無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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鶴牧東公園/多摩市鶴牧
北風にゆらゆらと
物腰柔らかくでしょうか
愛おしいですね~。

# by Twalking | 2017-11-22 10:25 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩センター駅(夜景)   

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多摩センター駅/モノレールホーム(多摩市)
多摩モノレールのホームから撮ってみました。
左が京王線、右が小田急線&パルテノン大通りです。
見慣れた景色ですが、ちょっと新鮮な感じも。


# by Twalking | 2017-11-21 19:09 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の秋09   

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メタセコイア通り/多摩市鶴牧
「生きている化石」とか・・・
美しいですね~、もう、最高で~す!


メタセコイア
スギ科の落葉高木。アケボノスギともいう。化石学者三木茂が1941年に日本産の化石を規準標本として、スギ科の新属としてメタセコイア属を創設しその化石に M. distichaと命名した。このメタセコイア属の植物は当時絶滅したものと推定されていたが、46年に中国四川省の磨刀渓でメタセコイアの現生種が発見され「生きている化石」として学界の注目をひいた。湿地に生えているので中国名は水彩という。小さな線形の葉を名羽状に密に対生し、落葉するときはヌマスギと同様に枝ごと落ちるので一見羽状複葉のようにみえる。玉果、鱗片および葉がいずれも十字対生をする点で従来のスギ科のものと異なり、挿木によって簡単にふえ生長が速いので現在は世界各地で栽培されている。(コトバンク)


# by Twalking | 2017-11-21 15:17 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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日高夕景
鎌倉街道/日高市旭ヶ丘
綺麗な夕日だこと
秋の日は釣瓶落し・・・
あと少し、夕日と駈けっこですね~。


# by Twalking | 2017-11-20 19:41 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-大國魂神社   

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阿形

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吽形

大國魂神社東門/府中市宮町
京所通り側の東門の狛犬、
昭和に入ってから奉納されたようですが、
顔立ちがはっきりしていますね。


# by Twalking | 2017-11-20 16:03 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スマイルトレイン   

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玉川上水駅/立川市境
拝島線でやっと乗れました~・・・
記念に一枚撮っておきます。

# by Twalking | 2017-11-19 19:28 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 オオモミジ   

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旧冨澤家庭園/多摩中央公園(多摩市)
風は冷たいけどいいお天気です。
鮮やかなモミジですね~、気持いい。
多摩のモミジはこれからです。


オオモミジ(大紅葉)

カエデ科の落葉中高木。イロハモミジに次いで日本の代表的なカエデで園芸品種も多い。イロハモミジに比べ葉がやや大きく、鋸歯(きょし)は一般に規則的な細かい単鋸歯。北海道、本州、四国、九州の主として温帯山地に分布する。変種ヤマモミジは葉が79裂し粗い重鋸歯をもつ。青森県から福井県までの日本海側山地に分布する。イロハモミジやオオモミジの野生のものを園芸品種に対比させ単にヤマモミジということがあるが分類学上は正しくない。(コトバンク)


# by Twalking | 2017-11-19 16:14 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ゆず   

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多摩市豊ヶ丘
どんよりとした寒い朝
きょうはあったかな鍋がいいな~・・・
ね~、ゆずさん。

# by Twalking | 2017-11-19 10:24 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-大國魂神社   

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阿形


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吽形

大國魂神社/府中市宮町
大鳥居から入った随神門脇の狛犬ですが、
いずれも子連れ、どっしりとしていい感じ、
天保10年に奉納されたものだそうです。

# by Twalking | 2017-11-18 23:17 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多磨霊園駅   

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京王線多磨霊園駅/府中市
いつもは東郷寺通りの踏切からみますが、
構内にはいったのは久し振りです。
綺麗な駅になりましたね~。


多磨霊園駅

府中市清水が丘三丁目にある京王線の駅である。相対式ホーム22線を有する地上駅、それまでは改札内に地下通路を有していたが2010年より新設の橋上駅舎の供用が開始された。改札口は橋上駅舎内2階にあり、各ホームおよび北口・南口の地上との間にエスカレーターとエレベーターが設置されている。駅周辺一帯は府中崖線を南にひかえた武蔵野台地の南端に当たる。府中崖線と駅北側の甲州街道がそれぞれ京王線と平行して東西に走り、その間に商店街が形成されている。(Wikipedia



# by Twalking | 2017-11-18 18:38 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『歩いて知ろう わがまち府中2017』下見   

日時 2017.11.16(木)
天気 晴れ


府中市ウオーキング大会の下見に出かけてきました。
冷え込んだ朝ですが清々しいお天気、
府中の深まりゆく秋の風景を満喫しました。

大会当日に向けて準備作業も着々と進んでいます。
コースも5つ、お好みに合わせて歩けますよ~、
府中の秋、ご一緒に如何でしょう?!
お持ちしてま~す。

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メーン会場はケヤキ並木です。当日は「府中マルシェ」(おもしろ市場)も開催されますよ~/府中駅前

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「分倍河原古戦場」碑(国指定史跡)の立つ新田川緑道/新田川公園

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コースの一番北側・多喜窪通りか「武蔵国分尼寺史蹟」へ下ります/黒金公園 

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黒沢作品「羅生門」のモデルとなった東郷寺山門/東郷寺坂

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「小柳散歩道」から小柳公園へ

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多摩川もすっかり秋の装い/多摩川風の道

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妙光寺東山門から大国魂神社へ/競馬場通り


・・・・・

府中ウオーキング大会
『歩いて知ろう わがまち府中2017』概要

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開催日時: 2017.11.26(日)
   受付開始 8:30~ スタート9:10頃~ 最終Gは15:30まで
(各コースの時間はパンフで)

主催者: 府中市 

後援: 東京都 府中市体育協会 府中商工会議所 府中観光協会他

メーン会場: 府中駅ケヤキ並木フォーリス前

コース設定
 いけいけ20kmコース  
 るんるん13kmコース  
 ファミリー6kmコース(以上フリーウオーク)
 歴史ガイド6kmコース(ガイドウオーク)  
 ポールウオーキング9kmコース(ポールウオーキング協会) の5コースがあります

尚、ウオーキング大会の詳細については実行委員会事務局(府中市スポーツ振興課内 042-335-4477)にお問い合わせください。

# by Twalking | 2017-11-18 14:02 | DogWarkig&セミナー(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 本川越駅   

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西武新宿線本川越駅/川越市
ツアーの案内で武蔵野線乗り換えで降りたことはあります。
他のルートもありそうなので駅員さんに聞きながらルート散策、
川越市駅までは近いですね・・・、使ってみようと思います。


本川越駅

川越市新富町一丁目にある西武鉄道新宿線の駅である。「時の鐘と蔵のまち」という副駅名が2012年から付けられている。頭端式ホーム23線を有する地上駅で、東武鉄道東上線の川越市駅は当駅から西に約350mのところに、東武東上線とJR東日本川越線の川越駅は南東に約950mのところにある。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-11-17 22:14 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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府中ケヤキ並木/府中市本町
朝の陽射しに煌めいて、清々しい
この参道、秋もいいですね~
いい日和です。

# by Twalking | 2017-11-16 21:27 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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妙光院山門/府中市本町
鬱蒼とした樹林にさす朝日
ぞくっとするような美しさです。
朝早くお参りした甲斐がありました。



# by Twalking | 2017-11-16 19:52 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-霞野神社   

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阿形


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吽形

霞野神社/鎌倉街道(日高市女影)
小振りですががっちりとた体系、
ちょっとユーモラスな感じもあって
味がありますね~。


# by Twalking | 2017-11-15 20:34 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の秋08   

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愛宕坂/愛宕通り(多摩市愛宕)
今が盛りと、真っ赤に燃えてます。
トウカエデの並木道、美しいですね~。


# by Twalking | 2017-11-15 14:49 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東武越生線   

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東武越生線/坂戸駅(坂戸市)
ローカル線かな・・・、
と思ってましたら通学の学生さんで満員
いやびっくりしました~。


越生線

坂戸市の坂戸駅と入間郡越生町の越生駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。定期・臨時列車合わせて坂戸駅-越生駅間を運行する普通列車のみが運行される。おおむね平日朝ラッシュ時は10分間隔、平日帰宅ラッシュ時と土休日朝時間帯は12分間隔、平日の日中と土休日の午前中以降は15分間隔での運転である。上下列車の交換は主に一本松駅と武州長瀬駅で行われるがラッシュ時は川角駅と東毛呂駅でも行われる。平日朝をのぞき坂戸駅で東上本線の急行または快速と接続している。全線でワンマン運転を実施している。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-11-14 21:53 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(7)入曽~西大家02-女影   

日時 2017.11.7(火)
天気 晴れ

入間川を渡り台地上を北へ進みます。
途中の智光山自然公園は武蔵野の面影が残るいい谷戸です。
日光脇往還を横断して女影ヶ原、ここは古戦場。

女影からは2ルートありますが霞神社~鎌倉街道踏切へ。
住宅地なので道が分かりにくく迷いました。
その先の縄手道はこれぞ鎌倉街道、いい道が残ります。

案内標識がないので不安がありますが、要所を繋いで
なんとか日暮れ前に西大谷駅に到着しました。
この先もこんな感じでしょうか・・・、面白そうです。



・・・柏原(村)/狭山市

埼玉県の南西部、入間郡に属していた村で当初は高麗郡所属であった。1889
(明治22年)町村制施行により以前の柏原村を継承し高麗郡柏原村が成立、1896年(明治29年)高麗郡が入間郡と統合し入間郡となる。1954(昭和29年)入間川町、入間村、堀兼村、奥富村、水富村と合併し狭山市を新設する。Wikipedia

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街道の風景① 入間川を渡り前方の台地へ上ります

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新富士見橋先広瀬東を右折       次の信号左折します

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街道の風景② 入間川低地から入間台地へ上ります、右手に影隠地蔵さん/信濃坂


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影隠地蔵(市指定文化財史跡)/奥州街道入口
この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手に追われる身となったとき、難を避ける目的で一時的にその姿を隠したためといわれています。義高は源義仲(木曽義仲)の嫡男で義仲が源頼朝と対立していた際、和睦のために人質として差し出され頼朝の娘である大姫と結婚しました。政略結婚とはいえ二人は幼いながらも大変仲がよかったと伝えられています。その後、義仲と頼朝は再び対立し後白河法皇の命を受けた頼朝は、弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ義仲は敗れて討たれました。義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで鎌倉からのがれ、父義仲の出生地でもあり関係の深かかった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、生まれ故郷である信濃国(長野県)へ向いました。しかし、頼朝は将来の禍根を恐れ娘婿の義高に追手を放ちました。命を狙われた義高は元暦元年(11844月、この入間川の地まできたときに追手の堀藤次親家らに追いつかれ、一度はこの地蔵尊の陰で難をのがれたものの、ついには捕えられ藤内光澄に斬られたといわれています。地蔵尊はかつて木像地蔵堂がありその中に安置されていました。道路の拡張により現在の場所へ移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。また、石の地蔵尊になったのは明治7年(1874)のことで、明治政府がとった廃仏毀釈により木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、義高の悲劇をあわれんだ村人が建てたともいわれているなど、変わり行く時代の中でも影隠地蔵はその歴史を後世に伝えています。(狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会)

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石橋供養塔
安永3年(1774
『南江戸道・北小川道・西八わうじ道』

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信濃坂標柱と案内板






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歴史の道・鎌倉街道
鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちがその栄枯盛衰の物語を踏みつけた道として、またさまざまな文化の交流の場として利用され狭山市の歴史の展開に大きな役割を果たした道です。狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう通称「上道」があり、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には堀兼神社前を通る道があります。このほか「秩父道」などと呼ばれる間道や脇道もあります。また、逆に「信濃街道」「奥州道」といった鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。(狭山市)

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狭山工業団地を過ぎると右手に智光山自然公園、日高との境です、いい谷戸ですね/(柏原)

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智光山自然公園/柏原
総面積53.8ha、東京ドーム約11個分の広大な敷地にアカマツ、コナラ、クヌギなど武蔵野の豊かな自然をそのまま生かして作られた大規模な都市公園(総合公園)で、市街地から車で5分ほどのところにあります。公園内にはこども動物園をはじめ市民総合体育館、都市緑化植物園、市営ヘラ鮒釣場「智光公園前山の池」などがあり市民の憩いの場所となっています。(狭山市)


・・・日高市

埼玉県
の南西部にある人口約57千人の市である。ヒガンバナの名所・巾着田で知られる。市東部は関東平野西端に位置しおおむね平坦であるが、市西部は外秩父山地の東麓であり丘陵地が広がっている。そのため西部を中心にゴルフ場が点在している。豊かな自然が残る日和田山、巾着田周辺はハイキングコースがよく整備されており1年を通して東京近辺から多くのハイキング客が訪れる。Wikipedia

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街道の風景③ 圏央道を潜り南湖畔川を渡ります/大谷原(大下橋)

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右手は日高CC            日光脇往還(407号)/鎌倉街道信号

国道407

足利市(南大町・国道50号)から入間市(河原町・16号)に至る一般国道である。埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫し、関東平野西端を走っている事もあり、国道129号や16号と組み合わせ神奈川県西部や多摩地域から埼玉県西部、群馬県方面に向かうルートとして利用されている。地域によっては八王子街道日光街道などとも呼ばれている。Wikipedia


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日光脇往還/鎌倉街道信号(高萩)
江戸時代に鴻巣の追分まで中山道と街道を同じくし、ここで分岐袋村(吹上町)・行田上新郷(羽生市)・利根川を川俣の渡しで越え、館林佐野栃木今市と経て日光街道に合流する街道である。またの名は「日光裏街道」。沿道では日光道などと呼ばれていたが、日光街道と区別するために千人同心街道、日光火の番街道、八王子街道館林道などとも呼ばれた。八王子千人同心が日光勤番のために整備した八王子から日光へ至る40(約160km)の脇往還に属する街道とも一部重なる。現在でも日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407は「日光街道杉並木」という名称で杉並木が残っている。なお、佐野宿より先は日光例幣使街道、楡木宿より先は壬生通りと共通となる。(宿場)拝島宿(昭島市)→箱根ヶ崎宿(瑞穂町)二本木宿(入間市)扇町屋宿(入間市)黒須宿(入間市)根岸宿(狭山市)高萩宿(日高市)坂戸宿(坂戸市)高坂宿(東松山市)松山宿(東松山市)吹上宿(鴻巣市)忍宿((行田市)川俣宿(邑楽郡明和町)館林宿(館林市)天明宿(佐野市)冨田宿(栃木市)栃木宿(栃木市)合戦場宿(栃木市)金崎宿(栃木市)楡木宿(鹿沼市)鹿沼宿(鹿沼市)文挟宿(日光市)今市宿(日光市)Wikipedia

八王子千人同心の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22970417/


・・・・高萩(村)/日高市


埼玉県入間郡
に存在した村、当初は高麗郡に属した。現在の日高市の東部にあり、武蔵野台地西寄りに位置し、小畔川とその支流が幾筋にもなって東へ流れている。江戸時代には日光脇往還の高萩宿があり、1940年からは川越線に開設された武蔵高萩駅を中心に発展した。現在は国道407号と県道15号川越日高線の交点となっており圏央道が南北に通過する。現在の高萩、下高萩新田、森戸新田、駒寺野新田、女影(おなかげ)、女影新田、中沢、大谷沢、下大谷沢、高富、田木、馬引沢と旭ヶ丘の一部がほぼ旧村域にあたる。Wikipedia
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街道の風景④ 第二小畔川の低地へ下ります、切通が残っています/高萩

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「鎌倉街道上道碑」と案内板/坂下    第二小畔川


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鎌倉街道上道
鎌倉街道は中世武蔵武士団が鎌倉へと馳せ参じた道である。その代表的なものが「上道」「中道」「下道」である。この呼び名は大和盆地に南北に通じる幹線道路がありそれに倣ったものといわれている。鎌倉からの上道は藤沢、町田、府中、所沢へと向かい狭山市で入間川を渡って日高に入り、市内大谷沢から中沢萩、女影別所旭ヶ丘駒寺野新田と道筋をたどり坂戸市の西大家に抜け、毛呂山、鳩山、児玉、藤岡、高崎に続いていた。かつて新田義貞の軍が菅谷から市内女影を通って入間川を超え小手指原などで鎌倉方と戦ったが、この上道を進軍したとされている。また、北条時行が信濃に挙兵し鎌倉を足利勢から奪回するため市内女影ヶ原で戦って勝利し、多摩町田に軍を進めたのもこの鎌倉街道上道。高麗原の戦いなど足利尊氏対新田義興・義宗の武蔵野合戦、更には足利基氏対芳賀禅可入道が戦った苦林野の合戦もこの鎌倉街道をたどる戦いであった。これらは言わば鎌倉街道をめぐる上の合戦として有名で、太平記に伝えられている。時代とともに鎌倉街道上道を伝える関東各地の道筋もさま変わりし、往時の面影を伝える個所も少なくなり幻の道になりつつある。それぞれの地で幹線道路となり道幅も広がり、舗装もされ、法敷きも整備され、交通量もおおくなっている。この碑の前の上道も立派に道路整備され市道として役目を果たすようになった。より便利になるのは時代の趨勢ではあるが、この地の古老は少年の頃まだ十分古道の名残を留めていた上道を偲んで、今でもこの道を鎌倉街道と呼んでいる。(日高市教育委員会)


・・・女影(おなかげ)/日高市

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街道の風景④ この先が直進と右折の分岐ですが、直進して霞野神社へ向かいます/女影

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丘を上る感じです           下ると霞野神社です

女影
『村内に千丈ヶ池と云池ありて、往古せんと云ひし女此池に身を投げて死せしが、その後彼女の影時として池中にあらはれしかば、土人これを女影と呼びしより村名も起りしといへり。最妄誕の説なることは歯牙を待たずして知られたり。千丈の名義據(よりどころ)を知らず。この辺古戦場なれば、直ちに戦場ヶ池と號せしを、後世字をかきかへしと見ゆ』(新編武蔵風土記稿)


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霞野神社鳥居/女影

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霞野神社
当初は諏訪神社と称し女影村社でしたが、明治43年に女影村社の白髭神社中沢村社白髭神社など12社を合祀して霞野神社改めました。祭神に猿田彦命、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、建御名方命など14身を祀っています。本殿は江戸時代来の作と考えられています。柱の上の組物と呼ばれる箇所は上部からの荷重を支える部分です。ここには獏、獅子頭の彫刻が施されています。身舎の前方に庇を付けた形式の一間社流造で屋根はこけら葺きです。懸額は文久元年(18614月穀日に甲源一刀流の比留間和十郎源信治の門弟が奉納したものです。(日高市教育委員会)

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女影ヶ原古戦場跡
建武2年(1335)に滅亡した鎌倉幕府最後の執権・北条高時の遺児・時行が、鎌倉幕府復権のため信濃で挙兵した。時行の軍は女影ヶ原で足利尊氏の弟・直義が派遣した軍勢を破りました。その後も小手指ヶ原(所沢市)、分倍河原(府中市)でも破り、ついには直義自ら出陣して武蔵井出ノ沢(町田市)で迎え撃ちましたが、ここでも敗れました。時行は鎌倉を一時的に支配しました。この一連の戦いを中先代の乱といいます。(日高市教育委員会)

井出ノ沢(町田)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17960720/

中先代の乱

1335
年(建武2)北条高時の遺児時行が鎌倉幕府再興を企図し建武政府に対して起こした乱。鎌倉時代の北条氏を「先代」室町幕府の足利氏を「当代」とよぶのに対し、時行を「中先代」ということからこのように称される。鎌倉幕府滅亡の直後から北条氏与党の反乱が各地で頻発した。そのようななかで33年(元弘3・正慶26月、後醍醐天皇を暗殺しようとする北条高時の弟泰家(時興(ときおき)と改名)、西園寺公宗(きんむね)の陰謀が発覚した。この計画に呼応するはずであった時行は、翌月諏訪頼重らとともに信濃で挙兵。守護小笠原貞宗の軍を破り、女影原(埼玉県日高市)、小手指ヶ原(埼玉県所沢市)、府中(東京都府中市)において足利軍と戦い、井出沢(東京都町田市)においては直義軍を撃破した。25日、故地鎌倉を奪還、公文所を設置した。しかし直義軍の援助のため京都から下ってきた尊氏に橋本(静岡県浜名郡)、箱根、相模川などの戦いに敗れ、819日わずか20日ばかりで鎌倉を奪われた。このことから、「二十日先代の乱」ともよぶ。諏訪頼重は自刃。時行は逃れた。これにより鎌倉入りした尊氏はたび重なる後醍醐天皇の上洛命令に従わず、征夷大将軍を自称し、建武政権に謀反、足利政権樹立の第一歩を踏み出した。(コトバンク)

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街道の風景⑤ 川の袂に諏訪橋改修碑と供養塔が立ちます。この坂上あたりが「女影宿」だったんでしょうか?


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女影宿
南の入間川宿と北の苦林(にがばやし)宿との間に伝馬継立をした。鎌倉に幕府ができてから繁昌し、康平元年(1058)に足利氏が古河に移ると次第に衰え、天正の頃(157392)高萩宿ができると寂れ果てたようである。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景⑤ 霞神社から東へ行くともう一つのルート、この道で鎌倉街道踏切へ/川越線(高萩)

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この先を左折し川を渡ります      バス通りを横断

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寛政年間建立の「廻国供養塔」/踏切   先道なりに直進し小畔川を横断/別所橋


・・・旭ヶ丘
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街道の風景⑥ 田畑の中に続く縄手道、これはいいですね/旭ヶ丘

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高萩北中を迂回            この辺りで合流でしょうか?右折します

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綺麗な夕日、秩父の山並みですね・・・


・・・駒寺野新田

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街道の風景⑦ すぐ右の道を北へ、集落がでてきます

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二俣を右折              県道を右折し西大谷駅へ

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西大家駅(にしおおやえき)
坂戸市大字森戸623番地7にある東武越生線の駅である。当駅開設当時の村名「大家村」による。ただし1945年(昭和20年)までは隣に大谷駅が存在しその西隣だったため「西」が付いた。単式ホーム11線を有する地上駅。ホーム・駅舎は線路の北側にある。駅のすぐ東側に鶴ヶ島市との境界があり、日高市との境界も駅南西400mほどのところにある。駅の西側にはかつて鎌倉街道上道が通っていた遺構が残っている。Wikipedia

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入曽~西大谷 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道 橙:日光脇往還 青:入間川を着色)


・・・・
資料ファイル

高の歴史
奈良時代に入ると高麗郡建郡という歴史的な出来事がありました。このことは古代歴史書の続日本紀の霊亀2年(716)の項に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国の高麗人1799人を移して高麗郡設置した」と書かれています。高麗郡は和名妙によると高麗郷上総郷2郷を置いたとあります。これは現在の日高市飯能市を中心とした範囲と推測されています。高麗郡の郡長は高句麗から日本に渡来した玄武若光で、大宝3年(703)に王姓(こきしのかばね)を与えられた高麗王若光(こまこきしじゃっこう)と考えられています。高麗王若光は高麗明神として高麗神社に祀られ宮司は若光の子孫が代々勤めています。建郡以降小畔川などの小河川に沿って谷津田の開発を進めそれに合わせて村が作られていきました。高萩地区の拾石(じゅっこく)遺跡、王神遺跡、堀ノ内遺跡はこの時代を代表する規模の大きな村です。建郡後に女影(おなかげ)廃寺、高岡廃寺、大寺廃寺の寺院が相次いで建立されました。その他に須恵器と呼ばれる土器を焼いた登り窯が高岡地区に築かれました。

平安時代末に登場した武蔵七党を代表とする武士団が活躍する時代です。いずれの武士団も土地を開墾し自らの財産を守るために武装していました。合戦があると恩賞を目当てに参戦しました。市内には高麗を姓とする3武士集団が挙げられます。古代の渡来人若光を祖とする「渡来系高麗氏」、武蔵七党の丹党から出た「丹党高麗氏」、桓武平氏の流れを汲む秩父氏より出た「平姓高麗氏」です。その他に鎌倉時代の記録『吾妻鏡』に登場する女影氏(おなかげし)がいました。

鎌倉時代になると鎌倉幕府は兵員馬匹を鎌倉に集めるために街道の整備を行ないました。この街道は鎌倉から関東諸国・信濃・越後・陸奥方面に向かっており上道・中道・下道・秩父道などと呼ばれていました。日高市内を通っているのは上道で、大谷沢から女影を通り駒寺野新田へ通じています。中世を通じて鎌倉街道沿いは数多くの合戦の舞台となりました。南北朝時代の建武2(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉15代執権北条高時の遺子・時行は信濃で諏訪頼重らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街道を南下し鎌倉を目指しました。そして722日それを阻止しようとする足利直義(ただよし)軍と初めて合戦に及んだのが女影原でした。この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り725日に鎌倉を占領しました。この一連の戦乱を「中先代の乱」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻められ時行は鎌倉から敗走しました。


室町時代

市内に残る代表的な古文書に「町田家文書」があります。この古文書は南北朝時代の平姓高麗氏の動向のみならず関東の様子も伝えており貴重なものです。特に高麗経澄(こまつねずみ)は度々足利尊氏軍に従軍し戦功を上げています。室町幕府草創期に足利尊氏・直義兄弟の対立により起こされた大規模な内乱を「観応の擾乱」と言います。京都から鎌倉へ入った直義を討つため尊氏は関東へ出撃しますが、この時高麗経澄は鬼窪(白岡町)で兵を挙げ尊氏軍に従軍し羽祢倉(富士見市)・阿須・足柄山で合戦し軍功を上げ、鎌倉に入ったことが町田家文書から分かります。その後、足利直義の死によって観応の擾乱は終息しましたが、翌月、南朝方の新田義興義宗(よしむね)兄弟が上野国で挙兵して鎌倉を占拠しました。足利尊氏は各地で新田軍と戦いましたが、この時も高麗経澄は尊氏軍に入り人見原(東京都府中市)や高麗原(日高市平沢か)で合戦していることが同文書にみられます。(日高市HP)


# by Twalking | 2017-11-14 20:22 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『多摩センターイルミネーション2017』   

イルミネーション、点灯しましたよ~!
多摩の冬を飾る風物詩としてお馴染みです。
みなさん、どうぞ見に来て下さ~い。

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光の水族館

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センターツリー

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ウエルカムツリー                 記念写真はこちらで


『多摩センターイルミネーション2017』
期間 2017.11.11~2018.1.8 16:30~22:30
場所 多摩センター・パルテノン大通り周辺



# by Twalking | 2017-11-13 19:35 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ≪天・地・人≫   

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≪天・地・人≫ 1990年 絹谷幸二作
東京芸術劇場/豊島区池袋
コンサートホールの入口の天井画
不思議な絵ですね・・・
凄く印象に残りました。


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フレスコ
絵画技法のひとつ。フレスコはまず壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く。やり直しが効かないため高度な計画と技術力を必要とする。逆に、一旦乾くと水に浸けても滲まないことで保存に適した方法だった。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-11-13 16:49 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 川越市駅   

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東上線川越市駅/川越市
東上線は久し振りに乗りますが、
駅員さんに伺ってここで西武戦に乗り換え。
5分くらいで本川越駅、こちらが早そうです。


川越市駅

川越市六軒町一丁目にある東武東上線の駅である。島式ホーム24線を有する地上駅で、駅舎・改札口は北東側に1か所のみ設置されている。駅舎とホームとの間は跨線橋により連絡している。かつては東上線における川越市の代表駅であったが、市街地が南へ発展していったために川越駅が中心駅となった。ただし、周囲に3つの高校が所在し、旧市街や市役所に近く西武新宿線本川越駅との連絡も徒歩の場合は川越駅よりも近接しているため乗換客が多く、また学生・生徒の利用客も多い。蔵の街など川越の観光地へ東上線を利用し徒歩で訪れるなら同駅下車が至便である。(Wikipedia



# by Twalking | 2017-11-12 09:54 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 北風   

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多摩丘陵/多摩市
風向きが変わったかな・・・
北風くんかい、きみ。

# by Twalking | 2017-11-11 17:27 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 トウカエデ   

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トウカエデ
愛宕通り/多摩市愛宕
う~ん、鮮やか、
美しいですね!見頃を迎えましたよ~。


トウカエデ
(唐楓)

ムクロジ科の落葉高木である。中国原産であり漢字名は「唐楓」。成長は早く強健であり一般に高木になる。樹形は立性で耐寒性も高く、日本では庭木の他、公園樹や街路樹としてよく用いられている。成長とともに樹皮は縦に裂け剥がれるのが特徴。園芸品種として葉がピンクから白、黄緑、緑、赤に変化する花散里(メープルレインボー)や斑入り品種などがある。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-11-11 15:44 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(7)入曽~西大家01-入間川   

日時 2017.11.7(火)
天気 晴れ

秋晴れのいいお天気です。
いよいよ武蔵野台地から入間川を渡って入間台地へ、
ここはなんといっても「八丁の渡し」ですね。

中世は多摩川とともに軍事的にも重要な防衛拠点でした。
「入間川御陣」「清水冠者義高終焉の地」等々見所も一杯、
じっくりと訪ねてみたいと思います。


・・・北入曽/狭山市

狭山市

市域の南西(入間・飯能方面)から北東(川越方面)にかけて一級河川の入間川が流れる。流域は沖積層の低地帯が広がっている。市の中心となる地域にも入間川という住所(旧入間川町の名残り)がついており、この川は街のシンボルにもなっている。入間川両岸には河岸段丘が形成されており右岸武蔵野台地左岸入間台地と呼ばれる台地からなっており、狭山市はその二つの台地上に属する。どちらの台地も洪積層からなり、比較的平坦である。市街地はおもに国道16号と西武新宿線を軸として形成されている。市名の由来である「狭山茶」の茶畑は入曽・堀兼地区に多い。Wikipedia


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街道の風景① 不老川からスタート、すぐ先右手に野々宮神社と常泉寺があります/入曽橋

狭山の地名
地名は狭山丘陵及び市内の特産物「狭山茶」に由来する。「狭山」という地名の由来自体は判然としないものの「」は「」を意味し、武蔵野台地西部に散在していた雑木林のことを指していると言われ「林に挟まれた土地」の意味という。江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では狭山丘陵そのものを「狭山」と称しており「狭山」という表現を地域呼称ではなく山の名称の如く用いている。Wikipedia


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野々宮神社鳥居/北入曽

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野々宮神社
古記録に伝えるものはありませんが、社家の伝承によれば奈良時代の創立と伝えています。大和朝廷が皇威の発揚を図り四道将軍を派遣したときに、社家は神武天皇御東征に従軍し日向の宮崎宮を姓となし宮崎と称しました。奈良時代、朝廷の命を受けて倭姫命を奉斎し入間路の警備と七曲井の管理に当りました。東海道、入間路には宮崎を姓とした社家が多く、たとえば井草八幡宮の社家が宮崎を姓としています。

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本殿の左側には明治40年に合祀された神社5の神明神社・八雲神社・稲荷神社・愛宕神社・蔵王神社が並んで建っています。元旦祭や春、秋の大祭等には市指定無形民俗文化財である入曽囃子が奉納されています。(狭山市HP)

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常泉寺本堂/北入曽

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常泉寺
創立年代は古記録等がなく不詳ですが、過去帳によりますと天正年間1573年~1592年)に創立されたようです。寛文3年(1663年)4月法印宥正という住職の入寂の碑が現存しますがその後の記録は絶え、寺は荒れていたようです。その後、元禄2年(1689年)3月に権大僧都法印教海が荒廃した当寺を再興・拡張し、当寺を観音堂のみ残して現在の地移しました。さらにその後、権大僧都法印傅海の代の正徳2年(1712年)8月に高麗村新堀聖天院の末寺となり現在にいたります。ちなみに明治18年に火災のため山門・本堂・庫裡(裏)が焼失しましたが明治20年に再建されました。(狭山市HP)

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街道の風景② 所沢狭山線を一直線に狭山市駅に向かいます/北入曽

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白山神社手前を左折          西武線踏切を渡ります

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白山神社/祇園

祭神 白山比咩命(シラヤマヒメノミコト)/菊理媛命 「当社は加賀国石川郡の霊峰・白山に鎮座する延喜式内社・白山比咩神社の分霊です。勧請の時期は不詳ですが、古老の語に境内の樹齢78百年と推定される大欅を明治10年に伐ったと伝えますので、鎌倉時代初期頃には古道沿いのこの地に鎮座し、霊験あらたかな産土神として土地の人たちから崇め親しまれてきた古社です。祭礼は、古くは「お九日」と云い火焚き行事などもありましたが、現今では1123日に例大祭を執行し傳統を継承しています。(案内板)


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お庚申様ものがたり/踏切先
このお庚申様は今より約200年前此の付近に建立せられ西武鉄道開通の明治278年頃現在地に移され地域の人達の平穏と踏切りの安全を願って今日に至っております。しかし近年破損はげしく庚申塔は傾き雨露を凌いだ屋根もこわれ又土砂崩れ等の危険も感ぜられ平成108月に有志一同「庚申塔改築発起人会」を発足させましたところお蔭様で皆様のご賛同を戴き平成1110月に無事竣工致しました。このお庚申様は菅原町三丁目唯一の道祖神守護神として町内や近在の人達の信仰を集め小さなお庚申様ですが老若男女の区別なく身近に慕われております。これからも皆様の信仰のよりどころともなれば幸甚でございます。(改築発起人 後藤新太郎 田島昭雄鈴木良二)


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馬車鉄道について/狭山市駅前
馬車鉄道とは軌道上の客車を馬が牽引するものです。明治341901510日に入間川町飯能町を結ぶ路面鉄道として入間馬車鉄道が開通しました。入間馬車鉄道は川越え鉄道(川越~国分寺間を結ぶ鉄道で明治28年(1895328日に全線開通)の設立発起人の一人である水富村の清水宗徳から敷設特許を譲り受けた柏原村の増田忠順らにより開設されたものです。開設の目的は川越鉄道の開業によりもたらされた有形無形の利益を水富・飯能方面にもたらすためで、定員15名ほどの客車により一日に1517往復したといわれています。運賃は入間川~飯能間で大人15銭(その後20銭に値上げ)、8歳までの子どもは半額、4歳以下の幼児は無料でした。

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当時の入間川駅(現在の狭山市駅)のこの付近が馬車鉄道の発着場所であったといわれており、停車場は入間川・菅原・御諏訪下・河原宿・広瀬・根岸・笹井・八木・野田・岩沢・双柳・前田・飯能で上りと下りの交換所は笹井地内に設けられていました。しかし、乗客の便を考え停車場以外でも乗り降りさせていたといわれています。また、明治349月には入間川町青梅町を結ぶ中武馬車鉄道が全線開通し、入間川町内では入間馬車鉄道の軌道を借用する形で乗り入れ運転が行われました。しかし、大正4年(19154月に飯能~池袋間を結ぶ武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通すると乗客は急激に減少し、大正6年(19179月に中武馬車鉄道が廃止され入間馬車鉄道も同年の12月をもって廃止されました。(出典:狭山市史


・・・入間川(町)/狭山市


埼玉県の南西部、入間郡に属していた町。1889
(明治22年)町村制施行により以前の入間川村を継承し入間郡入間川村が成立する。明治24年入間川村が町制施行し入間川町に、昭和29年入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村と合併し狭山市を新設する。北西部を入間川が流れる。Wikipedia

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街道の風景③ 広場下の道を入間川「八丁の渡し」に下ったものと思われます/狭山市駅西口市民広場(2012年完成)

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狭山市の歴史
(古代)武蔵国入間郡に属する。716年(霊亀2年)新たに高麗郡が設置される。中世以降、入間川西岸の一部地区が高麗郡に属する。(中世)入間川宿が鎌倉街道上道の宿場町として栄える。鎌倉街道上道は入間川宿で上野国方面下野国方面に分岐していた。(近世)川越藩領や天領となる。天領は旗本知行地として旗本小笠原氏の所領となっていた。Wikipedia

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徳林寺山門/入間川 

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徳林寺(曹洞宗)
創立年代ははっきりしませんが入間市金子・瑞泉院末といわれ、開山は瑞泉院三世一樹存松和尚で、開基は小沢主税であると伝えられています。開山一樹存松は天文2年 (1533年)に入寂しており、永正乃至享禄1504年~1532年)頃の創立と考えられます。当寺の旧地については旧登記所(入間川2丁目19番地)北方の低地であるとの伝えがあり新田義貞足利基氏らの滞陣の跡であるとの伝承もあります。また、武蔵野33観音霊場の第17番札所でもあります。寺宝の絹本着色釈迦涅槃図・絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)は市指定文化財です。(狭山市)

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薬師堂                地蔵堂

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絹本着色釈迦涅槃図(狭山市指定文化財)
この図は絹地に極彩色の仏画で、入滅した釈迦の周囲には弟子たちをはじめ諸王・大臣・梵釈・諸天・鳥獣までが集まり悲しんでいる様子が描かれています。筆者は「御絵所宗貞」です。御絵所というのは朝廷又は幕府社寺に属する絵師のことです。なお、この絵は田中・沢村を知行した旗本の小笠原家が元禄元年(1688)に寄進したもので、延享5年(1748)に甲田重蔵が最表装したものです。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)
この図は絹地に極彩色の仏画で釈迦の生涯の主な事跡を描いたものです。八相とは第一下天相・第二託胎相・第三誕生相・第四出家相・第五降魔相・第六成道相・第七初転法輪相・第八涅槃相の八場面ですが、この図では第八涅槃相を除いた七つしか描かれていないため、涅槃図と合わせて八相図となるように描かれたものと思われます。落款はありませんが構図もしっかりしており、大和絵系の相当名のある絵師によって描かれたものと推察されます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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福徳院不動尊


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福徳院不動尊
福徳院不動尊の来歴は「福徳院不動尊縁起」によりますと次のとおりです。福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には狭山市駅西口開発のため綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。(狭山市)

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天満天神社/入間川

天満天神社
当神社の建立年代は明らかではない。先年までの社殿は文久2年(1862)に改築されたものであったが、昭和37325日新築した。祭神は京都北野神社福岡県太宰府天満宮より道真公の分霊を鎮祭する。新編武蔵風土記稿に「神體坐像なり」とありもとは御神像があったと考えられるが現在は神のご幣のみである。当社の管理は新編武蔵風土記稿に「村持」とあり天神組、下組、新田組の三組の氏子によって行われてきたが、天神社があるところからこの地域が菅原町と総称されるようになり昭和15年町内会の創設によって天神組が菅原一丁目、下組が二丁目、新田組が三丁目と改称された。(境内掲示)

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街道の風景④ 丘の上に戻り慈眼寺から八幡神社(上からも行けます)参道へ下ります/中之坂

中之坂
この坂道は小高い丘を切り開いて作られた坂道であり、通称「中之坂」といわれている。(狭山市)

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慈眼寺山門/入間川


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慈眼寺(妙智山)
当寺の草創は正長元年(1428年)に草庵が結ばれ、後の大永年間(1521年~1528年)に一樹和尚によって開山されたと伝えられています。武蔵野33観音霊場の第16番観音を本尊としていますが、以前は阿弥陀如来の立像でした。記録によりますと慶安2年(1649年)に阿弥陀堂領十石の朱印を与えられています。また、寺宝の阿弥陀如来立像は市指定文化財です。(狭山市)

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狭山八幡神社鳥居/入間川 

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狭山八幡神社
祭神:応神天皇(誉田別命)九州宇佐八幡宮を本社とする全国八幡宮の一社。創建は社宝『砂破利のつぼ』の推定年代から室町時代初期とされている。源氏一族の保護により武門の神として隆盛をみて後世、新田義貞の信仰厚く一時『新田の八幡宮』と称されたこともある。今日では応神天皇とその母・神功皇后の事績により文化興隆の神として文武に志す人々に崇敬の念が厚く、さらに母と子の情愛から母子神の信仰を生み、安産から初宮詣、そして子育てへのご神徳を仰ぎ、また、新田義貞が合戦に向けて当社で戦勝祈願をし見事勝利を治めたところから文武・必勝の神として市民に親しまれている。(八幡神社HP)

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表参道の石段
中段より上が47段、下が24段あり計71段とする。上段は赤穂47士にちなみ下段は中国の故事24孝をとり享保12(1727)に造られたものである。現在では狭山日高線の開通に伴い石段は中段より曲げられ、鳥居も階段下へと移されてあるが、本来は上段から直線上に商店街の通りまで参道が延びその入口に鳥居が建てられていた。(八幡神社HP)

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八幡神社本殿(市指定文化財・建造物)
八幡神社は祭神応神天皇を祀り当社殿は寛政8年(1796)に初釿をし7年を要して完成したという。当社に伝わる「本社殿棟木書記之事」という古文書によると「享和二竜次壬成(1802)穐(秋)75日棟札」となっており徳川時代末期の建造であることが明らかである。入母屋の流造りの特性をもち、一間社造りの胴のしまった均整のとれた唐破風の向拝があり正面は千鳥破風の珍しい建築様式で、四囲の彫刻は精巧を極めた優雅な社殿総彫で強く建築装飾の粋をつくした透彫である。脇障子にも彫刻が施され勾欄をめぐらせた見事な造りである。また、彫刻製作者が明らかななのも珍しく棟札に「上州勢多郡上田沢湧丸 並木源二襍訓作 享和壬成夏六月彫之 上野国勢多郡深沢上神梅村鏑木半二邦高彫之 享和二成六月ヨリ七月七日迄」という墨書が記されている。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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新田義貞・駒つなぎの松
元弘35月、北条高時を討つべく上州新田郡生品明神の社頭に挙兵した新田義貞510日所沢小手指原に幕府軍との戦火を交えた。その時、新田軍は源氏ゆかりの当社へ自ら戦勝を祈願した。その戦勝祈願の際、愛馬をつないだ松が本殿東側に残る老樹である。(八幡神社HP)

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さわりの壷(県指定文化財工芸品)
さわりの壷は大正12年(1923)に拝殿造営のため本殿を移転するとき、玉垣の神門の下から発見されたもので、中から少量の籾粒と金銀の箔片が検出されました。このことからこれが当社創建当時地鎮祭に供えた鎮物を埋蔵するのに用いた「鎮壇」であったことが推定されます。さわり(砂波利・砂波理・砂張)とはを主として錫・鉛(または銀)を加えた黄白色の合金で、たたくと良い音がするので響銅の字があてられたり、また胡銅器と書かれたりします。この壷は室町時代の制作と推定され高さ187mm、口径70mm、最大直径100mmで形が非常に優美で安定感があり、黄金色に白線の色が映えしっとりと高質な風格をもっています。(埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会)

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八幡神社鹿子舞
獅子舞の起源は唐の時代に雅楽の一部から変化し、その後日本に伝来しかつ農耕文化と結びついて水の信仰にまで発展したといわれています。八幡神社鹿子舞の起源については明らかではありませんが、正徳3年(1713)の古記録に盛大に行われていたと書かれています。八幡神社鹿子舞は越後系・庭上舞・ねっこふんがえしに属する獅子舞で、「鹿子舞」と書かれる由来は武蔵地方で鹿を「しし」といったことからだと伝えられています。この鹿子舞は毎年914日・15日に入間川地区の神社をまわり15日の最後に八幡神社で舞います。行列は金棒(先導、つゆ払い)氏子安全旗1人、神官1人、氏子総代5人、各地区世話人、ほら貝(山伏)1人、花笠(ささら)4人、歌役4人、笛役4人、山の神(天狗)一人、赤鹿子(男鹿子 若者)、金鹿子(牝鹿子女、 頭上に宝珠)、黒鹿子(太夫鹿子年寄り、節のある角あり)、各地区世話人、の順にならび、舞は、道中、宮参り、いりは、竿掛り、岡崎、あげ唄、狂い、岡崎、わが獅子、引きはと地ささら、岡崎、やりとり、岡崎、引庭、という順で舞われます。(狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会)


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子ノ神社/入間川
祭神:大国主命(大己貴命おおなむちのみこと)入間川町誌によると子ノ神社は慈眼寺境内にありましたが、慈眼寺の消失によって一時、諏訪神社境内に遷されました。さらに諏訪神社の社殿改築の際、ある者が御神体を家へ持ち帰ったところ悪疫にかかったため、恐れて奥富村のある家へ遷されました。しかしその家でもまた一家が悪疫に襲われたため元の諏訪神社境内に仮宮を建てて祀り、のちに子ノ神町内に社殿を建築して御神体を遷したと言う伝承が残されています。祭神を大国主命としていますが、子ノ神は飯能市の子ノ権現社の信仰であり本尊は子ノ聖大権現とされています。境内社に出雲神社(石祠)があります。毎年724日近辺の土曜日には子ノ神社の例祭が行われ、子ども神輿が担がれます。(狭山市)

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入間川諏訪神社鳥居/入間川

入間川諏訪神社
正確な鎮祭の年月は不明であり、土地の古老の話によりますと信濃国諏訪大社の祭神を今から400年以前に分社したとのことです。8月第4土曜日・日曜日には市指定無形民俗文化財であるお諏訪さまのなすとっかえ行われ、とてもめずらしいナスのお神輿が担がれ住民の厄除けを祈願しています。以前はこの日に付近の若者たちによる草相撲の奉納がありましたが、現在は行われておりません。(狭山市)

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お諏訪さまのなすとっかえ(狭山市指定無形民俗文化財
諏訪神社は長野県の諏訪大社を分祀したもので祭神は「建御名方神」です。なすとっかえは自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてあるナスを戴いて帰るもので、毎年8月の第4土曜・日曜に行われる神事です。その由来には次の伝説が残されています。昔、諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、ある日村人達がそこを通りかかると、沼から水しぶきがたち、龍神が暴れ始めました。驚いた村人達は、持っていた鎌や鍬と一緒に、採ったばかりのナスが入った籠を投げ出して逃げ帰りました。これを聞いた村の若者達が駆けつけてみたところ、空っぽになった籠が浮かんでいるだけで、沼はすでに元の静けさをとり戻していました。しばらく後、村人の夢枕に龍神が現れてこう言いました。「私はあの沼に住む竜神だが、騒がせて悪かった。実は夏病に苦しめられていたのだが、投げられたナスを食べたところ病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕え、村のために尽くすつもりだ。こうして夏病にナスが効くことを知った村人は、神前にナスを供え、代わりに龍神からナスをいただき、夏病を避けたといわれています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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川の風景① やっと会えましたね~、入間川、右手奥の名栗が源流域です/本富士見橋

入間川
埼玉県を
流れる荒川水系の一級河川である。上流部は名栗川とも呼ばれる。荒川の支流としては最長である。江戸時代の頃は、江戸の市中まで通じる大事な交通路だった。標高1294mの大持山の南東斜面に源を発し飯能市、入間市、狭山市を流れその間に成木川、霞川、越辺川などの支流を合わせさいたま市と川越市の境界付近の川越市大字古谷本郷で荒川に合流するWikipedia

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清水八幡宮/入間川 

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木曽清水冠者義高公
源義高は鎌倉時代木曽義仲の侍女との間に生まれた嫡子で、比企郡岩殿山大蔵が生まれ故郷であり、7ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った故、清水冠者又は志水冠者義高と名乗ったと伝えられる。義仲が治承4年(1180)頼朝とともに行家から以仁王の平家追討の令旨を得て挙兵し、寿永2年(1183)に北陸道を京へせめのぼる直前、背後を固めるため対立状態にあった伯父頼朝に幼少(6才)の時人質として送られたが、後成人になるや頼朝と政子との間にできた娘大姫婿となり鎌倉営中に住居を構えていたが、義仲は後白河法皇の義仲追討の宣旨を受け西上した範頼、義経軍に敗れ、寿永3120粟津原の戦討死するが、日頃疑り深い頼朝は彼義高の意中を計りかね勅勘を蒙って討たれた者の息子を放置することも出来ず「娘をくれておくのも無駄なこと、堀藤次折を見て密かに小冠者を片付けい」と密談(実際には殺す意図はなかったとも伝えられて居る)侍女はこの様子を見て東御殿にかけつけ告げたのである。寿永3416日元歴と改元されその月の20日宵のことで、この知らせを聞いた大姫は自分の夫義高を助けようと母政子と力をあわせ自分の衣装で女装をさせてまわりを女たちに囲ませ従士6名ばかりと共に、祖父義賢の地(大蔵館)・義仲を授けた畠山重能の地(菅谷館)である現在の嵐山町めざし鎌倉街道に沿って逃亡し、府中・所沢を過ぎ入間川の八丁の渡しに出たとき、頼朝が追手として送った堀藤次親家等に追いつかれ藤内光澄の為に遂に此の地で討たれたのである。

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かくて寿永3426日藤内光澄等が鎌倉に帰り、この事を頼朝に報告するや姫君は悲嘆のあまり漿水を絶つに及んで間もなく14才を以て死亡せり。母なる政子は頼朝の仕打を怒ると共に直接義高を刃にかけた光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため討ち果てた地入間河原にを建てた(五月)と云う次第である。正徳3年(1713)八幡神社縁起によれば槻の木を植え塚を築いたとの事なるが、政子は廟所を転じ神祠を営み清水八幡宮とあがめ、自ら入間川の地に来り供養をし且つ神田を寄附されたという。この為に社殿は朱の玉垣をめぐらし壮麗なものであったが、応永98月(1402)の大洪水に全てを流失したる由。亦現在の八幡宮の附近に梨畑があり人々は梨原と言い、朱塗の美しい神社を梨原御殿とも言った。その後今から約180年前現在地より北方三丁程の杉林中より石祠が発見され、現在の処に鎮座し再建されたるものなり。(参考資料 狭山の文化財及入間川風土記)

なお木曾冠者義高公のは鎌倉市内、臨済宗常楽寺にあり、墓所は常楽寺の裏山標高70m位かと思われる場所に百平方米程の広さとなっており、墓の周囲には公孫樹、黒松の大木等茂り中心に石材の高さ四十糎の祠と「木曾清水冠者義高公之墓」なる墓石とが建立され、後世建てられた石碑には次のような由来が記されてある。

木曾冠者義高之墓
義高ハ義仲ノ長子ナリ義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス、義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル、爾来頼朝ノ養フトコロトナリ其ノ女ヲ得テ妻トナス後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 塚ハ此ノ地ノ西南約二丁木曾免トイフ由間ニ在リシヲ延宝年中此ニ移ストイフ旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻を傅へテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ大正十五年一月 鎌倉同人會建附記常楽寺栗船山常楽寺と号し開基は北条泰時、開山は退耕行勇と伝えられ大覚禅師の初道場で、寺の名は泰時の法名常楽院殿からとったものです。また鎌倉國宝館に寄託されている有名な梵鐘は重要文化財に指定されています。(境内掲示)

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清水八幡(市指定文化財史跡)
清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。義高は源(木曽)義仲嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉へ送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘・大姫の婿になっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義仲は、自分にふりかかる難をのがれるため従者6人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますがそれによると政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるためその討ち果てた地・入間河原を建てたということです。それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在でははっきりせずこのあたりであろうと思われます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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川の風景② 「八丁」であれば往古は今よりずっと広い流れですね。市では「八丁の渡し」を2ケ所を推定していますが、狭山市駅から直線的に下るとすればこのあたり、右岸が「入間川宿」になりますが、どうなんでしょうか???/新富士見橋

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入間川宿
入間川宿は入間川の渡し場にできた宿場で、古代の官道の頃は小さな宿場だったろうが、鎌倉時代になると北関東・信越地方との往来が繁敷くなり交通上はもちろん軍事上でも重要な宿場となった。(旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著を参照しました)





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八丁の渡し
鎌倉街道の入間川に「八丁の渡し」と呼ばれるところがあります。大きな橋もなく人々は川の浅瀬を探しながらの徒歩渡りでした。昔、木曽義仲が源頼朝に討たれます。そのとき義仲の嫡子で12歳になる清水冠者義高は、頼朝の娘である大姫の計らいで女装をして入間川まで逃れてきます。そして、八丁の渡しにさしかかったところで無念にも追っ手によって討たれてしまいます。入間川の八丁の渡しが義高終焉の地とされ、今も残る国道16号線沿いの「清水八幡」のお社と奥州道に安置されている「影隠し地蔵」には多くの参拝者が後を絶ちません。この八丁の渡しは市内に2ケ所あるとされています。その1つは子ノ神(ねのかみ)さまを下り本富士見橋周辺の中島辺りだとか、もう1つは奥富の前田、入間川堤防に建つ九頭龍大権現(くずりゅうだいごんげん)の石仏辺りから柏原へ渡る浅瀬です。春の入間川の土手を歩いていますと周りは緑に包まれ、また堤内では少年・少女のスポーツが盛んで、明るい元気な声と野鳥のさえずりが聞こえる中での歴史ウオーキングが楽しめます。(狭山市)(写真:対岸から駅方向の景観です)

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新富士見橋
狭山市にある埼玉県道262号日高狭山線に架かる橋の一つで道路橋と歩道橋が一つずつ存在する。歩道橋はすぐ上流側に平行して架けられている。晴れた日には文字通り新富士見橋から富士山を望むことができる。狭山市内の橋では最も古く、橋が老朽化しているため埼玉県に橋の架け替えを要請しているが現時点では具体的な動きはない。Wikipedia河口から22.8km 橋長:180m 有効幅員:約8m 完成:1958-昭和33)

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狭山市駅周辺地図(180°回転)

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入間川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照



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資料ファイル

入間川御陣
(いるまがわごじん)

正平8/文和2年(1353)に鎌倉公方足利基氏が武蔵国入間郡入間川に設置した宿営地入間川御所とも呼ばれる。観応の擾乱後に上杉氏勢力に対抗するため9年間にわたって鎌倉府この地に移されて、公方である基氏は「入間川殿」とも呼ばれた。

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薩埵山の戦で弟の直義を破って関東を奪還した室町幕府初代将軍足利尊氏は、直義方であった関東執事(後の関東管領)上杉憲顕追放して畠山国義を後任に任命し、憲顕が守護を務めた上野・越後は下野の宇都宮氏綱に与えられた。この時期の鎌倉府の体制を学術上において「薩埵山体制」とも称する。氏綱は重臣芳賀禅可一族を守護代として派遣していたが、両国は上杉憲顕が上野を根拠とする南朝方の有力勢力である新田氏を制圧する過程で勢力を築いており、上杉氏や新田氏の支持者が新守護の宇都宮氏に反抗する可能性が高かった。そのため畠山国清は基氏を奉じて入間川鎌倉街道の交点近くに鎌倉府の機能移転させ北関東の平定にあたろうとしたのである。

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ところが尊氏の死後、鎌倉府の長として成長した基氏は上杉憲顕の復権を画策して国清・氏綱らと対立する。結果、正平16/康平元年(1361)に南朝討伐のための上洛軍失敗の責任を取らせる名目で国清を更迭、これに激怒した国清は翌正平17/貞治元年(1362)に領国伊豆反乱を起こした。基氏はこれを討つ名目で入間川を離れて伊豆に向かい国清を降伏させ、その後は鎌倉に戻って入間川に再び入ることはなかった。更に同年には宇都宮氏綱の越後守護職が更迭されて、憲顕復帰して程なく鎌倉に呼び戻された。そのため「上杉氏に対抗する」という入間川御陣設置の意義が喪失したためそのまま廃絶されたと考えられている。同時に国清らを中心とした薩埵山体制も終焉を迎えることとなった。
なお、入間川御陣の正確な所在地は不明であるが、現在の狭山市入間川にある徳林寺旧境内(狭山市入間川2丁目19番地北方)付近から狭山八幡神社付近など数箇所が候補に挙げられている。Wikipedia
写真:(上)徳林寺墓地上 (下)八幡神社脇より

# by Twalking | 2017-11-11 09:32 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 愛宕さんぽ道   

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愛宕さんぽ道/多摩市愛宕
う~ん、美しい、トチノキでしょうか??
あれ、誰もいませんね、そうか統合されたんだ・・・
子供が通った小学校、声がしないのはやはり寂しいですね。

# by Twalking | 2017-11-10 17:19 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-野々宮神社   

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阿形

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吽形

野々宮神社/
鎌倉街道上道(狭山市北入曽)
朱が効いて、ハッキリした顔立ち
朝日に映えていい感じです。

# by Twalking | 2017-11-10 11:59

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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智光山自然公園/狭山市柏原
いい森ですね~、何があるんだろう??、なんだかわくわくしてきます。総面積54ha、東京ドーム11個分の広大な敷地にアカマツ、コナラ、クヌギなど武蔵野の豊かな自然がそのまま・・・、素晴らしい!、いい谷戸です。

# by Twalking | 2017-11-09 10:04 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の秋07   

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豊ヶ丘北公園/多摩市豊ヶ丘
豊ヶ丘の尾根の北端にある緑地公園
崖下を京王・小田急線が通っています。
黄葉は見頃、モミジはこれから、いいですよ~!

# by Twalking | 2017-11-08 19:50 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-鳩峯八幡神社   

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阿形


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吽形

鳩峯八幡神社社/鎌倉街道上道(所沢市久米)
お~、吠えてますね~、勇ましい、
はっきりした顔立ちがいいですね。

# by Twalking | 2017-11-08 17:12 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水駅   

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玉川上水駅/西武拝島線
乗り換えは多いんですが
モノレールを使うと早くて便利です。
以外と乗降も多いんですね~。


玉川上水駅
立川市と東大和市の境にある西武鉄道・多摩モノレールの駅。西武鉄道の拝島線と多摩都市モノレールの多摩モノレール線が乗り入れ接続駅となっている。西武拝島線の橋上駅舎と多摩都市モノレールの改札口が南北方向の自由通路を挟んで位置し同一平面で乗り換えできる。自由通路は西武拝島線ホームを跨ぎ両線の駅出入口として機能する他、立川市側と東大和市側を結ぶ歩行者通路にもなっている。西武線は島式ホーム23線の橋上駅であり、中線の両側をホーム(23番ホーム)で挟む形になっている。駅名は駅の南口すぐの所を玉川上水が流れていることによる(Wikipedia

# by Twalking | 2017-11-07 23:27 | ○station