無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-梶原御霊神社   

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阿形

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吽形

梶原御霊神社/鎌倉市梶原
「獅子に牡丹」でしょうか
年代は分かりませんが、比較的新しそうですね?


獅子に牡丹
堂々たる獅子の姿に、華麗な牡丹の花を配した図柄。取り合わせのよいもののたとえ。(コトバンク)

獅子身中の虫

獅子の体内に寄生して、ついには獅子を死に至らせる虫の意
1 仏徒でありながら仏法に害をなす者。
2組織などの内部にいながら害をなす者や、恩をあだで返す者。(コトバンク)



# by Twalking | 2017-06-26 13:15 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷②   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

府中から鎌倉まで歩こうと思ったのは大分前です。
「歩く」ことが目的でしたが、段々と「歴史」や
「地形」「街」など、興味が広がっていきました。

歩き直しもありましたので時間がかかりましたが、
鎌倉の地を踏みましたので、一応、一区切りです。
まだ、もやもやと錯綜していますが、長い歴史、
少しづつ、といったところでしょうか。


・・・扇ヶ谷
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街道の風景① 扇ヶ谷ガードに戻り、街道を英勝寺へ向かいます

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智岸寺稲荷
稲荷神社について
世にお稲荷様と申上げている稲荷神社は倉稲魂神をお祭りしたもので今から約1300年の昔、和銅4年の2月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は稲がなるイナリの別名が示すように五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですから、あるゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で、鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府を開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。お稲荷様は大切にお祭りしましょう。(英勝寺)

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阿仏尼卵塔

十六夜日記の作者・阿仏尼と伝えられる。もともと英勝寺境内だが、現在は英勝寺の塀を北鎌倉方面に越えた崖下のやぐらにある。なお、阿仏尼の息子である冷泉為相の墓も近隣の浄光明寺境内にある。(Wikipedia
卵塔:台座上に卵形の塔身をのせた墓石。禅僧の墓石に多く用いられる。無縫塔。

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阿仏尼(あぶつに)
鎌倉時代中期の女流歌人。桓武平氏大掾氏(だいじょうし・中世常陸国に勢力を持った一族で、常陸平氏の嫡流であり多くの緒家を輩出した)安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり冷泉為相(ためすけ)らを産む。為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。鎌倉市扇ヶ谷に伝・阿仏尼の墓が残る。(Wikipedia

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英勝寺の入口はこちらです

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英勝寺/扇ガ谷
英勝寺扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在鎌倉唯一の尼寺である。山号は東光山。寺域は開基英勝寺尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。徳川家康側室大田道潅四代の大田康資・息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したがその後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り英勝寺創建した。創建にあたっては徳川頼房娘・小良姫7歳の時に玉峯清因と名付け得度させこれを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642)没し、英勝寺裏山に葬られた。

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寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。創建の経緯からその後も代々の住持水戸家の姫が務めこのため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919)以降は東京青山善光寺より住職を招請し今日に至る。仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定される。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられるWikipedia

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山門

三間一戸二重門。屋根は入母屋造、瓦棒銅板葺き。上層には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。英勝院尼一周忌の直前に、水戸光圀の兄である高松藩主松平頼重により造営され、「奉敬立相州英勝寺山門 従四位下侍従源頼重朝臣」の棟札を持つ。関東大震災後売却され鎌倉市小町の私有地に移築されたが、2011年、旧部材を用いて復興された。国の重要文化財Wikipedia

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仏殿
方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永208月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立しこれを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。国の重要文化財Wikipedia

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祠堂門(唐門)
平唐門、銅瓦葺き。祠堂に至る石段下の小門で、祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。国の重要文化財Wikipedia


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鐘楼
入母屋造、瓦棒銅板葺き。近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼で、梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つ。国の重要文化財Wikipedia




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太田道灌邸旧蹟/英勝寺前
此の地は武略(軍略)文藻(文才)兼備へ忝(かたじけな)くも 武蔵野は萱原(かやはら)の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ(と言う)叡感(天皇の感歎)にさえ預りたる道 灌太田持資(もちすけ)江戸築城前邸址なり  寛永11(1634)今の英勝寺と為る 其の創立者水戸藩祖頼房(ともふさ)の准母(内親王)英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより 晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり  孤鞍(単騎)雨を衝()いて茅茨(ぼうし:茅葺家屋)を叩く少女為に遣()る花一枝 の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり(鎌倉町青年会)

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街道の風景② 中央を横須賀線が通ります、左が英勝寺、右が扇ヶ谷上杉邸跡です


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庚申塔群/寿福寺入口


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源氏山/寿福寺入口
源氏山は初め「武庫山」と云ひ、亀ヶ谷の中央にある景勝の地なるをもってまた「亀谷山」とも称せり。源頼義・義家父子、奥州征伐の時、この山に旗を立てたるより、あるいは「旗立山」と名付く。山の麓、寿福寺境内付近は爾来、源氏世々の邸宅たりし地なりと云ふ。「源氏山」の名称はこれに起因せるか。旗竿を建てしと云ふ故址は今尚ほあり(鎌倉町青年団)

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寿福寺外門
/扇ガ谷

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寿福寺
扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山3の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)国の史跡に指定された。源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。もともと現在の寿福寺のある付近は奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝旧邸もこの地にあった。

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1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため当初の計画を変更したといういきさつがある。創建当時は七堂伽藍を擁し14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。

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1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は伝実朝墓五輪塔などの存在からおそらく南北朝時代の頃と思われる。総門、中門、仏殿、庫裏、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。境内裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、星野立子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には北条政子源実朝と伝わる五輪塔がある。なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。Wikipedia
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国指定史跡寿福寺境内
亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は正治2年(1200年)に頼朝夫人政子が明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第3位の寺であります。この地はもと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといもれています。墓地にあるやぐらには源実朝北条政子の墓と伝わる五輪塔2基あります。現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり往時のおもかげを残しています。(神奈川県教育委員会)

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いい道ですが、現在は通れません、左から迂回して裏山の「やぐらへ」

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墓地の奥にある北条政子(左)と源実朝(右)のやぐらです

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伝北条政子の五輪塔          伝源実朝の五輪塔


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八坂大神

建久3相馬次郎師常、己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。その後現在の地に奉遷する。世に相馬天王と称するのはこの故である。神幸式は512日の両日に行われていたが、今では12日のみとなった。中世御神幸の神輿荒ぶるを以て師常館の岩窟に納め新たに調進したと傳へられる。独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。享和元年、慶應元年に社殿の改築が行われた。明治6年村社に列格される。(境内掲示板)


・・・雪ノ下


鎌倉市鎌倉地域にある大字。もともとは鶴岡八幡宮背後の地域を指していたが、次第に拡大し境内とその周辺を指すようになった。吾妻鏡によると、建久2年(1191217日に降雪が5寸になった雪見のため、鶴岡八幡宮を訪れた源頼朝が佐々木盛綱らに山辺の雪を長櫃に入れて夏に備えて貯蔵させたことが由来とされる。源実朝を暗殺した公暁は雪ノ下の本坊(別当坊)に逃れた。
応永24年(14171月に関東管領上杉禅秀は挙兵して鎌倉公方足利持氏を追放するが敗れて雪ノ下で自刃している(上杉禅秀の乱Wikipedia

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街道の風景③ 寿福寺前の踏切を渡り
岩窟小路(いわや)を鶴岡八幡宮へ向かいます

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岩窟不動尊
奥のやぐらに頼朝鎌倉入り前からあった古い神社だそうです

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街道の風景④
川喜多映画記念館を通り小町通りを左折して流鏑馬道へ

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鉄の井
この井戸の水質は清らかで美味しく、真夏でも井戸の水が涸れることはなかった。昔、この井戸から高さ5尺(1.5m)余りの鉄観音(くろがね)の首を掘り出したことから、この井戸を鉄の井(くろがねのい)と名付けた。正嘉二年(1258)正月17日午前2時頃に安達泰盛の甘縄(あまなわ:長谷方面の昔の地名)の屋敷から出火し、折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に述べている。この井戸から掘出された観音像の首は、この火災のときに土中に埋めたのを、掘り出したもので、新清水寺の観音像と伝えられ、この井戸の西方の観音堂に安置された。明治に入り東京に移したと云われている。(鎌倉市青年団)

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街道の風景⑤「流鏑馬道」が街道の起点とありましたので、ここにゴールしました/鶴岡八幡宮

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鶴岡八幡宮に報告とお参りです

鶴岡八幡宮(若宮大路)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/18658364/

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ルート図(藤沢~鎌倉)
(赤:鎌倉街道上道(左)・中道(右) 紫:上道別路 橙:旧東海道)

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鎌倉街道上路ルート図(府中~鎌倉)
(左:上道 中:中道 右:下道)

# by Twalking | 2017-06-25 23:20 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕焼け   

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夕焼け
パルテノン大通り/多摩センター駅
どんよりした梅雨空に
燃えるような夕焼け雲
不思議ですね~、美しい。



# by Twalking | 2017-06-25 23:19 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

ここからは鎌倉の寺社、史跡めぐりです。
海臧寺、東勝寺、寿福寺は定番ですが
それだけではないですね~・・・。

寺社それぞれに由緒や歴史がありまし、
鎌倉、室町の史跡が豊富で面白いです。
整理するは大変ですが、少しづつでしょうか。


・・・扇ヶ谷
(おうぎがやつ)

鎌倉市鎌倉地域にある大字。扇ガ谷はJR横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周辺を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地名の由来は鎌倉十井の一つ「扇の井」(現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は関東管領上杉定正旧邸で、英勝寺の地で亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある(新編相模国風土記、新編鎌倉志)。もともとこの地は亀谷と呼ばれ鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。Wikipedia

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街道の風景① 葛原岡から扇ヶ谷方面の景観です

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海蔵寺山門
/扇ヶ谷


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扇谷山海蔵寺
海蔵寺は古都鎌倉の扇ヶ谷の北、風光明媚な渓間に佇む臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1253)宗尊親王の命によって従五位前能州太守藤原仲能が本願主となり七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおり鳥有に帰した後、応永元年(13944月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏定が再建したのが海蔵禅寺である。氏定は源翁禅師を(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺に属して今日に至っている。寛政3年(1791)の境内図によると、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭7ヶ院と旧跡を図示している。(海蔵寺略縁起)

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本堂(龍護殿)
大正12年(1923)の震災で倒壊した後同14年の再建。内殿欄間の雲龍彫は文化9年(1812)、額は延宝9年(1681)霊芝の筆。間切戸の雲龍・山水の絵は狩野探信の筆なり、正面4枚戸の牡丹唐獅子の絵は藤原義信の筆。(海蔵寺略縁起)


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仏殿(薬師堂)
安永5年(1776)浄智寺から移築し翌年入仏供養を行った。薬師三尊像(市指定文化財)・十二神将像・伽藍神像などを安置する。(海蔵寺略縁起)

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十六の井
薬師堂裏手の岩窟内にある。岩窟の床面に縦横各4列、計16の丸穴があり水が湧き出している。井戸ではなく納骨穴とも、十六菩薩になぞらえたものとも言うが正確なことは不詳である。岩窟の正面奥壁には観音菩薩像と弘法大師像を祀る。他に嘉元4年(1306年)銘の阿弥陀三尊像板碑が壁面に安置されていたが鎌倉国宝館に寄託されている(Wikipedia

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底脱の井
この井戸は鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため「千代能が いただく桶の底脱けて 水たまらねば 月もやどらず」とうたったことからこの名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です(鎌倉市青年会議所)
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本堂裏の庭園、非公開ですが見事です

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街道の風景② 街道は直進ですが、ガードの東側に寄り道/扇ヶ谷ガード

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岩船地蔵堂/亀ヶ谷辻
亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御皇女之守本尊也』 との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建しあらたに本像を像立した旨が記されています。「北条九代記」にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々がこの谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に今なおほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し供養いたしました。心ある方はどうぞご供養の合掌をなさってお通りください。(海蔵寺)

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薬王寺山門/扇ヶ谷


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薬王寺
もとは真言宗梅領山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川3代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公供養塔や松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川、蒲生家と縁が深く寺門に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした明治初期の廃仏稀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮座像は第11代将軍家斉の命により幕府が建立、説法形の口を開けた珍しい像です。(鎌倉市)

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駿河大納言忠長公供養塔
駿河大納言忠長公(3代将軍家光公弟)は粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃せられ所領も没収された。悲嘆やるかたない奥方松孝院殿(織田信長次男信雄の息女)は。時の当山3世恵眼院日垙上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み、追善供養のため当供養塔を建立した(説明板)

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釈迦堂                やぐら群
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薬王寺の高台から扇ヶ谷&鎌倉市中方向の景観、右手が源氏山になります

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街道の風景③ 鎌倉七口の一つ「亀ヶ谷坂」越えると山ノ内です

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国指定史跡 亀ヶ谷坂
この道は亀ガ谷山ノ内を結ぶ亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通しとは山を開いて造られて道のことで、交通を容易にするとともに防御の拠点ともなっていました。亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中頃には整備されていたようです。「吾妻鏡」によれば幕府が鎌倉市内の7箇所の商業区域の一つとして「亀ヶ谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は経済的にも軍事的にも重要な場所だったことがわかります。江戸時代には「鎌倉七口」の一つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。(鎌倉市教育委員会)

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相馬師常墓やぐら/扇ヶ谷

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史跡相馬師常墓やぐら
このやぐらは古くから相馬師常(もろつね)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く保護されてきました。玄室(げんしつ)の平面形は矩形で、羨道(せんどう)を有し奥壁の中央部には切石で塞がれた大きな龕(がん・仏像を納めるため岩壁を掘りくぼめた場所)があります。龕の前に宝篋印塔が立ち、奥壁左隅の小龕の中には一石五輪塔が置かれています。相馬師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の千葉常胤(つねたね)の次男で、相馬氏、治承4年(1180)父・常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、文治5年(1189)に欧州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。本やぐらは閉塞された大形の龕を持つ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く伝えているとともに被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と伝えられるなど資料的にも価値の高いものです。(鎌倉市教育委員会)

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相馬次郎師常之墓
師常は千葉介常胤の第二子にして相馬氏の跡を継ぎ、巽荒神のあたりに邸宅を構えていたが、元久2年(12051115日に67歳で正座し、合掌して決定往生を遂げ、その結縁を求めて僧俗あらゆる人々が集まったという。岩窟の中の宝篋印塔は師常の墓である(鎌倉町青年団)

相馬師常
(もろつね)
千葉氏の庶流。相馬氏初代当主。千葉常胤の子。伝承によると師常は平将門の子孫である信田師国の養子となりその遺領を相続したと伝わる。父と共に源頼朝挙兵に参加し頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦した。文治5年(1189)には奥州合戦に参加しその功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという。建仁元年(1201)父・常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われている。元久2年(1205年)鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている。1879年師常を祀る「相馬神社」が福島県相馬市に建立されたWikipedia


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藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん)/ 浄光明寺入口
冷泉為相卿は為家の子なり 従二位中納言となる 和歌所の事に由り 兄為氏と争論の末 その母阿仏尼と共に鎌倉に来たり幕府に訴ふ 遂に藤谷に寓し 藤谷殿と称せらる 藤谷百首と呼び世に伝承せらるる和歌は 此地にて詠出せられし者なり 網引地蔵は其の建立に係ると云う 卿の墓は其の山の頂に在り 五輪塔にして 月巌寺殿玄国昌久の八字を刻せんと謂うも 今は漫滅(摩滅)して字体を弁ぜず(鎌倉町青年団)

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浄光明寺山門/扇ヶ谷

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浄光明寺
扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。新四国東国88ヶ所霊場の第82番。鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷・泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。

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寺伝によれば建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが定かでない。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)36歳で死去し浄光明寺に葬られ以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏菩提寺と位置づけられた。

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山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがありその裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫(阿弥陀三尊像等)がある。さらに裏手狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されている。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓がある。境内は谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されている。(Wikipedia


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阿弥陀堂               やぐら群

赤橋流北条氏
鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。始祖は北条重時(極楽寺流)の次男北条長時。極楽寺流のなかでは嫡流に当たる。長時が第6代執権となったほか、最後の執権(第16代)守時をも出すなど、北条氏の一族では、得宗家に次ぐ高い家格を有しており、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた。屋敷が赤橋(現在の太鼓橋)にあったため「赤橋」を名乗ったと言われている。Wikipedia

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大伴神主家墓所
大伴家は鎌倉時代以来明治維新に至るまで鶴岡八幡宮神主を代々務め、その墓は室町時代の文明年間以降、当寺に営まれるようになりました。墓所は鳥居を浮彫にした江戸時代の(しゃく)型墓碑3基あり、神道特有の墓として貴重です。市史跡(浄光明寺)

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石造地蔵菩薩坐像(網引地蔵)
鎌倉屈指の石仏で、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。背中の銘文に当寺第三世長老性正和尚が正和2年(1313)に供養した事が記され、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。(浄光明寺)

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国指定冷泉為相墓
冷泉為相(ためすけ)は藤原定家で、は「十六夜日記」の作者阿仏尼である。為相は歌学・連歌の道の造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁3年(1295)鎌倉に下り、嘉歴3年(1328)この地に没した。この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝のころの形式をよく伝えている。なお、玉垣は德川(水戸)光圀が寄進したものである。(文部省・神奈川県教育委員会)
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冷泉為相墓より泉ヶ谷&鎌倉市中の景観 

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扇ヶ谷周辺マップ
(赤:鎌倉街道上道 紫:鎌倉街道中路 橙:亀ヶ谷坂 黄:段葛)

# by Twalking | 2017-06-25 23:13 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 キョウチクトウ   

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夾竹桃
乞田川/多摩市落合
鮮やかなピンクですね~
「美しい花には毒がある」と
いいますから、ちょっとご注意を。


キョウチクトウ(夾竹桃)

キョウチクトウ科キョウチクトウ属の落葉低木もしくは常緑小高木。和名は葉がタケに似ていること、花がモモに似ていることから。インド原産。日本へは中国を経て江戸時代中期に伝来したという。葉は長楕円形で両端がとがった形。やや薄くて固い。花は、およそ6月より残暑の頃である9月まで開花する。花弁は基部が状、その先端で平らに開いて五弁に分かれ、それぞれがややプロペラ状に曲がる。ピンク黄色など多数の園芸品種があり八重崎の種もある。Wikipedia

# by Twalking | 2017-06-25 14:54 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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やぐら
海蔵寺/鎌倉市扇ヶ谷
微妙なバランス
大丈夫かな・・・
魅力的ではありますが。

# by Twalking | 2017-06-24 12:29 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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海臧寺/鎌倉市扇ヶ谷
これから夏本番だというのに
なんと早いこと、秋の七草さん
涼しげでかわいい花ですね。


ハギ
(萩)
マメ科ハギ属の総称。落葉低木。秋の七草のひとつで花期は7月から10月。背の低い落葉低木ではあるが木本とは言い難い面もある。茎は木質化して固くなるが、年々太くなって伸びるようなことはなく、根本から新しい芽が毎年出る。直立せず、先端はややしだれる。葉は3出複葉、秋に枝の先端から多数の花枝を出し、赤紫の花の房をつける。果実は種子を1つだけ含み楕円形で扁平。(Wikipedia



# by Twalking | 2017-06-24 09:43 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 京王堀之内駅   

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京王堀之内駅/八王子市堀之内
『ひと駅、電車で』も
なかなか味なもの、面白いですね~。



# by Twalking | 2017-06-23 21:06 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉01-源氏山   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ


余り日を置くのもと思い出かけました。
住宅地の長い坂を登り源氏山へ、
途中、半夏生を見に鎌倉中央公園へ寄りました。

葛原岡・源氏山は来たことがありますが、
梶原谷への別路を確認しながら散策しました。
化粧坂を下り中心部へ、この切通はいいですね。
海臧寺・英勝院は初めてなので楽しみです。



・・・梶原

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街道の風景① 藤沢からぶらりっとひと歩き、今日はここからスタートです/湘南モノレール深沢駅

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新川沿いに深沢小へ                源氏山への別路の分岐です/坂下

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街道の風景② 梶原の丘を登ります/深沢中学角

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由来/深沢中正門前
この辺りは寺分大工谷といわれていた。鎌倉時代この付近に建てられた関東十刹の一つであった大慶寺などを修復した工匠が住んでいたと伝えられる。昭和585月の住居表示施行により梶原1丁目に編入された。(鎌倉市)
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街道の風景③ 長い坂ですが、振り返って見るといい景色です/坂上 

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右折してた山の上ロータリーへ     山の上通りを行きますがちょっと寄り道


・・・鎌倉中央公園/山崎

山崎

鎌倉市深沢地域にある大字。旧名は洲崎(風土記稿)で鎌倉の戦いにおける「洲崎古戦場」はこの地を指す。地名の由来は山丘の先端に基づく(風土記稿)ほか、京都の山崎を擬えたものとされる。後北条氏の時代には東郡に属したが江戸時代には鎌倉郡に属し正保元年(1644)の正保国絵図にも「山嵜村」と記録されている。江戸時代は幕府領であった。明治22年の町村制施行により深沢村の大字に、鎌倉市との合併で鎌倉市の大字となる。Wikipedia

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清水塚口から入り谷戸を抜けて梶原口までのんびり歩きました/上池

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鎌倉中央公園
鎌倉市の中心に位置した公園で、豊かな自然に恵まれた環境の中にあります。この公園は緑化意識の高揚を目的とした「都市緑化植物園ゾーン」と、現存する田畑などの景観を保ちながら多様な余暇活動の場として利用していただくための「自然活用ゾーン」、樹林地や湿地に棲む小動物や鳥類、野草などを保護し、景観や生態系に配慮した「保全ゾーン」に分かれています。また、災害時の広域避難場所として指定され、非常用飲料水や資機材等が備蓄されている防災公園としての機能もあります。(鎌倉市HP)

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湿生花園               下池

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田んぼと湿地の広がる東谷戸、憩える散策路がついています

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鎌倉中央公園案内図
(赤:散策ルート 右手の梶原口から山の上通りへでます)


・・・

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街道の風景④ この先を左折してもうひと上りです/日当公園

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山ノ内配水池を右折          左カーブの細道を右折して葛原岡へ

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街道の風景⑤ 源氏山から梶原谷へ下る道(別路)はこの下に出てきます/S字カーブ

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梶原(住宅)周辺マップ
(赤:鎌倉街道 緑:梶原谷別路 黄:鎌倉中央公園・S字カーブ) 


・・・葛原岡

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源氏山(公園)
標高93の源氏山周辺に1956年都市計画決定し1966年に開園した。「源氏山」の名は麓に源氏の屋敷があったからとする説が有力である。後三年の役で八幡太郎義家が出陣する際に山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「旗立山」の別名がある。1980年には源頼朝の鎌倉入り800年を記念して頼朝像が建立された。源氏山北西一帯は葛原岡と呼ばれ鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基はこの地で処刑された。俊基の霊を祀る葛原岡神社と墓所は園内にある。同神社は大黒天も祀っており縁結びの祈願も行う。公園南側鎌倉駅方面に下りる途中には銭洗弁天宇賀福神社があり、北側は化粧坂の切り通しに通じる。北鎌倉と鎌倉大仏を結ぶハイキングコースでは本園が中間地点になるWikipedia

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街道の風景⑥ 尾根上の葛原岡・大仏ハイキングコースにでます/葛原岡神社前

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葛原岡神社/山ノ内東瓜ヶ谷

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葛原岡神社
本社祭神:日野俊基朝臣 文章博士従三位蔵人右少辨
建武の中興(1333年・元弘3年)を計画し、不幸にも1331年鎌倉幕府の北条高時に捉えられ、其の完成に会はず中途で悲愴な最期をこの葛原が岡で遂げられた忠臣である。社殿は明治天皇の思召により、地元有志の方々の骨折で全国の崇敬者の協力を得て明治21年に創建された。例大祭は御命日の63日神前祭・墓前祭が行われる。この63日に近い土曜日に氏子地域になっている由比ガ浜で宵宮祭が行はれ、日曜日には大神輿、子供神輿が氏子区域を巡るお渡り神事が行われる。御祭神は学業成就、除災招福、交通安全などの神として崇められて居る。摂社祭神:報徳豆大黒天、福福恵比寿神(石碑 写真:縁結び石)

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日野俊基卿終焉之地碑
鎌倉幕府に捕えられた日野俊基卿は元弘2年(133263日この地で悲しい最期を遂げられる(説明板)


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藤原仲能之墓
此処は道智塚或は阿古耶尼(あこやに)の塚と伝へられしも 海蔵寺伝に拠り 藤原仲能墓所と考察せらる 仲能は従五位下前能州大守にして鎌倉幕府評定衆たりしが 後年 海蔵寺中興の大檀越(檀家長)となり 建長8(1256)129日寂し  道智禅師と称(たた)へられしものの如く 其位牌同寺に現存す(鎌倉町青年団)


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日野俊基墓
日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣後醍醐天皇につかえ倒幕計画に参加した。正中の変(1324)に捕えられ許されたが、元弘の乱(1331)の時再び捕えられ鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑された。国史跡(鎌倉市教育委員会)


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日野俊基
鎌倉時代末期の廷臣。刑部卿・日野種範の子。子に俊業・俊孝がいる。文保2年(1318)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し蔵人となる。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り、反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され、正中元年(1324)の正中の変で同族の日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れる。京都へ戻るが元徳3/元弘元年(1331)に発覚した2度目の討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられたあと、鎌倉の葛原岡処刑された。辞世の歌は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」。明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり、1887年(明治20年)には俊基を主祭神とする葛原岡神社が鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈された。墓所:葛原岡神社の南にあるWikipedia
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街道の風景⑦ 左折が化粧坂、右折が梶原谷への別慮&銭洗弁天への道です/源氏山公園入口

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右が梶原谷への別路(左は大仏HC)  銭洗弁天への下坂

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銭洗弁財天宇賀福神社/佐助
境内洞窟にある清水で硬貨などを洗うと増えると伝えられていることから銭洗弁財天(銭洗弁天)の名で知られる。源頼朝が巳年である1185年(文治元年)の巳の月(旧暦4月)巳の日に見た霊夢に従い、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけそこに洞を穿ち、社を建てて宇賀神を祀ったと伝えられる。同じく巳年の1257年(正嘉元年)に北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったのが銭洗の始まりだといわれる。宇賀神と弁財天が神仏混合して弁財天と呼ばれ相馬天王(扇ヶ谷)の末社だった。明治時代の神仏分離により相馬天王は八坂大神と改称、当社も祭神を市杵島姫命とし1970年(昭和45年)には末社から独立した。(Wikipedia

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奥宮                 下之水神宮


・・・化粧坂

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化粧坂
化粧坂は鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当ります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。「吾妻鏡」建長3年(1251123日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定区域内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)があります。また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、化粧坂が交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であることが明らかになっています。(鎌倉市教育委員会)

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化粧坂碑文/扇ガ谷
化粧坂又は形勢坂に作る 此名称は 往時平家の大将を討取り 其首を化粧して実験に備へしに拠り起ると言ひ 又一説には古此坂の麓に遊里ありしに拠り此名を負ふと相伝ふるも 東(吾妻)鑑には其名見えず此坂は所謂(いわゆる)鎌倉七口の一にして鎌倉攻防の要路に当り 元弘3(1333)5月 新田義貞軍の鎌倉討入り以来屡々戦場となれる所なり。昭和十五年三月建(鎌倉町青年団)


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化粧坂の道筋
「化粧坂」の鎌倉側の道筋について『鎌倉市史総説編』(高柳光寿)では化粧坂山頂から亀ヶ谷辻を通り、寿福寺前を曲がって現在の鶴岡八幡宮一の鳥居・太鼓橋(当時は赤橋)の前へ至る道を「鎌倉中の武蔵大路」としている。それらを総合すると、鎌倉の中心から武蔵国の中心(府中)へ向かう道の鎌倉の内と外の境界が「化粧坂」であり、建長3(1251)以前から坂上には武蔵国方面の物流の拠点として今でいう市場、商店街が開かれ賑わっていたと言うことになる。

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また鎌倉滅亡の2年前、元弘の乱(1331年)で捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られ、明治時代になって日野俊基を祭る葛原岡神社が建てられている。現在は鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂が昭和44年(1969)に国の史跡に指定されているが、道の痕跡はいくつもあり鎌倉時代にどのルートであったのかは必ずしも明らかではない。その外側の道も不明であり明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿いの道、北鎌倉方面への数本の道、北条常盤亭方面への尾根道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっているWikipedia

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街道の風景⑧ 扇ヶ谷へ下ります

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ルート地図(鎌倉市西北部)/旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:鎌倉街道上道 緑:上道別路 紫:鎌倉街道中道 橙:切通を着色)

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葛原岡・大仏ハイキングコースマップ(上下反転)
(赤:鎌倉街道上路 緑:別路 紫:鎌倉街道中道 橙:切通 点線:葛原岡・大仏HC)

葛原岡・大仏ハイキングコースの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20309722/


# by Twalking | 2017-06-23 15:14 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ヤマユリ   

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ヤマユリ
海臧寺/鎌倉市扇ヶ谷
古都とはいえ、やはり山間なんですね
鎌倉にはお似合いだな~。


ヤマユリ(山百合)

ユリ科ユリ属の球根植物。日本特産のユリ。和名は山中に生えることからつけられた。草丈は1-1.5m、花期は7-8月頃。花は花弁が外に弧を描きながら広がって1-10個程度を咲かせる。その大きさは直径20cm以上でユリ科の中でも最大級でありその重みで全体が傾くほどである。花の色は白色で花弁の内側中心には黄色の筋、紅色の斑点がある。花の香りは日本自生の花の中では例外的ともいえるほど、甘く濃厚でとても強い。発芽から開花までには少なくとも5年以上かかり、また株が古いほど多くの花をつける。風貌が豪華で華麗であることから、『ユリの王様』と呼ばれる。(Wikipedia



# by Twalking | 2017-06-22 17:57 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-1)藤沢~鎌倉02-寺分   

日時 2017.6.15(木)
天気 晴れ

地図にルートは落してましたが、住宅地ですし、
土地勘がないので寺分、泣石、梶原など
場所を尋ねながらでしたので時間がかかりました。

なんとか目的の場所は見れましたので良かったです。
次回、鎌倉はじっくり見るとして、ひとまずここで終了、
バスで藤沢まで戻りました。


・・・深沢地域
/鎌倉市

8つの大字(梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎)がこの地域に含まれる。平安時代には桓武平氏村岡忠(ただみち)を祖とする鎌倉氏の支配領域であった。鎌倉景通(かげみち)の嫡男景久は梶原郷に在して「梶原氏」を称したとされる。梶原氏は鎌倉時代初期に源頼朝の側近として勢力を誇った梶原景時につながる。当地域には等覚寺御霊神社など梶原氏や梶原景時の伝承を残す史跡も多い。深沢小学校の裏には「梶原景時の墓」と伝えるやぐら(横穴墳)がある。鎌倉街道上道(吾妻鏡では下道と記述)が当地域内をほぼ東西に貫いていたと想定される。鎌倉街道上道の鎌倉への入口にあたるため、鎌倉防衛要所とされた。化粧坂と大仏坂の中間にあたる常盤の谷戸には鎌倉幕府第7代執権の北条政村が別邸を構えていたとされる。1333年に新田義貞の鎌倉攻めの際には現在の寺分・上町屋付近(かつて「洲崎(須崎)」と呼称された)において、北条氏の赤橋守時らが戦死した洲崎合戦があった。近世には東海道戸塚宿から鎌倉へ向かう道(鎌倉街道中道)から小袋谷で分岐した江の島道が当地域内をほぼ南北に通っていた。また、1685年(貞享2年)に刊行された新編鎌倉志に鎌倉から常盤に抜ける道筋として大仏切通の記述がある。この地域は戦前には深沢村と呼ばれた地域で1948年(昭和23年)鎌倉市に編入された。Wikipedia

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街道の風景① 上流側の大船方面の景観、渡ると鎌倉市です/柏尾川

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柏尾川/町屋橋
神奈川県南部を流れる二級河川、境川の支流である。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km、流域面積は約84km2。源流である戸塚区の周囲の区から流れる複数の小川のうち港南区から流れる平戸永谷川と瀬谷区から流れる阿久和川が合流する戸塚区柏尾町付近から柏尾川の名称に変わる。戸塚駅付近より大船駅付近までJR東海道本線沿いを流れ、手広付近までは県道304号腰越大船線にほぼ平行に沿う。手広付近からは県道32号藤沢鎌倉線を藤沢駅方向に流れ藤沢市川名で境川に合流する。Wikipedia

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304号を右折/町屋橋BS        少し先二差路を左折

県道304号腰越大船線

国道134号小動岬付近(こゆるぎみさき)腰越橋交差点を起点とし湘南モノレール西鎌倉駅付近までを神戸川・旧江ノ島道とほぼ併走する。青蓮寺付近で旧江ノ島道とわかれ手広交差点で県道32号藤沢鎌倉線と交差、その後は終点(小袋谷)まで柏尾川とほぼ平行して走る。Wikipedia


・・・上町屋
(かみまちや)

鎌倉市深沢地域にある大字。地名の由来は柏尾川の水運と陸の鎌倉街道が交わる要路沿いに、町屋が軒を連ねていたことによる。町は市場、商工関係者の居住地、屋は集落を意味する。正保元年(1644)の正保国絵図には「町屋村」と記載があり、元禄10年(16974月の元禄内国改定図で「上町屋村」と記載がある。「上」が冠された理由は不詳。
Wikipedia

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泉光院山門/上町屋

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泉光院
真言宗大覚寺派。泉光院元青蓮寺の末寺で開山は大法師季等和尚で寛永16年(1639)の創建です。地蔵堂の石地蔵は「いぼとり地蔵」薬師堂の薬師如来は「町屋薬師」とも呼ばれているそうです。

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薬師堂                地蔵堂

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上町屋天満宮鳥居/上町屋

上町屋天満宮
上町屋の氏神。天慶年間(938947)上総介平良文が霊夢を受けて天神をこの地の鎮護として祀ったのがはじまり。 石造庚申塔(寛文10 1670年)は市指定文化財。(神奈川県神社庁)

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拝殿                 庚申塔

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街道の風景② 住宅地なので迷いました、戻ってみると天満宮を右折すとこの下にでます/東町屋

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泉光院先を右折、この先を久里折    道祖神角を右折し下ります

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前方が旧JR大船工場跡、街道はこの下を通ります。右手が泣塔のある小山です/深沢住宅上

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旧東日本旅客鉄道大船工場/寺分 
1945年(昭和20年)大井工機部大船分工場として発足。209系電車以降の「新系列車両」の増加による保守体系の見直しにより検査業務が縮小され、東京と大宮総合車両センターに業務を引き継がせる形で検査業務を終了し2006年(平成18)に閉鎖された。鉛などに汚染されていた跡地の汚染対策費と建物解体費の合計が売却予定額を数十億上回るという結果が出ており、鎌倉市とJR東日本の間で協議を続けていたが、土壌処理を2012年から2014年にかけて実施、引き続き鎌倉市が周辺地域を含めた総合整備事業を進めている。敷地内には鎌倉市の有形文化財に指定された泣塔が存在する。Wikipedia


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泣塔/寺分(多目的グランド内)
鎌倉市寺分旧東日本旅客鉄道大船工場敷地脇に建つ宝篋印塔の通称。伊豆石と呼ばれる安山岩で作られており、高さは203cm。塔身や基礎の部分は典型的な「関東形式」の特徴を持つ。塔の背後にやぐらがあり、中には朽ちて一部しか残っていないものも含め14五輪塔が建つ。
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泣塔という名前の由来について詳しいことはわかっていないが塔の後ろのやぐらが風に反響し、泣き声のような音を出すことから泣き塔と名づけられたという説や「無き人(無縁仏の意)の塔」が訛ったとする説がある。また、一時石塔を近隣の青蓮寺に移したところ、夜な夜なすすり泣く声が聞こえた事から「泣塔」と名付けられたという伝承もある。ただし移設されたとする青蓮寺に記録が残っていないため移設の事実なども含めて詳細は不明である。昭和8年(1933年)に調査を行った際、基壇部に「文和5年丙申2月廿日供養了」という銘文が発見された事から1356 (文和5)220日に建立された物と推測される。塔の正式な由緒は不明だが、鎌倉時代末期に新田義貞が鎌倉を攻めた際の古戦場(洲崎古戦場)が付近にあること、塔の背後にやぐらがある事からやぐらに葬られた戦死者を周辺の住民が弔う為にたてた塔と見られている。Wikipedia

(標識はありませんが、富士塚小入口信号角から入って右手の小山が泣塚です。現在はフェンスに囲まれていて塚の中には入れません)



・・・寺分(てらぶん)

鎌倉市深沢地域にある大字。「寺分」とは「寺領であったところ」を意味する。地名の由来は南北朝時代から戦国時代に大慶寺の寺領であった(大慶寺は後に廃絶)。寺名を略して「寺分」と称した。天文16年(15471121日の「北条氏康判物」で「須崎大慶寺分」と記されているのが初見である。永禄2年(1559)の小田原衆所領役帳には「同(東郡)須崎大慶寺分 養竹院」とあるが、永禄9年(1566722日の「北条氏政判物」では「須崎大慶寺分」を円覚寺塔頭の帰源庵領として安堵し、後北条氏滅亡まで同庵領であった。江戸時代の正保国絵図や元禄内国改定図には「寺分村」と記載されている。新編鎌倉志では「てらわけ」とされる。当時の地域は現在の寺分の他梶原1-2丁目が含まれていた。
Wikipedia

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街道の風景③ 湘南モノレールを直進、前方小山の左裾へ。右折は湘南深沢駅、左折した坂途中に洲崎古戦場碑があります/富士塚小入口

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洲崎古戦場跡/寺分
此の辺り古の州崎郷に属す 元弘3(1333)5月新田義貞鎌倉攻の折 その武将堀口三郎貞満・大島讃岐守守之州崎口より攻む 鎌倉方は赤崎相模守守時を将として邀撃(ようげき:迎撃)し 戦闘60数度 遂(つい)に敗れ守時以下90余人自刃したる古戦場なり昭和31年(鎌倉友青会)

鎌倉の戦い-小袋坂
巨福呂坂は北条一門で執権の赤橋守時率いる幕府勢が守りを固めた。赤橋守時は妹登子が足利尊氏の妻であったことから、北条高時に疑われるのを恥じて死を覚悟してこの戦いに臨んだと『太平記』は伝える。新田方の武将は堀口貞満大島守之518日朝、守時は巨福呂坂から出撃『太平記』によれば一日に65もの突撃を繰り返し、新田勢と激戦を繰り広げ化粧坂攻撃義貞軍の背後の洲崎(現在の鎌倉市深沢地域周辺)まで迫った(洲崎合戦)。しかし、激戦のため守時の軍勢は洲崎に到達した時点で兵力の大多数を失っており、守時や侍大将南条高直ら90余名洲崎自刃した。新田勢は攻撃を続け山ノ内(鎌倉市山ノ内付近)まで攻め込むが幕府勢の守りは固く巨福呂坂の突破はできなかった。Wikipedia

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北条守時
北条氏の一門、鎌倉幕府第16代・最後の執権赤橋守時とも呼ばれる。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。正慶2/元弘3年(1333年)5月、姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮・よしあきら)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し高時から謹慎を申し付けられる。518日一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り新田勢の糸口貞満つと激戦を繰り広げて一昼夜の間に65合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず洲崎(現在の深沢地域周辺)で自刃した。(Wikipedia

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等覚寺山門/梶原


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等覚寺
鎌倉市梶原にある真言宗の寺院。寺伝によると応永年間、秀恵僧都による創建とされる。元は青蓮寺の末寺であったが、現在は高野山實寿院の末寺である。明治6年(1873)には境内に「訓蒙学舎」が建てられ、明治8年 (1875)に「梶原学校」と改められた。この学校は現在深沢小学校に続いている。かつては御霊神社の東隣にあったが深沢中学校の建設により移転したWikipedia
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大慶寺山門/寺分


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大慶寺
鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は霊照山、本尊は釈迦如来。創建は弘安年間と伝わる。創建当時は現在より南東(梶原1丁目、現鎌倉市立深沢中学校付近)にあった。1386年(至徳元年)には関東十刹と列せられるなど鎌倉幕府・室町幕府による禅宗保護の政策により発展し、深沢周辺に広大な寺域をもった。大慶寺周辺一帯は「寺分」という地名だがこれは「大慶寺の寺域」に由来する地名で往時の広さを推測できる。しかし、1512年(永正9年)には北条早雲の軍勢に寺が焼き払われ、その後も上杉謙信の鎌倉侵攻(小田原城の戦い)の影響をうけ、本尊はじめ諸像を円覚寺に退避させるなど戦乱の影響によって次第に衰退していき廃寺となった。1841年(天保12年)に成立した新編武蔵風土記稿には「大慶廃寺」との記載があり江戸時代後期には廃絶していたと推測される。その後、1943年(昭和19年)に大慶寺の塔頭だった「方外庵」を大慶寺に改称し現在に至っている。Wikipedia

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駒形神社鳥居/寺分


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駒形神社
寺分の鎮守。治承年間(11771181)の創建。邇々芸命(ににぎのみこと)を祀ると伝えられ、農業の守護神として崇敬が篤く、大庭影親の所領にして、大庭氏天候不順の折は時折代参を派遣して水害旱魃の災なからんことを祈願したと伝えられている。(神奈川県神社庁)

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富士浅間神社の石塔          道祖神 

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東光寺/寺分
真言宗のお寺、創建は永享3年と伝えられてます。


・・・梶原

鎌倉市深沢地域にある大字。湘南モノレール江ノ島線の湘南深沢駅を挟んだ東西の地域である。平安時代中期に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)に鎌倉郡内の七郷の一(梶原郷)として記録がなされており、律令制下の国郡郷制の郷だったと考えられる。現在の梶原よりも広く深沢地域をほぼ指していたと比定される。尊碑分脈によると鎌倉景通がここに住み梶原氏を称し、その子景久が住んだとされ原氏出自の地とされる。景通の玄孫である景時の墓と伝えられるやぐらが深沢中学校の校庭に存在する。一方、新編鎌倉志では鎌倉景政が居住した旧地に同族の梶原氏が居住したと記録されている。
Wikipedia

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街道の風景④
大慶寺角を右折し全方の丘・深沢中学を目指します/東光寺前

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坂上を左折すると源氏山        下って坂下右折が御霊神社

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御霊神社 (ごれいじんじゃ)/梶原


御霊神社
祭神:鎌倉権五郎景政。建久元年(1190)梶原平三景時、景政公の霊を祀り御霊社とした後、景時を合祀した。「相模風土記」には権五郎景政公天ぷの像と伝える木像二体と景時の木造を置き、等覚寺持とある。(神奈川県神社庁)

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御霊神社拝殿

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御陵神社
鎮座地:鎌倉市梶原1丁目12番27号
祭神:鎌倉権五郎景政霊
由緒:祭神景政は後冷泉天皇の御宇永承壬辰年(1045年頃)命を奉じて、源頼義と奥州に下向し安部貞任・宗任と合戦大勝して帰る。天喜元年(1052)時の人始めて鎌倉権五郎景政に御霊大権現の神号を奉り村岡邑に奉斎せり。後年鎌倉権太夫景通梶原の邑に居を定め屋号を梶原と改む、建久元年(1190)九月梶原平蔵景時一宇を建て、景政の霊を祀り御霊社と尊称す。(碑文)

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御霊神社本殿

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本殿への階段             本殿のヤグラ群

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鎌倉景正/平景正
平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが平景通の子とする説もある。通称は権五郎、は景政とも書く。父の代から相模国鎌倉(現在の鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも鎌倉市由比ヶ浜ともいわれる。16歳の頃、後三年の役(1083 - 1087年)に従軍した景正が右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。長治年間(1104-1106)相模国高座郡大場御厨(現在の藤沢市周辺)を開発して永久4年(1116)頃伊勢神宮に寄進している。子の景継は長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(118228日条にはその孫として長江義景の名が記されている。『尊卑文脈』による系譜では景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭義景・景親・梶原景時らはそいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。Wikipedia

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梶原景時の墓(供養塔)と伝えるやぐらが深沢小学校裏手の山裾にありま

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梶原氏
坂東八平氏の一つで鎌倉氏の一族が著名である。鎌倉景通の嫡男の梶原景時が相模国鎌倉郡梶原にて梶原氏を称したことに始まる。梶原景時の代に源頼朝に仕え権勢を誇ったがその死後に没落した。1180年に源頼朝が挙兵すると大庭景親と共にこれを石橋山の戦いで迎え撃ったが、景時は頼朝一行を見逃した。頼朝はこの時の行為を深く感じ入り景時を重用する事となる。頼朝に服属してからの梶原一族は平家追討に功を立て、1185年の壇ノ浦の戦いにて滅亡させることとなるが、平家滅亡後に源義経とともに朝廷から勝手に官位を受けた為に頼朝から怒りをかっている。その後、奥州合戦にも従軍し頼朝の君寵が厚かったが、その反面多くの御家人の反発を買った。そして頼朝が死ぬと事態は急変する。北条氏を始めとする御家人達はここぞとばかりにと景時に謀反の疑い有りと弾劾する。景時は息子らを引き連れて京に逃れんとしたがその途上で討たれた。時に1199年のことであった(梶原景時の変)。その後、景時の弟の朝景が梶原氏の家督を継いだが1213年の和田合戦に属して討ち死にした。しかし、梶原氏はこれで滅んだと言う訳ではなく、景時の次男の子孫は鎌倉幕府、後には足利氏に従い被官として歴史に名を残している。Wikipedia

(校舎の裏手にありますのでお断りして見せて頂きました。写真は深沢小校庭です)

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梶原周辺地図
(赤:鎌倉街道 緑:鎌倉街道別路 紫:県道)

# by Twalking | 2017-06-21 22:31 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 半夏生   

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半夏生
鎌倉中央公園/鎌倉市山崎
そろそろ見頃と聞いて寄ってみました。
見事ですね・・・、癒されます。
ここは谷戸に広がる風致公園、いいですよ~。


ハンゲショウ
(半夏生、半化粧)
ドクダミ科の多年性落葉草本植物。高さ50100cmほどに成長し、葉は互生長さ515cmほど、卵形で基部がハート形の細長い形状である。夏至を過ぎた頃に穂状花序を葉の付けねにつける。花のすぐ下に位置する葉の表面が白く変化し花弁の役目を果たすのが本種の特徴である。開花期にはドクダミに似た独特の匂いを出す。名前の由来は半夏生(グレゴリオ暦で毎年72日頃)の頃に花を咲かせることに由来する説と、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説がある。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-06-21 11:21 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 書院-英勝寺   

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書院
英勝寺/鎌倉市扇ヶ谷


# by Twalking | 2017-06-21 08:52 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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葛原岡神社/源氏山(鎌倉市梶原)
ごっくん、ごっくん
いくら飲んでも
でてっちゃうんだよね~。

# by Twalking | 2017-06-20 21:44 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-1)藤沢~鎌倉01-村岡   

日時 2017.6.15(木)
天気 晴れ


梅雨晴になりそうなので出かけました。
一応鎌倉まで行く予定にはしてますが、
調べてみると村岡、寺分は重要なポイント。

坂東八平氏の祖・平良文ゆかりの史跡や
梶原氏関連などのは是非見ておきたいところです。
暑くなりそうなので、のんびりと散策してみます。


・・・柄沢(からさわ)/藤沢市

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街道の風景① 遊行寺坂を鉄砲宿やひと上り/遊行寺坂(旧東海道)

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一里塚跡
かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は主要な街道の一里(約4km)ごとに江戸幕府が設けたもので旅程の目安として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが今は何も残っていません。左図は往時の面影を伝える史料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右手に「一りづか 榎三」と記され街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎の木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。図:天保12年(1841)年版『東海道分間絵図より』「藤沢」(藤沢市教育委員会)

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街道の風景② 鉄砲宿から戸塚境を下り滝ノ川沿いに柄沢へ。道は消えているようです/大鋸(だいぎり)

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左が東海道が通る尾根/坂下       滝ノ川の西側の道を行きます

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滝の川を渡りGS先を左に       道なりに行くと隆昌寺門前です

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隆昌寺山門/柄沢

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柄沢山宗休庵隆昌院(通称柄沢の鬼子母神)
創立:元禄16年(1703開山:閑攝院相休日心上人
播州赤穂の城主浅野内匠頭の家臣奥田孫大夫(武具奉行)の末子、君父菩提のため鎌倉に来たり、両山(鎌倉妙本寺、池上本門寺)24世日等の法弟となり日等より鬼子母神像を賜り、当地に当院を建立する。その後本堂大破し文久3年(1863)今日の本堂を再建す。当山安置奉る鬼子母神は日蓮上人が松葉草庵に中老日法上人に彫刻させ宗祖開眼の尊像と伝えられ、のちに比企大学に与え妙本寺に格護、両山6世日行に夢告あり。両山7世日寿(稚児貫主)を現出させた由緒ある尊像として子授け、安産、育成、虫封じ、命名、厄除け等ご利益甚大にして信者参拝多し。病弱の子供が丈夫になり長命を得た人々の孫えお連れこの参拝多数あり(縁起書)

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柄沢神社鳥居/柄沢

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柄沢神社
御祭神:天照皇大神 孝安天皇
由緒:創立の時不詳であるが、建久4年(1194)右大将源頼朝武州入間川に狩りせし路次当神社に奉斎せしより、鎌倉武士及び領主大久保佐渡守忠保等の崇敬極めて篤く村民亦氏神と仰ぎ祭事を尽くした。文化66月(1810)並に文久元年4月(1861)社殿を造営し、更に明治454月社殿を新築した。明治元年328日付太政官達により第六天社を柄沢神社と改称した、明治612月村社に列せられた。大正10331日神奈川県指令内教第906号を以って太神宮を合併した。昭和50814日鐘楼堂不慮の火災に遭い焼失、昭和52415日鐘楼堂再建並に社殿屋根葺替完成。

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新編相模風土記第104村里部鎌倉郡36(抜粋)「柄沢村 江戸より行程十二里十町村岡郷に属す 中略 建久44月右大将源頼朝武州入間野に狩せし路次当所を経て武州関戸宿に到りし事重須曽我物語に見えたり「鎌倉殿見浅間腰離山三原狩倉共建久四年丑四月下旬出鎌倉打超気幸坂過柄沢飯田著武蔵国関戸宿」今も猶武州多摩郡木曾町辺へ通ぜしといふ鎌倉古道村内に係れり。蓋し此道なるべし」検地は貞享元年(1684)国領半兵衛重次改む。今領主大久保佐渡守忠保なり。古御料所。享保9年(1724)当領主に賜ふ。神明宮、第六天社以上2社共に村の鎮守にて例祭は1116日。祭礼小祭415日。大祭916日(神奈川県神社庁)
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街道の風景③ 坂下は柄沢橋・遊行寺方面、左折して渡内へ向かいます/柄沢保育園(302号)

県道302号小袋谷藤沢線

鎌倉市小袋谷(こぶくろや・大船地区)と藤沢市西富とを結ぶ一般県道。古くは鎌倉山之内往還と呼ばれ、藤沢宿から遊行寺を経て小袋谷に至り鎌倉街道(現県道21号線)と合流する街道だった。鎌倉時代この街道は藤沢宿から鎌倉へ向かう交通の要衝として位置づけられ小袋谷付近に関所が置かれていた。Wikipedia


・・・渡内

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慈眼寺山門
/渡内

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慈眼寺
藤沢市にある曹洞宗の寺院。山号は無量山。韓嶺の開山、北条綱成の開基により天文年間(1532-1555)頃に創建した。木造11面観世音菩薩立像:像高178.5cm蓮華を左手に持つ通常相、鎌倉時代の作。旧・江島寺梵鐘:寛永6年(1629)金亀山江之島寺(江ノ島神社)の梵鐘として鋳物師の酒巻庄五郎定勝により鋳造され、明和8年(1771)江之島寺の鐘が再鋳されたので請来した梵鐘。総高100.5cm、口径54cm、身高80.3cm。Wikipedia

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秘仏十一面観音立像と梵鐘
この寺院は無量山慈眼寺と号し曹洞宗に属す。天文2年(1523)の頃、玉縄3代城主北條左衛門大夫綱成が開創し、中興開山は韓嶺和尚と伝えられる。山門前の階段脇に文政4年(1821)に建立された鎌倉札所第33番の石柱がある。歌舞伎「小栗判官」で知られる常陸真壁郡小栗城主満重と照手姫を蘇生させたという観音縁起の版木(寛政6年・1794)が存在する。

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十一面観音立像は等身大(178.5cm)の本格的な造像で寄木造、玉眼を嵌(かん)し、頭体とも四材矧(は)ぎを基本に造られている。太つくりな肉取りをみせる量感がある体部やよく引き締まった面相など鎌倉地方の中世像らしい作域を示すが、やや硬く形式化された衣文表現などに多少時代の下降を思わせ、造立時期は14世紀後半と思われる。平成3年藤沢市により解体修復が行われ往古の優れた尊容に復元されたが、この折像内より紙片が発見され、これにより天正11年(1583)に玉縄6代城主北條氏勝の弟・直重が祖母の菩提のため鎌倉仏士快円に修復を依頼したことや、この寺院が慈眼山観福禅寺と号し北鎌倉の円覚寺の塔頭天地庵に関係があっつたことなど貴重な事実が新たに確認された。本堂正面右手に吊るされれいる梵鐘は陰刻銘によれば当初、上州藤岡の住人が「現世安穏、往生善処」を祈願して梵鐘を鋳造し江島寺に寄進し、明和8年(1771)に藤沢宿大鋸の住人が江島寺より梵鐘を買受け慈眼寺に寄進したことを知ることができる。銅造で総高100.5cm、口径54cmとやや小振りではあるが寛永6年(1629)の鋳造で、旧江島寺梵鐘であることなど往時を知ることが出来る(藤沢市教育委員会)

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混生樹(寄り木)
右が指定文化財でモチノキ(モチノキ科)4株、タブノキ(クスノキ科)3株、スダジイ(ブナ科・シイノキのうち樹皮が縦に割れるもの)1株の3種類8株が根本でくっついて一部融合した寄り木です。樹齢は300年以上と推定され高さは約10m、全体の根回りは7.5mにもなっている大変珍しい樹木です。左も同様にケヤキとサクラの混生樹で輪状に植えられた苗木が成長していく過程でこのような形になったものと思われます。共にもとは本堂裏手の丘の上にありました。(藤沢市教育委員会)

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平氏満の墓
板戸町(現在の藤沢本町)の旅籠小松屋の隠居。歌名を旦上平氏満という。詩歌を粉のみ「我棲里」の著者でもある小川泰堂とも親交があり、嘉永元年(1848)の「藤沢山白鑑」(遊行寺の日記)には「千種集」と題した千句の和歌を遊行上人に献上したことが記されている。「千種集」は天地一巻よりなり遊行上人の返し歌も記されており現在も遊行寺汁宝として宝物館に所蔵されている。没後は海の見える場所に埋葬してほしいとのことから慈眼寺の高台の一隅に墓を設けたものであったが、昭和62年からの区画整理によりこの場所に移動したものである。(藤沢市教育委員会)

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302号と別れ右折/渡内         住宅地を抜けた左に日枝神社があります

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日枝神社鳥居/渡内

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日枝神社の由来
渡内の日枝神社は渡内の鎮守となっておりますが、発祥は裏山の台地宮山平良文が京都より延長年間(923940)宅の守護神として日吉山王大権現(大山咋命)を勧請したと伝えられています。その後応永27年(1420)に福原家のご先祖・福原左衛門平忠次が現在地に移し、そのおり平良文の霊を合祀しました。尚、慶長126月(1607)福原孫十郎重種が再建する旨の棟札があります。社前の石段上り口に神鏡石燈籠があり「村岡山王大権現御宝前石燈2基、平良文の遠縁村岡良綱、天保6年正月吉日(1835)建立」とあります。現在の本社覆殿は天保911月(1838)福原家のご先祖・福原高峯が発願主となり村の有志達によって再建されたものであります。その後、地域の開発が行われ渡内東土地区画整理事業(平成1721年)によって周辺の環境の変化に伴い土地の造成工事が行われ、合わせて神殿の増改築を行い現在に至っております。(渡内日枝神社)

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祠群
右側の祠は渡内4丁目1番(県道小袋谷・藤沢線沿いの渡内バス停北側)辺りにあったもので、平成10年(1998)区画整理事業に伴い移設したものです。中央の祠は峯渡内村の名主家にあったもので、その位置は現在地より東に70m程行った所です。平成20年(2008)区画整理事業に伴い移設したものです。左の祠は坪井三社大権現で、現在地より北東に140m程行った藤沢市本在寺公園の山頂に祀ってあったものです。坪井三社大権現とは源頼義義家父子の二人に加えて徳川家康の分霊を祀った祠のことをいいます。(説明板)

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街道の風景④ 日枝神社を東へ行った小山が二伝寺砦(二伝寺)です

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二傳寺山門

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戒法山宝国院二傳寺
当寺は戦国時代の永正2年(1505玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。開山にあたっては福原左衛門忠重の援助がありました。当時は玉縄城から尾根つづきの域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので玉縄城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと考えられます。開山当時寺号違うものでしたが、大本山光明寺に伝わる本山伝の伝書が紛失した時に当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)があったので二伝寺と呼ばれるようになったと伝えられています。

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平良文(村岡五郎良文)
桓武天皇の4代あと平高望の5男、東下りして村岡城に居を構え村岡五郎と称しました。後に鎮守将軍に任ぜられ坂東平氏の始祖と言われています。境内山頂に初代平良文、二代忠光、三代忠通の塚があります。


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松平正次一族の墓
玉縄城開城の後、徳川家康から屋敷を賜り渡内に住み玉縄城を守護したのが松平正次です。その後、玉縄城は廃城になりますが松平正次の子供たちが玉縄藩としてこの地を治めました。向って右から松平正次、正次の内室、正吉、久治、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます(案内板)

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本堂の裏山に三代の塚があります 

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正面に村岡五郎平良文の塚       その左に二代忠光の塚 

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手前側右手に三代忠通の塚       上り口の村岡五郎平良文公墓前碑

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村岡五郎平良文公墓前碑
良文公は桓武天皇の玄孫(5代目の子孫・げんそん・やしゃご)にして仁和2年(886318日生まれ。延長元年(923)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)、比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護神勧請し(現在の日枝神社)、天慶2年(939)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶3年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城国の御霊宮の祭神・早良親王(追謚号祟道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖とし、多くの荘園有し武威を関東に振るたり。その子孫は繁栄せり。公の晩年は役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶6年(952年)121867歳を以て病没し此の地に葬る。右に2代忠光公、左に3代忠通公、之を村岡城御3代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。平成17年乙酉年11月吉日 村岡郷土史研究会 建立(碑文)北側の風景 

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坂東八平氏
平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流平良文を祖とする諸氏。昌泰元年(898年)に平高望が遙任国司(ようにん・任地に赴任しない)が常態であった上総介に任じられると、子の国香・良兼・良将を伴って任地に下向し、上総は元より国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどして常陸国や下総国にも勢力を拡大し坂東武士団形成、後に平将門や清盛まで輩出する武家平氏の基盤を固めた。続いて高望の側室の子良文も下り、その子孫が坂東各地に散らばって勢力を扶植、三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。この良文流坂東平氏を指して坂東八平氏と呼んでいる。良文を祖とする坂東八平氏は、忠頼の子・将恒(生母は平将門の娘)をとする秩父氏とそれからの派生による秩父平氏(畠山氏・川越氏・葛西氏・江戸氏・小山田氏など)、忠常とする上総氏や千葉氏の流れは房総平氏(相馬氏など)、相模全域に繁茂した鎌倉氏を中心とする相模平氏(中村氏、土肥氏、三浦氏、鎌倉氏、長尾氏、大庭氏、梶原氏)から成る。他に直方流の熊谷氏を中心とした武蔵平氏や、北条氏を中心とした伊豆平氏(長崎氏)もある。時代や年代により優勢を誇った氏族が移り変わるため、数え方はその時々の各氏族の勢力により様々であるが、一般的には千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八氏が多く挙げられる。Wikipedia
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本在寺北公園になるんでしょうか/裏山の墓地


・・・村岡

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村岡
村岡は起伏が激しく坂の多い土地だったので「重なり合う岡のむれ」からその地名がついたと伝えられる。約1000年前の940年(天慶3)村岡城主・村岡五郎良文(平良文)は平氏の守護神である御霊神社を京都から勧請したが、ここにこの地の歴史がはじまる。鎮守府将軍相模守村岡五郎平良文居城の地であった村岡は村岡郷と呼ばれ当時関東・東北の政治の中心地であった。その後、鎌倉幕府の成立、玉縄開城で武家屋敷が増え、江戸時代には藤沢宿の定助郷を務めるようになる。村岡郷五ヶ村とは宮前(みやまえ)小塚(こつか)弥勒寺(みろくじ)、高谷(たかや)渡内(わたうち)を指す。宮前の地名は御霊神社によるもの、小塚の地名は古墳があったためといわれ、弥勒寺は寺の名前によるものといわれている。明治21年の町村制施行により川名と柄沢(からさわ)を加えて村岡村となり昭和16年藤沢市に合併した。一部に水田を主とする農耕地と深い谷戸をもち山苺、山百合、野草が見られる山林地帯であったが、時の変遷とともに市街化への要望が高まり、昭和413月およそ10年の歳月をかけて区画整理事業がおこなわれた。(村岡のおはなし/藤沢まちづくり協会)

ルート地図(藤沢~寺分)
旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照(赤:鎌倉街道 緑:東海道 橙:江の島道 青:境川 紺:柏尾川を着色)

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村岡城址/村岡城址公園

村岡城は坂東八平氏の祖平良文が村岡に居住した10世紀後に築いたといわれている。城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなものだったという。元弘の変の時に新田義貞がこの城に布陣して鎌倉へ突入して行った所でもある。(藤沢市観光協会)

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額 元帥伯爵東郷平八郎書
村岡城の地位は古来武相交通の要衡に在り、往昔従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔5の居城なり、蓋し其の築城は今を距ること約一千年前に属す。良文公は関東八平氏の始祖にして天慶2年鎮守府将軍陸奥守に任せられ、多くの荘園を有し威を関東に振ひたり。天慶の乱起るに及び藤原秀衡、平貞盛と共に将門を征討し、大に軍功を立てたり。其の後裔に秩父平氏の一族渋谷庄司重国あり、其の孫実重は薩州東郷氏なり。昭和6年村岡城址を史蹟として縣廳より指定せらるる。同7年村岡の有志相謀り鎌倉同人会の賛助を得、城址に碑を建て以て後昆に傳ふ 村岡城址の碑と云爾。昭和7103日海軍中将東郷吉太郎撰書(碑文)

渋谷氏関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22311545/

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平良文(よしふみ)
平安時代中期の武将。桓武天皇4世。平高望5とされ、生母は高望の側室である藤原範世(または藤原師世)の娘とされる。官位は従五位上、陸奥守、鎮守府将軍。仁和2年(886)京で生まれたとされ(『千葉大系図』)優しい風貌の勇将であったと伝わる。昌泰元年(898)に父の平高望が東国に下向した際には正室の子である平国香、平良兼、平良持は従ったが、側室の子である良文は従わなかった。延長元年(92336歳の良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅命を受けて東国に下向し盗賊を滅ぼしたと伝わる。その後武蔵国熊谷郷村岡(現・熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(現・藤沢市村岡地区)に移り、そこを本拠に村岡五郎を称したとされるが、謎の多い人物である。加えて下総国結城郡村岡(現下妻)にも所領を有し、現在の千葉県東庄町、同小見川町にも居館があったとされる。天慶2年(939417日、陸奥守であった良文は鎮守府将軍に任じられて乱を鎮圧し鎮守府である胆沢城にとどまった。実際に同日、出羽国で俘囚(ふしゅう)と秋田城司の軍勢が衝突しており朝廷は陸奥守にも兵を出すように命じている。天慶3年(9405月良文は関東に帰国した。

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晩年は下総国上郡さらに阿玉郡へ移り天暦6年(9521218日に67歳で没したと云われる。千葉県小見川町の阿玉には「伝平良文館」があり、城郭の遺構として空堀、土塁、物見台などが確認された。藤沢市村岡東村岡城跡と伝わる場所があり、良文の後裔の一族のひとつである薩摩東郷氏出身の海軍元帥・東郷平八郎が額を書いた(撰書は海軍中将・東郷吉太郎)城址碑が建つ。子孫良文には5人の子がおり(『二中歴』)長男の平忠輔は早世したが、春姫(平将門の娘)を正室とした三男平忠頼からは千葉氏上総氏秩父氏河越氏江戸氏渋谷氏などが、五男・平忠光からは三浦氏梶原氏長江氏鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。後に源頼朝による源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏に属する(Wikipedia)

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長福寺 公園の南側にある曹洞宗のお寺さんです/村岡


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街道の風景⑤ 村岡城址から下りここを左折、武田薬品の正門へ/村岡東2

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正門向かいのガードを潜ります     左折して道なりに長屋橋へ


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天嶽院/渡内
天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承4年(1180)伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応4年(1495北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正4年(15764世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。

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更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く
6世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が「相中留恩記略」巻之18に記載されている。なお天正19年(159111月家康公から30石の朱印地を賜った事実がある。安政2年(185522622世住職の代に再び火災にあい大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和51年(1976)春伽藍復興に着手、20年余を経て平成10年(1998)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。(天嶽院HP)

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山門
水戸光圀公建立の天嶽院山門、江戸中期の建物で唯一火災を免れた。山門前には仁王様が破邪の睨みをきかせている。

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天嶽院境内

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『むらおか古今東西』マップ
(橙:鎌倉道 赤:東海道 緑:江の島道 青:境川・柏尾川)


・・・・・
資料ファイル

東海道藤沢宿
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境川下流側の景観です、左岸に滝ノ川が合流します/藤沢橋

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遊行寺橋(旧大鋸橋)高札場跡
江戸から東海道を進むと東海道第6の宿・藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を超えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定めやキリシタン禁制など徳川幕府の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていました。江の島弁財天の遥拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば「江の島道」です。

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藤沢広小路
広小路とはもともと「火除地」を意味します。江戸のではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は1657年の明暦の大火前から火除地を計画していましたが、護持院の焼失(1717)を契機に八代将軍徳川吉宗はこの地を火除地とし、さらに江戸市中にとどまれず各地の重要社寺地の門前にも設定しました。藤沢広小路は大鋸広小路とも言われ、時宗本山清浄光寺(遊行寺)門前の商家が櫛比(しっぴ)していた場所に設けられました。この場所は人々の往来も繁く各地に知れ渡って日本三大広小路の一つとも言われていました。また東海道五十三次の「三曲がり」としても有名です。(説明板)

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藤沢宿
藤沢宿は慶長6年(1601)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843)の記録では宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁栄しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治から昭和初期にかけては交通の要所としての地の利を活かした問屋業で栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。

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①藤沢御殿
藤沢御殿は藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596)東海道を利用する際の休憩、宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634)の3代将軍家光の利用が最後のようです。

本陣・脇本陣
江戸幕府は街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延享2年(1745)に火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1棟になりました。脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803)時点で大久保町と坂戸町に1棟づつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。

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問屋場
宿場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場は陣馬継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では大久保町と板戸町に各々1ヶ所ありました。

見附
見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で道の張側に石垣が築かれていました。通常江戸方と京方の両方に在り見附から見附までが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。

旅籠
一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和3年(1803)には49軒、天保14年(1843)には45軒あったという記録があります。(説明板)

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遊行寺総門(黒門)
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時宗総本山遊行寺
清浄光寺(しょうじょうこうじ)が公式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから。宗祖一遍上人1239年~1289年)で、南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。この遊行寺は正中2年(1325年)遊行4代呑海上人によって藤沢の地に開かれ時宗の総本山となっています。宝物として国宝「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があります。境内には日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の句碑などもあります。また、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。(案内板)

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呑海(どんかい)
鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人4。有阿弥陀仏のち他阿弥陀仏。呑海は別号。相模国の俣野氏の出身。遊行上人2世神教に師事。真教から浄阿真観とともに賦算を許され、1301(正安3年)京都に七条道場金光寺(現・長楽寺)を建立し、1319年(元応元年)遊行上人を継いだ。しかし1320(元応2年)遊行3代他阿智得が当麻道場無量光寺)で没したとき呑海は遊行に出ており、智得の弟子の真光が執権北条高時の命で住持となった。そのため呑海は当麻道場に入ることができず、正中2年(1325)兄の俣野景平の援助により相模国藤沢藤沢道場清浄光寺を建立して、そこに住した。遊行上人が遊行を終え清浄光寺に独住する藤沢上人の初代である。その後呑海の門流は時宗十二派中最大の遊行派と称された。遺書を『四代上人法語』という。
Wikipedia

俣野氏の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24337254/

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国指定史跡・藤沢敵御方供養塔
この石塔は上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため応永25五年(1418年)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ塔身に銘文が刻まれています。銘文は磨滅していて読みとりにくいのですが次のように解読・解釈されています。南無阿弥陀佛/自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年/於在々所々敵御方為箭刀水火落命/人畜亡魂皆悉往生浄土故也/過此塔婆之前僧俗可有十念者也/應永廿五年十月六日(応永23年(1416106日からの戦乱は同24年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい)この戦乱は足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏とその補佐役との争いだったため鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年1月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で乱が起きてからちょうど3回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行14代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は持氏が発願主となって太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては慶長4年(1599年)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。(藤沢市教育委員会)

無量光寺(当麻道場)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23708956/

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長生院

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長生院
藤沢市西富にある時宗の寺院。別名小栗堂。時宗総本山である清浄光寺(通称:遊行寺)本堂裏手にある。永享元年(1429)清浄光寺の塔頭として建てられた。本尊は阿弥陀如来。かつては「長照院」とも表記された。小栗堂の別名の通り、小栗判官伝説に登場する照手姫が晩年尼となって住んだという伝説が残る。江戸時代には『小栗略縁起』を発行した。また周囲には小栗判官と十勇家臣の墓、照手姫の墓、名馬鬼鹿毛の墓もあり、小栗判官伝説伝承の中心地となっている。(Wikipedia

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小栗判官(おぐりはんがん)
伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり浄瑠璃や歌舞伎などになった。常陸国小栗御厨(現在の茨城筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重やその子・小栗助重がモデルとされる。人物としての小栗判官は藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主。京の貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ、83歳で死んだとされるが、1516世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから毘沙門天の申し子とされる。(Wikipedia)写真:小栗判官と十勇士の墓

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照手姫の墓              名馬鬼鹿丸の墓

# by Twalking | 2017-06-19 20:57 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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天獄院/藤沢市渡内
苔生す緑陰に
すっと風が抜けて
心地いい。

# by Twalking | 2017-06-19 10:18 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 一遍上人像-遊行寺   

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一遍上人像
清浄光寺(遊行寺)/藤沢市西富

# by Twalking | 2017-06-18 21:42 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 モントブレチア   

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モントブレチア
愛宕下通り/多摩市愛宕
草叢に朱が映えて
穂の下から咲くんだね~・・・
おはよ~。


ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙・モントブレチア)

アヤメ科ヒメトウショウブ属。花期は7~8月。花茎から35個の穂状花序を出しそれぞれにたくさんの花をつける。花の色は朱赤色で下のほうから順に咲き上がる。花びら(花被片)は6枚で内側と外側に3枚ずつあり、根元のほうでくっついている。雄しべは3本、花柱(雌しべ)が1本ある。花柱の先は3つに裂けている。葉は先のとがった線形で2列に並んで立ち、互い違いに生える(互生)。葉の中央に縦の筋がある。(みんなの花図鑑)



# by Twalking | 2017-06-18 11:11 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 芝公園界隈03-芝&高輪   

日時 2017.6.10(土)
天気 晴


芝園橋まで来たので「薩摩の道」から東海道を歩いてみました。
ここは東海道五十三次で歩いた道なので懐かしいです。
「薩摩の道」「札の辻」「高輪大木戸」「泉岳寺」は定番です。

時間の制約はありますが「御田八幡」「東禅寺」は寄りたいところ、
それに海岸線、100mも入ると地形がよく分かりますし、体感できます。
その辺をテーマに歩きましたが、面白い所だと思います。


・・・芝/港区


港区のおよそ東半分を範囲とし江戸・東京の山手を構成している地域のひとつである。単純に述べると現在の港区の範囲のうち赤坂・青山・麻布・六本木を除くすべての町々が芝地域を指す。複数の大通りが交わり公共交通も複数路線があり港区内屈指の交通の要衝である。田町駅と三田駅周辺に広がるビジネス街として栄えており、大通りの裏には古くからの住宅街も混在している。また港区内の他の地域同様に大使館や教育施設も多く近年は高層マンションも増えている。江戸
時代の初めまでは豊島郡柴村・荏原郡金杉村・荏原郡上高輪村であった。戦国時代までに武蔵国荏原郡柴村が成立する。柴村は後に豊島郡の所属となる。江戸時代、東海道の整備によって柴村は急速に発展し、柴町・芝町とも呼ばれるようになる。またこの頃から柴村の周辺地域も「」と呼ばれるようになる。Wikipedia

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古川を渡って「芝薩摩のみち」から旧東海道を歩いてみました/芝園橋(日比谷通り)

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ここが薩摩藩上屋敷の中心部、「芝薩摩のみち」の案内板があります/芝3

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「薩摩のみち」説明板         薩摩屋敷跡の標柱/NEC裏


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薩摩のみち
薩摩島津藩上屋敷図(寛政2年・1790
この場所は広大な薩摩藩の上屋敷のほぼ中央部に位置します。詳しくご覧になれば屋敷内の部屋取りや蔵、馬や、庭園の池、池に架かる橋、能舞台などがあった様子が見てとれます。倒幕から明治維新を迎える時代の流れの中で歴史の舞台となった場所でもあります。(「薩摩のみち」説明板)





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今昔散歩重ね地図
(万延3年・1860
江戸時代の芝周辺には多くの大名屋敷がありました。なかでも薩摩藩の上屋敷は周辺地域最大規模の屋敷であったことがわかります。上屋敷は現在の第一京浜から日比谷通りをはさみ三田通り(桜田通り)まで東西約800m、南北約300mお敷地を有していました。(薩摩のみち」説明板)(緑:東海道 青:古川 橙:薩摩藩蔵屋敷を着色)

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江戸切絵図芝高輪絵図
(安政4年・1857
芝周辺の陸地化は発掘調査の結果、弥生時代の頃はだいぶ進んでいたことが明らかになりつつありますが、本格的な開発は江戸幕府の成立以降とともに始まります。その頃の海岸線は現在のJR「田町」駅より内陸よりにあり、この場所一帯は大名屋敷や町家、
寺社などが軒を連ねるようになります。また当時の東海道(現在の第一京浜国道)の辺りには江戸入り、旅立ちの人々のための一服茶屋も立ち並んでいました。(「薩摩のみち」説明板)











・・・本芝

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中古の時代には豊島郡柴村と呼ばれ、海辺に漁家が点々とした土地でした。柴村を芝村と書くようになった時期は定かではありませんが天正15年(1587)の文書には芝村と記されています。半農半漁の民がここを開拓し、やがて家康入府(天正18.1590)の後、しだいに発達し商家もでき代官支配の町場となっていきました。寛文2年(1662)に町奉行支配となって名実ともに市街地となり、往時の芝村であるというので本芝と呼ばれるようになりました。(芝地区旧町名由来板)


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東海道です、海側に薩摩藩蔵屋敷がありました/三田駅前(第1京浜)

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勝・西郷の会見地/芝5
この敷地は明治維新前夜慶応4314日、幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」を行なわれた薩摩屋敷跡の由緒ある場所です。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で、当時薩摩藩国元より船で送られてくる米などはここで陸揚げされました。(説明板)

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薩摩蔵屋敷の東側には御穂(みほ)鹿島神社が鎮座してます/


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御祭神:御穂鹿島神社藤原藤房卿
後村上天皇の頃この芝浦に気高き一老翁あった。先に禁闕に奉仕の身であったが、南北両朝の時とてその逆浪を避けてこの地にさすらい、俗人の中に交りてささやかなる庵を結び住んでいた。そのころ此の地は戸数幾ばくも無く、漁村で師もなく医もなく村人粗野朴訥礼節も備わらず、翁深くこれを憐み忠孝に義を教へ導いたが、翁の罷り給うた後、その高徳を慕って住んでいた庵の跡に仮に宮所を設け奇霊を斎い祀り、尉殿の宮と崇めたりという。この翁こそ藤原藤房卿であったと伝えられる。(東京都神社名鑑)

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本芝公園
この付近は芝の中でも古川河口三角州に江戸時代よりも昔から開けたところで、本来の芝という意味で本芝と呼ばれた。公園の位置は東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりのに面した砂浜で、江戸時代には魚が水揚げされたので雑魚場(ざこば)と呼ばれた。明治5年に開通した鉄道は軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが芝浦が明治の末から次第に埋め立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので、昭和43年に埋め立て本芝公園として開園した。(芝地区総合支所協同推進課)

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雑魚場跡
このあたりは東京湾から小さな入り江となり、昭和37年末まで漁業基地として使用されていた。雑魚場(ざこば)の名は江戸時代前期より本芝・金杉の漁民が東海道往還に出て鮮魚を商うようになり、雑魚を中心とした魚市が立ったことから呼ばれるようになった。江戸時代、本芝・金杉の両浦は将軍家食膳に供される「御采」上納の元締めの地位を占め、江戸湾内44の羨望の的であった。芝の漁業の主流となったのは延網漁、網漁、鰻漁、海苔養殖である。中でも芝の名を冠した「シバエビ」漁は代表的なものであった(標柱)(橙:東海道 赤:薩摩屋敷)

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御菜浦(おさいうら)
領主のための御菜(おかず)の原材料となる海産物を献上していた漁村のこと。特に著名なのは徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦(現在の品川)・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦(現在羽田)・生麦浦(現在の生麦)・子安新宿浦(現在の子安)・神奈川浦(現在の神奈川)の8つの御菜浦で、いずれも現在の東京湾に存在して御菜八ケ浦と称された。これらの漁村は後北条以前から御用を勤めていた漁村と上方方面から招き入れられて新たに漁村として開拓されたものに分けられる。これらの漁村は幕府に海産物を献上する代わりに東京湾における漁業における特権を有していた。Wikipedia

芝海老
江戸の芝浦(現在の東京都港区)あたりでとれるエビであることからの命名。江戸時代の芝浦は生きのいい魚のとれる宝庫で、このあたりでとれる魚を「芝魚」「芝物」といった。(語源辞典)

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海からみる海岸線、鉄道は海を通していたんですね、実感します/連絡通路

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入口側(北)              出口側(南)

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線路の向こう側にはモノレール、大きくカーブして羽田へ向かっています/芝浦公園

東京モノレール羽田空港線
港区のモノレール浜松町駅から大田区の羽田空港第2ビル駅までを結ぶ東京モノレールのモノレール路線である。1964年秋の東京オリンピックの開催で日本国内外からの羽田空港利用客の都心へのアクセスの改善を目的として建設され、1010日の東京オリンピック開会式前の917日に開業したWikipedia


・・・田町


むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。
芝浦の渚に近い田畑が町家と変わっていったので芝田町と称されるようになりました。寛文2年(1662)町奉行支配となって1丁目~9丁目に分けられ、安永5年(1776)に海を埋め立て町域を拡げました。明治5年(1872)武家屋敷だったところや寺社地を合併しました。江戸の頃は東海道を行き来する人々で賑わい諸大名の浜屋敷が多くあった処です。
(芝地区旧町名由来板)

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田町駅の先で桜田通りが合流します/札の辻


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札の辻
江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて布告法令などが掲示されたところから札の辻と呼ぶようになりました。元和2年(1616)には芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門」(ひぐらしのごもん)といわれましたが、これはこの東がすぐ江戸湾に接し海を隔てて房総の山々を望む一日眺めてもあきない景色であったためといわれます。その後高札場は天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永7年(1710)に芝口門は新橋北側に建て替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。(港区教育委員会)

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御田八幡神社
(みた)鳥居/三田

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御田八幡神社
誉田別尊命(ほんだわけのみこと八幡上)を主祭神とし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿彌命(たけのうちすくねのみこと)を配祀とする。海側斜面に位置する。江戸時代には直ぐ正面に東海道が走り、その向こうは江戸湾の海浜が開けさぞかし風光明媚であったと考えられる。明治40年代芝浦の埋め立てが始まりその面影を失うことになる。周囲の木々の剪定は最低限にとどめられあたり一面薄暗く蕭蕭とした雰囲気を漂わせている。

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和銅2年(7098月東国鎮護の神として牟佐志国牧岡の地に祀られたのに始まる。寛弘7年(1011)武蔵国御田郷久保三田に遷座し、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。延喜式神名帳には「武蔵国荏原郡 稗田神社(ひえだじんじゃ)」として記載されている。ただし「延喜式内稗田神社」は大田区蒲田の稗田神・東六郷の六郷神社も論社となっている。徳川家康の江戸城入城の際に奇瑞があったことから、現在地である荏原郡上高輪村海岸を開拓して社殿を造営し、寛文2年(16628月に遷座が行われた。しかし、寛文82月の大火により社殿は全焼、仮殿が伊皿子坂薬師寺に置かれた。寛文128月に社殿が再建され再度遷座された。慶応元年(1865)に神祗官により延喜式記載の「稗田神社」に改称、明治5年(1874)に「三田八幡神社」に改称し、郷社に列した。明治30年(1897)に「御田八幡神社」に復した。昭和20年の東京大空襲で寛文12年造営の社殿が焼失し戦後の昭和29年に復興された。Wikipedia
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江戸名所図会 三田八幡宮 (
わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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田町駅周辺地図
(赤:東海道 橙:中原街道 緑:日比谷通り 青:古川)

中原街道(三田)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22220930/



・・・高輪

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この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から「高輪」となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代の東海道を整備し、これにより街道沿いに町が広がっていきました。この地域には大木戸、願生寺、泉岳寺、東禅寺など多くの名跡があります。(港区旧町名由来板)

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片側だけですが「高輪大木戸」跡の史跡が残ります/大木戸跡(第1京浜)

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高輪大木戸
高輪大木戸は江戸時代中期の寛永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保7年(1724)に現在地に移された。現在地の地区年に宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。江戸の南の入口として道路幅約六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとし治安維持と交通規制の機能をもっていた。天保2年(1831)には札の辻(現在の港区芝5丁目)から高札場も移された。この高札場は日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋内、半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。

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京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近には茶屋などもあって、当時は品川宿へ至る海岸の景色も良く、月見の名所であった。江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は海岸側に幅5.4m、長さ7.3m、高さ3.6mの石垣のみが残されている。四谷大木戸は既にその痕跡を留めていないので、東京に残されて数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定されている(東京都教育委員会)
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江戸名所図会 高輪大木戸 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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継ぎ足してるんですね、長いトンネルです/高輪大木戸先

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入口側                トンネル内
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『新撰東京名所図会・高縄鉄道之図』
その当時は田町~品川間2.7kmは海上に幅6.4mの堤防を築き、その上に線路を通していました港区旧町名由来板)
港区旧町由来名板)

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泉岳寺山門/高輪

山門
この門は天保3年(1832年)34世大道貞釣(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ銅彫大蟠龍がはめ込まれています。「泉岳寺」の額は晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵による書です。(泉岳寺HP)

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萬松山泉岳寺
泉岳寺は曹洞宗の寺院です。曹洞宗のご本山は2つあり1つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう1つは横浜鶴見の総持寺です。道元禅師の主著は仏教の神髄を表した「正法眼蔵」という95巻に渡る書物です。さて、泉岳寺は慶長17年(1612)に「門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。(現在のホテルオークラの近く)しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して諸国の僧侶名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。その家風は引き継がれており、人数は少ないものの大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が現在もいます。(説明板)

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中門 
この門は総欅造りで天保7(1836)35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたものです。また昭和7年に大修理が施されています。「萬松山」の額は中国清代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書です。(泉岳寺HP)



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大石内蔵助良雄銅像
この銅像は浪曲の宗家・桃井軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが泉岳寺に寄進され、大正101214日に除幕したものです。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身に付け、連判状を手にして東の空(江戸方面)をじっとにらんでいる姿を表したものです(説明板)

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浅野長矩(ながのり)
及び赤穂義士墓所門
切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際にこの場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として大変貴重です。(港区教育委員会)

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血染めの梅・血染めの石
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です(説明板)



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瑶池梅
義士の墓守りをした堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。(泉岳寺HP)




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首井戸
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。(泉岳寺HP)
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義士の墓

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浅野長矩公之墓             浅野長矩夫人之墓


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義士墓解説
赤穂城主浅野内匠頭
長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄15年(17021214日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。義士一同は1215日夕刻細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の四家に預けられた。翌元禄1624日幕府は苦心の末、武士の体面を立て切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。(説明板)

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江戸名所図会 泉岳寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

本所吉良邸跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24259906/


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高輪海岸の石垣石/高輪
ここに展示されている石は、江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。平成7年(1995)高輪2丁目20番地の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。石垣には主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています(港区教育委員会)

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桂坂
港区高輪2丁目12番と3丁目19番の境界に存在する坂である。坂上には高輪警察署や高野山東京別院、高輪消防署二本榎出張所や都営バス「高輪警察署前」停留所が、坂下には都営バス「高輪北町」停留所がある。由来は、かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘をかぶった僧侶が品川からの帰途、急死したことによるともいわれる。桂はよい字を当てたもの。Wikipedia

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東禅寺仁王門/高輪

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東禅寺
東禅寺は幕末の安政6年(1859)最初の英国公使館が置かれた場所です。幕末の開国に伴い安政6年6月初代英国公使館(着任寺は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(18615月には尊王攘夷派の水戸藩浪士に、翌25月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や東禅寺襲撃事件が詳述されています。東禅寺は臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊藤家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また臨済宗妙心寺派の江戸筆頭でもありました。現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」(せんげんてい)やその前の農園などは良好に残っています。農園と僊源亭を含めた景観は公使館時代にペアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝える唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。(東京都教育委員会)

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東禅寺裏の石仏群              台地へ上る坂

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江戸名所図会 東禅寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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品川駅が見えてきました、品川宿はもう少し先です

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品川駅創業記念碑
明治59月の新橋・横浜間開通に先立つ5月、品川・横浜間が仮開業しました。当時の品川駅は現在より少し南寄りで、駅舎は海岸にあり岩床に打ち砕ける海水の飛沫で、客車の窓は全部閉めねばならなかったといわれています(港区観光協会)

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高輪周辺地図(昭和31年頃)
(赤:東海道 橙:中原街道)

中原街道(高輪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22226945/

# by Twalking | 2017-06-17 19:24 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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薩摩のみち/港区芝
わたしも、写ってま~す!

『大地の記憶』-維新の壮士へ
西川 慎 2002年

# by Twalking | 2017-06-17 13:44 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 フクロウ?-長福寺   

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フクロウ
長福寺/藤沢市村岡東
ここ、涼しいよ~
ひと休みしてったら
そうだね、ありがと~。

# by Twalking | 2017-06-16 10:08 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ペルリ提督像-芝公園   

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ペルリ提督像/港区芝公園
なんでここに???と思ったら
「日本開国100周年の返礼で贈られたもの」
と説明書きがありました。

# by Twalking | 2017-06-15 22:59 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 湘南モノレール   

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湘南モノレール/鎌倉市深沢
話では聞いてましたが
真近で見るのははじめて
懸垂式地上4.5m、迫力ありますね。


湘南モノレール江の島線
三浦半島の付け根付近にある丘陵地帯を貫き、古都・鎌倉市街を経由せずに大船と藤沢市片瀬地区を短絡する。丘陵地帯にありながら、当路線の開業以降、富士見町・湘南町屋両駅界隈が主に準工業地域として、湘南深沢駅界隈が商業・住宅地として、西鎌倉-目白山下間の各駅界隈では昭和初期からの別荘地であったものが高級分譲地として再整備されるなど開発が進んだ。そのため用務客の利用が増加し、沿線から東京方面への通勤と沿線への通勤の両方の需要がある通勤路線としての性格を強める。路線距離:6.6 km 方式:懸垂式 駅数:8駅 全線単線(Wikipedia

# by Twalking | 2017-06-15 21:53 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 芝公園界隈02-芝大門   

日時 2017.6.10(土)
天気 晴


芝公園をぐるりっと一周すると約4kmですが、
距離では測れない歴史が詰まっています。
東海道や中原街道など絡めても面白いですね。

緑も豊かですし、寺社や史蹟も一杯
のんびりと散策するにはいいコースです。
久し振りの芝公園、お子さん達と楽しく歩きました。
どうもありがとうございました。


・・・芝大門

港区の北東に位置し北は新橋に、東は第1京浜(国道15号)を挟んで浜松町、南は古川(渋谷川)をはさんで芝に、西は日比谷通りを挟んで芝公園に接する。町域の東端に都営地下鉄の大門駅があり、西端には増上寺の大門がある。当地域は増上寺門前町として発展した場所であり、多くの狭小な町が混在しており中心となる大きな町が存在しなかった。そのため当地域の俗称である大門(増上寺の大門に由来)を新町名に採用することになった。
Wikipedia

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大門
増上寺の朱く塗られている総門は俗に大門(だいもん)と呼ばれている。江戸時代には門の手前に橋が架かり下馬札が立っていた。

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芝神明は平安時代に造られたという江戸有数の古社で、芝居のめ組のけんかなどでも有名である。これは江戸時代のしょうが市の光景で、今日でも911日から21日まで長く続くためだらだら祭りの名がある。背景は2代広重、人物は3代豊國の筆、元治元年(1864)江戸自慢36興の一枚(案内板)

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芝神明(しばしんめい)
俗に芝神明と称された現在の芝大神宮は江戸の有数の神社のひとつである。往年の参詣の人々や商人たちの生き生きとした姿が描かれている。新板浮世絵 芝神明之図/歌川国丸(案内板)



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めぐ組のけんか
文化2年(18052月(一説)芝神明の境内で勧進相撲を興行していた力士と町火消め組との間でかんがが起きた。これが後に江戸っ子気質の典型として評判になりました。芝居「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)のモデルとなった(案内板)

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芝大神宮鳥居/
芝大門


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芝大神宮
もともとは単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い「関東のお伊勢様」とも尊称された。

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市井においては東海道沿線で江戸市中と市外の
境界線上(近くに金杉橋あり)に鎮座し、増上寺も隣接することから江戸時代に入って参詣者が増え江戸から出府する旅人にとっては道中無事を、入府する旅人にとっては道中無事の報賽をといった祈願が行われた。さらに江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝が数多く見受けられるが、高額な旅費と長期間の旅程を要し、容易に行うことは難しかったため代わりに伊勢神宮の祭神を祀り江戸市中に鎮座する当神社への参詣者が増えていったと考えられる。

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参詣者が増えればそれを当て込んで参道に数々の出店が見られるようになり茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻(手品)、軽業、剣術、富籤興行、岡場所(非公認の私娼屋が集まった遊郭)・陰間(かげま・男娼)などの風俗店や、芝居などの見世物小屋で賑わい、特に芝神明の太々餅は土産物として評判を呼び名物となった。更に、江戸で出版された娯楽絵本の版元で、地本問屋として名を馳せた和泉屋が天明頃(
1781-89年)には当神社近隣に店を構えていたといわれ、この界隈はマスコミの拠点にもなっていた。(Wikipedia
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大門から三門への参道も雰囲気がありますね/大門通り

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港区区役所の前に続く松原も憩えます/6号地

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松原の復元
芝公園のうち増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。それは寛永17(1640)増上寺20世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変わりました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土塁にはさまれた通路がカギ形をしています。都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。(東京都)写真:平和の女神像/区役所正面

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浅岡飯たきの井の由来
江戸時代ここに良源院(増上寺の子院)があり、仙台伊達家の仕度所として藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。万治3年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられる。昭和62年(1987)新庁舎開庁にあたり旧庁舎中庭にあったものをここに移設して保存した。(案内板)

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参道を越えるとペリーの碑があります、日比谷通りの向かい側は東照宮/10号地

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ペルリ提督の像
昭和28720日の日本開国百年記念祭挙行のとき、東京都民からニューポート市に石灯籠1基を贈りました。その答礼として贈られたのがこの像です。(東京都公園協会)


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万延元年遣米使節記念碑
西暦186029日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう『竹芝の 浦波遠く こぎ出でて 世に珍しき 舟出なりけり』 遣米使節渡航より百周年にあたり日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。19606月日米修好通商百年記念行事運営会(案内板)


・・・芝公園

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慶長3年(1598)徳川家康によって現在の場所に移された三縁山増上寺の境内で、上野の寛永寺と並び称される江戸名所の一つでした。一時三縁山の名をとって三縁町と称されましたが明治6年(1873)宮内省の管轄地となって公園に編入され、芝公園と定められました。有史以前より人が住む土地であったと考えられ、貝塚や古墳等が残っています。(大正10年(1921)地図/港区旧町名案内板)
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芝東照宮鳥居

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芝東照宮
港区にある東照宮。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。芝公園の一角にあり元来は増上寺内社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。

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この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である。明治初期に神仏分離令により増上寺から切り離されて芝東照宮となった。本殿は大正4年(1915年)旧国宝に指定された。しかし、昭和20年(1945年)525日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残しあとは全て焼失した。昭和44年(1969年)現在の社殿が再建された。(Wikipedia

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東照宮のイチョウ
芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ『江戸名所図会』にもその姿が見られる。明治の神仏分離によって増上寺から切り離され東照宮となった。このイチョウは寛永18年(1641)安国殿の再建に際し3代将軍徳川家光が植えたものと伝えられている。昭和5年(1930)に史蹟名勝天然記念物保存法に基づいて国の天然記念物第2類(地方的なもの)として指定されたが、昭和27年に文化財保護法が改正された一時国指定は一旦解除され、その後昭和31年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っている。平成5年(1993)の調査では高さ約21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.3mある。(東京都教育委員会)

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銀世界の梅
この梅林は今の新宿区西新宿3丁目の東京ガス敷地にあったもので、江戸時代は「梅屋敷銀世界」と言われていたものを明治4142年ごろ16号地グランドの西側に移植されたが、道路拡張にともない昭和41年にこの1号地に移されました。この石碑は琉球の棟応昌の筆によるもので、梅屋敷内にあったものです。(説明板)

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大イチョウと東京タワー/芝東照宮

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東照宮の奥一帯は丸山と呼ばれたところ、ちょっとした幽谷になっています

d0183387_14273001.jpg東京都指定史跡芝丸山古墳
全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40mくびれ部幅約22mほどの都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16mの台地端に位置し前方部を南南西に向けている。江戸時代以降原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。前方部が狭く低い形態や占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた南武蔵の族長の墓だったと考えられる。(東京都教育委員会

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円山随身稲荷大明神/芝丸山古墳
円山稲荷は増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は増上寺がこの地に移建当時、桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。(大本山増上寺

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丸山の頂上に伊能忠敬の顕彰碑が建っています。

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伊能忠敬測量地遺構標表 
伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原伊能家を嗣ぎ、村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして、全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられ、わが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。その偉業は引きつがれて1821年、大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられ、その精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり、参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが、不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得この碑を再建した次第である。19655月社団法人東京地学協會 會長細川護立(碑文)

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東側に下るとパークタワーの庭園に出られますが、日比谷通りに戻ります

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芝公園の西端には古川が流れています/芝園橋(日比谷通り)

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古川
天現寺橋下の笄川(こうがいがわ)合流点から浜崎橋先の河口までの4.4kmの二級河川。古川は江戸時代から昭和初期頃までは新堀川、金杉川とも言われていたが現在は使われていない。天現寺橋から下流の古川では古い石積護岸が今も残る。赤羽橋から河口までは昭和30年代から防潮堤が整備されているWikipedia

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港区旧町名案内
新堀河岸
古川南岸赤羽橋から将監橋の間にあたる河岸地で、江戸時代はとくに名はなく荷上げ場などに使われていました。薩摩鹿児島藩の荷揚げ場があったことから俗に薩摩河岸とも呼ばれていました。新堀河岸といつごろから呼ばれていたかは不明ですがおそらく明治時代になってからの里俗と思われます。船運の便があるため木材、石材、竹材、米塩、薪炭などの商店が多くあったようです。

栄町
正徳3年(1713)に幕府が御霊御掃除(おたまおそうじにん)に与えた土地で芝御霊屋敷掃除屋敷と呼ばれていました。明治2年(1869)芝御霊屋敷掃除屋敷と金地院拝領屋敷を合併して芝栄町となりました。明治5年さらに近傍の旧鯖江藩邸、武家地、寺社地を合併しました。栄町とした理由は不明ですが町の繁栄を願ってつけたのではないかと考えられます。

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芝地区ちぃまっぷ
(赤:旧東海道・中原街道 橙:日比谷通り・大門通り 青:古川)

# by Twalking | 2017-06-14 20:18 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ホタルブクロ   

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愛宕第3公園/多摩市
おはよう~!蛍くん
雨降ってたんだね
傘、いるかな~・・・。

# by Twalking | 2017-06-14 11:32 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 芝公園界隈01-『TOKYOウオーク2017』   

日時 2017.6.10(土)
天気 晴れ 


『TOKYOウオーク2017』の手伝いで
久振りに芝公園に行ってきました。
朝方コースをひと廻り、緑が多くていいですね。

南を旧東海道、北が中原街道が通り
増上寺を囲むように25区画の公園になっています。
それぞれに寺社や旧蹟などがあって楽しめます。


・・・芝公園/港区

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芝公園地図(橙:日比谷通り・中原街道(桜田通り)・参道 青:古川・首都高)

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芝公園
公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどで多くの庭園がありました。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑に触れ合えるリクリエーション等の場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所等でした。明治に時代が移り新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治61873)の太政官布達第16により公園が誕生しました。その後、明治20年(1873)めでに江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81ヶ所の公園が指定されました。上野の寛永寺と共に江戸の花見の名所だった増上寺を中心とした芝公園は上野、浅草、深川、飛鳥山と共に明治6年東京で最初の公園に指定されました。徳川将軍家の菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は125号地に区画されました。現在も公園では号地のままで親しまれています。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後に新憲法が施行され政教分離によって増上寺の境内部分が除かれ現在の公園となりました。(芝公園設計図明治43年(1910)長岡安平と推定される/案内板)


・・・御成門

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左手4号地がメイン会場、反時計回りで一周します/図書館入口(日比谷通り)

日比谷通り

国道1号・国道20号・都道403大手町湯島線・都道409号日比谷芝浦線の各路線の一部を南北に継ぐ東京都通称道路名設定公告で告示された道路の通称である。神田橋交差点-日比谷交差点-芝五丁目交差点。Wikipedia

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御成門
増上寺(徳川家の菩提寺)の裏門としてつくられたが、もっぱら将軍が参詣するさいに用いられたので、『御成門』と呼ばれるようになった。初め『御成門』は、現在の御成門交差点にあったが明治二十五年の東京市区改正計画で内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際にこの位置に移築された。その後、増上寺三門や旧庫裡門・徳川家墓地の惣門・二天門とともに関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。(東京都港区教育委員会)

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東京慈恵医大
1881年(明治14年)に創立された成医会講習所が起源。1891年(明治24年)昭憲皇太后の意向を受け東京慈恵医院医学校と改称された。その後、1903年(明治36年)専門学校令を受けて日本初の私立医学専門学校として東京慈恵医院医学専門学校となる。さらに1921年(大正10年)に大学に昇格し東京慈恵会医科大学となった。これは大学令に基づく日本の私立の旧制大学の中で最も古い単科の医科大学である。Wikipedia

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愛宕隧道(全長76.6m 昭和5年完成 一方通行)を抜けて桜田通りを右折します。左手に上りのエレベターも付いてます

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愛宕山
港区愛宕にある丘陵である。一帯の愛宕神社境内には三等三角点があり25.7mの標高が記録されている。天然の山としては東京23区内最高峰。人造の山の最高峰は新宿区の箱根山・45m江戸時代から愛宕山は信仰と山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所であった。山上にある愛宕神社はもとは1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩の者たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。Wikipedia


・・・神谷町

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中原街道です、神谷町交差点を左折します/桜田通り

桜田通り

国道1号の桜田門交差点から西五反田1丁目交差点までの区間の通称。中世以前から存在する古道であり、徳川家康によって江戸時代の東海道が整備されるまでは江戸から西への街道(小田原街道・中原街道)であった(Wikipedia)

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光明寺本堂/虎ノ門


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光明寺
浄土真宗本願寺派天正19年(1591)徳川家康と親交のあった光明寺第17世住職証高が、境内の紅梅に和歌を添えて献上し家康をたいそう喜ばせた。そのことを縁として毎年正月の幕府への寺社献上の第一番として光明寺の梅が献上された。正保2年(1645)三代将軍徳川家光が光明寺に立ち寄った際、家康が光明寺の梅を喜んだ故事を聞き山号を梅上山と改めるよう命ぜられた。これにより以後、梅上山光明寺と称するようになった。(光明寺縁起)

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明和の大火死者供養墓(港区指定文化財)
明和9年(1772229日の午後、目黒行人坂の第円寺より出火した火事は強い西南の風に勢いを増し、麻布・虎ノ門から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦3年(1657118日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は14700人ほかに行方不明者も4000人を超えています。光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓はこの惨事に心を痛めた当時の住職が焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。(港区教育委員会)

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港区立御成門小学校
所在地は芝公園に隣接しており東京でも最も長い歴史を持つ公立小学校のひとつである。東京府が1870年(明治3年)に初めて設置した仮小学第6校のうちの一番校「東京府小学第一校」に遡る。現在の御成門小学校はこれまで多くの学校が統合された結果として存在しており、源流となっている小学校は6校に及び近年の統廃合によってさらに2校が御成門小学校に合流している。Wikipedia


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御成門小右折/愛宕2(愛宕下通り)    東京プリンス右折/芝公園3

東京都道301
号白山祝田田町線

文京区と港区を結ぶ主要地方道(起点:千石前交差点 終点:札の辻交差点9.3km)である。都心中枢部の区域をほぼ南北に通る。通称は白山通り・内堀通り・愛宕下通り・桜田通り。Wikipedia)中原街道(桜田通り)

愛宕山・飯倉の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22208592/


・・・東京タワー

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いい森ですね、休憩地になります/芝公園23号地

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歩道から園路に            芝公園10体地蔵尊/23号地

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『こともウオーク』コースはのっぽん君とご対面


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東京タワー/20号地
総合電波塔の愛称である。正式名称は日本電波塔1958(昭和33)竣工。東京のシンボル・観光名所として知られる。高さは333mと広報されており、塔脚の間隔は88.0m。総工費約30億円、1年半と延べ219,335人の人員を要して完成した。地上125m(海抜約150m)と223.55m(海抜約250m)に展望台を有したトラス構造の電波塔である。Wikipedia

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左が19号地のもみじ谷です       右が18号地「うかい鳥山」があります

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もみじ谷、ここは紅葉が美しい森です/19号地

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信号横断すると弁天池、この先のスロープからパークタワーへ/1号地

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宝珠院本堂

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宝珠院弁財天の縁起
開運出世辨才天三井寺の開山智証大師が858年竹生島で奇縁に依り彫られ、その後源家に伝わり再興に当り頼朝公深く信仰し天下を平定される。又徳川家康公も厚く信仰され、天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運、出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世、巳成金福寿、円満厄難消滅、縁結びの利益を授けられ、現在港区七福神の一つに制定されている。(境内掲示)


・・・パークタワー

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パークタワー&芝生の庭園、広々としてくつろげます/1号地

ザ・プリンス パークタワー東京
2005年に徳川家霊廟跡に存在した「芝ゴルフ場」跡地に「東京プリンスホテルパークタワー」として開業Wikipedia

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バラ園の園路             浜松町方面のビル群

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勅額門跡               惣門への下り階段             

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水路跡
ここに並べられて石垣石は増上寺山内松山に造営された台徳院(2代将軍徳川秀忠公)霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたものです。台徳院霊廟は寛永9年(1633)台徳院の死後まもなく造営が始められ、およそ1年後に竣工したことが記録にあります。

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水路は砂地の上に組み上げられた石垣を壁としており、これらの石垣石は壁としておりその建材の一部です。平成14年(2002)に行われて発掘調査によって、この石列の真下地下およそ8mの位置で発見されました。石垣は最も良好な箇所で4段検出されました。石材として相模から伊豆にかけての地域で切り出された安山岩が用いられていますが、形や大きさがまちまちです。最下段の石垣には宝永の火山灰の付着が確認され、刻印や墨書を認めるものもあります。かつての旧御成道(現在の日比谷通り)から御霊屋への通路には、惣門手前までこの水路を渡りました。往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。(説明板)

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台徳院霊廟惣門(正面)

江戸幕府2代将軍徳川秀忠の霊廟建築で増上寺に造営された。台徳院霊廟は増上寺本堂南側の南御霊屋に東を正面として営まれた。所在地は現在の港区芝公園、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地にあたる。霊廟の北には隣接して宗源院(秀忠夫人)霊牌所があった。勅額門、丁字門、御成門の3棟は埼玉県所沢市に移築されたWikipedia

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港区指定有形文化財(彫刻)木造仁王像・二躯
重要文化財『旧台徳院霊廟惣門』の左右に安置している寄木造り、砥粉地(とのこじ)彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐(いわくら)の上に立っています。平成16年から17年に行われた修理の際に体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(1789)、弘化3年(1847)の2度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政2年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和23年(1948)同寺三重塔の修理と同時期に3度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和33年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は18世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。像高:阿形243.5cm 吽形247.0cm(港区教育委員会)


・・・増上寺

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増上寺境内

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増上寺
浄土宗の大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。江戸時代初期、増上寺法主12世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け手厚い保護を受けました。慶長3年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺としてまた関東十八檀林の筆頭として興隆し浄土宗の統制機関となりました。その規模は寺領1万石余、20数万坪の境内地、山内寺院48宇、学寮百数十軒、常時3千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行なわれ建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。(説明板)

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三解脱門
慶長16年(1611)に徳川家康公の助成により江戸幕府大工頭中井大和守正清によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。この門は増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門は別名「三門」とも呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)・瞋恚(しんに・いかり)・愚痴(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に和様の勾欄などが加味され見事な美しさを見せています。その大きさは間口十間余(約19m)奥行五間(約9m)高さ七丈(約21m)の二重建て構造。さらに左右には三間(約5.4m)の山廓を有しています。上層部(楼上)内部には中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されています。(説明板)

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水盤舎
元は清楊院(3代将軍徳川家光の3男・6代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は延宝6年(1678)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺裏手に営まれていましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにほとんどが焼失しました。(港区の文化財)

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鐘楼堂
寛永10年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川4代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され7回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ東日本では最大級として知られています。その大きさ高さ1丈(約3m)重さ4000貫(約15t)の大鐘です。その鐘の音は時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴る鐘は芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ江戸庶民に親しまれてきました。(説明板)

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有章院霊廟二天門
江戸幕府7代将軍徳川家継の霊廟建築。芝増上寺に造営された。現在の東京プリンスホテル敷地には戦前6代将軍家宣の文照院霊廟と並んで、7代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の総門です。霊廟は8代将軍吉宗が享保元年(1716)に建立しました。Wikipedia
現在シートで覆われています(写真は過去に撮影したものです)

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江戸名所図会 増上寺山内芙蓉洲弁天社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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日比谷通りをゴールの4号地へ向かいます(増上寺前)

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『TOKYOウオーク2017-こどもウオーク』コース地図
(緑:コース 赤丸:4号地 橙:日比谷通り・桜田通り)


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資料ファイル

徳川家霊廟

江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の墓所のことで江戸(現・東京)の寛永寺と増上寺及び栃木県には日光の輪王寺にある。江戸時代の華麗な建築技術・意匠の粋を集めた建築群として日光東照宮と並び称されるが、このうち寛永寺と増上寺の霊廟は大部分の建物が1945年(昭和20年)の戦災で焼失した。

(現存する霊廟建築)

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久能山東照宮
初代家康を祀る社殿(本殿・石の間・拝殿)と家康が埋葬されている神廟(廟所)がある。家康の一周忌を前に(16173月〜4月)日光へ分祀された。分祀後の161712月に社殿が完成し東照宮の原型となる。社殿は国宝、神廟他は重要文化財に指定されている。
久能山東照宮の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20531443/


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日光
日光東照宮- 初代家康を祀る。輪王寺大猷院霊廟- 3代家光を祀る。以上の建築群は国宝および重要文化財に指定され世界遺産にも登録されている。

日光東照宮の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17778572/
大猷院の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17642344/


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寛永寺
厳有院(4代家綱)と常憲院(5代綱吉)の霊廟があったが1945年(昭和20年)大部分が空襲で焼失。焼け残った以下の建築が重要文化財に指定されている。厳有院霊廟(勅額門・水盤舎・奥院唐門・奥院宝塔)常憲院霊廟(勅額門・水盤舎・奥院唐門・奥院宝塔)8代吉宗、13代家定の宝塔は常憲院霊廟、10代家冶、11代家斉の宝塔は厳有院の霊廟の敷地内に建っている。寛永寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/16564921/


高野山
高野山塔頭・蓮花院は松平家時代より徳川家の菩提所・宿坊であった。文禄3年(1594)の家康参詣を機に大徳院と改称。3代家光により初代家康と2代秀忠の霊廟は大徳院にも建築された(徳川家霊台、南院の裏手にあるが現在は金剛峰寺の所有)。国の重要文化財および世界遺産に指定されている。安国院殿霊廟(家康)台徳院殿霊廟(秀忠)。明治期に大徳院は他の塔頭寺院と合併して金剛峯寺門前に移り旧名の蓮花院に復したが、現在も徳川家歴代や大奥関係の位牌が祀られている。ちなみに奥の院には松平秀康および同母の霊屋(蓮花院の所有)がありそちらも国の重要文化財および世界遺産に指定されている。(Wikipedia

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戦災以前の増上寺御霊屋図

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増上寺
台徳院(2代秀忠)、崇源院(秀忠夫人)、文昭院(6代家宣)、有章院(7代家継)の霊廟と9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔があったが1945年(昭和20年)大部分が空襲で焼失。焼け残った以下の建築が重要文化財に指定されている。台徳院霊廟惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)台徳院霊廟勅額門、丁字門、御成門(以上3棟は埼玉県所沢市に移築)有章院霊廟二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)これらの霊廟に祀られていた遺体は1958年(昭和33年)に改葬され、墓所は増上寺本堂裏に移転している。現在の増上寺徳川家墓所の入口の門はもと文昭院霊廟の奥院の門だったもの。秀忠夫人崇源院霊廟の一部は鎌倉建長寺に移築された。霊廟跡地は東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。(Wikipedia

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徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟はいずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。その後昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し残った建物もその指定を解除されました。正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築しました。左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれその荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。

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墓所には2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14家茂公の6人の将軍のほか、崇源院2代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(14家茂公正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(3代家光公側室、5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。(説明板)



# by Twalking | 2017-06-13 22:41 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「平和の女神」像-港区役所   

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港区役所入口(港区芝公園)
平和の女神
1968年 北村西望作


北村西望
(きたむらせいぼう 1884・明治17- 1987・昭和62年)
本名は北村西望(きたむらにしも)。日本を代表する美術家のひとり。代表作に大作の「長崎平和記念像」がある。文化勲章受章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。日本彫刻会では西望の功績を称え同会展覧会における最優秀作品に「北村西望賞」(単に「西望賞」とも)の名を冠している。
Wikipedia


# by Twalking | 2017-06-12 20:15 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 イボタノキ?   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
イボタノキのよう気もするけど・・・
どうだろう?、違ったらごめん
夕陽に美しいね、ありがとう~。


イボタノキ
(水蝋樹・疣取木)
モクセイ科の落葉低木。日本各地の山野に自生する。樹高は1.52m。枝はあまり分枝しないまっすぐなものが多数並ぶと言う形になりがち。その小枝は横向きに伸び、葉がほぼ等距離に多数並ぶのでちょっと羽状複葉のようにも見える。枝は灰白色で新枝には細毛がある。葉は対生し長さ25cmの楕円形をしている。はじめは黄緑だが次第に深緑になり、表面につやがなく柔らかい。花期は初夏、ギンモクセイに似た芳香ある筒状で先の四裂した白い小さな花を総状に小枝の先に密集して咲かせる。花序は先端が垂れる。晩秋には直径6mmほどの楕円形の果実がなる。Wikipedia

# by Twalking | 2017-06-12 14:38 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 石碑-光明寺   

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旧西久保幼稚園の碑
いつもにっこりと
出迎えてくれてたんだね
やさしい笑顔、ありがとう~!


旧西久保幼稚園の碑

終戦後の昭和24年地域からの要請もあり境内に西久保幼稚園が設立されました。多くの卒園生を送り出しましたが、昭和42年現本堂建設工事のためその幕を降ろすこととなりました。現在は幼稚園の事跡を伝える石碑(富山県の彫刻家・岩城信嘉氏の作)が正門脇に建っています。(光明寺HP)


# by Twalking | 2017-06-11 21:17 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 国会議事堂前駅   

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千代田線国会議事堂前駅/千代田区永田町
???、ちょっと感じが違うみたい
駅員さんに聞いたら、次の霞ヶ関が乗り換え
久し振りだから・・・、迷っちゃいました。


国会議事堂前駅

千代田区永田町1丁目にある東京メトロの駅である。丸ノ内線と千代田線が乗り入れている。丸ノ内線ホームは国会議事堂の敷地真下に東西に延びる。千代田線ホームも東西に伸び、丸ノ内線ホームの西側と千代田線ホームの東側を連絡するコーンコースがある。丸ノ内線の駅は衆議院の敷地内にあたるため衆議院より「本院の警備上必要あるときは一時閉鎖を指示できる」という貸与条件が付けられている。この権限は衆議院の判断で行使できることとなっており、過去には実際に行使もされている(Wikipedia


# by Twalking | 2017-06-11 19:03 | ○station