地名は屋形に濠を巡らした土地だけに与えられた由緒あるものでありまして、伝えられるところによると現在私共の住む堀ノ内は北條時頼の時代1247-1259年)における陣屋の旧跡であるとも言われております。徳川期に至り幕政上大森は東大森西大森北大森の三ヵ村に分割されましたが、堀ノ内は東大森村に属し幕府の直轄地として代官がおかれ明治期に至っております。
大森村の中でも当村は本村として早くから拓け住民は代々農業と漁業を生業として栄え豊かな集落を形成して来たのであります。この集落の住民の精神的支柱が氏神であったことは今更言うまでもありません。私共の氏神である三輪神社は享徳年間(1452-1456)住民が土地開拓の神として、大国主命を祀り第六天社‐此の地では従来「デイロクサマ」と呼ばれ親しまれて来ました‐と呼び村人の崇敬を集めたのが創始であると伝へられています。大正4年(19157月当所内の天祖神社貴船神社を合祀し社殿も改まり神社の威容は大いに高まったのでありますが、昭和244月惜しくも戦禍により一切を焼失しました。その後昭和278月社殿を新築し現在に至っております。(説明板)

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川の風景③かつてはこの辺りを流れていたんですね、現在は緑地公園になっています/呑川緑道公園

旧呑川

旧呑川はほぼ全区間埋め立てられ(1976年完成)緑道となって整備されている。京急蒲田駅近くの東蒲中学校あたりで旧呑川と新呑川に分流し、旧呑川は昭和島の目の前が河口であった。河口のほんの一部は開渠となっており水門もあるWikipedia

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蒲田駅周辺地図(右90°回転)
(赤:歩行ルート 紫:旧東海道 青:呑川)

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蒲田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:旧東海道 橙:平間街道 青:呑川)


・・・・
資料ファイル


江戸蒲田氏

江戸蒲田氏は武蔵国を発祥とする武家。本姓は平氏。家系は鎮守府将軍・平良文の孫、平ら将恒を祖とする秩父氏の一門で、鎌倉幕府の有力御家人であった名門・武蔵江戸氏支流の一族。通字は「重」。家祖・蒲田忠武(四郎入道道儀)は江戸氏12代江戸長門の次男・江戸雅正長(蔵人入道希全)の子で、南北朝時代に鎌田郷を領有して蒲田氏を興した。また、江戸長門の三男・江戸重道も蒲田入道を称している。江戸長門は新田氏一族の一井貞政の姉が生母とされるが、人見原の合戦では足利尊氏に従って新田氏と戦った。江戸長門が鎌倉をめざして挙兵した新田義興の迎撃を命じられると、蒲田忠武首謀者のひとりとして参加し矢口渡新田義興を謀殺したとされる。室町時代には本家の江戸氏とともに関東足利氏に仕えた。至徳元年(1384)には、江戸長門が得た恩賞地の内の稲毛庄渋口郷が岩松直国へ与えられたが、江戸正長、蒲田忠武らが渋口郷の引き渡しを妨害した(「正木文書」)。そして、大慈恩寺領の大杜郷永富郷を蒲田家の由緒ある土地であるとして押領し、足利満兼足利から狼藉をやめるよう命じられている。このことから蒲田氏が稲毛方面へも進出したことがわかる。菩提寺は大田区蒲田にある日蓮宗・妙典寺で、北蒲田村にあった「大屋舗」が江戸蒲田氏の館跡とする説がある(大田区史)Wikipedia

# by Twalking | 2017-09-22 10:39 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ローズヒップ   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
バラの実、ローズヒップていうんですね~
秋の陽射しを浴びて輝いてました。


ローズヒップ
(rose hip)
バラ科バラ属の植物(いわゆる「バラ」)の果実である。「ヒップ」は「尻」とは無関係で本来は「ヒップ」だけでバラの果実を意味する単語である。色は赤、オレンジ色、濃い柴色など。形は球形、紡錘形、涙形など。ビタミンCに富む。ハーブティーとしても使用。ローズヒップ生産のため、バラの特定品種(特にイヌバラ)が栽培されている。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-09-21 14:30 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-薭田神社   

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阿形

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吽形
薭田神社/大田区蒲田
訪ねて見たかった神社です。
昭和34年の奉納ですが、
どっしりとして力強い造りですね。


薭田神社
(ひえたじんじゃ)

大田区蒲田にある神社である。社格はは旧郷社。誉田別命、天照大神、武内宿禰命、荒木田襲津彦命、春日大神。この神社は、社伝によれば709年(和銅2年)行基によって創建されたとされ、延喜式にも記載された古社であるWikipedia

# by Twalking | 2017-09-20 18:24 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ノボタン   

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蒲田八幡神社/東海道(大田区蒲田)
「なんの花でしょう?」
「野牡丹ですよ~」と巫女さん
そうか、野牡丹ですね、鮮やか。
いい朝です、ありがとうございました。


ノボタン(野牡丹)

ノボタン科の常緑低木。奄美大島からベトナムに分布する。高さ約2m。若い枝は四角形で灰白色の軟毛がある。葉は対生し楕円形で長さ510cm、先はとがり35本の平行脈がある。夏、枝先に集散花序をつけ、径約7センチcmの淡紫色花を37個開く。花弁は5枚で回旋状に並ぶ。雄しべは10本、うち2本の葯(やく)は紫色で大きく、長さ1cnで鎌状に曲がる。残り8本はやや小さく黄色。鉢物として温室内で栽培される。果実は壺状の液果で食べられる。本種によく似ているシコンノボタンは秋から翌春に花を開き、葯は紫色で長く鎌形に湾曲する。(コトバンク)


# by Twalking | 2017-09-20 09:37 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 蒲田駅   

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JR京浜東北線蒲田駅/大田区
チャンチャラカ、チャンチャラ、
チャンチャラ、チャラチャカ、チャ~♪♪
いいリズムのお出迎え、ありがとう~!


蒲田駅

大田区五丁目および西蒲田七丁目にあるJR東日本・東急の駅である。JR東日本と東急の駅は蒲田東急プラザ2階で連絡している。JRの駅は島式ホーム23線を持つ地上駅で橋上駅舎を有している。発車メロディーは「蒲田行進曲」(メロディはルドルフ・フリムル「放浪者の歌」)1997年使用されている。これはかつて蒲田に松竹蒲田撮影所があったことに由来する。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-09-19 22:54 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大井夕照   

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仙台坂上/大田区東大井
燃えてますね~、美しい。
第一京浜から坂を登って出合いました。
丘一帯は伊達藩下屋敷があった所です。

# by Twalking | 2017-09-19 21:47 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多磨センター駅前通り   

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多磨センター駅前通り/多摩市落合
台風一過の秋晴れ、
折角の三連休でしたから
最後は晴れてよかったですね~。


# by Twalking | 2017-09-18 21:55 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 彼岸花   

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一口坂/多摩市愛宕
お彼岸だね・・・
おはよ~!


ヒガンバナ
(彼岸花)
ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。リコリス曼珠沙華とも呼ばれる。全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。道端などに群生し9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 – 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に苞に包まれた花序が一つだけ付く。苞が破れると5 - 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返るWikipedia

# by Twalking | 2017-09-18 08:46 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 題目塔-妙福寺   

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題目塔
妙福寺/中原街道(大田区南千束)
境内の奥、洗足池のほとりに
石仏に護られてひっそりと
佇んでいるのが印象的でした。


題目塔

南無妙法蓮華経と刻まれた鎮魂を目的とする供養塔である。主に御影石を使ったものが多く、供養塔としては大型で高さ4mを超えるものもある。全国の街道・寺院・刑場跡に多く建立されている。中でも百基を超える題目塔を建立した熱心な法華信者・谷口法悦のものが有名である(Wikipedia


# by Twalking | 2017-09-17 17:59 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 平間街道(旧池上道)04-大井   

日時 2017.9.9(土)
天気 晴れ

品川道から鹿島神社に戻って平間道へ。
池上通りも昔の道ですが、旧道には
江戸名所図会に描かれた寺社が軒を並べます。

遺跡は出ていませんが「大井駅家」の有力地とか。
これだけ並べばそうかも知れませんね~・・・、
そんなことを思いながら訪ねてみました。


・・・大井/品川区


品川区の南東部に位置する。町域北辺は広町に、東部は東海道本線などの線路に接しこれを境に東大井・南大井に接する。南部は大田区山王に、西部は西大井に接する。町域東部を南北に池上通りが通っている。他に地域内に光学通り(西大井にあるニコンに由来)、滝王子通りが通っている。大井一丁目の北東端に大井町駅があり、駅前にビルや商店などが多く集まり、駅周辺は品川区でも有数の規模の商業地となっている。他に池上通り沿いに商店などが見られるほかは住宅地となっている。
Wikipedia

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街道の風景① 鹿島神社裏手から来迎院へ向う旧道/鹿島神社裏

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歴史
延喜式に東海道宿駅名として見える。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)では荏原郡内に駅家郷が存在し当地に比定される。鎌倉時代には紀実春が土着して大井氏を名乗り大井郷と呼ばれた。江戸時代には鈴ヶ森刑場(南大井)が置かれた。1889年(明治22年)村制を施行した。1908年(明治41年)町制を施行して大井町となりこれが駅名に残る。1932年(昭和7年)東京市に編入され品川区の一部となり、大井は一帯の町名の冠称となった。1939年(昭和14年)沿岸が埋め立てられ、戦後、大井競馬場(勝島)や大井埠頭(八潮)が整備された。昭和39年住居表示により大井・南大井・東大井・西大井が成立した。地名は字義通り井戸に関係するともいわれるが定かではない。光福寺には由来とされる井戸が伝えられ、新編武蔵風土記稿は了海が1201年(建仁元年)出生時に湧き出て産湯に使われたものとするが、大井という地名は延喜式が成立した10世紀に已に存在しており矛盾する。(Wikipedia
(地図は『東京古道散歩』/萩窪圭氏著を参照しました)


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池上道と分かれ右折/鹿島神社     来迎院門前を直進、下ると水神社です

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鹿嶋神社鳥居/大井

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鹿嶋神社
『新編武蔵風土記稿』には鹿島社『江戸名所図会』には鹿島大明神社として紹介された。武甕槌神(タケミカヅチ)を祀る。同社社伝によると、安和2年(969919日に武蔵国荏原郡大井村字関ヶ原(現在の東大井6丁目)の常行三昧寺住職であった尊栄法印が常陸国鹿島神宮から分霊を勧請したことに始まり、同日、別当として来迎院を建立、慈覚大師(794- 864)がつくった薬師如来像を安置したという。常行三昧寺は江戸時代、1653年(承応2年)に大井から現在の南品川に移転した。

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1868年(明治元年)神仏分離令を受け来迎院と同一敷地内で分離、同社は大井村の村社、総鎮守と位置づけられた。来迎院は通称「お茶屋寺」と呼ばれる。古来より祭礼として相撲が奉納されており、渋谷氷川神社世田谷八幡宮と共に江戸郊外の三大相撲として知られていた。現在の社殿は1931年(昭和6年)に竣工した。旧社殿は1862年(文久2年)の造営で精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されており、これを後世に伝えるため境内末社として移設して現存してある。(Wikipedia

渋谷氷川神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22334953/
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来迎院山門/大井


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来迎院
安和2年(969919日、南品川の常行三昧寺(現、常行寺)の住僧法印尊栄が現在の地に鹿島社(鹿島神社)を創立し、共に当寺を創建して常行寺の末寺とし鹿島示現山常住鶴林寺来迎院と称した。其の後当寺は無住となり大破したが、貞和3年(1347)に了覚法印という僧が来住して中興し示現山覚林寺観音院と改称した。江戸期に入って、この一帯は将軍の放鷹の地となり、将軍義光が鷹狩りのため当寺に来遊したとき、この附近の景色を賞して当寺の境内に休息所を建てた。家光は鷹狩りのつどこの休息所で休憩し正保年中には堀田加賀守が将軍に茶を献じたのでこの休息所は大井の御殿と呼ばれ、また当寺は御茶屋寺とも呼ばれている。また将軍義光は当寺の本尊薬師如来を厚く尊崇し、正保2年(1645)には42歳の厄年にあたって節分の日当寺に親しく参詣したと伝えられている。江戸期には当寺の境内は桜が多く植えられていたので、桜の名所として開花の時期には杖を引く者が多かったというが、近世に入って当寺は江戸郊外の風光のよい場所として知られ、将軍の来遊も得てその尊崇をうけたことが窺える。天保4年(1833)には上野寛永寺の塔頭涼泉院(廃寺)の住職が代々当寺の住職を兼務することとなりこのとき鹿島山来迎院と改称した。(品川区の文化財)

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境外地蔵堂
来迎院石造念仏講供養塔3/門前向い
江戸時代に盛んに行われた念仏講供養塔で、右側の堂内に2基、真ん中の堂との間に一基が建てられている。堂内の地蔵菩薩像を彫った舟形の二基の塔は明暦2年(1656)と万冶2年(1659)の造立で、

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堂外にある六字名号(南無阿弥陀佛)と彫った笠塔婆型の塔は寛文7年(1667)の造立である。いずれも江戸時代の初期に大井村に念仏講が存在していたことを示す資料として貴重である。この場所はもともと来迎院の境内であったが道路建設のために現在のようになっている。品川区指定文化財(品川区教育委員会)

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水神社鳥居/南大井

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水神社
水葉乃女命(ミヅハノメ)を祀る。武蔵野台地の末端に位置し湧水が豊富だった当地で、1685年(貞享2年)村民たちの手によって水神(九頭龍権現・くずりゅう)を祀ったのが始まりであるという。願主は桜井伊兵衛と大野忠左衛門であった。明治時代までは日照りになると村人がここへ集まって雨乞いをしていたと伝えられている。

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湧水は「柳の清水」と呼ばれ、歯痛を止めるのにも利益があったという。明治時代になると祭神は水葉乃女命に変わった。同社にちなみ同地域は「大井水神町」という町名であった(1963年町名変更)。1975年(昭和50年)前後までは水が湧き出ていたという。現在ではポンプで水をくみ上げている。1978年(昭和53年)品川区指定史跡、1988年(昭和63年)、しながわ百景(大井の水神社)に認定される(Wikipedia)

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街道の風景② 来迎院から住宅地を道なりに進むと左手に光福寺があります

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光福寺山門/大井


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光福寺
延暦元年(78211月、伝教大師の法脈を伝える性顕阿闍梨の弟子顕教房栄順律師の開創になるものと伝えられている。随って開創当初は神宮寺と呼ばれ天台宗であったが、その後文永2年(1265)に了海上人興してより浄土真宗となったと伝えられている。了海は東国に流されていた鳥羽院の皇胤信光の嫡男中将光政が荏原の住人実経の娘(一説では滋野井宰相の父)を娶って、設けた子と伝えられている。了海は当寺の境内にある井戸の井水を産湯としたといわれており、現在の大井の井戸と呼ばれる湧き水が当寺の境内にあり、品川区文化財に認定されている。この井戸があることによって当寺は大井山と呼ばれており、また大井の地名もこの井戸によって起こったものだといわれている。了海は建仁元年(1201)に生まれ幼名を松丸と呼ばれていたが、8歳のとき出家して覚円律師に仕えた。のち叡山に登って浄宋僧都の門に入った。その後親鸞に師事したが、この頃父光福も空範と号し親鸞の門に入って剃髪したので帰国して当寺を再興し、真宗に改め光福寺と改称したという。また了海は麻布善福寺をも開創したといわれている。
(品川区の文化財)
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江戸名所図会 弘福寺  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大井の井(品川区指定史跡)
この井戸には鎌倉時代に親鸞聖人門下の関東六老僧の一人として活躍した了海上人にまつわる話が残されている。寺伝によれば了海上人の父が子授けを蔵王権現に祈願したところ、妻が懐妊し男子(了海)を出産した。その時、境内にこつ然と泉が湧き出したのでこの泉の水を産湯として使い、泉を大井と命名したという。大井の地名はこの泉に由来すると伝えられている。この泉は当寺本堂裏の墓地内にあり、横穴式の古い型をした井戸で今でも水が湧き出している。(品川区教育委員会)

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江戸名所図会 大井 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景③ 品川道からの下り坂を横断して西光寺へ/光福寺先

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三社宮」の標柱がありましたので寄りましたが、詳しいことは分かりません

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西光寺山門/大井
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本堂と江戸名名所図会に描かれた兒桜

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西光寺
弘安9年(12683月栄順律師が開創した寺である。当時は天台宗であったがのち浄土真宗にかわった。浄土真宗に改宗した時期はわからない。当寺の歴世は、当寺に遺されている天明2年(1782)頃直筆の過去帳によると栄順以来世襲で継承されているので、開創直後に改宗したことが推察される。ただ6世は5世了証の子であるにも拘わらず心月律師となっているので一時期天台宗に復していたことも考えられる。その後慶長年中(1596-1615)に至って栄空が再興したといわれている。

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栄空は前述の過去帳では15世空善とされ、清原武則の長子で幼名を伯王丸と呼び父は北条氏康の幕下であったと記述されているが、当寺に記されている「芳賀氏系図」では栄空は芳賀出雲守定仲と呼び孝譲朝、天平勝宝5年(753)に下野国司となって芳賀郡に住んだ芳賀豊澄の子孫だといわれ、織田信長麾下の武将であったが信長の死後比叡山に隠れて出家し、3年後比叡山を下って当寺の住職になったといわれている。この系図によると定仲は武田信玄の家臣であった芳賀右近介定明(のちに入道して玄覚と呼ぶ)の子で定明は天目山の戦いで武田勝頼と共に戦死し、その子の定仲は織田信長に仕えたといわれている。当寺には前記の「過去帳」一冊、「芳賀氏系図」一巻のほか武田信玄が玄覚に与えた「感状」一通、徳川家康が玄覚に与えた「御教書」一通が、現在も遺されている。江戸時代には当寺も来迎院と同様桜の名所であったが、明治26年(18935月に当寺は火災に遇って本堂その他の建造物と桜の名木が焼けてしまっている。(品川区の文化財)

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西光寺石造供養塔(品川区指定文化財)
1)明暦元年・(1655)造立、地蔵菩薩彫刻の舟型、(2)寛文9(1669)造立、阿弥陀如来彫刻の舟型、(3)寛文13(1673)造立、阿弥陀如来彫刻の笠塔婆型の3基。(4)(2)は念仏講の女性が(3)は大井村の人々が造立したもの。(品川区の文化財)

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江戸名所図会 西光寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景④ 道が狭くなって曲がりくねってます。右の「作守稲荷神社」は薩摩藩島津家のお抱え屋敷にあった屋敷神だそうです

旧・薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡/立会川駅・関ヶ原公園 
この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治2年(1658)買取)および抱地(天保3年(1832)取得)であった。敷地は約18千坪に及ぶ。安政3年(1856)当時、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興(松平大隈守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隈守」と表記されている場合がある。慶応年間になり、大井村の平林九兵衛が島津家よりこの地を譲り受け、開墾して耕地にしたと伝えられている。安政2年(1855)頃の薩摩藩主島津薩摩守斉彬は778百石の家禄があり、上屋敷幸橋御門内(現・千代田区内幸町)にあった(品川区教育委員会)

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作守稲荷神社に沿って道なりに進むと池上通りにでます/大井三差路手前

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街道の風景⑤ 品川道は右折して南品川へ、古東海道は直進して目黒川居木橋方面に向ったようです/大井三差路

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大井三又地蔵/三つ又商店街入口
古く平安時代(7951185)にはこのあたりに十一面観音を祀った観音堂があったと伝えられる。その堂が戦乱により焼失したあとに、諸国行脚の高僧がこの辺りの地中から読経が聞こえてくるのを不思議に思い、掘ってみると地蔵菩薩像が出てきた。そのためこの場所に丁重に祀った。後に病気、災害の「身代わり地蔵」として庶民の信仰を集め、今でも線香が絶えることが無い。また、この場所は夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」でも有名。(品川観光協会)

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街道の風景⑥ 見逃しましたがこの手前左手に庚申堂があります/大井三つ又先

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庚申
この庚申堂は昔庚申塚と呼ばれ、さらに古くは右大将頼朝卿が戦死諸兵供養の為に写経を埋められたので、その当時は納経塚といわれていた。後柏原帝の文亀元年(1501年前)梅巌というお坊さんがこの塚の傍を通られると、土中より読経の声を聞かれて仏体を掘出された。当時内乱で行方知れずであった來福寺(東大井三丁目)の本尊延命地蔵尊であることがわかり寺に迎えて再び安置された。その為にこのご本尊は別名経読地蔵尊といわれるようになった。戦後地元有志の方々が堂を建立された。現在も來福寺所管の境外仏堂で縁日は毎月1日・10日・20日。尚毎年「かのえさる」の日に庚申祭りの修法をいたします(所管寺院来福寺)

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坂下は立会道路、道は消えてます    右は大井町駅です

立会道路

立会道路は立会川に蓋を掛け下水道として整備されていた川の上に道路や花と緑の親しめる緑道が整備された。立会川の名称をとって立会道路と呼ばれている。延長4760(品川区)


・・・広町/品川区

品川区の地理的中央部に位置する。北で大崎、北東で目黒川を境に北品川、東で南品川、南で大井、西で西品川と接する。東京総合車両センターと工場が目立っており、間を埋めるように住宅が並ぶ。北東には目黒川が流れる(Wikipedia

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街道の風景⑦ 道は消えてますので区役所通りを居木橋へ向かいます/区役所通り

区役所通り
昭和43年に区役所が現在の場所に移転したため交通量が増大し、区内の主要道路のひとつとなった。この通りの一部は都道だが区役所までの案内を含め名称を区役所通りとした。(品川区)

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東急ガードを右折           区役所通りを下ります/中央公園

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東京総合車両センター/広町
東京総合車両センターは旧大井工場が1915年新橋から現在地に移転。旧山手電車区も1964年大崎電車区として現在地にて着工し1985年山手電車区と名称変更、20046月に山手電車区と大井工場と統合して発足した。JR東日本の車両基地・車両工場で国鉄時代から東京地区の電車の検修・改造などを行っている。山手線を走る全ての電車に対し日夜定期検査や臨時修繕などを行い始発にそなえている。15万平方メートルの敷地に550の車両を収容。
地名の由来・権現台
大井村にある蔵王権現が祀られてた権現台に続く場所であったことからこう呼ばれた。現在の東京総合車両センターのあたり。(品川観光協会)

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街道の風景⑧ 区役所通りから臨海線沿いに進み先の歩道橋を渡ります/百反歩道橋

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山手線ガードを潜ります        山手通りに出ます/居木橋(目黒川)

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街道の風景⑨ 目黒川にでました、古道はこの辺りを渡ったのでしょうか/居木橋

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居木橋(いるきばし)
現在の環状6号線は室町時代以前のころから品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったそうです。品川宿から丁度1kmのこの辺りで目黒川を渡りますが、この川辺に風が吹くとゆらゆらと揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人はこの松の木が見えるともう品川宿も近いと思ったことでしょう。そしていつしかこの松の木を人々は「ゆるぎの松」と呼んだそうです。この「ゆるぎの松」が時の流れとともに変化ししだいに「いるぎ(居木)の松」と呼ばれ、ここに架かる居木橋の名前の由来になったといわれています。当時の旅人に親しまれた「居木の松」も安政年間の暴風で倒失したとのことで、場所は定かではありませんが、現在の居木橋の付近にあったと伝えられています。(説明板)

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街道の風景⑩ この後、御殿山を越え高輪から中原街道へと続いていたようです/御殿山通り

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三菱開東閣前/御殿山         二本榎木通り/高輪

中原街道(高輪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22226945/

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大井町駅周辺地図
(赤:平間街道 橙:品川道 青:立会川(道路)・目黒川 赤丸:大井三差路)

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平間街道ルート図
(紫:平間街道(池上道) 茶:東海道・中原街道 赤:品川道 橙:筏道 緑:奥州街道)


・・・・
資料ファイル

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鹿島神社の向かいに品川歴史館があります、寄られるといいと思います

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品川区立品川歴史館/大井
品川区が1985年に設立し運営する区立の歴史博物館。原始からの品川の歴史、生活文化に関する資料を展示。史料の収集、保存や行政資料の保存も行う。地域史等の歴史を学ぶ場としての機能もあり、企画展や講演会、子供向けの講座、親子体験講座を随時開催している。元々建設地には昭和初期に安田財閥系の安田善助の邸宅として建てられ、その後電通の出捐で設立された財団法人吉田秀雄記念事業財団が譲り受けて1966年に吉田記念館として開館した書院造の屋敷が建っており、歴史館の建設に際しては離れで建てられていた茶室と庭園の大部分をそのままの形で残している。建設中には「大井鹿島遺跡」が発見され、26軒に上る堅穴式住居跡群や土器、砥石などの生活用品が見つかっているWikipedia

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常滑焼の大甕/御殿山出土           東海寺境界石

大井鹿島遺跡の概要

大井鹿島遺跡は昭和58 年(1983)、品川区立品川歴史館(品川区大井6 丁目111 号)の建設工事中に発見された。遺跡名はこの地域の旧字名鹿島谷から来ている。広さ約1500㎡の発掘範囲からは26軒に及ぶ竪穴式住居群と土器、紡錘車、砥石などの生活用具が見つかったが、土器の特徴などからみてこの遺跡は古墳時代後半から奈良・平安時代にかけて断続的に形成された古代の村の一部であると考えられる。品川区内における古代遺跡の調査はこれが初めてで、当時の様子を知る貴重な資料となっている。その後、品川歴史館周辺地域を含めて平成21年(2009)までに第9 次におよぶ調査がおこなわれ、集落の中心地域の発掘はほぼ完了した。遺跡の範囲は台地の端とそれに続く緩やかな斜面にまで広がり住居跡は合計45 軒になった。この地域は、古代東海道駅家(うまや)「大井駅」の推定地の一つに挙げられている。現在のところ直接駅家の存在を窺うかがわせるような遺物は出土していないが、大井鹿島遺跡の存在は大きく今後の調査の進展が期待されている
(品川歴史館解説シートより抜粋)


# by Twalking | 2017-09-17 13:00 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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大井三つ又商店街/大井三差路(品川区大井)
旧池上通りでしょうか、傍らに地蔵堂
ここは「時代屋の女房」のご当地、
夏目雅子さんですよね・・・
いい感じ、雰囲気のある商店街です。

# by Twalking | 2017-09-16 13:06 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-天祖神社   

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阿形

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吽形
天祖神社/池上道(大田区天王)


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石造物
狛犬(正確には角がないので獅子)は階段を上りきった所に境内の神域を守護し、阿吽の形で、子獅子も阿吽の形は区内でも2例目で珍しく、椎の巨木と八重桜に見守られているのが本殿で切妻造、拝殿入母屋向拝付である。(説明板)

# by Twalking | 2017-09-15 21:30 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 坂の風景   

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多摩市愛宕
愛宕の丘から乞田川へ下る
S字カーブの下り坂
展望が効いて、気持ちいですよ。

# by Twalking | 2017-09-15 10:07 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 洗足池駅   

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東急洗足池駅/大田区
中原街道で前を通るだけでしたが、
先の踏切から眺めてみました。
丘の中腹なんですね。


東雪谷洗足池駅
大田区東雪谷一丁目にある東急池上線の駅である。相対式ホーム22線を有する高架駅である。駅舎の目の前には中原街道があり、その先に洗足駅が広がる。駅前商店街は洗足池と反対側の長原駅寄りのガードをくぐり抜けた先にある。駅名は駅のすぐ北側に位置する洗足池に由来する。Wikipedia


# by Twalking | 2017-09-14 21:32 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(4)田園調布~大井02-旗の台   

日時 2017.9.9(土)
天気 晴れ

中原街道と別れて南へ、商店街が続きますが
ここは区境の嶺道になっています。
途中2ケ所に「品川道」の案内板があました。

区の推定ル-トは西大井から「光学通り」「大井三差路」
「品川踏切」を経由して「南品川宿」となっています。
平間道の関連もあるので「滝王子通り」を行ってみました。


・・・上池台
/大田区

大田区の北西部に位置している。南北に細長い形をしており最北部の一丁目から最南部の五丁目に至るまで南に伸びている。北で南千束、旗の台(品川区)、東で北馬込、中馬込、西馬込、南で横須賀線を境に仲池上、西で東雪谷と隣接している。南部は上池上とも呼ばれている。一丁目を環七通り中原街道が交差している。また、東急池上線長原駅周辺には商店が集中し拠点的な地域になっている
Wikipedia

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街道の風景① 洗足坂上から商店街を南へ、これ旧道なんですね/長原商店街

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小池稲荷神社/上池台
            環七を横断します/長原駅

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街道の風景② 旗の台(品川区)と北中込の境の嶺道のようです/北中込商店街

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街道の風景③ 光明寺から平塚へ向かう奥州街道と交差します/夫婦坂上

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坂から見る品川道           奥州街道は左へ行きます

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夫婦坂
夫婦坂は上池台四丁目2番と中馬込一丁目1番の境から環状7号線をはさんで北馬込一丁目12番と13番の間を上る坂道。その向かい合う様子を夫婦にたとえて夫婦坂と呼ぶようになったといわれています。昭和初期までの夫婦坂は今よりも道幅も狭く曲った坂道でした。また、このころまでの夫婦坂は間を通る環状7号線もまだ開通せず、急な坂道で竹やぶ、雑木林などに囲まれ昼なお暗い寂しい坂道であったようです。なお、この坂は品川道に通じていました。品川道は、大井を通って品川へ、西中原街道へ通じた古い道です(大田区)


・・・中延
(なかのぶ)/品川区

享保15年(1730)の『本化別頭仏祖統紀』には13世紀の荏原郡領主荏原義宗が中延郷に居住していたとある。弘治2年(1556)北条氏康の家人大道寺直・清水永英により山野が開拓された。永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』には「中之部」として見える。江戸時代には荏原郡中延村。当初全域が天領伊那に支配された。その後村内55石が松風十左衛門に与えられたが、1664年(寛文4年)養子の五郎右衛門が殺傷事件を起こして改易され寺領となった。地名は荏原郡など何らかの中部位置したことによるともいわれるが、不明である。江戸時代までは「なかのべ」と読んだ(Wikipedia
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街道の風景④「商店街巡り」かなと思っていた矢先、「品川道」の標識がありました/中延 

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品川道道標/中延みちしるべ防災広場
品川道は武蔵国の国府であった府中と中世からの港湾都市として栄えた品川を結ぶ道です。現在も府中市の大國魂神社くらやみ祭(東京都指定無形民俗文化財)は品川沖でお浄めの海水を汲むところから始まります。かつて、神官たちの一行は品川道を通って府中と品川の間を往復しました。国府の地一番の神社の例大祭が品川から始まるのは武蔵国における品川の地の高い重要性を物語るものでしょう。品川道は幾筋かあったようですが時代は流れて都市化が進みいずれもまちの中に埋もれてきています。そのためここに「品川道」の道標を建て往時の由緒を後世まで伝えていこうと思います(品川区)

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品川の古道/説明板
(赤:品川道 橙:池上道 紫:旧東海道・中原街道・大山道・甲州街道 緑:滝坂道 青:六郷用水・呑川・目黒川 赤丸:府中・品川宿)

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品川道推定図/説明板
(赤:品川道 橙:池上道・平間道 紫:旧東海道・中原街道 青:目黒川)

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街道の風景⑤ 左右が品川道、前後が旗旗岡八幡への古道です/荏原駅入口

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天保2年銘道標(品川区指定史跡)/中延
東海道を南品川宿で分かれて大井を横切り中延馬込を通って千束で中原街道に合流する品川道と、中原街道を平塚橋で分かれて中延・馬込を通り新井宿池上道を結ぶ通称中通りとの交差点に建てられた道標である。道標の四面には行先と天保2年(1831)に下中延村の題目講の人々が建てたものであることが刻まれている。下中延村とは中延村の増上寺領を示す俗称で、同じ中延村の天領(江戸幕府が直接支配した土地)の区域は上中延村と呼んだ。この道標は江戸時代における主要道路の道筋を示す資料として貴重なものであり、また同じ中延村であっても支配者が違えばそれぞれ別個に講の集団を組織したことを示す資料としても価値が高い。(品川区教育委員会)

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天明3年銘石造道標/庚申堂(中延)
この道標は、旧中延村を横断する中通り中原街道池上道を結ぶ)と平間道(上池上・久ヶ原を経て下丸子池上道と合流し平間に至る)との分岐点にある。高さが1.15mで『右うの木 光明寺道、左池かみ道』と刻まれている。造立者は不明である。鵜ノ木光明寺は浄土宗の古刹で、江戸からの日帰り行程の大寺として近世には多くの参詣者が来寺した。品川区指定史跡(品川区教育委員会)

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立会川(緑道)
目黒区にある碑文谷池清水池に源を発し南東方向へ流れる。品川区の西小山駅、荏原駅、西大井駅、大井駅、立会川駅付近を通り東京湾の勝島運河に注ぐ。(全長7.4km)昭和20年代までは魚やザリガニが棲むきれいな小川であり子供たちの絶好の遊び場であったが、現在では大部分が暗渠となり道路(立会道路)や緑の豊富な遊歩道、公園などになっている。名前はその昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。鈴ヶ森刑場へ送られる罪人をその親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった等の説があるが定説となるものは無い(Wikipedia


・・・旗の台/品川区


品川区の南西部に位置する。北部は小山・荏原・西中延、洗足(目黒区)に、東部は中延に接する。南部は大田区北馬込に、南西部から西部は目黒区上池台・南千束・北千束にそれぞれ接する。町域内を中原街道が通る。また町域内を東急池上線と大井町線の線路が通っており町域内に旗の台駅が置かれる。地名は平安時代、源頼信が当時下総国(現在の千葉県)において発生していた平忠恒の乱を平定するために、下総に行く途中、当地に陣を張って八幡神を奉って戦勝を祈願し(現在の旗岡八幡神社)源氏の白旗を掲げた事に由来する(Wikipedia

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街道の風景⑥ 中原街道の平塚への道、奥州道でしょうか/旗岡八幡神社前

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法蓮寺山門/旗の台


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法蓮寺
文永年中荏原義宗は日蓮を尊崇するあまり二子徳次郎を薙髪し、日朗の門に入れて名を朗慶と改める。義宗は宅をすて寺を建て、朗慶を開基開山とし八幡社(旗岡八幡神社)の別当としたのである。家康の入国後は、二代秀忠の祈願所に八幡社がなり、以来度々将軍の御成があり、数々の寄進もあり中でも39世日詮は大奥女中の人気もあって、文化年中には八幡宮建立に力をかたむけたのであった。しかし天保12年の改革(日蓮宗不受不施派の禁令)にあたり、江戸追放となったのである。(品川区の文化財)

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将軍家斉と法蓮寺住職の角力伝承
ここ法蓮寺には徳川11代将軍家斉と当時の住職日詮上人が角力を取ったという伝承があります。家斉は品川か目黒筋への鷹狩の途中中延八幡宮(今の旗岡八幡神社)に立ち寄られたという。そのとき別当寺であったここ法蓮寺の芝庭において、家斉は法蓮寺39代住職の日詮と角力を取ったとされ、このとき日詮上人は手加減せずに将軍を負かしたのでかえって賞されたというお話です。江戸幕府が編纂した歴史書「徳川実記」の中には家斉が寛政から文政年間(江戸時代後期)にかけて幾度か品川周辺で鷹狩を行ったと書かれています。(品川区教育委員会)

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旗岡八幡神社鳥居


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旗岡八幡神社
長元3年(1030)に源頼が当時下総国において発生していた平忠常の乱を平定するために、下総に行く途中この地に宿営し霊威を感得して、この地に八幡大神を奉り戦勝を祈願したのが地名の発祥とされる。当時この地に陣を張り、源氏の白旗をなびかせて武威を大いに誇ったという。そのことが現地名の「旗の台」や「旗岡」の名の由来になっているとされる。その後、鎌倉時代に入り、当地の領主・荏原義宗(源義家の末裔と言われている)によって社殿等が建立され、源氏の守護神のみならず地域の鎮守神とした。また荏原義宗は日蓮宗に篤く帰依し、息子を日蓮の高弟・日朗の弟子とさせた。息子は後に朗慶上人となり、荏原氏の館跡法蓮寺を開山した。この寺院は長く隣接する旗岡八幡神社の別当寺となった。明治時代に別当は廃止されたが、現在でも当神社に隣接してある。

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また、旗岡八幡神社の前の道は鎌倉街道のひとつで古来より鎌倉へと通じる道として知られていた。その後の時代になっても人々からの信仰は厚く、江戸時代には
2代将軍・徳川秀忠に祈願所とされたほか、特に弓術者から篤い信仰を得て、毎年215日には近郊の各地から武士が集まって境内で弓術の競射が行われるようになり、有名であった。試合後は一同に甘酒が振舞われたに由来して、現在でも2月になると『甘酒祭』が当神社内でとりおこなわれている。また江戸時代には『中延八幡宮』とも呼ばれ、江戸名所図会にもその名で描かれているWikipedia

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旗岡八幡神社大絵馬
絵馬殿に懸けられていた縦1.46m横1.78mの庵形の大絵馬である。元治元年(1864)に中延村の竹屋(野村)書治郎が奉納したもので、欅の板4枚を横に会わせ周囲を同じ欅材で縁取っている。白木の生地に猿駒止の図柄を彩色で画面一杯に描いている。この絵は右下の落款によって、今治(愛媛県)出身の画家・沖冠岳1817-1876)の作品であることがわかる。沖冠岳は京都で岸派に学んだ後、江戸に移住し、谷文晁等と交流し画風の幅を広げている。江戸期の大絵馬の現存例は本区並びに周辺地区では少なく、民間信仰の様相を示す資料として貴重である。大絵馬は現在、ケースに収められ社務所内に展示されている。(品川区教育委員会)

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江戸名所図会 中延(旗ヶ岡)八幡宮 法蓮寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

中延村では「中延八幡宮」(現在の旗岡八幡神社)と「法蓮寺」が挿絵に描かれています。2つの社寺のまえの戸越村から続く池上道で「中通り」と呼ばれ、池上本門寺へいく主要な道のひとつでした。法蓮寺近くには高札場も描かれています(江戸から明治の品川名所/品川区)

中原街道(平塚・旗の台)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22248212/

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街道の風景⑦ 駅入り口に戻り西大井へ向かいます。途中に「品川道」の案内板(内容は同じ)/中六桜広場

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荏原駅周辺地図
(赤:品川道 橙:奥州街道 紫:中原街道 緑:立会川緑道)


・・・西大井/品川区


品川区南東部に位置する。町域内に光学通り(当地にあるニコンに由来)、滝王子通り、西大井本通りが通っている。また横須賀線(品鶴線)の線路が通っており北部の一丁目に西大井駅がある。当地は西大井駅前にマンション、ビルや商店などが見られるほかは主に住宅地となっている(
Wikipedia

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第二京浜を横断します         新幹線高架が見えてきます

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伊藤博文墓所 
生前は伊藤博文別邸で晩年の伊藤は当地で暮らしていた。当地一帯は伊藤という地名となり、旧名の大井伊藤町はそれに由来する。この地名は現在でも小中一貫校伊藤学園伊藤小学校などに残っている。Wikipedia

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街道の風景⑧ 左は光学通り(大井三叉路へ)、右は滝王子通りどちらも古い道ですが、今回は右へ行ってみます/原踏切先

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滝王子通り
古くからある道のひとつで、滝王子の名は滝王子稲荷神社を中心とした大井の小字名であり、いつとはなしに通りの名称として呼ばれるようになった。延長850(品川区)

光学通り
「日本光学()」が大井に移転してきた当時は、大井町を代表する工場であった。大勢の社員が通勤に利用した道であったため、いつとはなく呼ばれるようになった。延長1290(品川区)

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街道の風景⑨ 住宅街のバス通りです、先の信号が「滝王子」になります/大井

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滝王子稲荷神社鳥居/大井


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滝王子稲荷神社
昔この付近に滝氏という一族が住んでいて稲荷社とあわせて王子権現(現北区)を祀っていたところから滝王子稲荷の名がおこったという。境内の湧水池はかつては野菜など農産物の洗い場として利用されていた。「新編武蔵風土記稿」には『滝王子権現社 除地五畝五歩 村の中程にあり 相殿に稲荷を配す。土人滝氏の稲荷と称するよしなれども その来由を詳にせず。是も滝王子稲荷とよびしを誤り来れるにや』と見え、『大井町史』ではこの社は旧記に「滝王子権現社地森之内滝氏王子権現相殿稲荷」とあり、俗に滝王子稲荷と称し滝王子4526番地にある無格社である。昔この地は滝氏と称したが、王子権現を相殿として奉祀せし為滝王子と称えるに至ったものであろう。宇迦御魂命を祀ってある。境内には欅、椎、松等の大木多く、遠くより之を望めば、鬱蒼たる森林の観ありと見えている。タブの木のすぐ脇は湧水地になっていて、もと農家の野菜洗場として利用されていた。現在も貯水池になっている。(しながわ観光協会)

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境内にある富士塚           湧水でしょうか

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街道の風景⑩ 池上通りに合流します。品川道は大井三差路から南品川宿へ向かいますが、とりあえずのゴールとします/大井5丁目

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大井付近地図(赤:品川道 橙:池上道)

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品川道ルートマップ
(赤:品川道 橙:筏道 紫・池上道 茶:東海道・中原街道 緑:奥州街道)


・・・・・・
資料ファイル

源頼信

平安時代中期の武将。摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲三男。河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳市壺井)を本拠地とする河内源氏。兄・頼光と同じく関白の藤原道兼に、道兼の死後は藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。河内国土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。甲斐守在任時の長元4年(1031年)に平忠恒の乱平定し、その後の河内源氏東国進出第一歩を記す。それまで四年間、平直方と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係があったためと考えられている。この乱の後、坂東の武士たちは河内源氏主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。墓は、大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺の通法寺跡に、頼義、義家と共にあるWikipedia

平忠恒の乱

平安中期の反乱事件。1028年(長元1)、下総権介(しもうさのごんのすけ)平忠常が安房守惟忠(これただ)を焼き殺し、上総国府を占拠したことに始まる。朝廷では追討使に平直方、上総介に維時(これとき)、安房守に正輔(まさすけ)と貞盛流平氏を中心に配置して鎮圧しようとしたが成功せず、改めて源頼信を追討使に登用し、31年にようやく平定した。忠常は京都への連行途中に死去し、子孫は宥免(ゆうめん)された。3年余にわたる追討により房総三国は亡国化し、南関東一帯が荒廃したが、その復興のなかで新しい領主制が展開し多くの武士団が生まれる。その意味でこの反乱は10世紀の平将門の乱を超える関東の反乱として、律令的地方行政制度の破綻を表面化したものであり、王朝国家体制への国制転換を促した事件として評価されている。この乱はまた、乱平定者源頼信子孫が武士の棟梁として東国に君臨する契機となった事件で、忠常の子孫も前九年の合戦以降の戦闘に頼信の子孫に従って参加する。(コトバンク)


# by Twalking | 2017-09-14 19:01 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 合歓の木   

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合歓の木/多摩市乞田
そのすがた 人にうつすや ねぶの花
加賀千代女)


ネムノキ(合歓木)

マメ科ネムノキ亜科の落葉高木。別名ネム、ネブ。葉は2回偶数羽状複葉。花は頭状花序的に枝先に集まって夏に咲く。淡紅色のおしべが長く美しい。香りは桃のように甘い。果実は細長く扁平な豆果。マメ科に属するがマメ亜科に特徴的な蝶形花とは大きく異なり花弁が目立たない。和名のネム、ネブは、夜になると葉が閉じること(就眠運動)に由来する。漢字名の「合歓木」は、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものであるWikipedia


# by Twalking | 2017-09-14 15:23 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕景   

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夕景
パルテノン大通り/多摩センター(多摩市)
日替わりメユーの
秋の夕暮れ
落ち着きますね、ありがと~!
2017.9.13(水)18:09

# by Twalking | 2017-09-13 19:58 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 名馬池月像-千束八幡神社   

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名馬池月像
千束八幡神社/洗足池(大田区南千束)
産地伝説は各地にあるそうですが、
こちらは源頼朝が安房から再起の軍を鎌倉へ進める
鎌倉街道に位置する千束八幡神社に伝わる故事です。


生食
(いけずき)
同義異音異字:池月[いけづき]、生月[いけづき]、生喰[いけづき])
平安時代末期の日本にて軍馬として活躍した名馬(一個体)の名。源頼朝に献上された名馬であり、宇治川の戦いで佐々木高綱に与えられた。生食を駆る高綱は、同じく名馬の磨墨(するすみ)を与えられた梶原景季と先陣争い(宇治川の先陣争い)を演じ、栄誉を勝ち取っている。生食(および、生唼)は生き物をも食らうほどの猛々しさ、池月は池に映る月に由来することから、立場の違いに起因する異字と考えられる。東北から九州まで日本の各地に生食(池月)の産地とする伝承がある。大田区の千束八幡神社には池月発祥伝説が伝わる。源頼朝が再起の折、鎌倉へ向かう途中にこの地に陣を張っていたところどこからか現れた野馬がおり、これを郎党が捕らえ頼朝に献上した。身体に浮かぶ白い斑点が池に映る月影のようだったことから「池月」と名付け自らの乗馬としたという。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-09-13 11:46 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕焼け   

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夕焼け/多摩丘陵(多摩市)
東の空には大きな虹
西の空は真っ赤な夕焼け
めまぐるしい初秋の宵だこと。
2017.9.12(火)18.05

# by Twalking | 2017-09-12 22:30 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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多摩丘陵/多摩市
わ~、大きな虹だこと
久し振りにお目にかかりました
ありがと~!
2017.9.12.17:52

# by Twalking | 2017-09-12 18:42 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(4)田園調布~大井01-千束   

日時 2017.9.9(土)
天気 晴れ

筏道と池上道を先にしましたので、
久し振りの品川道になってしまいました。
奥沢神社に寄るので自由が丘スタートです。

天気も良さそうなので寄り道しながら
台地の上を大井を目指して歩きます。
洗足池、旗の台あたりが良さそうですね。


・・・自由が丘/目黒区


目黒区南部に位置する。地域内には東急東横線と大井町線が通りそれらが交差する自由が丘駅がある。また、地域の中央部に自由通り、北端に隣接して目黒通通る。駅周辺は戦前に「衾沼(ふすまぬま)」と言う沼地を埋め立てて造成された土地であるため、丘と言う地名ながら周辺と比較して低地となっている。二・三丁目には丘が多いが自由が丘の南に九品仏川がありそこへ流れていた雨水が削っていったためである。
Wikipedia

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お洒落な街、この緑道も魅力の一つです。自由通り経由で品川道に向かいます/自由が丘駅前


九品仏川緑道

ここは目黒と世田谷の区界線で、昭和49年に暗渠になる前は九品仏川と呼ばれ九品仏浄真寺の裏を流れて緑ヶ丘の先で呑川に合流していた。旧名の丑川の名は九品仏城を建設する材を船で運び上げる途中、近くにいた牛がひっかかって川へ落ちてしまったことに由来するともいわれている。サクラ、サツキなどの花木が散策の目を楽しませてくれる(多摩川地域公園管理事務所)


・・・奥沢/世田谷区

町域は東急大井町線緑が丘付近を東端とし、北は九品仏川緑道を境に目黒区自由が丘・緑が丘、南は環八通り・大田区田園調布等に接しながら九品仏駅と尾山台駅の間で世田谷区等々力と接するところまで広がる。貞和
頃から吉良氏所領となり奥沢城が築かれた。江戸時代には荏原郡奥沢村となり城の跡地には浄真寺が創建された。1622年(寛文2年)西の開墾地が奥沢新田村として分村した。天保頃には奥沢村が奥沢本村、奥沢新田村が奥沢村と称されるようになった。田園調布、自由が丘と隣接し高級住宅地として人気が高い。地名は呑川の支流九品仏川水源湿地帯であることを指すWikipedia

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街道の風景① 自由が丘駅は「丘」とつきますが窪地なんですね/自由通り

東京都道426号上馬奥沢線
世田谷区上馬三丁目から目黒区八雲を経由し大田区雪谷大塚町に至る特例都道である。この道路は自由通りと通称されるWikipedia

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奥沢神社鳥居/奥沢

鳥居は通りに面して建ち、前年の大蛇お練り神事で使用された藁製の大蛇が巻き付いている。この鳥居は1939年(昭和14年)にそれまでの木造のものから石造に取り替えられた。以前の鳥居は厳島神社(広島県廿日市市・はつかいちし)の海中に建つ大鳥居と同じ「四脚鳥居」という形状であった
Wikipedia

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奥沢神社
祭神は応神天皇、倉稲魂ノ命である。世田谷城吉良氏の家臣大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請したと伝えられる。旧本殿は3間半に1間、拝殿は2間に3間で、祭礼は915日である。この日には神楽を奏したが今でも「奥沢ばやし」として残っている。昭和3年石の鳥居にかえたが、それまでは木の鳥居で厳島の海中の鳥居と同じ形であった。江戸中期、疫病が流行した時、名主の夢枕に八幡様が立たれなわで造ったへびを祭るとよいというところから「厄除大蛇」が鳥居にかけられるようになり、今も続いている。

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慶応末、ここの社寮に土地の子弟を集めて読・書・算を教えた。明治12年一部を改修して認可を得、社名をとって「八幡小学校」とした。現在の社務所がそれである。本殿の西にある稲荷社は旧本村稲荷丸979にあったものを明治43年に合祀したものである。社務所の玄関わきの道標は大音寺のそば川のわきにあったものを移したものである(せたがや寺社と史跡)


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弁才天社
弁才天社は「福寿弁天」と呼ばれていて、かつて奥沢駅の南方100mほどのところにあった湧水池に鎮座していたものを1950年(昭和25)に移したものである。旧地である湧水池は「奥沢弁天池」の名で呼ばれ、池の主の白蛇が奥沢の田畑に水の恵みを与えていたと伝わる。ただし池の跡地は商店街となっていてその名残を確認することはできないWikipedia

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奥沢神社の大蛇お練り行事
江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が流行して病に倒れる者が多かったとき、ある夜この村の名主の夢枕に八幡大神が現われ「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させると良い」というお告げがあったという。早速新藁で大きな蛇を作り村内を巡行させたところたちまちに流行疫病が治ったという言い伝えがあり、これが厄除の大蛇として鳥居にからまり大蛇お練りとして現在に伝えられている。蛇の形のものを作ってかつぎ歩く祭りは全国的にあるが都内では珍しい祭りである。蛇の形(水神の意)をかつぎ歩くことによって農耕に必要な水の確保や生産の順調なることを予祝する行事にほかならない。奥沢神社では毎年9月の第1日曜日に氏子が集まり大蛇づくりが行われる。これは社殿に安置され、社殿にあった昨年の大蛇を鳥居にかけられる。そして914日の大祭に大蛇お練りが行われる。(世田谷区教育委員会)


・・・東玉川/世田谷区


世田谷区南部の玉川地域に属する。北側は世田谷区奥沢に接するが、他の三方は大田区の田園調布、雪谷大塚町、石川町に囲まれている。自由通り
が町域の中央をほぼ南北に縦貫している。環八通りは町域の西側にほぼ1kmにわたって走り田園調布との境界を形成している。中原街道は町域の南部・東部に近接して通る。Wikipedia
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街道の風景② 品川道です。環八から分かれて旧道に入った辺りです/東玉川 

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馬頭観音               中原街道まで一直線


・・・石川町/
大田区


大田区北部に位置する。石川町は東急目黒線と池上線とに挟まれ、南北に長い形をしていてそのほぼ北半分が石川町一丁目、南半分が石川町二丁目である。『新編武蔵風土記稿』は「
石川」を呑川別称とする
Wikipedia

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川の風景 中原街道柳橋を左折します/柳橋(呑川)

呑川柳橋

中原街道が呑川を渡る石川橋付近には大雨時に呑川の水を中原街道の地下を通り多摩川に逃がす水路の入口があるWikipedia

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石橋供養塔/呑川
安永3年(1774)に雪ヶ谷村の浄心ら6名の者が本願主になって石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。石橋は現存しないが呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。石橋供養塔は他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり貴重である。(大田区教育委員会)

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清流の復活
呑川は世田谷区新町を源として、大田区大森南で東京湾に注いでいます。呑川上流は極めて局地的に灌漑の水源として、下流は小舟の舟運に利用されていましたが、都市化の進展や陸上交通の発展と共にその利用状況が大きく変化し、水質の悪化や水量の減少が見られました。そこで平成7年(19953月より東京都では清流復活事業を行いました。この呑川に流れている清流は新宿区上落合にある落合水再生センターで高度処理した再生水を利用しています(東京都環境局)


・・・南千束/大田区


大田区の北部に位置する。北辺は大田区北千束に、東部は概ね環七通りを境にして品川区旗の台に接する。南部は中原街道に接し、大田区東雪谷・池上台に、西部は石川町にも接する。二丁目の南部の中街道沿いには洗足池があり多くの人が訪れる
Wikipedia

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街道の風景③ 左は大岡山方面、洗足池に下ります/大岡山駅入口(中原街道)

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庚申供養塔/坂途中
文化111814)に品川の御忌(きょき)講(御忌とは法然上人の忌日)という浄土宗を信仰する人々が再建したものである。背面の銘文から延宝6年(1678)に森氏道円が願主となり建てた旧碑が、何かの事情で失われていたものを再建されたことがわかる。この塔のような角柱型に文字を刻んだ庚申供養塔は江戸時代後期によくみられる特色のものである。また向かって右面に刻まれた銘文により九品仏(浄真寺、世田谷区奥沢)への道しるべを兼ねたものであることがわかる。この地点が中原街道から浄真寺に至る旧道の分岐点に当たることは古い地図からも確認できる。江戸時代の民間信仰の様相を示すものとして貴重である。(大田区教育委員会)

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池の風景 妙福寺境内からの洗足池の風景です

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洗足池
大田区南千束に存在する池である。湧水池であり流れ込む川はないが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して池に流れ込んでいた。洗足池の主要水源となる湧水は4か所あったとされ、現在は清水窪弁財天(大田区北千束1-26)の涌水が残っている。今も水量が豊富で浸透管を用いて洗足池に流れている。洗足池を出た水は洗足流れとなり、最後には呑川へと合流する(Wikipedia

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大田区自然観察路「池のみち」
洗足池は武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、昔は千束郷の大池と呼ばれた。灌漑用水としても利用されました。池畔の風景は優れ、江戸時代には初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど江戸近郊における景勝地として知られていました。昭和3年(1928)に池上線が開通すると、公園として整備され同5年には風致地区として指定されました。面積は周辺を含めると約770002、水面の広さは約400002です。日蓮が足を洗ったので洗足池というとか、袈裟をかけたといわれる袈裟かけの松のある御松庵など日蓮にまつわる伝承も残されています。また、池畔にはこの池を愛した勝海舟の墓や西郷隆盛(南洲)の留魂祠、詩碑などがあります。池の西北部一帯は桜山と称し、桜の名所で区内有数の景観に富むところとして貴重です。(大田区教育委員会)


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目黒区の地名-洗足「洗足」は品川・大田両区の間に角のように突き出た区境のまち。その地名の由来は大田区の南・北千束とともに中世のこの辺り一帯の地名「荏原郡千束郷」にさかのぼる。さらにこの郷名「千束」については千束分の稲が貢祖から免ぜられていたところから名付けられたというのが定説。その免祖の理由としてはこの地にある大池(現在の洗足池)が水源地として灌漑に利用されていた、あるいは千人の僧を招いて供養を営む法会「千僧供養」の費用に当てる免田であったなどの説がある。なお、「千束」の一部の地域が「洗足」と書き換えられるようになったのは日蓮が池上に向かう途中ここの大池で足を洗ったという伝説によるもの。池畔にある御松庵の「袈裟掛の松」の伝説とともに広く流布し、いつのころからか「千束の大池」が「洗足池」と呼ばれるようになったといわれる。さて、大正の初めまで雑木林と湿地帯が広がる未開の地であったこの「洗足」の地に今日の町並みの原型が形成されたのは大正11のこと。「多摩川台地区」(現在の田園調布)とともにこの「洗足地区」を高級住宅地「田園都市」の建設地に選んだ田園都市株式会社では、碑衾村(ひぶすま・目黒区)、平塚村(品川区)、馬込村(大田区)にまたがる33万m2を宅地造成してこの年分譲を開始。その翌年の目蒲線開通・洗足駅開業、さらにその半年後に起こった関東大震災によってこの「田園都市」は郊外に住居を求める人びとに一躍注目され急速に「高級住宅地・洗足」が出現することとなった。(目黒区)

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妙福寺山門/大田区

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妙福寺
大田区南千束2丁目にある日蓮宗の寺院。旧本山は身延山久遠寺。当寺院は、もともとは洗足池の池畔にあった鎌倉時代に創建された「御松庵」という庵に由来する。御松庵は日蓮ゆかりの草庵である。日蓮1282年に身延山から武蔵国 (現在の東京都)池上にある池上宗仲の館(現在の池上本門寺)に向かう途中に、近隣の大池(千束池。現在の洗足池)にさしかかった。その際日蓮はここで休憩を取り、傍の松の木に法衣をかけて、池の水で手足を洗った。すると池か七面天女が現れたという。後にこのことを記念しようと七面天女を安置するお堂を建てたのが「御松庵」のルーツである。一方妙福寺は、日慈が現在の中央区の日本橋馬喰町に寛永年間以前に草創した寺である。しかし、1657年の明暦の大火のなどで本堂などが焼失し浅草に移転した。その後、1923年の関東大震災でまたも焼失してしまい1927年に当地に移転。既存の御松庵と合併という形で再建された。(Wikipedia

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妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂)
天保4年(1833)木造平屋建、瓦葺、建築面積53㎡ 国登録有形文化財(建造物)もと天保4年再建の七面大明神堂で、後に曳屋されて祖師堂となった。前側を外陣、奥に内陣・内々陣を延ばした平面を持つ奥行の深い三間堂で、桟瓦葺の屋根は正面入母屋造、背面寄棟造になる。規模は小さいが洗足池畔の景観のランドマークとなっている(文化遺産オンライン)

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日蓮上人袈裟掛けの松由来
弘安59月(1282日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えからこの松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。天保期(18301843)の「嘉稜紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。なお現在ある松は三代目であると伝えられる。(御松庵 社団法人洗足風致会)

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馬頭観世音供養塔
天保11年(1840)に馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。光背をつけた馬頭観世音像の下は角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北 堀之内・碑文谷 道」「東 江戸中延」「南 池上・大師 道」「西 丸子稲毛」というように東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。この銘文からもとは中原街道碑文谷-池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後平成13年に現在地に移設された。江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである(大田区教育委員会)

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勝海舟夫妻の墓

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勝海舟夫妻の墓 
勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生まれる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。洗足池やその周辺の風光を愛し明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。千束村の別墅に 楓樹数株を植ゑて うゑおかば よしや人こそ 訪はずとも 秋はにしきを 織りいだすらむ 染めいづる 此の山かげの 紅葉は 残す心の にしきとも見よ(飛川歌集より)(大田区教育委員会)

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勝海舟別邸(洗足軒)跡
勝海舟の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任ぜられた海舟は官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。その際、通り掛った洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治24年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。『池のもに 月影清き今宵しも うき世の塵の 跡だにもなし』。晩年海舟は晴耕雨読の生活の中でかえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。『うゑをかば よしや人こそ訪はずとも 秋はにしきを織りいだすらむ』。明治32年(189977歳で没しましたが『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。初めは海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され大田区の史跡に指定されています。(勝海舟没後百年を記念して(社団法人洗足風致協会)

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留魂祠由緒(りゅうこんし)
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが、勝先生は晩年この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治101877)年の西南戦役により故郷鹿児島において子弟三千余と供に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は追慕のため南洲先生の漢詩を建碑され、さらに明治161883)年その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は漢詩「獄中有感(ごくちゅうかんあり)」の「願留魂魄護皇城(ねがわくはこんぱくをとどめてこうじょうをまもらん)」に由来するものです。この留魂祠はもと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木1-5-9)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御意思により大正21913)年石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄はいまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです(南洲会)

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洗足池辨財天(厳島神社)御由緒 
御祭神 市杵島姫命 創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多くの人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月洗足風致協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。(説明板)

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千束八幡神社鳥居

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千束八幡神社御由緒
御祭神 品陀和氣之命(應神天皇)
當社は千束八幡神社と稱し、平安前期の貞観2年豊前国宇佐八幡を勧請し往時の千束郷總鎮守としてこの巒上に創建せられ今日に至る。遠く千百余年の昔よりこの地の氏神として尊崇せられ普く神徳を授けてこらる。承平5平将門の乱が起る。朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり、乱後忠方は池畔にを構え八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき、館が池の上手に当たるに依りて池上氏を呼稱、この9代目の子孫が日蓮を身延から招請す、之池上康光なり。又八幡太郎義家奥羽征討の砌、この池にて禊を修し社前に額つき戦勝祈願をなし出陣せりと伝える。源頼朝も亦鎌倉に上る途次、この地を過ぐるに八幡宮なるを知り、大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉。近郷より将兵集まりて鎌倉に入る事を得、旗挙げ八幡の稱あり、名馬池月を得たるも此処に宿舎の折なりとの傳承あり。尚境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが大正13年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし。古歌の『日が暮れて 足もと暗き帰るさに 霊に映れる 千束の松』と詠まれて居り、老松の偉容が想像されよう斬の如く當八幡神社は城南屈指の古社にて亦名社なり。(宮司 恵良彰紀識)

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池月発祥伝説の由来
池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。治承48月(1180)頼朝、相州石橋山の合戦に破れて安房に逃れこの地の豪族千葉常胤、上総介広常等の参向を得、再挙して鎌倉に向かふの途次、ここ千束郷の大池に宿営し、八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ。折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし、何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ、恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。頼朝先に磨墨(するすみ)を得、今またここに池月を得たるは、之れ征平の軍すでに成るの吉兆として、勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之れを伝へて征旗を高く掲げ歌声やまざりしとか。当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と称するはこの故事による。寿永3年春(1184)頼朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し、各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景時磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川の先陣争いである。池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。この池月の誕生地が当八幡であって、即ち池月発祥伝説の起こりである。古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが今はない。遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。尚、磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年9月の祭日に奉納されてゐる。池月の 蹄の音か 撥の冴え (千束八幡神社 洗足風致協会)

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江戸名所図会 千束池袈裟掛松 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景④ 中原街道は坂上を直進、品川道は商店街へ右折します/洗足坂(中原街道)

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洗足坂/坂上
この道(中原街道)は江戸から平塚の中原に通ずる街道で、江戸時代には東海道の脇往還として盛んに利用された。明治期以後も産業の発達に伴い東京の物資の輸送路として大きな役割を果たした。しかし、この辺りは坂が多く重い荷物は難儀をした。昔の洗足坂は道幅も狭く現在の坂より短い急な坂であった。大正12年になると道路が改修されてゆるやかな坂となり、その後さらに拡幅されて現在の道路となった。坂下には改修記念碑がある(標柱)

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品川道(田園調布~長原)ルートマップ
(赤:品川道 茶:中原街道)

# by Twalking | 2017-09-12 15:45 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「N'EX」が行く   

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品鶴線原踏切/品川道(品川区西大井)
お~『N'EX』
かっこい~!
ここを通るんだね。


品鶴線(ひんかくせん)
港区の品川駅と横浜市鶴見区の鶴見駅を新鶴見信号場を経由して結ぶ東海道本線の支線の通称である。品川駅で東海道本線と分かれて内陸部を南西方面へ進み多摩川を渡った武蔵小杉駅付近で南に大きくカーブして南進し、新鶴見信号場を過ぎた先の鶴見駅付近で東海道本線と再合流するというルートを取る。もともとは貨物線として建設されたが、1980年(昭和55年)に行われた東海道・横須賀別線化によって旅客線化され、横須賀・総武快速線電車が走るようになった。また、2001年(平成13年)からは湘南新宿ラインの列車も走るようになっている。(Wikipedia



# by Twalking | 2017-09-12 11:20 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 修験像-妙福寺   

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妙福寺/中原街道(大田区南千束)
修験者でしょうか???
珍しいですね
洗足池の袂、妙福寺さんで出会いました。


# by Twalking | 2017-09-11 19:40 | ○石像&モニュメント