無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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駅のエスカレーター
小田急線狛江駅/狛江市
らくちんだけど
まだ強い陽射しだこと・・・
ふぅ~う、と。

# by Twalking | 2017-07-24 19:41 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ムクゲ   

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ムクゲ
愛宕下通り/多摩市愛宕
風に揺れて
涼しげ・・・
頬ずりした~い。


ムクゲ(木槿)

アオイ科フヨウ属の落葉樹。別名ハチス、もくげ。和名は「むくげ」。「槿」一字でも「むくげ」と読むが、中国語の木槿(ムーチン)と書いて「むくげ」と読むことが多い。また、『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)』には「木波知須(きはちす)」と記載されており木波知須や単に波知須(はちす)とも呼ばれる。庭木として広く植栽されるほか、夏の茶花としても欠かせない花である。樹高34mくらいのものが多く庭木や街路樹、公園などに広く植えられている。夏から秋にかけて白、紫、赤などの美しい花をつける。花の大きさは径510cm、花芽はその年の春から秋にかけて伸長した枝に次々と形成される。(Wikipedia



# by Twalking | 2017-07-24 12:28 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(1)府中~狛江01-府中   

日時 2017.7.21(金)
天気 晴れ


暑いので近場で~と、品川道に出かけました。
ここは甲州街道で「初期の甲州」として案内しましたし、
府中Wの予定ルートなのでちょっと下見も兼ねました。

調布から狛江は何度も車では通っていますが、
徒歩で行くのは初めてです。
陽ざしが強いので木陰を選んで歩きたいと思います。



・・・宮町(府中市)

品川道

かつては甲州街道常久一里塚の脇を通り府中の六所宮(大國魂神社)まで続く道であったが、後に北の街道が甲州街道(旧甲州街道)となり、甲州街道が品川道と呼ばれるようになったものである。府中の大國魂神社から国分寺崖線多摩川沿いに品川・六郷付近まで続いた古道で「品川道」「品川街道」「いききの道」「いかだみち」と呼ばれた。大國魂神社くらやみ祭りの神事で使用されたり、多摩川上流で伐った木材をいかだにして流れて行き、その後人だけ上流へ向かってこのいかだ道を歩いて帰った。Wikipedia

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大国魂神社随神門

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大国魂神社本殿 
律令時代国司が国内の大社六社を国府に勧請祭祀し武蔵総社または六所社と称したのがこの大国魂神社である。本殿のうち中殿は大国魂神、御霊大神、国内諸神、東殿は小野大神、小河大神、氷川大神、西殿は秩父大神、金佐奈大神、杉山大神を祀る。この本殿は四代将軍家綱の命によって寛文7(1667)3月完成したもので、その後数回修理を行っているが部分的に室町時代末期の様式をとどめ江戸時代初期の神社建築として保存の価値がある。また特異な構造形式は遺例少なく珍しい。構造は九間社流造、向拝五間、銅板葺、三間社流造の社殿三棟を横に連絡した相殿造。東京都指定有形文化財(東京都教育委員会)

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街道の風景① 今日はここからスタート、京所道を東へ向かいます/東門

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京所道(きょうづみち)
京所道の名はこの道が京所の中心を通ることに由来します。その道は甲州街道が開設(慶安頃・164852)されるまで初期の甲州への道として重要な役割を果たした道です。(標柱)


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京所
京所(きょうづ)は現在の宮町二丁目の一部・三丁目(京所道沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は六所宮(大国魂神社)の社領で八幡宿に属しており『新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「六所社領」の小名としてその名が見えます。地名の起こりは経所(きょうじょ)が転訛したものといわれており、ここに国府の写経所のような施設があった名残だと伝えられています。延宝6年(1678)の六所明神領の地検帳には「きょう女」の字があてられています。京所のように「京」のつく地名は国府の所在地には多くあります。この地域からは数多くの掘立柱建物跡が検出されており武蔵国国府(国衙)跡として有力なところです。(説明板)

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府中崖線の坂①地獄坂/宮町
この坂の由来は明らかではありませんが昔、この坂道を繁茂した竹や草木がおおいかぶさり、また周囲の木立などがうっそうとして薄暗くそれはあたかも通行する人の心に地獄への未知のようなイメージを与えていたことによるのかもしれません。別名を「暗闇坂」ともいいますがこの名前は坂道の薄暗い状態から由来していると思われます。坂の西側の叢林は55日の暗闇祭で有名な武蔵総社大国魂神社の杜です。(府中市)

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府中崖線の坂②天神坂/宮町
この坂の名は大国魂神社の末社天神社」がまつられている天神山に由来します。この山は「国造山」とも呼ばれています。天神社は普通「てんじんしゃ」と呼ばれ菅原道真を祭神とする天満宮と混同されていますが本来は「あまつかみのやしろ」と呼ぶのが正しいようです。そのためこの神社の祭神は菅原道真ではなく少彦名命です。天神社は古くから人々の信仰をあつめ道の名や地名として今に伝えられています。(府中市)

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府中崖線の坂③普門寺坂/宮町
この坂名は坂の西側にある真言普門寺の寺名に由来します。別名を「薬師の坂」「古墳の坂」といいます。これは普門寺にまつられている薬師如来からついた名のようです。この薬師様は「目の薬師様」として有名で、毎年912日の供養の縁日には大勢の人が「お目玉」をうけにやってきます。「古墳(ふるはか)」の名は寺の北側にあった古い墓にちなんだものといわれます。ここには昔、西蓮寺という寺があったそうです。坂の西側地域は国庁跡の有力地です。(府中市)

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崖線の下は東京競馬場、馬霊塔や石仏が集められています/競馬場通り


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馬霊塔/宮町
馬霊塔は競走馬の供養のために建てられたもので、左右に10数基の墓石が並んでいます。墓石には昭和26年に皐月賞と日本ダービーを制したトキノミノルをはじめオールド競馬ファンには懐かしい歴代の名馬の名前を見つけることができます。(府中観光協会)

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日吉神社鳥居/宮町

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本殿                 参道

天神社
大國魂神社東方約500m宮町3丁目京所の東端・競馬場に面して小高い所にあり、そこを天神山といい欅の巨木数本がある。また別名丸山ともいいその西北隅・日吉神社の北側に鎮座し一間半四方の覆屋をもつ小社が北面する。北面の末社としては本社と共に数少ない社である。天神山は競馬場が移転する以前もっと東方に延び現在の倍以上の岡であった。一説に国造の墳墓跡ともいわれている。新編武蔵風土記稿に「除地二段、小社、祭神少名彦命」とある。この神は大國主命と義兄弟となって国土経営に当たった神として国府に多く祀られている。天神山の東方から南方にかけて天地(天神の転訛)または天神下などという広い範囲に亙る地名がありもとは相当の信仰があった。ここで近藤勇の天然理心流4代目襲名の野試合が行われた。(嘉慶二2の私案抄文中に「総社の摂社と並べ載たる中に天神の宮とある是れなり」と記されている。)(大國魂神社HP)

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普門寺境内/宮町

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普門寺
正しくは大悲山清涼院。本町にある妙光院の末寺です。真言宗豊山派。本堂は以前この地にあった西蓮寺の薬師堂とのことです。1537年権大僧都恵伝法印が室町末期の戦乱で荒廃した寺を再建し、薬師如来を安置し衆生の病患を救い災難を除くよう祈ったとされています。以来普門寺の薬師様は「目の薬師様」として知られ912日の縁日には多くの人が「お目玉」をお供えしてそのお下りをいただき目の病の快復を祈ります。(府中観光協会)

大国魂神社・武蔵国衙跡などの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23803641/


・・・八幡町

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街道の風景②この先崖線を右手方向に下ります/府中競馬場正門前駅

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八幡宿(はちまんしゅく)
八幡宿は現在の八幡町12丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。この村落は六所宮(大国魂神社)の社領に属しており、『新編相模風土記稿』(幕末の地誌)には「六所社領」の小名としてその名が見えます。もともと八幡宿は国府八幡宮の周囲に発達した村落ですが、甲州街道が開設(慶安頃=164852)されたのに伴って街道筋に移動したものです。宿場町のような村名ですが八幡宿は農業を中心とした村落です。地名の起こりはこの地に国府八幡宮が鎮座していることによります。国府八幡宮は由緒深いお宮で聖武天応(在位724749)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。(案内板)

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府中崖線の坂③天地の坂/八幡町
この坂名は昔、坂の下に「天地」の屋号の家水車があったことに由来しているといわれます。このあたりはひところは湧水が多く古地図などにもその名が記されています。そのためハケ下にはワサビ田が広がりその風景は一幅の絵画を見るようだったといわれます。ハケ下には滝も流れ落ちていたといわれ「たきの下」「たきの前」の地名が歴史的に確認されています。昭和の初期ごろまではこれらの湧水を利用した水車が数多くあったそうです。(府中市)

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府中崖線の坂④馬坂/八幡町
この坂の由来は明らかではありませんがすでに明治のころには使われていたといわれています。江戸時代、新宿に「おん馬屋(現八幡町)と呼ばれていた旧家の下氏(しもし)がおりあるいはその坂の名は下氏の俗称「おん馬屋」から由来しているのかも知れません。府中は古くから馬との関わりが深い町で、近世には馬市が盛んに行われています。府中の馬市からは将軍家御用馬や関ヶ原・大阪の役に使用された軍馬が供給されています。(府中市)

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武蔵国府八幡宮二の鳥居/八幡町

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武蔵国府八幡宮
府中市八幡町に位置する神社であり一国一社の八幡宮、武蔵国の国府八幡宮である。祭神は応神天応(誉田別命)、八幡神。総社は当社より西側にある大國魂神社。神社の入口は旧甲州街道に北面しており「武蔵国府八幡宮」と記された石碑と石灯篭、一の鳥居がある。長い参道を南へ進むと半ばに京王競馬場線が横切っている。踏切を渡ると京王電鉄が奉納した二の鳥居と立派な門がある。さらに進んで左(東方)へ折れるとすぐ三の鳥居と手水舎がある。その先右手に社務所、正面に灯篭、狛犬、拝殿がある。本殿は西向きになっている。六所宮に至る京所道が西側、南側を東西に東京競馬場から品川道へ至る「八幡道(やわたみち)」という道がある。Wikipedia

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国府八幡宮(こくぶはちまんぐう)
令制国の国府(府中)の近くに創建された八幡宮である。「府中八幡宮」と称されたり「国分八幡宮」と表記されることもある。国府八幡宮には神社によって国衙の鎮守であると伝えるものと、国分寺の鎮守と伝えるものとがある。一般に国府と国分寺は近くにあることが多く両者が混同されたものもあると見られている。総国分寺である奈良の東大寺の鎮守社が手向山八幡宮であることから各地の国府・国分寺でも八幡宮を鎮守としたとも考えられる。これらの国府八幡宮は国府の近くにあることから後に総社の機能を持つようになったものもある。「一国一社の八幡宮」「一道一社の八幡宮」と称する八幡宮も国府八幡宮に由来するものとされる。Wikipedia

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総社
特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(合祀)神社のことである。日本の律令制において国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。総社の多くは中世にいったん廃れたが、後に再興されたものも多い。ただし今に至るまで再興されずにいるものや、どの神社が総社だったのかわからなくなってしまった国もある。Wikipedia

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江戸名所図会 府中八はた八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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八幡道/八幡宮             八幡道/鳩林角

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八幡道
八幡道(やはたみち)の名はこの道が国府八幡宮のそばを通る事に由来します。江戸時代の古図にもこの名が記されており道筋は北東に向かい品川道と通じていたようです(標柱)
(橙:八幡道 赤:品川道・京所道 紫:旧甲州街道 茶:20号 緑:競馬場通り)



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競馬場通りを横断/清水ヶ丘1      京王線踏切を横断/東府中駅

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府中駅周辺地図
(赤:品川道 橙:旧甲州街道 紫:国道20号・府中街道・競馬場通り)


・・・清水ヶ丘

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街道の風景③ 踏切を渡ると品川街道の標識があります/東府中駅先

2017
年現在「品川道」・「品川街道」と標識で確認が取れるのは府中市内の東府中駅前地点からで、旧甲州街道との分岐点から東である。京王線とほぼ平行しており一里塚脇、白糸台文化センター西交差点、西武多摩川線の白糸台駅南踏切を渡り、所々の道標識を見ながら東へ進み調布市との市境付近まで所々に古い面影が見られる。一里塚は甲州街道であった時代の跡でありかつては六所宮まで続いていた。Wikipedia

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甲州街道常久一里塚跡/清水が丘
一里塚は旅人に里程を知らせるため街道の両側に一里(約4km)毎に築かれた塚で、我が国では江戸時代になり制度として確立した。すなわち慶長9年(1604)徳川家康は江戸日本橋を起点として東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かせそれを全国に普及させた。塚上には塚を固めるため榎をはじめ松や欅などが植えられ、これが旅人にとっては日ざしをさける木かげの休所となった。この常久(つねひさ)一里塚跡は、江戸初期に整備された甲州街道の日本橋から七里のところに設けられた一里塚の跡と伝えられているものである。府中市内ではこのほか日新町1丁目の日本電気株式会社府中事業所内にある一里塚跡が「市史跡 甲州街道本宿一里塚跡」として府中市指定文化財となっている。(府中市教育委員会)

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左側が『武蔵名勝図絵』に描かれた「本宿一里塚(日本電気工場内)、右側は『府中東方面村落古図写し』(享保・元文年間)の常久一里塚/案内板
(赤:品川道 橙:八幡道 紫:旧甲州街道 赤丸:一里塚)


・・・白糸台


現在の白糸台地域は江戸時代には上染谷村、下染谷村、車返村と称されており、車返村古名白糸村といいます。染屋・白糸という地名はその名のとおり製糸布染めに由来するようです。この地域は昔から蚕を飼い絹糸を作っておりそれを世田谷の砧に送り、糸をさらし、それを上染屋、下染屋にまわし糸を染め上げて八王子の織屋に送りこれを国府に納めたものであるという言い伝えがあります。近隣の「調布」「布田」といった地名と由来がよく似ています。(府中市)


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街道の風景④ 右折が多摩霊園駅、子の次の信号を右方向に進みます/九中通り

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上染屋(かみぞめや)
上染屋の集落はもともと多摩川のほとり小字でいえば龍ヶ島・亀沢・鶴代の辺りにありましたが、度重なる洪水を避けて現在の甲州街道沿いの白糸台1丁目の一部に移ったものといわれています。地名の起こりは俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか、鎌倉時代に染殿のあった所とかいわれ、染屋の名は南北朝時代の資料にも見えています。古くは染屋という一つの村落であったものが時期は不明ですが上染屋下染屋に分かれたものです。寛永12年(1635)の検地帳には上染屋の名が記録されています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』に「甲州街道の村にて、民戸五十三軒、往還の左右に並居」とあります。(説明板)

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上染谷不動尊境内/白糸台(旧甲州街道)

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上染谷不動尊
国指定重要文化財の「銅像阿弥陀如来立像」が安置されています。像高48.8cm、台座12cmの小さな仏像で、円満・優美な相貌を持っています。背中の銘から弘長元(1261)年に上州八幡庄(群馬県)の友澄入道によって鋳造されたことがわかります。毎年、東京文化財ウィーク期間中の113日(祝)に一般公開が行われています。(府中市)

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右手から西武線を越えます          左角に庚申塔/府中四小角

品川道/府中4小角

品川道の名はこの道が品川宿へ通じるだったことに由来します。この道は「品川街道」「筏道」などとも呼ばれます。この道筋には一里塚(市史跡)があります。(標柱)

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街道の風景⑤ 住宅地を武蔵台駅に向かいます/白糸台中央公園

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品川道ルート地図(府中~飛田給)
『東京古道散歩』/萩窪圭氏著のルートを参照しました。
(赤:品川道 紫:旧甲州街道)

# by Twalking | 2017-07-23 21:55 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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多摩丘陵/多摩市
雲さん、笑ってる~・・・
少し涼しくなったかな。

# by Twalking | 2017-07-22 21:35 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 黄金の馬-アハルテケ像   

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アハルテケ像
府中競馬正門前駅/府中市


砂漠を懸け抜ける黄金の馬
3000年前の昔、抜群の持久力と暑さに対する抵抗力を備えた馬がイラン北部の砂漠地帯で飼われ始めました。大胆で忍耐強く流麗な走りを見せるこの馬はアハルテケと呼ばれ現在も馬術競技で活躍しています。金色に輝く毛並みを風になびかせて走るアハルテケは、世界で最もめずらしくかつ美しい馬と言えるでしょう。(説明板)

# by Twalking | 2017-07-22 18:33 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 アザミ   

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アザミ
あたご散歩道/多摩市愛宕
おはよ~
元気に咲いてるね、いいぞ~!


アザミ
(薊)
キク科アザミ属及びそれに類する植物の総称。標準和名を単にアザミとする種はない。葉は深い切れ込みがあるものが多い。また葉や総苞にトゲが多く触れれば痛い草の代表である。頭状花序は管状花のみで作られていて、多くのキクのように周囲に花びら状の舌状花がならばない。花からは雄蘂や雌蘂が棒状に突き出し、これも針山のような景色となる。花色は赤柴色や紫色をしている。種子には長い冠毛がある。スコットランドではそのトゲによって外敵から国土を守ったとされ国花となっている。花言葉は「独立、報復、厳格、触れないで」。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-07-22 10:04 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 京王競馬場線   

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京王競馬場線/府中市八幡町
右手が武蔵国府八幡宮、いい森です。
品川道が東府中に向かって通っています。


京王競馬場線

東府中駅と府中競馬正門前駅を結ぶ京王電鉄の鉄道路線。通常運行が行われている複線の鉄道の中では路線距離が0.9 kmと非常に短い。路線名のとおり東京競馬場へのアクセスを目的として敷設された路線で、東府中駅付近をのぞく路線のほとんどが府中市八幡町内にあり、途中で武蔵国府八幡宮の参道を横切っている。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-07-21 23:04 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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木陰
多摩川土手/西河原公園(狛江市元和泉)
うだるような暑さ
ここならいいかな~
いい風、吹いてま~す。

# by Twalking | 2017-07-21 21:35 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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松が谷散歩道/八王子市松が谷
カラットして清々しいですね
吸い込まれそう~。


# by Twalking | 2017-07-20 21:38 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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梅雨明け
山王下緑地/多摩市山王下
う~ん、涼やか~!
なによりですね、
ありがとう~。

# by Twalking | 2017-07-20 11:16 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柴又駅02   

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京成柴又駅/葛飾区柴又
この上りホームから旅に出たんでしょうか
映画のシーンを思い出しまね~・・・。


# by Twalking | 2017-07-19 22:54 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 愛宕切通   

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愛宕切通/多摩市愛宕
いい風、吹いてま~す!
外の方が涼しいですね。


# by Twalking | 2017-07-19 11:14 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鍾馗石造-葛西神社   

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鍾馗石造
葛西神社/葛飾区東金町


葛西神社鐘馗石像
この石造は右手に剣を持ち、左手で小鬼をつかむ立像を浮き彫りにしたものです。像光背の左右には「奉造立 鐘馗為悪魔降伏 金町村施主敬白 念仏講結道交1人 元禄8乙亥717日」の銘があります。銘文から元禄8年(1695)金町村の念仏講の人々が悪魔降伏を祈って結成され、来世での極楽往生を願い庶民の間に広がりました。念仏を勤め会食したり葬儀の際には助け合うなど、村町時代にさかのぼって見られますが、石像は他にほとんど例がなくこの鐘馗製造は大変貴重なものです。材質:石材 大きさ:地上隆11cm 像高:72cm(葛飾区教育委員会)


鍾馗
(しょうき)
主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになった。鍾馗の図像は必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち大きな眼で何かを睨みつけている姿である。京都市内の民家(京町家)など近畿〜中部地方では現在でも大屋根や小屋根の軒先に1020cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-07-18 20:25 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-北小岩八幡神社   

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阿形

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吽形

北小岩八幡神社/佐倉街道(江戸川区北小岩)
青い目をした狛犬さん、
セメント製ですね、昭和8年とありますから
近年ものでしょうか。
どことなくユーモラスで、可愛いですね!

# by Twalking | 2017-07-17 19:40 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ブットレア   

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ブットレア
愛宕下通り/多摩市愛宕
おはよ~!ブットくん
今日も暑くなりそ~・・・
気おつけてね。


フジウツギ属

フジウツギ科の植物の属である。花が美しいので園芸用に栽培され属名からブッドレアと呼ばれることが多い。世界に約100種あり、ほとんどは常緑または落葉性の低木だが、一部に高さ30mに及ぶ高木や草木もある。葉は長さ1-30cmで細長くほとんどは対生。花は長さ1cmどの筒状で、花びらの先が4裂し長さ10-50cmの密な円錐花序をなす。花の色は種類により白、桃色、赤、紫、橙色、黄色などいろいろある。日本にはフジウツギB. japonica とウラジロフジウツギB. curviflora が自生する。フジウツギ(藤空木)の名は花序の様子や色が藤に似ていることから。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-07-17 08:27 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柴又界隈02-金町   

日時 2017.7.8(土)
天気 晴れ

金町は水戸街道なんですね。
古い寺社もありそうなので
ちょっと寄り道してみました。


・・・金町

金町
は古くは金町郷といい下総国香取神宮領の中心地として栄え、古利根川沿いの鎌倉街道に面した町屋が形成されていた。その後、金町屋と呼ばれていた時期を経て後に金町村になる。旧南葛飾郡金町にあたるのは、金町・金町浄水場の全域と東金町(2丁目を除く)、柴又(4567丁目)である。古墳時代には既に拓けていたと考えられており、古墳時代の遺物は半田稲荷神社・金町浄水場工事現場ほか各所から発見され、同時代にはかなりの集落が散在し人々が住みついていたことが伺える。時代を下り飛鳥・奈良時代の711年(和銅4年)に半田稲荷神社が、平安時代の1185年(元歴2年)には葛西神社が創立されておりこれら時代にはある程度の大きさのとなっていた。室町時代の1325年(正中2年)に記された「三浦和田文書」には「下総国金町郷」として地名としての金町の記述が見られる。江戸時代初期の1612年(慶長17年)には江戸幕府により水戸道中の要所として江戸川の渡舟場を利用した関所である「金町松戸御関所」が武蔵国金町村(幕府領)に設置され、以後1869年(明治2年)に関所廃止まで江戸幕府の防備上の機能を果たした。Wikipedia
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江戸川の風景① 江戸川堤Sロードを新葛西橋(6号)へ、右は金町浄水場の第3取水塔です

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金町浄水場
葛飾区金町浄水場(町名・元は旧金町一丁目の一部)にある東京都水道局の浄水場。1926年竣工、原水は江戸川の表流水を導入。1992年にオゾンによる高度浄水処理を開始、加えて高度浄水処理施設(オゾン処理)の完成、水系上流の下水処理能力が向上した。この高度浄水処理された水道水は、残留塩素を除去しボトルウォーター『東京水』として都庁舎をはじめ東京都の施設等で市販されている。処理能力は日量150万m3。(Wikipedia
写真:第2取水塔(昭和16年の築造)

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新葛西橋(BP)上流側に常磐線が走ります

金町BP
葛飾区金町から松戸市小山に至る国道6号のBP道路。葛飾橋から松戸市内を通過する旧国道6(水戸街道)を迂回する目的で建設された。
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葛西神社鳥居/東金町

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葛西神社
旧社格は郷社。金町・東金町を合わせた11町会の総氏神。祭囃子発祥の神社でもある。創建の年代は平安時代末期元暦2年(1185)である。当時は上葛西、下葛西合わせた33郷(現在の行政区分では葛飾区、江戸川区の全域、墨田区、江東区、足立区の一部地域にあたる)の総鎮守として葛西三郎清重公の信仰により香取神社の分霊を祀ったのが始まり。この地は葛西御厨の神域にある。その具体的典拠としては「香取文書」の内鎌倉時代から室町時代にかけての文書に「治承元年丁酉十二月九日 香取造営次第 葛西三郎清重」等を始めとする記述が散見出来る。なお、至徳4年(1387年)の官符によると御厨在住の領家である占部氏に関して「武蔵国猿俣関務事 香取大禰宜長房如先規可令成敗云々」等の記載があり、往還の人馬から関銭等も徴収し神宮の用途に充てていた事が検証出来る。中でも金町・小鮎(小合)・猿俣(猿町)・飯塚の四郷は古来より21年ごとに香取神宮の造営を携わっていた事はこの地との由縁を物語っている。上記の事由から葛西神社(当時は香取宮と称す)が郷内の守護神として祀られたと言われている。祭神:経津主神(ふつぬしのかみ)・日本武尊・德川家康尊(Wikipedia

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葛西清重(きよしげ)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。桓武平氏の流れを汲む秩父氏・豊島氏庶流にあたる葛西氏。源頼朝に従って歴戦し鎌倉幕府初期の重臣になった。初代の奥州総奉行、葛西氏の初代当主である。父の豊島清元は秩父氏の一族・豊島氏の当主で武蔵国に広い所領を有し、下総国葛西御厨(葛飾区)も所領としていた。三男の清重は葛西御厨を相続し葛西三郎と称した。頼朝没後は北条氏に接近し元久2年(1205)の畠山重忠の乱で北条方として参戦し武功を挙げた。建暦3年(1213)の和田合戦でも北条方として武功を挙げている。 清重は北条氏からの信任も特に厚い宿老として鎌倉幕府の初期政治に参加した。(Wikipedia

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葛西御厨
下総国葛飾郡南部にあった伊勢神宮領。現東京都葛飾区・江戸川区一帯。1165年本領主葛西氏が領内33郷を寄進して成立。領家口入職(りょうけくにゅうしき)は当初卜部氏であったがのち神宮外宮(げくう)禰宜度会氏が世襲。(コトバンク)

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史跡葛西神社(葛西ばやし発祥の地)
当社はむかし香取宮と称し、元暦元年(1184)下総国香取神宮の後分霊を勧請し、葛西33郡の総鎮守として創立したものと伝えられ、天正19年(159111月徳川家康より御朱印10石を賜った。享保年間、当社の神官・能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後日「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「はやし」として流行し、今なお当地方の郷土芸能の一つとして伝わり、昭和28年東京都無形文化財に指定され今日に至る(葛飾区・葛飾観光協会)


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葛西神社鐘馗石像(しょうきせき)
この石造は右手に剣を持ち、左手で小鬼をつかむ立像を浮き彫りにしたものです。像光背の左右には「奉造立 鐘馗為悪魔降伏 金町村施主敬白 念仏講結道交1人 元禄8乙亥717日」の銘があります。銘文から元禄8年(1695)金町村の念仏講の人々が悪魔降伏を祈って結成され、来世での極楽往生を願い庶民の間に広がりました。念仏を勤め会食したり葬儀の際には助け合うなど、村町時代にさかのぼって見られますが、石像は他にほとんど例がなくこの鐘馗製造は大変貴重なものです。材質:石材 大きさ:地上隆11cm 像高:72cm(葛飾区教育委員会)

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光増寺山門/東金町 

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光増寺
寺伝によれば当寺は貞応元年(1222)法海が草庵を結んだのを創始とする。元仁元年(12245月、親鸞聖人が常陸の稲田(茨城県笠間市)から西渋江の葛西清重の館(後の四つ木西光寺)へ赴く途中、法海の草庵に一泊し、法海を弟子とし随信房と名づけた。その後、貞永元年(12328月、聖人は再び法海の草庵に泊し、草庵を光増寺と称し、別れるに際して自筆の阿弥陀仏像と三名号を与えた。以来、光増寺は三百余年の間、浄土真宗の法灯を伝えたが、天文7年(1538)および永禄7年(1564)の国府台の合戦に焼失して荒廃した。その後、天正15年(15877月江戸増上寺の僧円蓮社常誉が浄土宗として再興したが、文禄元年(1592)正月また兵火に炎上し慶長年間在誉が再興し、さらに天保3年(1822)と明治16年とに焼亡して多くの寺宝と記録を失い、明治438月の再建を経て昭和49年現在の堂舎に改築された。(葛飾区教育委員会)

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太子堂                俱会堂

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舟形地蔵・道標
元禄7年(1694)7月に建てられたもので中央に地蔵の浮彫、その左側に(そうか迄二里半)、右には(ミキいわつきしおんしミち)とあります。以前はここより30m南の街道ぞいにありました。岩槻慈恩寺は坂東三十三観音霊場の第12番札所として知られ江戸川ぞいの人々の信仰をあつめていました。この道は岩槻慈恩寺道と呼び、舟運が発達するまでは行徳の塩を運ぶ陸路として利用されました。その後慈恩寺へお参りにいく人々の道として賑わいました。「金町村 道行弐百三十五人」と彫られていることから多くの信仰をあつめていた様子がうかがえます。(葛飾区教育委員会)

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この先の左手社叢が半田稲荷神社です/東金町6

都道471号金町線
葛飾区内を通る都道である。全線2車線の道路であり水元公園に行く公園客と周辺住民が利用している。金町バイパスが開通するまで国道6号の一部であった。

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半田稲荷神社鳥居/東金町

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半田稲荷神社葛飾区東金町
にある稲荷神社。和銅4年(711)の創建とも永久年間(1113-17)の創建ともいわれる古社。江戸期には麻疹(ましん・はしか)と安産の神様として知られ歌舞伎や狂言にも描かれている。子供の疱瘡、麻疹、安産祈願の参詣が多く、江戸中期願人坊主という者「葛西金町半田の稲荷疱瘡も軽い麻疹も軽い…」と節面白く全国を謡い踊り歩いたと言われ歌舞伎舞踊で演ぜられている。(Wikipedia

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半田稲荷神社神泉遺構
半田稲荷神社は正確な創建年代などは明らかになっていませんが、享保(171635)の頃には麻疹(はしか)・疱瘡(ほうそう)・安産に霊験ありとして広く信仰されていました。この神泉遺構はかつて涌泉井戸でした。現在、涌泉は渇水し敷石も荒廃していますが、井戸枠には今も注連縄が掛けられ、旧来の形状がよく保存されています。石柵の柱や袖石に刻まれているのは新富町大新をはじめとする寄進者たちの名前です。なかには市川団十郎・尾上菊五郎など新富座の役者の名前も見え、当神社の繁栄を今に伝えています。(葛飾区教育委員会)

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神楽殿                白狐社鳥居

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半田稲荷神社狐一対
左右台座正面には「寛延元年(1748)戌辰11月吉日 海野・塚本・筒井氏」とありますが、側面には「天明8季(1788)戌去月吉日 飯塚桃葉再興」とあります。台座のみの再興か狐を含めての再興かは不明です。向って右の狐は左耳が一部補修され。左の狐はセメントで頭部が造られていますが、区内にある狐の石像としては現在のところ最古のものです。(葛飾区教育委員会)

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江戸名所図会 半田稲荷社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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金蓮院参道

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山門

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金蓮院
永正年間(1504-20)賢秀和尚によって創立。旧門末30余ヵ寺をもった本寺格の寺院である。天正19年(1591)徳川家から10石の朱印状を受けた。寛永19年(1642)火災のため一時荒廃し、万治元年(1658)僧実盛が再興して中興開山となる。享保3年(1718)再び炎上し本堂および多くの寺宝を失ったが元文元年(1736)復興した。寺宝の弘法大師画像は寛永以来のいくたびかの火災の都度、自ら火中から舞い上って境内の巨木にとどまって災害をのがれたので<火伏せの大師>と呼ばれたという。また境内の大羅漢樹(コウヤマキ)は樹高約9.6、幹囲2.7、枝張11-15mを算し、天然記念物として区の文化財に指定されている。(葛飾区教育委員会)

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大師堂                   コウヤマキ

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柴又&金町周辺マップ
(橙:歩行ルート 緑:旧水戸街道 紫:旧佐倉街道 赤:東京W)


・・・・
資料ファイル

江戸川

利根川水系の分流(派川)である。流路延長59.5km(旧江戸川河口より)、流域面積約200km2。茨城県猿島郡五霞町と千葉県野田市の境界付近にある関宿分基点利根川と分かれ、千葉県と埼玉県、東京都の境を南に流れ、千葉県市川市付近で本流である江戸川と旧流路である旧江戸川に分かれる。現在の江戸川の最下流部は放水路として建設され行徳可動堰(江戸川河口堰)を通り千葉県市川市で東京湾に注ぐ。江戸川は古くは太日川太日河(おおいがわまたは ふといがわ)とよばれる渡良瀬川下流部であり、現五霞町元栗橋の西側を南下し権現堂川の河道を通り、古くの下総国葛飾郡の中央を南流し江戸湾(東京湾)へ注いでいた。太日川の西には同じく江戸湾へ南流する利根川並行していた。Wikipedia

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新葛西橋より下流側の景観


川の歴史
幕府の河川計画が生んだ江戸川・中川・綾瀬川
江戸川は400年ほど前までは太日川と呼ばれ、渡良瀬川の水を東京湾へと運んでいました。そう聞くと渡良瀬川は利根川につながっているのでは?と思うかもしれません。でもその当時、利根川は下の図のように太日川の西側を流れ、走水海と呼ばれた現在の東京湾に注いでいたのです。その姿が現在のように変わるのは、徳川家康が江戸に移封された近世初期以降のこと。江戸幕府はさまざまな河川工事を行いましたが、なかでも最大のものが文禄3年(1594)から始まった利根川の流れを江戸の東側に振り向ける「利根川東遷」と呼ばれる大工事でした。60年におよぶ工事の末に利根川は渡良瀬川鬼怒川などの水を集めて銚子で太平洋に注ぐようになったのです。現在の江戸川の流れもこの工事に伴って誕生しました。中川は今も残る古利根川や元荒川などの支川名からもわかるように、利根川東遷以前は利根川荒川本流でした。その後、明治以降の河川改修計画により、江戸川と荒川に囲まれた地域の農業用水路として整備され、さらに新中川の開削、荒川放水路建設を経て現在の姿になりました。綾瀬川も江戸時代以前は荒川の水を流す大河だったと思われますが、江戸幕府成立前後に荒川から分離され以来農業用水路としての役割を担ってきました。(関東地方整備局 江戸川河川事務所HP)

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1000年前の川の流れ。現在の利根川水系の大部分が東京湾に注いでいた様子がわかります/江戸川河川事務所

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現在の川の流れ。利根川の流路を東側に移動することによって、川の流れは現在のようになりました/江戸川河川事務所

(赤:太日川・江戸川 橙:利根川 紺:荒川 青:入間川)



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水戸街道
江戸時代に定められた日本の幹線道路で五街道に準ずる脇街道の一つである。江戸川側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれた。現在、水戸街道は国道6号の墨田区向島〜水戸市までの区間の愛称である。国道6号に対して「水戸街道」と呼ぶ一方、街道筋が新道・バイパスの開通等により国道6号から外れた部分については「旧水戸街道」として区別することが多い。水戸以北は岩城街道(または磐城街道)や岩城相馬街道と呼ばれ岩沼宿で奥州街道と合流し仙台まで続いていた。(Wikipedia

金町松戸関所
江戸幕府
により慶長年間(1596-1615)に水戸街道の江戸防衛の要所として設けられた。金町と対岸の松戸宿を結ぶ江戸川の渡船場を利用した関所である。金町関所とも称される。金町松戸関所は水戸街道に置かれた唯一の関所である。延享2年(1745年)『金町松戸御関所絵図』によると「金町宿のつきる利根川(支流)に越谷川が注ぐ地点で、両面とも川に抱かれたところにごく小規模につくられた」という。Wikipedia

# by Twalking | 2017-07-16 19:53 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 京成高砂駅   

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京成高砂駅/葛飾区
本線の上りですね・・・、
さてさて5番線てどこだろう??
初めてなので迷います。


京成高砂駅

葛飾区高砂5丁目にある京成電鉄・北総鉄道の所属する駅である。京成電鉄の本選・金町線・成田空港線と北総鉄道の北総線が乗り入れている。本線以外の3路線は当駅が起点であるが、このうち京成成田空港線と北総鉄道北総線は京成本線京成上野方面ならびに同線の青砥駅から分岐する京成押上線に直通運転している。また、成田空港線は「成田スカイアクセス線」の愛称が付けられており、旅客案内ではそちらが使われている。大正元年(1912)曲金駅(まがりかねえき)として開業。当初は現在地より小岩寄り、本線と金町線の分岐部にあった。大正2年縁起が悪いこともあり曲金駅を高砂駅に改称した。Wikipedia

# by Twalking | 2017-07-16 16:36 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 松が谷駅   

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多磨モノレール松が谷駅/八王子市
まだ明けませんか???
こりゃ~『夏』でしょう、あっち~。


# by Twalking | 2017-07-15 09:52 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柴又界隈-『TOKYOウオーク2017』   

日時 2017.7.8(土)
天気 晴れ

TOKYOウオーク-柴又の手伝いに行ってきました。
ここはなんといっても帝釈天と寅さんですね。
調べたら旧佐倉街道も通っていました。

早く出て下見を兼ねて主要な所を歩いてみましたが
歴史のある街、下町風情があって面白いですね。
渡しに乗って対岸も良さそうです。

真夏日のウオーク、江戸川土手は仕方ありませんが
木陰に入るとホット一息です。無理しないように
様子を見ながら歩きましたが、無事終わってよかったです。


・・・柴又/葛飾区


古くから題経寺柴又帝釈天)の門前町として知られていたが、映画『男はつらいよ』の舞台となったことでさらに広く認知されるようになった。江戸川の西岸に位置し、対岸の松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船「矢切の渡し」の渡し場がある。概ね住宅地からなり、北には金町が隣接し北東に金町浄水場が立地する。東は江戸川の対岸に千葉県の下矢切、南に鎌倉、西に高砂と新宿がある。帝釈天界隈は環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。
Wikipedia

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「寅さん」像と「見送るさくら」像が迎えてくれます/柴又駅前

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柴又帝釈天参道
柴又という地名は極めて古い。奈良の正倉院文書「養老5年(721下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」の中に嶋俣(しままた)とあり、42戸の家と370人の住民がいたことが既に記されている。現在の柴又という文字が文献にあらわれるのは江戸時代の正保元年(1644)「正保改定国図」が初めてである。(案内板)


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人車鉄道
明治32年(1899)葛飾に人車鉄道という珍しい交通機関が誕生した。常磐線金町駅前から柴又・帝釈天までの約1.4kmをハッピ姿の押夫が、定員6名の人車を汗をふきふき押すというのんびりした乗り物であった。(案内板)

下総国葛飾郡大嶋郷戸籍
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年(養老5年)に作成された「正倉院古文書正集第21巻」に収録されたもので、奈良・東大寺の正倉院に残存する古代の戸籍のひとつ。資料によれば大嶋郷は甲和里、仲村里、嶋俣里からなる郷となっている。律令国家では690年(持統天皇4年)の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)の後、50戸を単位として里別に戸籍を作成してきたが、715年(霊亀元年)に郷里制を施行してそれまでの里を郷と称して、郷を約3つの里に区分した。そして従来の里長(郷長)に加えて里正を置いて行政の末端を強化し班田収受や課役徴収を効率的に行える体制を整えた。この戸籍中に姓は「孔王部(あなほべ)」名は「刀良(とら)」という33歳の男性と、別の世帯に同姓の「佐久良賣(さくらめ)」という34歳の女性の名がある。これらが映画「男はつらいよ」の主人公とその妹と同じ名ということで話題になった。
比定地としては、江戸川区小岩、葛飾区水元小合町、同区柴又のいずれも太日川(江戸川)の自然堤防上。埼玉県幸手市(旧・上高野村)の甲和里、杉戸町(旧・下高野村及び大島村)の仲村里、久喜市(旧・鷲宮村)字穴辺の嶋俣里の地域などの説がある。Wikipedia

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柴又八幡神社/柴又

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柴又八幡神社
「新編武蔵風土記稿」柴又村の条に「八幡社 村ノ鎮守ナリ 真勝院持」、「東京府志料」柴又村の条には「柴又八幡神社 村ノ鎮守ナリ。末社四宇アリ。社地九十坪」とある。柴又は「正倉院文書」の「養老5年(721下総国葛飾郡大島郷戸籍」に見える<島俣里>に比定される古地名であり、当社の本殿古墳の上に建てられている。社殿は寛永10年(1633)・宝暦3年(1753)・天明7年(1787)・寛政11年(1856)・大正15年・昭和2年・同7年の再建または修築を経て、昭和435月現在の社殿が造営された。(葛飾区教育委員会)
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鳥俣塚

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柴又八幡神社の古文石室
柴又八幡神社の社殿裏手に古墳の石組らしきものが露呈していたことから、いつのころか古墳ではないかといわれてきました。昭和40年(1965)から何度も調査を行った結果、今の社殿を中心として直径20mから30mの規模を存する円墳であることがわかり、社殿裏手の石組は遺体を安置する石室であるこことが判明しました。古墳の周りには溝が掘られ、円筒埴輪や人物や馬などの形象埴輪がめぐらされていたこともわかりました。出土した遺物は埴輪のほか直刀・馬具・鉄鏃・須恵器などがあり、出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)に構築されたものと考えられます。平成14年この古墳周りにはりめぐらされた溝から「寅さん埴輪」が出土しました。東京低地では石室を伴う古墳は本例のみで、この地域の古墳文化を研究するうえで貴重な考古学資料です。(葛飾区教育委員会)

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柴又帝釈天参道

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柴又帝釈天参道
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)その右手前に釈迦堂(開山堂)本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく建物は大部分が明治以降の建築である。
Wikipedia

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柴又帝釈天二天門
二天門
明治29年(1896)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。Wikipedia

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帝釈堂

二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915)、拝殿はッ昭和4年(1929)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されているWikipedia

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柴又帝釈天
正式名称は経栄山題経寺(だいきょうじ)である。旧本山は大本山中山法華経寺。親師法縁。なお「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、地元では題経寺の略称として用られることも多い。江戸時代初期の寛永6年(1629)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』を始め多くの文芸作品に登場し東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。

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20世紀後半以降は人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるが、当寺の日蓮宗寺院としての本尊は帝釈天ではなく、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。(Wikipedia

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祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。


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釈迦堂(開山堂)
江戸時代末期に建立された寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と開山日栄・中興の祖日敬の木像を安置する。Wikipedia



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邃渓園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965)向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができるWikipedia



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東京都選定歴史的建造物
設計者:大工棟梁 鈴木源治郎 建築年:昭和4年(1929帝釈天題経寺は寛永年間に創建された日蓮宗の寺院で、境内には文化・文政の頃の釈迦堂をはじめ明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。北側の和風庭園(邃渓園・すいけいえん)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和4(1929)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。建物は木造、平屋建、総檜造りで屋根は入母屋、桟瓦葦き。ガラス障子の広縁を巡らし、縁の正面中央に張り出し部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には近江の伊吹山山麓にあった「日本一」と言われる大南天の床柱がある。(東京都生活文化局)

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帝釈天出現由来碑
この碑は安永8年(1779)題経寺本堂改修の時発見した日蓮上人自刻の帝釈天板本尊を後世に伝えるため、弘化2年(1845)俳人・鈴木松什および壇徒・石渡忠右衛門等などが協力しその由来を記し併せて帝釈天の功徳を述べている。碑の総高は1.48m、撰文は宮沢雉神遊、書は荻原翬、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の整ったものは明治29年(1896)に作成されたが本碑はそれ以前における由緒資料として貴重である。(葛飾区立教育委員会)

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山本亭
建築された年は不明であるが、大正末期から昭和初期に作られたとされている。浅草でカメラの部品を製造していた合資会社山本工場が関東大震災で被害を受けたため、柴又に移転した際に瓦業者の屋敷の跡となっていたものを取得し、改修したものである。山本家が4代に渡って住んでいたが、1988年に葛飾区の所有となり1991年から一般公開された。Wikipedia

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江戸川の風景① いい流れですね~、すぐ上流に「矢切の渡し」場があります/柴又公園

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柴又公園
柴又公園は日本庭園のある山本亭や寅さん記念館を含み、葛飾区の観光名所の一つになっています。また、江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場として利用されています。(葛飾区)


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矢切の渡し
矢切の地名は江戸川の渡し舟として有名な矢切の渡しの由来でもある。江戸川をはさむ矢切と葛飾区柴又を結んでおり、現在も渡し舟が運行されている。「房総の魅力500選」に選定されているほか柴又帝釈天界隈とともに環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったがその後民営となり、代々個人により運営されている。この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。また、矢切の対岸柴又を舞台とする映画「男はつらいよ」シリーズの作中にもしばしば登場する。Wikipedia)

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柴又観光マップ


・・・北小岩/
江戸川区


江戸川区北東部に位置し同区の最北端にあたる。周辺の西小岩、東小岩、南小岩との総称で「小岩」と呼称することもある。町域の大半に住宅市街地が広がり、町域を南北に分断する形で京成電鉄の線路が東西に走る。江戸川河川敷には小岩緑地があるが鉄道橋を除いて対岸の千葉県と連絡する橋は北小岩が接する江戸川沿い約2km
で国道14号の市川橋のみである。(Wikipedia

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江戸川の風景② この少し下流から江戸川区、対岸は松戸市になります/北総線江戸川橋梁

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北総線
葛飾区の京成高砂駅と千葉県印西市の印旛日本医大駅を結ぶ北総鉄道が運営する鉄道路線である。京成高砂駅を出ると高架橋へと上がり、大きく左へカーブして高架のシェルターを抜けると新柴又駅へと到着する。住宅地を抜けると江戸川橋梁を渡り松戸市へと入るが田園風景が広がる。線路はすぐに下総台地の下に掘られた栗山トンネルへ進入し矢切駅へと至る。この先北国分駅-松飛台駅間は地形上、台地と低地が入り組む谷津田(丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形)が多いためトンネルと高架が連続する高低差の大きい線形となる。(Wikipedia

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八幡神社鳥居/北小岩

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八幡神社
祭神は誉田別尊、相殿に倉稲魂尊をまつっています。創建は不詳ですが、元禄8年(1695)の記録には神社の名がみられます。



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地蔵菩薩像庚申塔(戸川区登録有形民俗文化財)
この地蔵は、詩人として知られる北原白秋縁の三谷の地にあって三谷地蔵として親しまれ、現在は境内右奥にある社務所の中に安置されています。銘文から万治元年(1658)庚申供養のために造立したことが知られます。庚申塔は、60日に1度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が天帝に罪過を告げ命を縮めるという中国の道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建てられました。

北原白秋の歌碑
いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月
明治から昭和にかけて高雅な詩や歌で有名な北原白秋(18851942)は、大正5年(191632歳の時)7月から約1年間、妻章子とともにこの小岩村字三谷の乾草商富田家の離れに居を構えました。ここを「紫烟草舎」(現在、市川市里見公園内に復元建設)と名付け、葛飾の風土や刃傷に見守られながら、短歌雑誌「煙草の花」を創刊したり数多い短歌や詩、小品集などの素材を得ました。昭和36年(1961)地元小岩町(現在の北小岩)の人びとは、白秋がこの江戸川べりの農村に住み、風物を愛したことをしのび八幡神社の境内に彼の歌碑を建てました。(江戸川区教育委員会)


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小岩3中から小岩公園を経て旧佐倉街道へ向かいます

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上小岩井親水緑道
北小岩地域を中央に流れていた北小岩川は明治11年に農業用水路として開削されたのち、市街化が進む中で、家庭からの排水が流れ込む排水路となりましたが、蓋をかけて歩行者用通路として地域の方々に利用されてきました。その後、下水道整備により、その役割は終えましたが、その跡地を利用して、四季を感じさせる樹木を植え、小川のせせらぎを演出した上小岩親水緑道を整備しました。また、このあたりは、弥生時代後期から古墳時代にかけての史跡(上小岩遺跡群)が見つかっており、上小岩遺跡のモニュメントや土器が描かれたマンホールを設置しています。(江戸川区)

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旧佐倉街道を新柴又駅方向へ向かいます/北小岩

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親水さくら街道
この道は江戸時代「佐倉街道」と呼ばれ、千住より小岩を経て千葉、佐倉に至る参勤交代の道筋として、江戸末期には成田詣りの道として利用されてきました。また、明治時代になると長年水不足に苦しんでいた農民のため、石井善兵衛氏が中心となり江戸川の水を取り入れ灌漑用水路を完成させました。その後、農業用水路から排水路となり下水道整備によって役目を終えたため、このような歴史的由緒ある水路を活かしつつ桜並木の美しい散策路として親水さくらかいどうを整備しました。(江戸川区)

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佐倉街道
江戸時代の脇往還の一つで佐倉城を終点とするもの。江戸時代史ではその2つの佐倉街道を区別するために便宜上、水戸街道新宿の追分~佐倉を結ぶ佐倉街道を「水戸佐倉道」、寒川湊(現在の千葉港)と佐倉を結ぶ佐倉街道を「千葉佐倉道」と呼び分ける場合がある。江戸幕府が公式に「佐倉道」「佐倉街道」と命名したのは水戸街道新宿から佐倉城までの街道。しかしこの街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い文化年間頃より「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになった。現在千葉道路愛称名により「成田街道」と呼ばれているのはこの江戸幕府公式の佐倉街道のことである。東京都内については水戸街道の新宿追分より南方に分岐して新金線・京成金町線・北総鉄道・柴又街道と順次交差しリフレ京成新柴又店北側道路を経て江戸川土手に至る。千葉県に渡ったのちは市川宿船橋宿大和田宿(八千代市)・臼井宿(佐倉市)を経て目的地の佐倉に至る。その延長線上に芝山を経て九十九里浜あるいは多古を経て佐原に至る多古街道があり、酒々井で左折すると酒々井宿(佐々井町)を経て成田に至る成田道が続いていた。(Wikipedia


・・・鎌倉
/葛飾区

もと鎌倉新田といい正保改定図に初見される。1499年(明応8年)の板曼荼羅が発掘され曼荼羅村とも呼ばれた。1889年(明治22年)南葛飾郡奥戸村の所属となり奥戸村大字鎌倉となる。1930年(昭和5年)には奥戸村が町制施行し奥戸町へ移行、1932年(昭和7年)奥戸町が東京市に編入され大字鎌倉は葛飾区鎌倉町となり昭和41年の住居表示で現在に至る。地名は
いくつかの言い伝えがあり、相模国鎌倉郡にある鎌倉八幡宮から勧請して八幡宮をこの地に置いたのでついた説、相模国鎌倉郡から来た源右衛門がこの地を開発したことからついた説などがある。Wikipedia

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東稲荷神社鳥居/鎌倉

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東稲荷神社
祭神は倉稲魂命。「新編武蔵風土記稿」鎌倉新田の条に、稲荷社ニ宇、同新田浄光院の持とするうちの一社で、鎌倉三丁目の「赤稲荷神社」に対して、「東の稲荷」と呼ばれている。(葛飾区)



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鎌倉公園
鎌倉公園にはプール、遊具、野草園があり、子どもから大人まで楽しめます。鎌倉公園に隣接する北総線高架下の鎌倉児童遊園は遊具コーナーとなっています。(葛飾区)

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柴又街道を帝釈天参道へと向かいます/新柴又駅先


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新柴又駅               帝釈天参道信号


都道307号王子金町江戸川線

北区王子駅前から江戸川区南篠崎町2丁目に至る主要地方道である。柴又街道は金町三丁目交差点-終点までの愛称。Wikipedia

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TOKYOウオーク・子供ウオークコースマップ(5km)

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TOKYOウオーク・スターティング風景/柴又公園 

『TOKYOウオーク2017』の概要・日程等はこちらへ(http://www.tokyo-walk.jp/

# by Twalking | 2017-07-14 19:34 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ヤブカンゾウ   

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ヤブカンゾウ
多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園
夏の花が咲きそろってきましたね~
梅雨明け、まだかな??


藪萱草(やぶかんぞ)
ユリ科の多年草。ワスレグサ(忘草)ともいう。花は八重咲きで大陸産のホンカンゾウの品種とされているが、その起源については不明の点も多い。根は先端部が紡錘状に肥厚する。葉は根生し左右2列に並び、長さ4060cm。葉幅はやや広く4cmに達し、広線形で無毛、全縁。花茎は高さ0.71m、数枚の小さな包葉があり、茎頂は典型的な二又分枝を示し、黄褐色で赤色の斑紋(はんもん)がある花を数個つける。78月に開花するが、三倍体であり結実はしない。日本から中国にかけて広く分布し、平地や丘陵地の斜面、林縁などに生育する。(コトバンク)

# by Twalking | 2017-07-14 12:06 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多磨モノがゆく   

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多磨モノレール/八王子市松が谷
ちっと暑いけど
いい風吹いてま~す。

# by Twalking | 2017-07-14 10:03 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 愛宕坂   

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愛宕坂/愛宕通り(多摩市・八王子市境)
木陰から
でたくないな~・・・・。

# by Twalking | 2017-07-13 20:08 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 クルマユリ   

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クルマユリ
愛宕下通り/多摩市愛宕
おはよ~!寅ちゃん
こないだ会ってきたよ~
関係ないか、君とは。


クルマユリ
(車百合)
ユリ科ユリ属の多年草。白色の鱗茎は球形で直径約2 cm、茎の高さは30-100cm。花の大きさは5-6cm茎の上部に1-数個が互生する。6枚の花被片はオレンジ色で濃紅色の斑点がある。花粉は赤褐色。花期は7-8月。葉が茎の中央部で6-15枚輪生しその上部に3-4枚まばらにつく。和名は茎に輪生する葉を車輪の輻(や・スポーク)にたとえたことに由来する。Wikipedia

# by Twalking | 2017-07-13 13:14 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 町屋駅   

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京成電鉄町屋駅/荒川区
へ~、高架駅なんですね、
初めてなのでちんぷんかんぷんです。


町屋駅

荒川区荒川7丁目および町屋1目にある京成電鉄・東京メトロの駅である。京成電鉄の本線と東京メトロの千代田線の2路線が乗り入れ接続駅となっている。当駅からの京成電鉄の列車は北総鉄道北総線、芝山鉄道芝山鉄道線との直通運転を行っている。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-07-12 21:47 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 代々木上原駅   

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千代田線代々木上原駅/渋谷区
随分とスマートな車輛ですね
乗り心地も良かったですよ~。
早く帰れそうです。


代々木上原駅

渋谷区西原3丁目にある小田急電鉄・東京メトロの駅である。小田急電鉄の小田原線と東京メトロの千代田線が乗り入れている。千代田線は当駅が終点であるが一部の列車が当駅を介して小田原線と相互直通運転を行っている。駅開設当時の「代々幡上原」は当時の地名(東京府豊多摩郡代々幡村大字上原・「代々木」の「代々」と「幡ヶ谷」の「幡」とをつなげた合成地名)に由来するものである。現在の「代々木上原」は昭和7年、東京市15区に隣接する582町村の東京市への編入によって、渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併して東京市渋谷区が成立した際に変更された住所である「東京府東京市渋谷区代々木上原町」から後日変更したものである。Wikipedia

# by Twalking | 2017-07-12 19:01 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり新宿~四谷02-四谷   

日時 2017.7.6(木)
天気 晴れ

甲州街道は麴町台地の上を行きますが、
この辺りは両側に谷戸が入り込んだ地形、
坂道が多い所です。

それに外濠の造成で移された寺社が多く
ちょっとした寺町が形成されています。
坂とお寺、散策には面白い所ですね。



・・・四谷

今日四谷地区という明確に線引きされた地区が存在するわけではないが、行政サービスに於いては新宿区四谷特別出張所管区域界、四谷警察署管轄区域を指し、これらはほぼ新宿区発足直前の旧四谷区域に準じている。他にも四谷の総鎮守である須賀神社の氏子区域とする見方もあり、実際にはおよそ旧四谷区域のうち新宿区地区と明治神宮外苑一帯をのぞいた地区(おおむね、靖国通り(北)・JR線(南東)・外苑西通り(西)に囲まれた地区とその周辺)の総称である。(Wikipedia


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街道の風景① 外苑西通りを越えると四谷です/四谷4丁目

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長善寺(笹寺)山門
/四谷


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長善寺(笹寺)
新宿区四谷にある曹洞宗の寺院。甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄の家臣であった高坂昌信が天正3年(1575)に建てたを起源とするが、開山の憐学は寛永9年(1632)に没していることからそれまでには寺院として成立していたものと思われる。同寺は江戸幕府により寛永11年(1634)以降に四谷の地に寺院が多く移る前から、同地に開かれていた寺院ということになる。長善寺は別名笹寺とも呼ばれ、これは二代将軍の德川秀忠ないしは三代将軍徳川家光のどちらかが名づけたとも言われているが確証はない。いずれにしても境内に笹が繁っていたことに由来するという見方が有力である。本尊の釈迦尿来像は元禄年間の作で寺宝となっている。「めのう観音」(新宿区指定文化財)は徳川秀忠の字念仏であったとも伝わる。また、同寺には「四谷勧進角力始祖」と刻まれた大きな石碑がある。これは江戸時代の伝説的な力士・明石志賀之助が寛永元年に境内で6日間の相撲興行をしたのを記念して作られたものである(Wikipedia

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長善寺(笹寺)のめのう観音像
赤めのうで彫られた珍しい観世音菩薩像である。像高4.9cmの小像であるが容貌は豊麗で精密な作品である。黄銅製の光背が付され、宝形造の屋根をもち、正面下に蓮華、左右下部に笹寺に因んだ笹の浮彫りがある台座に安置されている。本像は二代将軍徳川秀忠の念持仏を夫人の祟源院から賜ったものと伝えられている。(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 篠寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・左門町


左門町は江戸時代には鶴屋南北による怪談話『東海道四谷怪談』に登場する「お岩」が居住していた地としても知られている。当地には「お岩」を祀った於岩稲荷が存在するが、史実としてお岩自身は一般的に「四谷怪談」で知られるような恐ろしい女性ではなく、大変仲睦まじい夫婦であり良く働き家庭を支え続けた健気な女性であったといわれている。地名の由来はこの地に江戸幕府の千手組組頭・諏訪左門組屋敷があったことにちなんでいる。(Wikipedia

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四谷於岩稲荷田宮神社鳥居/左門町


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田宮稲荷神社跡(東京都旧跡)
文化文政期に江戸文化は爛熟期に達しいわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政12年(18291127日歿)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祀ったお岩稲荷神社旧地である。物語は文政10年(182710月名主茂八郎が町の伝説を集録して町奉行に提出した。「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治5年ごろお岩神社を田宮稲荷改称し、火災で一時移転(中央区新川の四谷於岩稲荷田宮神社)したが、昭和27年再びここに移転したものである。(東京都教育委員会)

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陽運寺山門/左門町


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由来の事
江戸時代、文政87月歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、於岩様庶民の畏敬を受け当山その由縁の所として現在に至ったが、戦災に遇い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した。棟札には宝暦7年とある。於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉、墓は元鮫ヶ橋にあったが、現在は移転し巣鴨新庚申塚(妙行寺)にある。当堂内には於岩様御尊像奉祀され参拝者祈願の対象となり境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある(陽運寺)

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お岩さま縁の井戸           お岩稲荷霊堂再建記念碑

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お岩稲荷
現在、四谷左門町には於岩稲荷田宮神社於岩稲荷陽運寺が道を挟んで両側にある。また、中央区新川にも於岩稲荷田宮神社がある。四谷の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)は明治12年(1879)の火災によって焼失して中央区新川移った。新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが戦後再建され、また四谷の旧地にも再興された。また、陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院であるが、境内に「お岩さま縁の井戸」がある。元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物が無くなって困った地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この時本部に祀ったお岩尊という小祠が大きくなったのが陽雲寺の成り立ちである。お岩稲荷が複数もできる要因としては単純に儲かるから。歌舞伎俳優は元より、お岩の浮気に対して見せた怨念から、男の浮気封じに効くとして花柳界からの信仰を集めたため賽銭の他に土産物などで地元経済が潤ったからである。なお、お岩の「お墓」が巣鴨の妙行寺(明治時代に四谷から移転)にある。恐らくは2代目田宮伊右衛門の妻の墓だろうと推測される(Wikipedia


・・・須賀町

最初に須賀町が成立したのは1872年(明治5年)のことであった。その後1878年(明治11年)四谷区が成立して「四谷須賀町」となり、1911(明治44年)には四谷の冠が外されて現在の名称「須賀町」となった。地名は町域内の須賀神社に由来する。(Wikipedia

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本性寺山門/須賀町

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本性寺
日蓮宗。八の日が縁日で戦前までは四谷の毘沙門様として賑わいをみせていました。毘沙門堂の建築年代は言い伝えによると元禄頃とされているが明らかではありません。礼堂と毘沙門堂からなり、礼堂は桁行(間口)二間、梁間(奥行き)三間、屋根は入母屋造りで瓦葺、向拝(入り口のひさし)一間付き。東側に一間通りの下屋をおろしています。毘沙門堂は桁行二間、梁間二間、屋根は切妻造、瓦葺、礼堂に向かって土扉が開かれる。山門は毘沙門堂と同じ頃の建立と伝えられています。形式は薬医門、瓦葺、袖塀潜戸付きです。冠木上に架かる男梁(冠木に直角に交叉する長い梁)や虹梁を二重にした堂々たる山門である。塙保己一の師で国学者の萩原宗固の墓もあります。(新宿区観光振興協会)

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本性院と北向き開運毘沙門天
平等山本性寺の宗旨は日蓮宗。下総國小平宿平賀(千葉県松戸市)本土寺末寺で、設立の縁起は家康の江戸入府に従って来た三河の郷土三田佐兵衛尉守綱(妙傳院殿蓮向日香大居士)が麹町9丁目あたり営んでいた隠居所を寛永18年(1641)観智院日泳上人に譲渡し、三田氏の没後寛文10年(1670)その菩提を弔うため本性院が設立されました。この山門と正面にある毘沙門堂は戦災に焼け残った四谷では数少ない貴重な建築物である。双方とも総ケヤキ、釘を一本も使わない切組造り手斧削りで建造年代は元禄頃とされている。毘沙門堂に安置されている毘沙門天像はもと江戸城本丸にあったもので太田道灌時代から伝わっているとされ、五代将軍綱吉の側室春麗院殿の発願により堂とともに本寺に寄進された。この像は別名 「北向き毘沙門天」といわれ徳川家康が北方の仙台伊達氏が謀反を起こさぬよう北方の守護神・毘沙門天を北向きに安置して祈願したという伝説がある。以来江戸庶民の尊崇を集め、福運財運のご利益が顕著なので開運毘沙門天として一般の篤い帰依と信仰の的となっております。(説明板)

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萩原宗固の墓(新宿区指定文化財)
江戸時代中期の国学者・歌人は萩原宗固(1703-84)の墓地。平成6年に改葬整備され、宗固の養父母の墓石が並べて建てられている。宗固は市ヶ谷本村町の生まれ。享保から天明(1716-1780年代)に国学者・歌人として活躍し、門人として国学者で「群書類従」を編纂した塙保己一や老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信など著名な人物を養成した。特に塙保己一(1746-1821)は「群書類従」の編纂に宗固の蔵書等を参考にするなど大きな影響を受けたという。宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど新宿とのつながりの深い学者である。(新宿区教育委員会)

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須賀神社参道/須賀町
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須賀神社鳥居

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須賀神社
旧社格は郷社。四谷18ヵ町の総鎮守。神紋は「抱き稲に左三つ巴」。江戸時代には四谷鎮守の天王様として信仰を集めた。主祭神は須佐之男命(須賀大神)、宇迦能御魂命(稲荷大神)。主祭神の左右には五男神(天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命)、三女神(多紀理姫命、市杵島姫命、多岐都姫命)が祀られている。須賀神社の始まりは寛永11年(1634)赤坂一ツ木村の清水谷にあった稲荷神社を江戸外堀普請のため四谷に遷座したことであるとされる。寛永14年(1637)日本橋大伝馬町の鎮守として神田明神摂社に祀られていた牛頭天王(須佐之男命と習合)を合祀したことにより江戸時代には「稲荷天王」「四谷牛頭天王社」と称されていたが、明治元年(1868)の神仏分離により社号を改めた。今も授与品の茅の輪守や近隣の地名(天王坂(東福院坂)天王横丁)などから往時の信仰を偲ぶことができる。須賀神社には新宿区指定有形文化財(絵画)に指定されている三十六歌仙絵がある。この絵は天保7年(1836)に大岡雲峰の絵と千種有功の書により製作、奉納された。(Wikipedia

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須賀神社の三十六歌仙絵
三十六歌仙は平安時代中期の公卿藤原公任(966-1041)が、過去および同時代の優れた歌人三十六人を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・小野小町ら33名が選ばれている。須賀神社の三十六歌仙絵は三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したものを額装の上社殿内に掲げている。当時画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰(1764-1848)の絵と和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797-1854)の書により、天保7年(1836)に完成・奉納されたものである。四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つである。(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 四谷牛頭天王社 
(
わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・若葉

町内の谷筋一帯は戦前まで鮫河橋(さめがはし)と呼ばれ、江戸時代初期には火葬場の所在地であった。江戸時代から続く「三大貧民窟」の一つで代々木の非人頭久兵衛の支配下にあった。なお、江戸時代には貧民街、つまりスラムは若葉に存在していないし、代々木の非人久兵衛の支配下は現在の代々木である。(塩見鮮一郎『弾左衛門とその時代』)
「若葉」の地名は、東京都制が施行された1943(昭和18年)それまでの「鮫河橋谷町」や「元鮫河橋南町」などの町名を廃止して新たに制定されたものである。Wikipedia

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坂下                 坂上の東福院

東福院坂 (天王坂)
坂の途中にある阿詳山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。(新宿区教育委員会)

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愛染院山門/若葉

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愛染院案内
山号:獨鈷山光明寺 本尊:大日如来 宗派:真言宗豊山派 総本山:長谷寺(奈良県桜井市初瀬)宗祖:弘法大師(空海)
文政寺社書上に拠れば「当時開闢之儀は人王52代嵯峨天皇御宇弘仁年中弘法大師関東弘法之為当国に一宇御建立今之麻布善福寺之地也然に当院は右奥之院にて御守本尊五指量愛染尊を安置し大日如来よりは祖相承の獨鈷を納め給故に山号を獨鈷山と申候。愛染尊は秘法にて不能住職之僧も拝其後星霜相移り年月相知れ不申候」と伝えて、その由来することの頗る古きを語て、慶長当時の開山正斎(寛永15125日寂)はその中興と称して居る(昭和9年発行の四谷区史)

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高松喜六の墓
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。喜六は当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16km)の高井戸であり、大変不便であったので元禄10年(1679)同志4人とともに幕府に内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。翌年許可がおり喜六は宿場開設資金5600両を納め問屋・本陣を経営した。正徳3年(17138月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。墓石は高さ80cmで右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常と刻まれている。(新宿区教育委員会)

塙保己一の墓

「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享3年(1746)現在の埼玉県児玉郡保木野村に生まれた。姓は萩野、幼名は辰之助といった。5歳で病にかかり、7歳で失明したが13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となりその本姓塙をもらった。優れた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。天明3年(1783)検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけた。寛政5年(1793)には和学講談所を開設し、幕府の援助も受け書籍の収集と門人の指導にあたった。文政2年(1819)群書類従を完成させ、同4年(1821)には総検校となったが、同年9月「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年76歳であった。墓所は最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103cmである。(新宿区教育委員会)


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西念寺山門/若葉

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西念寺
専称山西念寺は1593年(文禄2年)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山されました。服部半蔵は徳川家康の重臣で、槍の名人、忍びの達人として知られております。家康には築山御前との間に武勇に勝れる長子信康がありましたが、それゆえに織田信長の目を引く所となり、信長は愛娘を嫁がせ一族とし二女がありました。しかし、それでも織田家は信康への警戒心を解くことができず、噂にすぎぬ信康の乱心を理由にその義父でありながら信長は、信康の切腹を家康に要求しました(この時21歳)。家康は断腸の思いで天下人信長の非常な命令に従い、最愛の子に切腹を言い渡しました。その介錯を任ぜられたのが服部半蔵でした。が、いかに主君の命とはいえついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じまた信康の冥福を祈るため仏門に入りました。1590年(天正18年)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになりました。半蔵も主君に随伴しましたが、信康の霊を弔うため剃髪し名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送りました。1593年(文禄2年)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されております。しかし、寺院建立を果たさず文禄41114日、55歳で逝去しました。法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。その後、同所に一宇の建立がなりましたが、山号と寺号はこの法名からとり「専称山安養院西念寺」となりました。1634年(寛永11年)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため全ての寺院の移転が命じられ、現在地に移転しました。1945年戦火で全焼失しましたが、昭和3611月本堂を再建しました。(西念寺縁起)

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服部半蔵の墓
服部半蔵(1542-96)は本名を正成といい徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。「鬼の半蔵」として知られ元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、天正18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8000石を賜り、同年の家康の入城後は江戸城西門近くに居を構え城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。半蔵は天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する介錯役を命じられた。しかしこれを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し仏門に帰依した。文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命を受けたが慶長元年」(159611月、55歳で没した。西念寺は半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転したものである。(新宿区教育委員会)

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岡崎三郎信康供養塔
西念寺を開山した服部半蔵が徳川家康の長男・信康(岡崎三郎信康)の菩提をとむらうため文禄2年(1593)に建立した五輪塔形の供養塔で高さは269cmである。信康は永禄2年(1559)に生まれ、幼少時は今川家の人質として駿府で過ごした。永禄10年(1567)に岡崎に帰り、織田信長の娘をめとり、元亀元年(1570)に岡崎城主となったが、天正7年(1579)に武田勝頼と内通したとの嫌疑により家康から切腹を命じられた。服部半蔵はこの時介錯を果たせず、後に信康の供養のため出家した。なお、西念寺には「岡崎信康廟修補記」が残されており、文化11年(1814)に補修が行われたことがわかる。(新宿区教育委員会)

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街道の風景② 外濠通りを渡ると四谷駅です/四谷1丁目

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街道の風景③ 四谷見附橋を渡り、振り返って見る景色です/四谷駅前

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四谷見附橋
麹町六丁目から新宿区に通じる麹町大通り(新宿通り)にある橋です。大正2年(1913910日に始めて架設した橋で長さ38.6m、幅22mでした。東宮御所(現迎賓館)の近くなので橋の装飾にフランス式手法を採用するなど豪華な橋でした。現在の橋は平成3年(1991)に完成、長さ44.4m、幅40mの鋼橋です。その際JR四ッ谷駅舎が改築され、駅前広場も整備され四ッ谷見附橋一帯は面目を一新しました。(千代田区観光協会)

四谷見附橋遺構(長池公園)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23582343/

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四谷3丁目付近マップ(赤:甲州街道(新宿通り) 橙:歩行ルート)



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資料ファイル

四谷見附

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四ツ谷駅麴町口に残る石垣


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国史跡 
江戸城外堀跡・四谷見附
四谷見附は外麹町口、四谷口門、山手御門などとも呼ばれ、江戸時代には半蔵門を起点とする甲州道中にあり、江戸城の西の玄関口として江戸城防御のための城門でした。寛永13(1636)に長州萩藩主毛利秀就によって城門石垣が作られ、寛永16(1639)が建築されました。その構造は現在の新四谷見附橋に高麗門を置き、右折する位置に渡櫓を配置した枡形門でした。また、明治初期の写真によると高麗門左手の石垣上には稲荷が置かれ樹木が植えられていました。この門は明治5年(1872)に渡櫓が撤廃され、明治32(1899))枡形石垣の多くが撤去され現在は一部しか残っていません。四谷駅麹町口やこの広場の発掘調査によってかっての枡形門の跡をイメージするため黒色タイルの舗装によって範囲を示しました。(千代田区)
写真:四谷門/Wikipedia

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新四谷見附橋
江戸時代、江戸城外郭門の一つ四谷門のあった所です。この橋も寛永年間(16241644)に始めて架けられた橋といわれています。古くは四谷見附門橋といわれていました。JR四ッ谷駅の北側を六番町・麹町六丁目から新宿区に通じる橋です。橋を渡る右手前(千代田区側)には四谷門の枡形の石垣の一部が残されています。現在の橋は大正14年(19251025日に架設、長さ38.9m、幅16.4mの鋼橋です。この橋と市ヶ谷橋との間の市ヶ谷濠は新四ッ谷見附橋寄り約半分が埋め立てられ、外濠総合グラウンドその他になっています。またこの橋の上流も喰違見附跡まで埋め立てられていますから新四谷見附橋や次の四谷見附橋は陸橋になっています。(千代田区観光協会)


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国指定史跡・江戸城外堀跡
江戸城外郭の堀跡である。JR中央線に沿い飯田橋から市ヶ谷・四谷を経て赤坂見附方面に延びており現在、水を湛えているのは飯田橋~市ヶ谷間、市ヶ谷~四谷間の一部と赤坂見附の弁慶堀だけである。3代将軍徳川家光の命により寛永131636)江戸城最後の大修築工事としてこの外堀が造られた。神田川赤坂溜池など自然の水利を活用し神田川~溜池間は新たにが造成された。現在、国指定史跡に指定されているのはその範囲で新宿・千代田・港の3区の境界にあたる地域である。堀普請は奥羽・関東の諸大名が普請を命じられ、主に市ヶ谷長延寺谷などの自然の地形を活用し、掘り取られた土砂は九段・麹町・番町などで土塁を築いたり築地・佃島を造成するため江戸湾埋め立てるのに利用した。また、現在の飯田橋付近に設けられた神楽河岸までは神田川を利用して江戸湾から船が運航できた。外堀には要所に10箇所(城門)が設けられ西国の諸大名が普請を命じられた。このうち史跡内にあるものは牛込見附(飯田橋駅西口)・市ヶ谷見附(市ヶ谷駅前)・四谷見附(四ツ谷駅麹町口)・喰違見附(迎賓館~紀尾井町間)・赤坂見5つである。見附には敵の直進を防ぐため進路を互い違いにした喰い違いや2つの門を組み合わせた枡形が造られ、番所を設けて門番を置いた。明治以後、外堀の一部は甲武鉄道(現在のJR中央線)の敷地となり、第二次大戦後四ツ谷駅周辺は埋め立てられ外濠公園や上智大学のグランドとして使用されている。なお、営団地下鉄丸ノ内線の新宿~池袋間が開通しここ四ツ谷駅が開業したのは昭和343月のことである。

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四谷見附
四谷見附は山口藩主毛利秀就が普請を命じられ寛永16年(1639)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年に撤去され現在は石垣がのこるだけである。当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入りする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城外郭に入る。明治以後、このような喰い違い構造が交通に障害となったため明治44年四谷見附橋建設が着工され大正2年に完成した(平成3年に架け替え)(丸ノ内線四ツ谷駅案内板)

外濠(四谷~水道橋)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21934262/

外濠(筋違い・赤坂見附)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21880874/

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四谷見附交差点から麴町方向の景観/新宿通り

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四谷(歴史)
江戸時代以前には後の内藤新宿町のあたりまでを含めて潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原などと呼ばれるすすき原であった。「よつや」という言葉が文献上に初めて登場するのは1590(天正18年)に内藤清成が記述した『天正日記』である。その後徳川家康が甲州街道と青梅街道を設置した際、その途中に設けられたのが四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)でこれが地名としてはじめてつけられた「四谷」である。1634年江戸城西北に外堀を設置することになり、立ち退きを余儀なくされた麹町地区寺社群が四谷地区に移転しはじめた。須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはこの集団移転によるものである。外堀が完成したのは1636年。堀の岸は石垣で築かれ、併せて見附(警備のための城門)が設けられた。今日JR四ッ谷駅付近に見られる四谷見附跡(千代田区六番町)は当時の名残のひとつである。寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ商人職人の活動が栄えた。これに加え1657年の明暦の大火は江戸市街の三分の二を焼失するほどの規模だったため、大火を逃れ四谷地区などの外堀周辺に移り住んだ人も少なくなかったといわれている。四谷地区は徐々に江戸市中に組み込まれ郊外地区から都市部へと変貌していった。1894年甲武鉄道(現在のJR中央線)の市街地延伸(すでに立川-新宿間は開通済み)により四ツ谷駅と信濃町駅が開業。原材料や商品の輸送が容易になり、眞崎鉛筆(三菱鉛筆の前身)や岩井商会・村井商会の煙草など四谷地区の製造業は飛躍的に発展した。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-07-12 11:51 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柴又駅   

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柴又駅/葛飾区柴又
なんだか見慣れた風景のよう
寅さんの映画でお馴染みですね。
ぶらりと旅にでるかな・・・、でしょうか。


柴又駅

葛飾区柴又4丁目にある京成電鉄金町線の駅。相対式ホーム22線を有する地上駅。ホーム有効長は6両編成分であるが、傾城金町駅のホーム有効長が4両編成分であることから発着する列車はすべて4両編成である。2010年までは当駅-京成高砂駅間は複線で列車交換も一部時間帯でのみ行われていた。成田スカイアクセス開業に伴う高砂駅東側の踏切の遮断時間短縮のために、同年から京成高砂駅の金町線ホームが高架化され、高砂方が単線並列(ただし1本は入・出庫線)となり、早朝と深夜を除くほとんどの時間帯に当駅で列車交換が行われるようになった。金町側は単線となっている。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-07-11 13:10 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 セミ   

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乞田川/多摩市落合
あれ、せみくんかな・・・
まだ鳴き声はしないけど
夏、近いですね~。

# by Twalking | 2017-07-11 10:27 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり新宿~四谷01-内藤新宿   

日時 2017.7.6(木)
天気 晴れ

お昼に飯田橋で会食があるので、
その前にぶらりと甲州街道を歩いてみました。
街道歩きの第一歩が甲州街道でしたので
やはりこの一帯は懐かしい道です。


・・・内藤新宿


江戸の北西部、武蔵国豊島郡に設置された甲州道中の宿駅で、江戸周辺の品川(東海道)千住(日光道中)板橋(中山道)とともに四宿と呼ばれた。現在の新宿区新宿13丁目一帯。江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛ほか4人の出願によって1698(元禄11)に置かれた新しい宿駅である。宿はずれの追分で青梅街道を分岐し、両者の第1宿を兼ねる。江戸日本橋まで2(8km足らず)、西の次の宿へは甲州道中の下高井戸宿まで2里、青梅街道の中野村まで20(2km)である。(コトバンク)


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街道の風景① 左が甲州街道、直進が青梅街道です/新宿追分(新宿3丁目・伊勢丹前)

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追分
道が二つに分かれる場所をさす言葉である。もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味したが、そこから街道の分岐点も意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分や、中山道と北国街道の分岐である信濃追分など各地に地名として残っている。Wikipedia)橙:甲州街道 茶:青梅街道 青:玉川上水


・・・新宿2丁目


北は靖国通り南は新宿御苑に挟まれた町である。靖国通り沿いと新宿通り沿いはオフィスビルや店舗・マンションなどが立ち並ぶ一般的な街であるが、靖国通りと新宿通りを結ぶ新宿2丁目仲通り(かつては六間通り・広小路とも称した)や御苑大通り(旧称「栄通り」)から太宗寺方面に伸び仲通りと直交する不動通り、さつき通り、花園通り(柳通りとも称する)周辺に同性愛者向けのバーやクラブなどが集中しゲイ・タウンとして知られている。江戸時代に宿場(内藤新宿宿)が置かれたことを起源とし史跡が存在する。Wikipedia

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やはり面白いのは裏通りですね、店は変わったけど飲みにいきました/末広通り

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街道の風景② 右が新宿御苑、左が新宿2丁目です/新宿2丁目(新宿通り)

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太宗寺境内/新宿2丁目

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太宗寺/新宿2丁目
新宿区新宿2丁目にある浄土宗の寺院である。山号は霞関山、院号は本覚院。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば慶長元年(1596)ごろに僧・太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身である。寛永6年(1629)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、寛文8年(1668)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建された。

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院号は正勝法名を拝している。元禄4年(1691)内藤氏は信濃高遠藩へ移封されたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれた。内藤氏の墓地は約300坪の広大なものであったが昭和27年(1952)から行われた区画整理で縮小された。5代目当主正勝など3基の墓石が現存する。かつては境内北側に水が湧いており池があったが、昭和25年(1950)境内北側は都市計画公園として新宿区に移管され新宿区立新宿公園となっている。公園になった際に池は埋め立てられたが、その後も池跡から水が湧き出ており、水景施設が造られている。

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境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番がある。また、この寺には閻魔像奪衣婆(だつえば)像が安置されており江戸時代から庶民に信仰されてきた。他に新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」などがある。
Wikipedia





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銅造地蔵菩薩坐像
江戸時代の前期に江戸に出入口6ヶ所に造立された「六地蔵」のひとつです。銅造で像高は267cm、正徳2年(17129月に「江戸六地蔵」の3番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。「江戸六地蔵」は深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は72,000名以上におよんでいました。この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。品川寺、品川区南品川3-5-17、宝永5年(1708)造立 東禅寺、台東区東浅草2-12-13、宝永7年(1710)造立 真性寺、豊島区巣鴨3-21-21、正徳4年(1714)造立 霊厳寺、江東区白河1-3-32、享保2年(1717)造立 永代寺、江東区富岡1-15-1、享保5年(1720)造立(新宿区教育委員会掲示)

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閻魔像
木造彩色、総高550cmにもおよぶ巨像で、目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子どものしつけのため参拝されたりしました。文化11年(1814)に安置されたとされ製作もその頃のことと推定されます。しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため製作当初の部分は頭部を残すだけとなっています。江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめ、かつては薮入り(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わいました。また、弘化4年(184735日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。なお、閻魔堂正面にかかる「閻魔殿」の額は中国清朝の官吏秋氏が嘉永3年(1850)に奉納したものです。現在はお盆の715日・16日に御開扉されています。新宿区指定有形民族文化財(説明板)

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奪衣婆像(だつえばぞう)
閻魔堂内左手に安置されている坐像です。木造彩色で総高は240cm、明治3年(1870)の製作と伝えられます。奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。この像でも右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。また、衣をはぐところから内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰されました。新宿区指定有形民俗文化財(説明板)


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三日月不動像
額の上に銀製の三日月をもつため通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。銅造で像高は194cm、火炎光背の総高は243cm。江戸時代の作ですが製作年・作者などは不明です。寺伝によればこの像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。なお、額上の三日月は「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上の屋根には窓が取り付けられ、空を望むことができます。(新宿区教育委員会)

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新宿山の手七福神
布袋尊像新宿山の手七福神は昭和初期に有志により創設されたもので太宗寺(布袋尊)・鬼王神社(恵比須神)・永福寺(福禄寿)・厳島神社(弁財天)法善寺(寿老人)・経王寺(大黒天)・善國寺(毘沙門天)の7ヶ所となっています。布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護像です。(新宿区教育委員会)

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内藤正勝の墓(内藤家墓所)
江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄4年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。現在の墓所は、昭和27年(1952)東京都の区 画整理事業に伴い、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬したもので、約300坪・57基の墓塔を現存の3基に改葬し、改装記念碑を建立しました。墓塔は3基とも法篋院塔で、中央が5代内藤正勝(寛永6年造立)、右側が13代内藤頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっており、このうち内藤正勝の墓は区指定史跡に指定されています。太宗寺は、寛永6年(1628)にこの内藤正勝が葬られ、6代内藤重頼が寺地を寄進し起立したものですが、正徳4年(17147代内藤清枚が葬られて以後此処を歴代の墓所とし、当主のほか一族が葬られました。新宿区指定史跡(説明板)


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内藤新宿太宗寺の文化財
太宗寺は慶長年間初頭(1596頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高遠藩主内藤家菩提寺として発展した寺院です。かつての内藤新宿の仲町に位置し「内藤新宿の閻魔」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像・奪衣婆像や江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。ミニ博物館「内藤新宿太宗寺の文化財」では太宗寺に伝えられる文化財や内藤新宿の歴史などを紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。(新宿ミニ博物館)


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この小道は憩えますね/内藤新宿散歩道(新宿御苑)


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新宿御苑
もともと江戸時代に信濃高遠藩内藤家下屋敷のあった敷地である。1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなったが、第二次世界大戦後は一般に公開され現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている。例年4月上旬には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催される。大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある。(Wikipedia

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玉川上水・内藤新宿散歩道
水散歩道の延長は約540mあり「旧新宿門」「大銀杏」「大木戸」から成り、水源には国道20号新宿御苑トンネル内の共同溝に湧出した地下水を利用しています。水路底には粘土を使用し自然な流水を再現しました。また、既存の樹木を生かしながら林床には武蔵野の雑木林で生育する草木類を中心に栽植しています。新宿御苑の雄大な自然と四季折々の変化とあわせて散策をお楽しみください。(新宿区)赤:散歩道 橙:甲州街道 青:玉川上水

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玉川上水の生い立ちと新宿
玉川上水は江戸の飲料水を確保するため玉川兄弟の手により承応3年(1654)年に開設されました。取水口である多摩川の羽村堰(羽村市)から四谷大木戸(現四谷4丁目交差点付近)まで約43kmの区間は、土を掘り抜いただけの開渠で造られました。四谷大木戸から市中へは石や木で造られた水道管を通じて水を供給し、淀橋浄水場の完成した明治311898)年頃まで江戸・東京の人々にとって貴重な水資源でした。新宿区では四谷大木戸に水番所があり上水の管理を行っていました。また、四谷見附付近では江戸城本丸、吹上御殿、市中の武家や町人の屋敷へ供給する分水の分水路となっていました。これらの地域は上水管理上のうえで大変重要な役割を担っていたことがわかります。(説明板)

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玉川上水を管理する水番屋
江戸の貴重な水資源を守るため玉川入水は厳重に管理が行われていました。上水で魚を捕ることや水浴びすること、洗いものをすることが禁じられていました。このため流域の村々の利用は厳しく制限され羽村代田村(現杉並区)、四谷大木戸には水番屋が設置され水質や異物の監視を行っていました。四谷大木戸の水番屋は構内の総坪数が630坪(約20822)余りあり、流れてきたごみを止める「芥留・あくたどめ」満水時に渋谷川へ排出する「吐水門」暗渠へ入る「水門」がありました。「水門」では水量を測定する「歩板」が設けられ、この板と水面までの間隔から水量の増減を調べました。(説明板)


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街道の風景③ 新宿御苑側に「水道碑記」「四谷大木戸碑」が建ちます/四谷4丁目手前

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水道碑記(すいどうのいしぶみのき)
神田上水と玉川上水の由来を記した記念碑です。高さ460cm、幅230cm。両上水の建設理由や玉川上水建設に貢献した玉川庄右衛門・清右衛門の事績を称える内容が記されています。日本橋在住の西座真治の出願によるもので、当初は日本橋・一石橋両橋の橋台地付近に建設する計画でした。しかし、その旨を警視庁に出願したところ「元来水道記念碑を設置する場所は水道に縁故ある土地を以ってすべき」として許可されませんでした。そこで、水道に関係ある場所として玉川上水水番所があった四谷大木戸の現在地に設置されることとなりました。明治18年(1885)に完成予定でしたが真治の急逝により資金が尽きてしまいます。建設計画は一時中断したが10年後の明治28年に完成しました。篆額は徳川慶喜の隠退に伴い徳川宗家を相続した徳川家達(いえさと)(18631940)。撰者は旧鹿児島藩士の肝付兼武。書丹は幕末の志士で明治政府の官僚となり、書家でもあった金井之恭(ゆきやす)(18331907、号は金洞)。鐫刻(せんこく)は広群鶴と並ぶ明治時代の石工で駒込肴町の井亀泉(せいきせん)こと酒井八右衛門によります。(東京都文化財データベース)

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四谷大木戸碑
四谷大木戸碑は昭和3411月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られて記念碑です。実際の大木戸の位置はこれより80m東四谷四丁目交差点の所で、東京都の指定旧跡に指定されています。(新宿区)

史跡玉川上水水番所跡
玉川上水は多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通しました。水番所には水番1名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持しました。(新宿区)

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江戸名所図会 四谷大木戸 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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新宿御苑周辺地図
(赤:甲州街道・青梅街道 赤丸:新宿追分 青:玉川上水)




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資料ファイル

新宿
1698年に信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられたのが「新宿」の始まりであるが、新宿と内藤氏とのつながりは豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の1590年(天正18年)7月にさかのぼる。三河時代より徳川家康の小姓として仕えていた内藤清成は、家康の入府に先立ち後北条氏残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた現在の新宿2丁目付近に陣を敷いた。この功が認められ清成は付近一帯を拝領し中屋敷(現在の新宿御苑、上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったとされる)を構えた。清成が率いていた鉄砲隊は1602年(慶長7年)に伊賀組鉄砲は役人組として大久保に配置され百人町の名のもととなっている。

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新宿の誕生
甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場の高井戸までは距離があり旅人は難儀をしていた。そのうち現在の新宿2丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより大宗寺門前の町屋ができこれを内藤宿と呼ぶようになった。「宿」とはいっても正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現:青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたのでそのように呼び習わすこととなったという。1697年(元禄10年)、甲州街道における新たな宿場の必要性や行楽地づくりを念頭に、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ほか同志4人が5,600両の上納とともに宿場開設を願い出て、翌年内藤家の中屋敷の一部を利用して宿場が開設され内藤新宿と称される。ここから新宿の名が誕生した。宿場開設を申し出た喜兵衛は高松喜六と名乗り、高松家は代々新宿の名主を務めた。

宿場としての発展

この新宿は玉川上水の水番所が置かれていた四谷大木戸から西、現在の新宿駅付近までの街道沿いに広がっていた。新宿追分(新宿追分・現在の新宿3丁目交差点付近)からは青梅街道も分岐しており、やがて品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展した。その結果、岡場所(非公認の売春宿)なども繁盛して「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。このころ太宗寺は江戸六地蔵のひとつに数えられ庶民の信仰を集めていた。また成覚寺は遊女などの投げ込み寺であった。Wikipedia

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江戸名所図会 四谷内藤新宿 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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四谷大木戸
元和2年(1616)江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが、寛政4年(1792)以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)。文政12年(1829)成立の「江戸名所図会」には、木戸撤去後の人馬や籠などの行き交う様子が描かれている。大木戸近くには承応2年(1653)に完成した玉川上水の四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。また、元禄12年(1699)には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されている。明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となったため明治9年(1878)に撤去されてしまい現在では何も残っていない。(Wikipedia




# by Twalking | 2017-07-10 20:35 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ハイビスカス   

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ハイビスカス/多摩市愛宕
お~、よく伸びて
勢いのあること
夏だね~、ハイビスカスくん。


ハイビスカス

ブッソウゲ(仏桑花)とも。観賞用に温室で栽培されるアオイ科の常緑低木で、原産地は不明であるが雑種起源との説もある。葉は濃緑色で広卵〜卵形、縁にあらい鋸歯(きょし)がある。(コトバンク)

# by Twalking | 2017-07-10 14:39 | ○Flower