無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 冬の朝   

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多摩中央公園/多摩市落合
少し緩みましたね、
また寒の戻りが厳しそう・・・。


# by Twalking | 2018-01-18 21:16 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(9)鳩山~嵐山03-菅谷   

日時 2018.1.10(水)
天気 晴れ


街道を後にして畠山重忠の居館と伝わる「菅谷館跡」と
歴史の資料館を訪ね、その足で鎌形へ行ってみました。

館跡の現在の形は戦国時代に整備・改築されたものですが、
保存状態もよく、見応えのある一級の中世城郭遺構です。
伝承を裏付けるものや後北条氏関連の出土があるといいですね。


・・・菅谷

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街道の風景① 左岸の河岸段丘をのぼります、あの尾根を越えてきたんですね/蛇坂

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254号BP手前を左折               横断して台地上へ

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蛇坂の水神塔
時代:江戸時代 規模:高さ110cm
水神塔は水源や溜池、水路、川の堤などの水辺に建てられ、湧水の安定、利水や水路の保護、水難除けや洪水防護など水に関わる様々な目的により造られる。この水神塔は表面に「水神塔」と篆書体(てんしょ)で刻字されている。造立年代は裏面の碑文に文化51808)とあり、杉山・太郎丸・川島・志賀・広野・越畑・菅谷(現嵐山町)水房・和泉・中尾(現滑川町)の10ヶ村30数名の人名が記されている。ここから約600m下流の東松山市上唐子(月田橋畔)にも水神塔があり、碑文名には「筏連中」と刻まれ、千手堂・遠山(現嵐山町)と都幾川右岸の村々17ヶ村の筏師名が記されている。江戸時代の比企丘陵はが多く繁っており、農閑期には農家の副業として伐られた赤松がに組まれ建築・土木用材として都幾川水運により大都市江戸へと送られていた。蛇坂の水神塔もこうした都幾川の水運に関係した人々によって安全祈願の目的で造立されたものとみられ、町の近世史あ民俗史の一端を知る資料である。(嵐山町教育委員会)

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街道の風景② 宅地化されていますが一帯が菅谷原でしょうか?左手に覆屋があります(後で調べたら五輪塔が置かれている所でした)/菅谷

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須賀谷原遺跡
遺跡は国立女性教育観の国道254バイパスを挟んだ北側にありました。平成12年の発掘調査では鎌倉時代道路遺跡とともに戦国時代250基はど発見されています。出土した五輪塔や土器から15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡であることがわかりました。墓域であった処を一度片づけて塚を作り、塚の周りに新たに墓を作っていました。遺跡の年代が長享2年(1488)の須賀谷原合戦の時期と重なり、遺跡の位置からこの合戦との関連性が推測できます。なお、遺跡は工事によりなくなりましたが、出土した五輪塔が現地の覆屋に安置され見ることができます。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)

須賀谷原合戦

関東における15世紀後半の戦国時代では、関東管領上杉氏扇谷家山内家に分かれて対立しこれに古河公方を交えて三つ巴の抗争を深めていました。鎌形城の山内上杉氏とそれに対立する扇谷上杉氏の抗争は長淳2148825日に相模の実蒔合戦(神奈川県厚木市・伊勢原市)で幕を開け、618日に須賀谷原合戦に至っています。このとき主家の扇谷上杉氏に誅殺された太田道灌の子大田資康は山内上杉氏につき平沢寺に陣を張りました。合戦は死者七百余、馬亦数百匹倒れるという激戦でした。戦は当初優勢であった山内方を、古河公方を味方につけた扇谷方が押し返し、勝敗がつかないまま山内方が退いたとされています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)

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街道の風景③ この辺りから先が菅谷宿でしょうか、資料館&鎌形(前掲)へ寄り道します/武蔵嵐山駅東

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菅谷神社鳥居/菅谷

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菅谷神社
祭神 大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
由緒 
本社大山咋命は元日枝神社なり、是は畠山重忠年17才にして治承410月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参し、頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地を賜り依て、此に新城を築き居住となし、武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中、即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年919日に奉遷勧請す、故に日吉山王大権現と称せしを、明治4年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す。是より本社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す。須佐之男命は須賀神社と称して創立不詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝う(説明板)

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嵐山町菅谷神社社叢ふるさとの森
身近な緑が姿を消しつつあるなかで埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだ菅谷神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。この神社は源頼朝公に菅谷の地を賜った畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を請願して、建久元年(1190)に日吉山王大権現として奉還勧請し、明治期になって日枝神社さらには菅谷神社と改称されたものです。社の周囲はスギ林で、四季をとおして人々の憩いの場として親しまれていますがこの中でもひときわ大きなスギの御神木は町の保護樹木にも指定されています。(埼玉県・嵐山町)

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神社の向いは菅谷公園、厳島神社が祀られていますが


・・・菅谷館跡/菅谷

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国指定史跡・菅谷館跡測量図/ガイドブック「菅谷館跡」(埼玉県立嵐山歴史の博物館)

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国指定史跡・菅谷館跡
菅谷館は鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。文久2年(1205)武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると長淳2年(1488)に山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者700人、馬は数百匹倒れたと記されこの菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。現在の遺構は本郭・二ノ郭・三ノ郭などとそれらを防御する土塁・空堀などからなり、このような姿になったのは戦国時代のことと考えられます。昭和48年(19735月、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として国の史跡に指定され、平成20年(20083月に比企城館跡菅谷館跡と名称が変更されました。(埼玉県教育委員会)

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搦手門跡(二重土塁と泥田堀)
目の前にあるわずかな高まりは発掘調査によって土塁であることがわかりました。この土塁は後の高い土塁と合わせて二重の土塁となっています。また現在バイパスの敷地となっている部分は自然の谷を利用してつくった泥田堀で、菅谷館跡の外堀の役目をしていたと考えられます(説明板)

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二ノ郭
二ノ郭は本郭の北側と西側を本郭を囲むように配置されています。三ノ郭とは堀と高さ3.5m~6mもある土塁によって隔てられています(説明板)

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二ノ郭・本郭の土塁          二ノ郭・三ノ郭の土塁

出枡形土塁(本郭)
出枡形土塁は本郭を取り巻く土塁の一部を枡形に飛び出させたものです。本郭に入る敵に「横矢」をかける構造となっています。(菅谷城館跡見て歩きガイド)


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復元建物跡              菅谷館ジオラマ

建物跡(三ノ郭/歴史の博物館前)発掘調査で確認された柱穴をもとに復元しています。椅子のように見える杭は柱を表現しています。少し離れて見える穴は井戸跡を表しています。(菅谷城館跡見て歩きガイド)

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畠山重忠像(二ノ郭)
昭和4年に地元の有志の方々が作りました。竹を芯にした「竹筋コンクリート」製です。直垂をまとい烏帽子をつけた重忠像は鎌倉の方を向い立っています(菅谷城館跡見て歩きガイド)

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本郭
本郭は東西約150m、南北約60mの長方形をしています。四方を深い堀と土塁に囲まれ、出入り口も狭く容易に郭内に侵入できないように工夫されています。地元の伝承ではここに畠山重忠の館があったと伝えられています。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)

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生門跡(本郭/写真正面)
本郭は東西150m、南北60mの長方形をしており、約9千m2の広さがあります。東側の土塁は一部切れており、生門と伝えられ本郭の出入り口のひとつです(菅谷城館跡見て歩きガイド)

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三ノ郭
三ノ郭は東西約260m、南北約130mの長方形をしています。館の北端に位置し5つの郭の中で一番広い面積を占めています。この郭は外からの侵入を防ぐため「折」や「出枡形土塁」などを多用し防備を厳重にしています。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)


正坫門跡(蔀土塁・三ノ郭 写真左)
蔀(しとみ)とはついたてのことで、蔀土塁は目隠しのための土塁です。蔀土塁は形や周辺の遺跡の状況(古墳群が周囲にあること)から円墳を利用している可能性があります。(菅谷城館跡見て歩きガイド)

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正坫門(しょうてん)と木橋
ここは三ノ郭の出入り口で正坫門と呼ばれ幅が約5間(9m)あります。発掘調査で結果、西ノ郭より1m高く盛土されていたことがわかりました。この盛土は西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、敵軍の侵入を困難にするよう工夫したものと思われます。調査によって堀の中段から木橋の橋脚を立てたと思われる石積みが検出されましたが、現在の橋はそれを基に推定復元したものです。しかし、実際の橋がどのようなものであったかはわかりません。(説明板)

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西ノ郭

西ノ郭は東西約130m、南北約70mの長方形をしています。館の北西部に位置し、北から南にかけてゆるくわずかに傾斜しています。ここは大手門と伝えられる虎口跡があり、館の玄関にあたる場所であったと考えられます。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)

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南ノ郭
南ノ郭は東西約110m、南北約30mの長方形をしています。館の南部に位置し、都幾川の崖上に造られた小さな郭です。この郭は対岸から敵の侵入を防ぐための役割をしていたと考えられます。(埼玉県立嵐山史跡の博物館)


・・・
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館跡の南側に「蝶の里公園」がありますがここもいいですね~ 

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古道のような散策路           県道を二瀬橋へ

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川の風景① 下流側です、左岸が「菅谷館跡」のある段丘涯になります/二瀬橋

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川の風景② 上流側、大平山の麓(嵐山渓谷)から槻川が合わせます。都幾川は左から大きく蛇行して流れますが、上流が鎌形八幡神社(前掲)になります/二瀬橋

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二瀬橋                 右岸の桜堤

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右岸・鎌形の田園風景/千騎沢橋

鎌形の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/26353632/


・・・嵐山渓谷


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川の風景③ 散策したかったんですが時間切れ、折よくバスが来たのでの嵐山駅へ向かいました/槻川橋

槻川
(つきかわ)

埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川で都幾川最大の支流である。支流の兜川と共に入間川流域では最も北側を流れる。東秩父村白石地区堂平山付近に源を発する。「新編武蔵」によると源流点に欅(槻)の大木があったのでこの名がある。外秩父山地に平行して北流、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより流れを東南東方向から東方向に向きを変える。小川町腰越地区へ入り南から北へヘアピンカーブ状に穿入蛇行しながら小川盆地へ、兜川と合流し次第に狭窄な地形となり谷底平野を大きく蛇行する。太平山の麓では南へ北へヘアピンカーブを描くように曲流し、長瀞の様な結晶片岩の岩畳を縫って流れる渓谷の様相を見せる。この付近の槻川は嵐山渓谷と呼ばれる景勝地、渓谷を抜けると東へ直線的に流れ嵐山町鎌形都幾川の左岸に合流する。Wikipedia


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嵐山渓谷
埼玉県を代表する景勝地のひとつ『武蔵嵐山渓谷』は岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織り成すみごとな景観と豊かな自然環境をもった嵐山町の宝です。槻川は外秩父山地の堂平山中にある自然林に端を発し、東秩父の山間を抜け小川町を経て嵐山町の遠山地区に流れ込みます。ここで岩場によって流路を狭められ都幾川と合流する二瀬の手前までが渓谷となっています。また大平山から伸びた細原と呼ばれる部分では流路が大きく180度転じて半島状の独特な地形をつくりだしています。

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地名の由来
武蔵嵐山渓谷はその地形的な特徴から秩父の長瀞岩畳に例えて「武蔵長瀞」と呼ばれていたこともあるようです。現在使われている「武蔵嵐山」は昭和3年に当地を訪れた本多静六林学博士により名付けられたものです。本多博士は渓谷の最下流部にある槻川橋より渓谷と周囲の赤松林の美しい景観を眺め、その様子が京都の「嵐山(あらしやま)」に大変よく似ているということで「武蔵国の嵐山」という意味で命名されたということです。この地名は後に当町の町名にも採用され「嵐山町(らんざんまち)」となりました。渓谷の半島部分にはそのことを記念する「嵐山町名発祥之地」が建立されています。(嵐山町HP)

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鎌倉街道上道(鳩山~嵐山)ルート図
(赤:鎌倉街道 青:都幾川・槻川 赤丸:笛吹峠・将軍沢・大蔵館・菅谷館・鎌形)


・・・・
資料ファイル


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「菅谷館跡」の位置と歴史
現在の菅谷館跡の構造は約13万m2の広大な面積を持つ戦国時代複郭式平城です。菅谷館跡が造られた台地は南側に都幾川の浸食によりできた崖、東側と西側には台地に直行する深い浸食谷が入り、城は地形を巧みに利用した複雑な縄張りになっています。鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には畠山重忠が文治3年(1187)に武蔵国菅谷館に引きこもったことや、元久2年(1205)に「小衾郡菅谷館」を出立して二俣川(横浜市鶴見区)で討ち取られたことなどが記録されています。この「菅谷館」は菅谷館跡のことと考えられています。現時点では菅谷館跡を畠山重忠の館と断定できる明確な根拠はありませんが、南を流れる都幾川の対岸の大倉地区や菅谷館跡から2kmほど西にある平沢寺など、重忠の祖である秩父平氏ゆかりの遺跡が周辺に出土するなど周辺遺跡の状況は菅谷館跡に重忠が居住していた可能性を示唆しています。
長享2年(14886月、関東管領山内上杉顕定と扇谷上杉定正の対立から、菅谷館跡周辺(今の嵐山町菅谷から平沢あたり)で須賀谷原合戦がおきます。この時山内上杉方の大田資康陣営を訪問した僧侶万里集九は「梅花無尽蔵」の中で『618日、須賀谷原で両上杉氏が戦い死者700人余り、馬もまた数百匹死んだ』と激しい戦いであったことを記しています。さらに同じ頃に僧侶松陰によって書かれた「松陰私語」には『河越(城)に対し須賀谷旧城(菅谷館跡のことか)を再興せよ』や『須賀谷(城)を堅固に再興せよ』と主君に進言したことが書かれています。発掘調査では15世紀後半から16世紀前半の遺物がまとまって出土しており、合戦同じ時期の遺物です。当時の城主が誰なのかは明らかではありまえんが、江戸時代初めに作られた菅谷館の城絵図の中に『上杉管領居城由』という記述がみられることから『上杉管領』すなわち関東管領山内上杉氏が城主であったと思われます。このようなことから合戦が繰り返された15世紀後半山内上杉氏によって改修され、今のような姿になった可能性が高いと考えられます。(ガイドブック「菅谷館跡」/埼玉県立歴史の資料館より抜粋)


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畠山氏(平姓)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国で勢力を張った豪族。秩父氏の一族で『平家物語』にもその活躍が描かれている。畠山重忠の代に最盛期を築いたが、鎌倉幕府の内部抗争で北条時政の策謀により滅ぼされた。その後、足利義純が畠山姓の名跡を継いだが、これが三管領家として名を連ねる家柄となった源姓畠山氏である。
秩父重綱
の息子・重弘は長男であるにもかかわらず秩父氏の家督を継ぐことはなく、である重隆が継いだ。重弘の長男・重能は武蔵国男衾郡畠山郷にて畠山氏を称したが、これが平姓畠山氏の始まりである。有重小山田氏を称し、妹は千葉常胤(つねたね)に嫁いでいる。本来ならば嫡流であるはずなのに、惣領の地位が叔父の重隆に握られていることに重能は不満を感じていたらしく、大蔵合戦源義平の軍勢に従い叔父重隆を滅ぼす。この時、重能は重隆の娘婿である源義賢の遺児駒王丸(のちの木曽義仲)の命を救っている。惣領を巡る争いは後々まで尾を引き結果的には秩父氏衰退の遠因となった。
1180年に源頼朝が挙兵すると重能の息子・重忠は本家の河越重頼に従って頼朝追討軍に参加したが、後に服属した。そして、重忠の代に畠山氏は大躍進を遂げることとなる。即ち、重忠は頼朝の平家討伐、奥州合戦で功を立てたばかりではなく、本家の河越重頼・重房が粛清された後、秩父氏惣領の座も得たのである。かくして重忠は武士の鑑と称えられることとなった。重忠は正室に北条時政の六女を迎えている。しかし、重忠の名声を北条時政及びその妻である牧の方は妬ましく思い潰そうとした。1205年に重忠の従兄弟である稲毛重成・
榛谷 重朝を抱き込み、最初に重忠の嫡男重保を血祭りに挙げた。重忠も息子の重秀と共に武蔵国二俣川で討ち死にした(畠山重忠の乱)。稲毛・榛谷一族も後に滅ぼされ平姓畠山氏嫡流滅亡した。重忠の遺児・重慶も後に粛清された。畠山の姓は足利義純が継承している。Wikipedia
系図:
ガイドブック「菅谷館跡」/埼玉県立歴史の資料館より抜粋)

鶴ヶ峰・二俣川古戦場跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23570588/

# by Twalking | 2018-01-18 19:57 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 武蔵嵐山駅   

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東武東上線武蔵嵐山駅/嵐山町
朝早くに出かけたんですが、
やはり夕方になっちゃいましたね・・・
電車も着たので、さ、帰ろっと。


武蔵嵐山駅

埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷にある東武鉄道東上本線の駅である。島式ホーム12線を持つ地上駅で橋上駅舎を有する。1923年(大正12年)旧菅谷村の中心部にできたため菅谷駅として開業。1935年(昭和10年)、1928年(昭和3年)頃に本多静六が、この付近にある渓谷(現・嵐山渓谷)を訪れた際、周辺を見た時に京都の嵐山の風景によく似ていることから、武蔵嵐山と命名したことが評判になり、多数の観光客がこの地を訪れるようになったため、武蔵嵐山駅に改称される。(Wikipedia


# by Twalking | 2018-01-17 20:05 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 畠山重忠像-菅谷館跡   

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畠山重忠像
菅谷館跡/鎌倉街道(嵐山町菅谷)
昭和4年に地元の有志の方々が作りました。竹を芯にした「竹筋コンクリート」製です。直垂をまとい烏帽子をつけた重忠像は鎌倉の方を向い立っています』(菅谷城館跡見て歩きガイド)とあります。傍らに重忠公冠題百字碑文』が刻まれていますが、よく分かりませんでしたのでネットでひいてみました。



重忠公冠題百字碑文
畠山重忠公貞亮晩節堅 (畠山重忠公は 貞亮にして晩節堅し)
山間秩父荘出如斯大賢 (山間秩父の荘は 斯くの如き大賢を出す)
重義履正路文武両道全 (義を重んじて正路を履み 文武両道全し)
忠良無私心仕源家罔愆 (忠良にして私心無く 源家に仕えて罔愆し)
公明而寛大人敬其清純 (公明にして而寛大 人は其清純を敬す)
踏水火忘身転戦着鞭先 (水火を踏んで身を忘れ転戦して鞭を着くること先なり)
正受疑応召発菅谷進
駐 (正しうして疑を受け、召に応じ菅谷を発して進む)
路上討兵遮相州二俣川 (路上討兵遮る相州二俣川)
遭難釈甲冑自殺不怨天 (難に遭って甲冑を釈ぎ 自ら殺うて天を怨まず)
讒構雖覆明無実之罪甄 (讒構明を覆うと雖も 無実の罪は甄なり)

各行の最初の一文字を連ねると「畠山重忠公正路(せいろ)を踏んで讒(ざん)に遭う」の題を形成するそうです。


# by Twalking | 2018-01-16 20:01 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-鎌形八幡神社   

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阿形


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吽形

鎌形八幡神社/嵐山町鎌形
「木曽義仲公産湯の清水」が湧く
鬱蒼とした社叢に凄味の効いた狛犬さん
見応えがあります。

# by Twalking | 2018-01-16 11:44 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(9)鳩山~嵐山02-大蔵&鎌形   

日時 2018.1.10(水)
天気 晴れ


大蔵の河岸段丘を下ると都幾川です。
街道は蛇坂を上り返して菅谷宿へ向かいます。
駅から戻って菅谷館のある嵐山史跡の博物館へ。

この菅谷館は訪ねて見たかった所です。
じっくり見れば30分以上ですが、都幾川の桜堤を
鎌形へ向かいました。
(鎌形は大蔵との関連性があるのでこの項に掲載します)


・・・大蔵/嵐山町


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大蔵村(比企郡菅谷村大字大蔵)
大蔵村ハ江戸ヨリノ行程前村ニ同ジ、大蔵郷ニ属シ領名モ亦前村ニ同ジ、昔帯刀先生義賢ガ武州大蔵ノ館ト聞エシハ当所ニテ、ソノ旧蹟今ニ存シテ慥(たしか)ナルコトナレバ、久寿 (1154-1156)ノ頃ヨリ唱ヘシ地名ナルコト論ナシ。民戸七十余、東ハ根岸村、南ハ将軍沢村、西ハ鎌形村ニテ、北ハ都幾川ヲ隔テヽ千手堂・菅谷・上唐子(かみがらこ)ノ三村ナリ。東西八町南北六町、正保 (1644-1648)ノ頃ハ御料所ニシテ検地ハ夫ヨリ前寛永三年(1626)アリシニ、後次第ニ新田ノ地開ケシハ万治三年(1660)・寛文八年(1668)・天和二年(1682)ノ三度、時ノ代官糺(ただ)セリ。元禄四年(1691)地ヲ割テ石黒某ニ賜リ、残ル御料ノ所ハ宝暦十四年(1764)清水殿領地トナリシヲ、寛政九年(1797)再ビ御料トナリ今モ替ラズ。(新編武蔵風土記稿/嵐山町web博物誌)

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街道の風景① 都幾川を挟んで右岸に「大蔵宿」、左岸に「菅谷宿」がありました/大蔵

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右手に「修験別格本山大行院」、左手に「神明院」があります

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安養寺参道/大蔵 天台宗のお寺さんです。奥の森が大蔵神社になります。

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安養寺山門

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安養寺山門
当山門は棟札から江戸時代後期天保101839)の造営と知られる。天台の宗門にふさわしく重厚で気品あふれる風格をそなえ、貴族的な趣味を彷彿させる。一部龍飾りの唐獅子・龍・佗鳥が配される。棟梁は棟札に河原明戸村飯田和泉藤原全績とある。現在の熊谷市(旧大麻生村)の人で当代北武蔵の名工と名高い。なお、東松山市八雲神社社殿、川越市氷川神社の彫刻など天保期の造営となる建造物の棟札にも飯田姓を多く見ることができる。これら一連の工匠と彫刻は同族飯田一族と推察されるがその卓越した技法は群を抜いている。(嵐山町教育委員会)

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街道の風景② 左手が「大蔵館跡」右手前に「源義賢の墓」があります。大蔵宿はこの辺りでしょうか

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県道交差点                「鎌倉街道・御所ヶ谷大蔵下宿」


・・・大蔵館跡

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街道の風景③ 左に曲がった一画に「大蔵館一族一門 南無馬頭観背音菩薩 平氏一族一門」の碑が建ちます。こちらのお宅に空堀跡が確認されているそうです

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大蔵館跡
大蔵館跡は平安時代の末期、帯刀先生源義賢によって築かれたと伝わります。館跡の四隅にはそれぞれ土塁、空堀が残っており、これから推定される館の規模は東西170200南北220である。また館跡の内外には「御所ヶ谷戸」「堀之内」「高御蔵(高見櫓)」など館があったことを示す小字名もある。館の東方100mには鎌倉街道が南北に通過しており、館の入口は街道に面して東方に設けられている。館の中核は南西の一画に一段高く土盛されている現在の大蔵神社付近と考えられるが、現存する大蔵館跡の規模は必ずしも義賢当時のままとはいない。嵐山町周辺は南北朝~室町、戦国時代にかけて戦乱の絶えなかった地域であり、そうした時代にも軍事上の重要拠点として幾度となく造りかえられ利用されていたようである。(埼玉県教育委員会・嵐山町教育委員会)

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畑地の先、一段小高くなった森が大蔵神社、館の中核と考えられます/案内板先より

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大蔵神社東側参道           境内より東を望む

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県道より北側を望む

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大蔵神社鳥居

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大蔵神社/大蔵字御所ヶ谷戸
当地は鎌倉街道の要衝として知られ、鎌倉開幕以前に築造されていた大蔵館跡がある。この館は六条判官源為義の次男義賢(よしかた)の居城であった。当社は明治35年の「日吉神社(当社)上地森林境内編入出願に付取調上申書」に、古老の口碑として木曽義賢が大蔵館の新築後に、武神として尊信していた近江国日吉神社の分霊を天養元年(1144)に勧請したと伝える。(埼玉県神社庁)

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大蔵館跡/大蔵神社境内
大蔵館は源氏の棟梁六条判館源為義の次子・東宮帯刀先生源義賢居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現在する遺構から推定すると館の規模は東西170南北200余りであったと思われる。館のあった名残りか、館跡のある地名は御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。現在遺構としては土塁・空堀などがあり、ことに東面100m地点の竹林内(大澤知助氏宅)には土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお館跡地内には伝城山稲荷大蔵神社がある。源義賢は当地を拠点として武威を高めたが、久寿2年(1155816日源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。義賢の次子で当時2歳の駒王丸は畠山重能(しげよし)に助けられ齋藤別当実盛により木曾の中原兼遠に預けられた。これが後の旭将軍・木曽義仲である(埼玉県)

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大蔵屋敷跡/大蔵神社境内
大蔵館跡は8にわたる発掘調査や館周辺の遺跡群の発掘調査、現存する考古資料などから小館大館の二つの構えが存在したことがわかっている。現存するのは大館の跡で、土塁や空堀の配置状況から推定される規模が東西170m、南北220mを測り面積にして4万m2に及ぶ。一方、小館の跡は発掘調査により遺構が確認されたものであり、一辺70mの堀を方形にめぐらせた区画である。堀の内側には柵列のような柱穴列や掘立柱の建物跡などが確認された。しかし、大小の館が築かれ存在した年代の詳細は明らかではない。この地域の中世史は大きく3期に分けて理解することが出来る。112世紀代、すなわち史料に見る源義賢の年代である。213世紀から14世紀前半、この時期は周辺の遺跡群や考古資料とも一致する大蔵の最盛期で、鎌倉街道大蔵宿の繁栄が背景にあったと予想されている。315世紀以降、極端に出土品や考古資料が少なくなり地域の衰退期と捉えることができるが、大館の普請が行われた時期と考えられる。発掘調査によって判明した大小の館跡は「鎌倉街道」と都幾川の河川交通の交わる大蔵宿の中心としての姿や、街道筋で南北朝~室町、戦国時代にくり返された多くの合戦の際にも攻防の場、また拠点として利用されていた様相をうかがわせている。(嵐山町教育委員会)

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行司面遺跡/大蔵神社先
大蔵館の西側にある行司面遺跡は縄文時代中期の大規模な集落、古墳時代の集落と墓域、中世の集落からなる複合遺跡でした。中世には市場的な性格の集落がつくられ、区画溝、建物跡、井戸跡、墓跡などが発見されています。遺跡は圃場整備工事にともない失われましたが、畑のなかに石組をもつ井戸跡が唯一保存され町指定史跡になっています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)(写真は参道入口です)


・・・源義賢の墓/大蔵

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交差点の右、畑地に「源義賢の墓」があります/大蔵

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源義賢の墓
義賢は源為義次子(長子は義朝)で、近衛天皇が東宮の時に仕え帯刀の長となったので帯刀先生(たてわきせんじょう)と称され、その後東国に下り上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町)を本拠地としたので多胡先生とも称された。更にその後、この地(大蔵館)に移住し武蔵国や上野国に勢力を振るったが、久寿21155816日大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太(源)義平と合戦して討たれた。なお、木曽義仲は義賢の次子である。源義賢の墓とつたえられるこの五輪塔は、数度の火災にあったためかやや赤く変色しているが、県内では最古の部類に属するものである。大正13331日に県指定史跡に指定されている。(埼玉県)

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埼玉県指定史跡 源義賢墓
所在地:嵐山町大字大蔵字大東66 時代:平安末期この五輪塔は火輪部と水輪部のみ残存しており、空輪部と地輪部は後から補われたもので風輪部は欠損しています。材質は凝灰岩製で、火災にあったためか変色のあとがみられ、損傷も激しかったため昭和52年に東京国立文化財研究所により修理処理されました。

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このかたちはいわゆる古式五輪塔と呼ばれ、県内に所在する五輪塔の中では最古の例です。なお、この墓は義賢ゆかりの人々が供養のために建立したものと考えられます。この五輪塔は本来供養のために建てられましたが、後には墓石として建てられるようになりました。密教の宇宙観より上から空・風・火・水・地として、五大の考え方をあらわしています。(嵐山町教育委員会)


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源義賢
没年:久寿2.8.16(1155.9.14) 生年:生年不詳
平安末期の武将。源為義と六条大夫重俊の娘の子。義朝は兄、頼賢、為朝は弟。保延5(1139)年春宮帯刀先生となるが翌年殺人犯人と同心したとして解官。以後父と共に摂関家の藤原忠実・頼長に臣従。康治2(1143)年、頼長より能登庄を預けられたが4年後に年貢未進で解任。仁平3(1153)年、上野国(群馬県)多胡郡に下向し、武蔵国の豪族秩父重隆婿となり武蔵北部に勢力を伸ばすが、久寿2(1155)年当時鎌倉にあった義朝の長子義平の攻撃を受けて武蔵国比企郡の大蔵館で岳父重隆と共に殺された。この際、幼少だった子の義仲は木曾に逃れた。また養子となっていた弟頼賢が復讐に下向し義朝に追討の院宣が下される一幕もあった(コトバンク)


源義平

没年:永暦1.1.19(1160.2.27) 生年:永治1(1141)
平安後期の武士。
源義朝長男。母は三浦義明。鳥羽上皇に登用されて中央に進出した義朝のあとをうけて鎌倉を本拠に活動。久寿2(1155)818日、叔父の義賢(木曾義仲の父)を武蔵国大蔵館に攻め殺し「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。平治の乱には上洛して義朝に従い奮戦の様子は『平治物語』によって広く知られている。敗戦ののち、再挙を期して北国に向かったが義朝の死を聞いて都に潜入。平家一門の要人に対するテロを企てたが機を得ないうちに平家の家人難波経遠にとらえられ京都の六条河原で斬首された。(コトバンク)

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大蔵合戦
久寿2年(1155816日、平安時代末期に武蔵国で源義平が源義賢の拠点であった大蔵館を襲撃し義賢と秩父重隆を攻め殺した戦い。秩父氏家督争い源氏内部同族争いが結びついたものである。保元の乱の前哨戦ともされる。河内源氏の当主であった源為義は摂関家を後ろ盾としたのに対し、長男・義朝は都から東国へ下って南関東へ勢力を伸ばし、院近臣を後ろ盾とした。義朝は仁平3年(11533月には父の官職を超えて下野守に任じられ、関東を地盤として都の武者としての地位を高めた。源為義は長男・義朝への対抗策として勢力の及んでいない北関東に、義朝に代わって嫡子とした次男・義賢を下向させる。義賢は上野国多胡荘(現・高崎市旧吉井町地区)を本拠とし、武蔵国最大の武士団で留守所総検校職にあった秩父重隆を娶り「養君」となって武蔵国比企郡大蔵(現・埼玉県比企郡嵐山町)にを構える。秩父重隆は甥・畠山重能並び父・重綱の後妻との間で家督を巡って対立し、また隣国の新田氏や藤姓足利氏と利根川を挟んで抗争を繰り返していた。秩父重隆の対抗勢力である新田氏、藤姓足利氏、畠山氏らは源義朝とその長男・義兵親子の勢力と結んでおり、父・重綱の後妻は義平乳母であった。源義朝は曾祖父・頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え相模国一帯に強い基盤を持っていた。都へ戻った義朝に代わりその地盤を受け継いだ義平は本拠である鎌倉より北上をもくろみ、叔父・義賢と秩父重隆の勢力が上野、武蔵の武士団を糾合して南へ勢力を伸ばそうとする動きを見せると、両者は武蔵国で衝突する事になる。久寿2年(1155816日、源義平率いる軍勢が突如、武蔵国の大蔵館を襲撃し源義賢秩父重隆共に討たれた。わずか15歳の義平はこの戦いで大いに武名をあげ「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになる。この時、源義賢の子で2歳の駒王丸は、畠山重能の計らいで義朝・義平親子と義賢との間を揺れ動いた武蔵武士団の一人でどちらの側にも従ったことがある齋藤実盛により、駒王丸の乳母夫である信濃国の中原兼遠のもとに逃がされた。駒王丸は後の木曽義仲となり、命の恩人である斎藤実盛とは大蔵合戦から28年後の篠原の戦いにおいて首実験の場で悲劇的な対面をする。Wikipedia
(系図はガイドブック「畠山重忠」/埼玉県立嵐山史跡の博物館を参照しました)


・・・

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街道の風景④大蔵の集落を抜け都幾川へくだります/大蔵バス停

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向徳寺山門/大蔵

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向徳寺
向徳寺は時宗、創建は鎌倉時代と伝わります。重要文化財の阿弥陀三尊像はいわゆる善光寺式阿弥陀三尊の典型とされる優美な像ですが、普段は公開していません。主尊の台座の銘文から宝治3年(1249)児玉党小代氏の本拠地・小代(東松山市正代)で作られた可能性が説かれていますが詳細は分かりません。境内に町指定文化財の板碑群があり、鎌倉~室町時代にかけて年号を刻むものが20基以上並んでいます。時宗特有の「南無阿弥陀仏」を刻む名号板碑があり寺の歴史を物語っています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)

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向徳寺参道              向徳寺板碑群

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川の風景① 上流を望みます、正面が大平山・嵐山渓谷、右手の森が菅谷館になります/都幾川(学校橋)

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都幾川
埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川、越辺川の支流である。支流の槻川と共に入間川流域では最も北側を流れる。埼玉県比企郡ときがわ町大野地区の高篠峠付近にを発する。源流部には大正末期から昭和初期にかけて設置された石積みの砂防堰堤(落差工)が多数ある。名前の由来の一説であり慈光寺がある都幾山の南麓を通る比企郡嵐山町で秩父郡秩父村を源流とする槻川を合わせる辺りは京都の嵐山の風景によく似ている事から武蔵嵐山と命名され嵐山渓谷と呼ばれている。左岸側の崖は都幾川により開析された河岸段丘である。東松山市に入り、関越道を越えたあたりから両側を高い堤防で挟まれるようになる。河川域も運動公園など都市近郊河川の様相を見せ、比企郡川島町長楽において越辺川に合流する。都幾川の語源については清めることを意味する『斎(とき)』から来ていると考えられているWikipedia


・・・鎌形

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川の風景② 正面が菅谷館跡、二瀬橋から鎌形まで右岸の桜堤をリバーサイドウオーク/千騎沢橋(都幾川)

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鎌形八幡神社鳥居/鎌形
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門でしょうか?舞台のようでもありますが・・・、ここを潜ります

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鎌形八幡神社
鎌形八幡神社は平安時代初期、延暦年間に坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると言い伝えられている。武門、武将の神として仰がれ「源頼朝及び尼御前の信仰ことのはか厚く」と縁起の中にもある。源義賢、義仲、義高の氏神として仰がれていたという。また、嵐山町指定文化財である懸仏2枚保存されている。安元2年(1176)の銘がある懸仏は径18cmで、中央に阿弥陀座像が鋳出されていて「奉納八幡宮宝前安元二丙申天八月之吉 清水冠者源義高」と刻印されている(但し源義高は安元2年には生まれていない)もう一つの貞和4年(1348)の銘がある懸仏は径17cmで、薬師如来坐像が刻まれていて「渋河閑坊 貞和二戌二子七月 施主大工 兼泰」と刻まれている。その他木曽義仲産湯の清水や徳川幕府歴代将軍の御朱印状など多数の文書がある(埼玉県)

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鎌形八幡神社本殿
正面の建物は拝殿を兼ねた覆屋であり、本殿はその中に納められている。本殿は簡素な一間社流造りりで、装飾的な彫刻は正面両扉、両脇、脇障子、蟇股、向拝木鼻、向拝蟇股などに限られている。彩色もこの彫刻部分にのみ施されている。本殿の建立年代は棟札に「奉再建立正八幡宮御神殿干時寛延二巳暦三月朔日遷宮」とあり、寛延2年(1749)である。しかし、新材がかなり含まれ何度かの修理を経ているものと考えられる。一方、身舎部分(もや)に付けられて蟇股、頭貫の木鼻などの形状は簡素な整ったものであり、古式を踏襲したのおかあるいは棟札の年代よりもさらに古いものかと思われる(嵐山町教育委員会)

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伝木曽義仲産湯の清水
義仲は仁平3年(1153)源義賢が大蔵の館に移り住んだ年に生まれたと伝えられます。その時に近くの七つの清水から産湯を沸かした伝えがあります。他の清水は枯れてしまい、神社に残るものが唯一だそうです。

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貞和の懸仏
年代:貞和4年(1348)南北朝時代 大きさ:直径17cm
懸仏は建物の内側(内陣)にかけて礼拝の対象などにしたもので、立体的な尊像や吊り懸けるための金具が設けられている。本来は御正体といい、神仏習合により神の本地として各種の仏が表現されることが多い。この懸仏は県内に所在する懸仏のなかで最も古い紀年銘をもち、中央には阿弥陀生像が鋳出されている。大工兼泰の懸仏は東京国立博物館にもあり、大きさや文字が刻まれていて関連性が指摘されている。(嵐山町教育委員会)
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斑渓寺山門/鎌形

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斑渓寺
曹洞宗の寺で威徳山斑渓寺という。この寺の梵鐘に次の文字が記るされている。『木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿斑渓妙虎大姉 創建スル所也』つまり妙虎大姉山吹姫)が吾子・義高11歳の時、入間川原で頼朝の命を受けた堀藤次に斬られた菩提を弔ってこの寺を建てた。仁平3年(1153)に源義賢が武蔵国大蔵に館を構えて、鎌形下屋敷を設け小枝御前を住まわせ生まれたのが義仲(幼名駒王丸)である。

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久寿2年(11558月義賢は甥の悪源太義平に討たれたが、駒王丸は畠山重能、斉藤実盛の情により木曽に送られ成人後、旭将軍に出世した。山吹姫は木曽育ちの娘、義仲とし幾度かの合戦に従軍し建久元年(11901122日ここに寂す。義高は頼朝の娘大姫と結ばれ源氏の世継といわれたが、頼朝のため命を落した。(埼埼玉県)

入間川・源義高終焉の地(清水八幡)の関連記事はこちらへ//teione.exblog.jp/26123824/

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「木曽義仲公誕生の地」の碑   一帯は
「伝木曽殿館跡」と伝わります


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木曽義仲公顕彰碑
朝日将軍としてその名を馳せた木曽義仲はこの地鎌形に生まれた。その幼名を駒王丸と云い、久寿2年(1156)父・帯刀先生源義賢が甥の悪源太義平に大蔵の館にて討たれた時、僅2歳であった。駒王丸は畠山重忠の父重能と齋藤別当実盛に助けられ、信濃国権守中原兼遠のもと木曽に送られ、その山中にかくまわれ元服して木曽次郎義仲と称し、20有余年の歳月は過ぎた。その間時勢は大きく移り変わり保元・平治の乱により源氏は殆どその影をひそめ、平家一門の全勢の世となった。「驕る平家久しからず」と云うがやがて諸国に潜んでいた源氏は以仁王の令旨により東国で源頼朝、信濃では木曽義仲が挙兵し、義仲は今の長野県日義村の八幡宮で旗挙げをした。時に治承4年(118097日のことであった。やがて越後国の平家方の城氏を信濃の横田河原で撃ち破り、続いて倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦いで平家の軍勢を撃破し比叡山を押さえて怒涛の如き勢いで平家を追って京都に上った。こうして義仲は後白河法皇に謁し朝日将軍の名称を贈られ、続いて平家追討のため京都より西海へと出撃した。その間、後白河法皇は鎌倉の源頼朝と相通じ義仲を討つ計画をしたので、義仲は従兄弟の源頼朝と対決することになった。義仲は寿永3年(1184120日征夷大将軍に任じられたが、源頼朝の遣わした追討軍に撃たれ波乱に富んだ生涯を近海の粟津が原の露と消えた。時に寿永3年(1184120日義仲31歳であった。今茲に義仲の遺徳を偲んでその業績を讃えるため鎌形の郷民資金を相募り、その顕彰碑を建立し永く義仲公を郷土の誇りとするものである。(木曽義仲公記念碑建立委員会)

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川の風景③ 都幾川は大きく蛇行して流れます。正面は正山、右手が斑渓寺です/斑渓寺橋


東海道大津宿(義仲寺・義仲墓所)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21593969/

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嵐山渓谷周辺案内図(180°回転)
(赤:鎌倉街道 紫:歩行ルート 青:都幾川・槻川)

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大蔵周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道 青:都幾川・槻川)


# by Twalking | 2018-01-16 09:55 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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都幾川桜堤/嵐山町鎌形
二瀬橋から槻川合流点を確認しながら
八幡橋まで桜堤を歩いてみました。
桜の頃はいいでしょうね~。


都幾川桜堤

嵐山渓谷で有名な槻川(つきかわ)の下流、都幾川左岸(南側)の八幡(はちまん)橋~二瀬橋~学校橋までの全長2kmに約250本の桜並木(ソメイヨシノ)が連なっています。四半世紀前に地元住民の寄付により記念植樹された若木が今では大変見事になりました。堤が弓なり状になっており遠くまで桜並木が続いている様子をお楽しみ頂けます。(嵐山町)


# by Twalking | 2018-01-15 23:10 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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橋の風景-学校橋
都幾川/鎌倉街道(嵐山町大蔵)
河原へ降りてみました。
橋の下から大平山が覗いています、
鎌形までリバーサイドウオーク、気持いいですね!

# by Twalking | 2018-01-15 16:35 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スイセン   

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スイセン
愛宕下通り/多摩市愛宕
おはよ~!
ほっとほころぶ朝
じっと春を待つでしょうか。

# by Twalking | 2018-01-15 10:38 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 朝霞台駅   

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東武東上線朝霞台駅/朝霞市
武蔵野線への乗換駅、久し振りに降りました。
まだ先は長いし、お腹もすいたんで
ちょっとひと休みです。


朝霞台駅
朝霞市東弁財一丁目にある東武鉄道東上本線の駅である。1974年(昭和49年)武蔵野線北朝霞駅(1973年開業)との乗り換えの便宜を図るために開設。島式ホーム24線を有する地上駅で、ホームは切通し部にある。複々線区間にあり外側を池袋発着の優等列車が、内側を普通う列車および地下鉄線直通列車が走る。(Wikipedia

# by Twalking | 2018-01-14 19:53 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ロウバイ   

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ロウバイ
大蔵宿/鎌倉街道上道(嵐山町大蔵)
う~ん、いい香り
咲きだしましたねロウバイ、
春遠からじ、じっと待ちましょう。



# by Twalking | 2018-01-14 14:43 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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山王下緑地/多摩市山王下
にゃ~お、て可愛く寄ってきたので
カメラ向けたら、なんだか睨まれた感じ。

# by Twalking | 2018-01-13 19:40 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東武東上線   

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東武東上線/武蔵嵐山駅
空いてるからいいかな・・・、
明るくてスッキリ、ゆったりしてるし
乗り心地もいいですね~。


東上本線

豊島区の池袋駅から埼玉県大里郡寄居町の寄居駅までを結ぶ東武鉄道の鉄道路線。越生線とともに東上線(路線群)を構成する。ラインカラーは紺色。小川町駅以南の沿線地域は新興住宅地の開発が盛んである。近年は大型マンションが増えている。このように沿線の住宅開発が進んでいるため多くの人が利用し、東武鉄道の中でもトップクラスの収益を上げる路線である。(Wikipedia


# by Twalking | 2018-01-13 17:58 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩モノ通り   

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多摩モノ通り/多摩市山王下
モノレール軌道越しに見る愛宕の丘、
明るくて、なかなかいい雰囲気ですね。
道は尾根をトンネルで潜ります。

# by Twalking | 2018-01-13 14:54 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-上矢部御嶽神社   

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阿形

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吽形

上矢部御嶽神社/相模原市上上矢部
なんだかほっこり、
面白い狛犬さんですね~。

# by Twalking | 2018-01-12 23:24 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(9)鳩山~嵐山01-笛吹峠   

日時 2018.1.10(水)
天気 晴れ


バスの時間に合わせて早くに出かけました。
今回は笛吹峠を越えて将軍沢、大蔵館後、菅谷館跡等
見所が一杯、義仲生誕の地にも寄るつもりです。

天気は上々、峠道は改良された道ですが
下りに古道の遺構も残っていて見応え十分、
ここはじっくりと散策してみたいところですね。


・・・須江/鳩山町

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街道の風景① 坂戸駅からバスで大橋へ、ここからスタートです/大橋

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すぐに鎌倉街道の案内板            左折して「笛吹通り」を峠へ

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街道の風景② 右の鉄塔の辺りが笛吹峠、尾根の稜線が「巡礼道」になります

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岩殿丘陵
東松山・比企郡鳩山町・嵐山町・ときがわ町・入間郡毛呂山町・越生町に広がる丘陵地帯である。別名「比企南丘陵」「物見山丘陵」。比企南丘陵」とも言われ県立比企丘陵自然公園の大部分を占めることからこちらを比企丘陵と呼ぶこともある。区域はおおむね越辺川都幾川関越道西JR八高線に囲まれた範囲が該当する。側は高坂大地から荒川低地へとつながっている。西側は八王子構造線を越えた西側の外秩父と呼ばれる500m級の山並みへと続いている。なお、関東平野から外秩父山地に続く途中の緩やかな斜面となっているため、東側の荒川低地から見ると外秩父のそびえ立つ山々の手前にある丘のように見えるのが特徴である。岩殿丘陵の最高地点は東端の物見山(標高135m)で、笛吹峠(標高80m)にかけて尾根を形成するが西側へ行くほど標高は落ちていく。また物見山周辺は九十九峰四十八谷といわれるほど起伏に富んでいる。Wikipedia

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須江奥田地区土地改良記念碑
本地区は鳩山町の北部に位置し、地区中央に鎌倉街道が縦貫し往時から交通の要衝にあたり、かつて国分寺瓦、須恵器の産地として栄えた。地区内の水田は狭小で且つ不整形な湿田が多く農道、用排水路とも蛇行して非常に狭く、ひとたび大雨に遭うと冠水し泥沼と化して被害をもたらし、日常の農作業は極めて困難を来した。この様な現状から地元有志が相図り関係農家の総意に基づき昭和6011月頃に奥田地区土地改良組合を設立し、翌年団体営土地改良総合整備事業による区画整理事業を実施した(後略・石碑文)

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羽黒堂(はぐれどう)/奥田
『西の方、須江村の境、笛吹峠の入口にあり羽黒堂ともいう。小さな堂で石の地蔵が置かれている。村人の所有。古くは、このあたりがむなしいほどの原っぱであり、そこへ登る道は即ち笛吹峠である。このあたりに塚が11あり、土地の人が言うには骸骨を埋めた塚であり、最近まで雨の夜には冥火が燃えたため、人々は驚き、塚毎に地蔵を建て追悼したら冥火が起こることがなくなった。峠には塚が2つあり、塚の上に松の木があり、茶臼塚という。また、羽黒堂というのは、歯を黒くした大将の首を埋めたためと。またの説に、出羽国の人を葬ったため羽黒山ととられる。あるいは士卒とはぐれて討たれた者を埋めたためはぐれ塚ということを。誤って唱えていると、いずれも信じることはできない』(新編武蔵風土記稿)

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正面に「今宿及ビ坂戸方面ニ至ル・将軍沢ヲ経テ鬼領鎮神社」左側面には「玉川ヲ経テ坂東九番二至ル・坂東十番ニ至ル」と刻まれた道標、その先に「海道端池」と弁財天の石柱があります。

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街道の風景③ 振り返ってみる須江の田園風景


・・・笛吹峠

鳩山町と嵐山町の境にある峠。標高80m。岩殿丘陵中央に位置し、峠を起点として板東10番の岩殿観音から同9番の慈光寺観音へ続く東西の道が通っており、巡礼街道と呼ばれている。この峠を南北に貫く道が旧鎌倉街道で、鎌倉時代には数多くの武士団等が行き来した所であった。Wikipedia

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街道の風景④ 舗装されているので趣きはいまいちでしょうか、峠の展望は聴きません

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笛吹峠
峠を起点として坂東10番札所の岩殿観音正法寺から9番札所の慈光寺へ続く東西の道は巡礼街道とよばれ、南北に貫く道が旧鎌倉街道で、かつて多くの武士団が往来したところであった。正平7年(1352)閏2月、新田義貞の三男・義宗が宗良親王を奉じて武蔵野の小手先ヶ原古戦場で戦ったが、最終的に結末がついたのがこの峠であった。新田義宗は越後に落ち延び、足利尊氏関東を制圧した。この峠の名称は敗退の陣営で折からの月明かりに宗良親王笛を吹かれたことから命名されたという伝承がある。なお、この付近は遠く奈良時代に窯業の中心として栄え、武蔵国国分寺瓦の大部分がこの付近で焼かれ、その古窯跡が虫草山をはじめ須江・大橋・泉井などの山間部に多く見られる。笛吹峠からはるか北方に上州の山々、西方に秩父連山、南方に広い関東平野が遠望され風光明媚な歴史の地である。(埼玉県)

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笛吹峠の合戦(鎌倉街道沿いの中世史)
笛吹峠は鎌倉街道の中で唯一の峠で、街道一の難所といわれております。慈光観音と岩殿観音の巡礼道が交差するこの峠は、鳩山町と嵐山町の行政境にあたり、クヌギや松の雑木林などに囲まれて今なお古き武蔵野の面影を残しています。眼下には須江地区の集落が広がるこの峠は眺望の素晴らしさでも有名です。平安時代から鎌倉時代にかけて鳩山周辺では大きな出来事が起こりました。1333年(元弘3)後醍醐天皇のもとに足利尊氏や新田義貞らによって鎌倉幕府を支配していた北条氏が滅亡したのです。北条氏滅亡後、後醍醐天皇と足利尊氏は対立することとなります。そして後醍醐天皇側についた新田義貞(南朝)と足利尊氏(北朝)の争いは武蔵野合戦へと繋がっていきます。南北朝時代には武蔵野を舞台に繰り広げられた数々の争いの中で鳩山も当然その渦中にあったのです。新田義貞がこの世を去った後の1352年(文治・正平7)義貞の子・義宗義興は後醍醐天皇の皇子・宗良親王を擁して鎌倉街道を南下します。この進撃は一時鎌倉まで達し足利尊氏を窮地に陥れましたが、尊氏も直ちに反撃を開始すると鎌倉街道沿いを北上しながら次々と義宗軍を打ち破っていきました。そして、この武蔵野合戦の最後の舞台となったのが笛吹峠でした。尊氏軍8万人に対して義宗軍はわずか2万人と勢力差は歴然でした。劣勢となった義宗軍は笛吹峠の地形を利用し、尊氏軍を平野から見下ろしながら自分たちの姿を見せずに射手を進める「鳥雲の陣」を敷くことで善戦しましたが、義宗軍は敗れ越後へと敗走することになります。この笛吹峠は新田義宗と宗良親王が足利尊氏を打ち損じ万斛の涙を呑み敗退した由緒ある場所なのです。(鳩山町の歴史/鳩山町)

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岩殿観音への道            慈光観音への道

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街道の風景⑤ 結構車が行き交いますが樹林の気持ちいい下り道、林道「将軍沢線」のようです。

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街道の風景⑥ 左側に掘割状の道路跡、古道跡なのでしょうか?

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上方部分               下方部分

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前川を渡ります、林道の起点標識が建ちます。この左手にも古道跡があるようです


・・・将軍沢/嵐山町

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街道の風景⑦ 前川から上ると将軍沢の集落になります

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嵐山町
埼玉県中部に位置する人口約18千人の町。町の中央部と北部には東松山台地が広がる。北東部は比企北丘陵の西端部に位置し、南部は岩殿丘陵の北端に位置する。西部は外秩父山地の外縁となっており、南北に八王子構造線が貫いている。日本の国蝶オオムラサキが生息する地としても有名である。平安時代末期の武将源義仲畠山重忠ゆかりの地で、江戸時代には江戸と上州を結ぶ川越児玉往還菅谷宿として栄えた。Wikipedia)写真は明光寺手前の庚申塔

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明光寺山門/将軍沢  

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明光寺は天台宗のお寺です







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町指定有形文化財
鋼造薬師如来坐像(高さ12.8cm) 付木造薬師如来坐像(高さ66.4cm)明光寺の本尊「木造薬師如来坐像」とその胎内に底面から差し込まれた状態で発見された小仏像「鋼造薬師如来坐像」である。小仏像は本来は円盤の鏡面に貼り付けられて寺の内壁に掲げられる懸仏だったもので、室町時代の作と考えられる。本尊は端正で洗練された作風から江戸時代の一流仏師の作と考えられ、底面にスライド式の蓋が付けられていた。小仏像の裏面に木製の中型がはめ込まれており、墨書により仏像の来歴が詳しく記されていた。それによると本尊は元禄年間に小仏像を胎内に納めるため鞘仏として製作されたと推定される。両像は優れた仏教工芸として、」また地域の歴史を知るための資料として貴重なものである。(嵐山町教育委員会)

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阿弥陀三尊種子板石塔婆(嵐山町指定考古資料)
この板石塔婆は主尊に阿弥陀如来種子(キリーク)を置き、右下に観音菩薩種子(サ)、左下に勢至菩薩種子(サク)の両脇侍を配する阿弥陀三尊式の種子塔婆(しゅじ・密教において仏尊を象徴する一音節の呪文-真言)である。鎌倉期の所産で下方に文応元年(1260)の記念銘を有する。町内で最古の塔婆である。造立の趣旨、背景は明らかでないが、当地は13世紀半ばから世良田氏領地となっていた。世良田氏は上野国新田4分家の1つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には教氏と満義が寺に宛てた寄進状が今も残されている。1260年という比較的早い年代に塔婆がこの地に出現するのもこのような環境が背景となっているのかもしれない。(嵐山町教育委員会)

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日吉神社/将軍沢

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日吉神社鳥居                坂上田村麻呂将軍塚

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日吉神社
当社の創建の年代は定かでないが、江戸時代には山王社と呼ばれ明光寺の持ちであった。明光寺は、寺伝によれば延暦10年(91035日、坂上田村麻呂将が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(133140)には兵火にかかり塔堂を焼失したという。明光寺が天台宗の寺院であることを考えると、当社はその寺鎮守として創建された可能性もある。将軍沢地名は村内字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社があることに由来するといわれる。『風土記稿』によれば同社は、藤原利仁が当地を通った時に腰かけて休んだ「高さ三尺許の塚上」にあったが、神仏分離により将軍神社と改称し明治7年当社の境内に移された。(埼玉の神社 埼玉県神社庁)

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将軍社
祭神:坂上田村麿
當社古記録等傳フル無ク創立年紀詳(つまびらか)カナラス。唯古老ノ口碑ニ傳フルハ往古(おうこ)坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人麦藁ヲ将軍ニ焚()キテ暖(だん)ヲ與ヘリ。其后(そのご)土人将軍ノ功徳(くどく)ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋(おもうに)当社ニ因(よって)テ起リシナラン)御一新ニ至リ明治七年(1874)三月當所ニ奉遷(ほうせん)シ将軍社ト改称セリ(嵐山町web博物誌)

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街道の風景⑧ 不動坂を下って大蔵へ

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街道の風景⑨坂下に縁切り橋の案内板が立ちます/大蔵

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縁切橋案内板
征夷大将軍坂上田村麻呂が軍勢を引き連れてこの地に滞在岩殿悪龍退治の準備に忙殺されていた。そこへ将軍の奥方が京都から心配のあまり尋ねてきたという。しかし、坂上田村麻呂は「上の命令で征夷大将軍として派遣されている我に、妻女が尋ねるとは何事だ、逢わぬぞ」と大声でどなった。それからいくら家来がとりなしてもお許しがなかった。翌朝、奥方は京へ帰る出発のためこの地へ来た。将軍は此の坂下まで来て「大命を受けて出陣しているのに追い来るとは何ごとだ。今より縁を切る。早々に立ち去れ。」と宣言したという。それからこの橋は「縁切り橋」といわれている。婚礼の時この地の人は縁起をかついで今でも新郎新婦を通さぬことにしているそうである。(埼玉県)

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将軍沢郷と世良田氏(せらだし)
畠山重忠没後の鎌倉時代後半の嵐山町の様子を伝える資料は非常に少なく、わずかな手がかりをとどめるにすぎません。その中で群馬県新田郡尾島町の長楽寺に所蔵されている文書に興味深い資料があります。将軍沢大蔵から笛吹峠に向う途中にある集落ですが、この文書によるとここは当時世良田氏の領地で将軍沢郷と呼ばれていたことがわかります。世良田氏は清和源氏の一門である新田氏の一族で、頼氏のとき上野国(群馬県)世良田を領し世良田の姓を名乗りました。文書は二通あり、一通は頼氏の子教氏(のりうじ)(法名静真・せいしん)が、亡息家時の遺言により比企郡南方の将軍沢郷内の田三段(たん)を上州世良田の長楽寺に灯明用途料(とうみょうとりょう)として寄進するという内容です。また、もう一通は家時の子満義のとき、将軍沢郷内の二子塚入道の跡の在家一宇(ざいけいちう)と田三段、毎年の所当(しょとう)八貫文を長楽寺修理用途料として寄進するというものでした。長楽寺は世良田氏の氏寺であり中世には多くの学僧を集めた大寺院として栄えました。(中世嵐山にゆかりの武将と地名/嵐山町)

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笛吹峠周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
)(赤:鎌倉街道 緑:巡礼道 青:都幾川)

# by Twalking | 2018-01-12 19:23 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 坂戸駅   

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東武東上線坂戸駅/坂戸市日の出町
都心廻りで来ましたが、遠いですね・・・、
ここから目的地の鳩山へはバス、
天気は上々なのでのんびり行きましょうか。


坂戸市
埼玉県のほぼ中央、都心から約40km(池袋より約37km)に位置し地勢はおおむね平坦。秩父山系から清流として知られる高麗川が市の南西から北東へ流れ、越辺川に注がれる。東武東上線が南北に走り坂戸駅(越生線の起点)や北坂戸駅が存在する。江戸時代には日光脇往還の宿場町(坂戸宿)として繁栄、八王子千人同心が日光勤番に行く際の最初の宿泊地であった。Wikipedia

# by Twalking | 2018-01-11 18:42 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川の風景-長久保橋   

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長久保橋/多摩市落合
昔は大きな谷戸の支谷だったそうですが、
全くその面影はありません。
橋から乞田川を越えるモノレールが真近に見られます。

# by Twalking | 2018-01-11 15:20 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-神明神社   

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阿形


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吽形

神明神社/奥州古道常盤道(町田市上小山田)
なかなか精悍な面構え、
近づいたら子獅子に睨まれました、
ごめんね~。

# by Twalking | 2018-01-10 23:30 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 新宿駅   

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JR新宿駅/山手線ホーム(新宿区)
まだ朝の6時代なんですが、
さすがに新宿駅、凄いですね~、
ホームに乗降客が溢れています。


新宿駅

東京の副都心・新宿に位置するターミナル駅、JR東日本・京王電鉄・小田急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄の駅である。1885年(明治18年)に日本鉄道により現在の山手線が開業したのが当駅の始まりである。4年後の明治22年には南豊島郡淀橋町となる。開業時から新宿を副都心にする計画が発表されるまでは当駅周辺はまだ街の外れであり利用客は少ないものだったが、大正期に入り次第に市街地が拡大するにつれ多くの私鉄が乗り入れるようになる。ターミナルとなって周辺が発展するにつれて利用客は増え続け1931年には私鉄や国鉄などを合わせた利用者数で日本一になった。1日平均乗降者数は約347万人(2016年)と世界一(ギネス世界記録認定)多い駅であり、地下道などで接続する西武新宿線・新宿西口駅まで含めると約371万人(2016年)となりこの数字は横浜市の人口に匹敵する。Wikipedia


# by Twalking | 2018-01-10 21:27 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川夕景   

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乞田川/落合橋(多摩市落合)
寒いけど
美しい夕景ですね~。

# by Twalking | 2018-01-09 23:34 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩ニュータウン通り   

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多摩ニュータウン通り/多摩センター駅入口
陽が落ちると一段と冷え込みますね・・・、
気をつけてお帰りくださ~い。


# by Twalking | 2018-01-09 19:53 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 マスコット   

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お~、やらかいね・・・
イナバウアーちゃんて呼ぼうかな~。


# by Twalking | 2018-01-09 16:01 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の古道02-奥州古道・常盤ルート(改定)   

日時 2018.1.3(水)
天気 晴れ

巡礼道からひとつ西側の尾根筋が常盤道、
上小山田へ下り、多摩丘陵の西端部へ上り返し、
境川へ下っていきます。

道としては巡礼道の方にやや分がありますが、
こちらは郷の風景や古い寺社もありますので
見所は豊富、変化があって面白いですよ。


・・・忠生村


かつて東京都南多摩郡に存在した村である。1958年(昭和33)隣接する12村との合併により町田市となり廃止された。現在の町田市の町名では山崎町、山崎、木曽町、木曽東、木曽西、忠生、根岸、根岸町、矢部町、常磐町、図師町、上小山田町、下小山田町、小山田桜台にほぼ相当する。名称は小山田高家という忠臣が生まれた土地であることから。高家は『太平記』に新田義貞の身代わりとして湊川の戦いで討ち死にしたという記述がある。
町田市下小山田町にある大泉寺小山田氏居城跡といわれる(Wikipedia

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街道の風景① 巡礼道の辻の先から上小山田へ下ります。この道はすれ違いできませんが、都道なんですね/よこやまの道(市境)

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都道155号町田平山八王子線
町田市から多摩市、日野市を経て八王子市に至る一般都道である。(起点:町田市図師町図師大橋交差点 終点:八王子市大和田町・国道20号石川入口交差点)町田市の小山田バス停留所付近-尾根幹線道路交点手前までは幅員1.9 - 2.1mの狭隘路であり、2トン以上の自動車は通れず車両の離合は不可能。八王子市堀之内の堀之内芝原公園- 多摩テック付近までは、上記と同じ程度の狭隘路であるため離合は難しい上、抜け道として利用されており交通量が多く見通しも悪い。Wikipedia

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鎌倉時代の蓮生寺と鎌倉道
この峠から北は、現在は崖ですが近年まで鎌倉時代の伝説に関わる古道がこの先北方900m先の蓮生寺という寺の前へ続いていました。鎌倉時代の公式記録である吾妻鏡の寿永元年(1182)420日条には「源頼朝の父・義朝の護持僧であった円浄坊という僧侶は、頼朝が母の胎内に居る時から祈祷をしていたが、平治の乱以降、京都を出て武蔵野国に蓮生寺創建し、頼朝も土地を寄付してこの寺を保護した」とあります。この僧は天台宗比叡山に属したことからこの近くの山王塚(多摩市の西の境界点付近にあった)や日枝神社もそのことと無縁ではなさそうです。寺の前からこの峠に続く道には鎌倉道伝承があり、多摩ニュータウンに伴う発掘調査では鎌倉時代頃の建物跡鍛冶場跡、土器や陶器、中国製の舶載陶磁器などが出土しています。また本尊の木造羅遮那仏坐像は円浄坊が京から持参した仏像で藤原様式のものとみられ、また近くの別所長池から出現したという薬師如来像も平安時代末期の地方仏とみられています。(案内板)

堀之内蓮生寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23582343/


・・・上小山田町/町田市

中世、坂東八平氏
の一つ秩父氏の一族有重が武蔵国小山田荘に移り住み小山田氏を名乗る。1447年には長尾景春によって小山田城が落城している。その後、後北条氏の支配下に入っているがその頃には上小山田村、下小山田村の名が見える。Wikipedia

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街道の風景② 左手の尾根筋が巡礼道になります

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急坂のヘアピンカーブ         里道に下りました
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街道の風景③ 振り返ると谷戸の奥に下り口(よこやまの道)が望めます

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正山寺山門(しょうさんじ)/
上小山田

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正山寺
寺記によると開基祐玄は西本願寺12世准如法主に帰依し門末となり、元和元年9月朔日、本尊阿弥陀如来御木像を賜り、寺号を許されました。その後、第4世意的が貞享339日に東本願寺に転派して今日に至っています。また、口碑によると戦国争乱の世、小田原の北条氏が関東を支配していた時、甲斐の武田信玄が北条の隙をうかがって鎌倉に出陣の折、三浦郡にあった某寺に宿を請い、同寺の住僧は甲斐に縁故があったことからこの申し入れを受け入れました。しかし武田氏は目的を遂げられずに退去しました。このことが北条氏に密告され、北条氏はこれを怒り同寺及びその近傍の同宗の僧徒を駆逐し、または処刑しました。正山寺以前の当寺の住職もその被害を蒙り、相州小山(現在の町田市小山町馬場)にを逃れました。祐玄の時まで小山に在り小山寺と称していましたが、その後上小山田野中谷戸に移築して正山寺に改めたと言われています。尚、忠生村誌には江戸末期の上小山田出身の国学者小山田与清の考証として次のようなくだりが引用されています。西本願寺の古文章には「武州多西郡小山田村伯耆(ほうき)沢小山寺といふ。さては伯耆が谷とも伯耆沢ともいへり。小山寺といふも小山田の田をはぶけるにや。今はもじを改めて正山寺となんかける」(正山寺H)
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街道は左手の尾根に向かって上ります/正山寺境内

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石仏群/田中谷戸倶楽部         右手へ行くと鶴見川源流広場です

鶴見川源流域の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20626978/

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街道の風景④ 小山田十字路を右折して「尾根緑道」へ上ります

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直進すると大泉寺(小山田城址)    鶴見川を渡ります 

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バス通りと別れ旧道へ          街道は右へ、養樹寺に寄ります

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養樹院山門
(じょうじゅいん)/上小山田

富亀山養樹院
大泉寺11世で図師の圓福寺を開いた聖翁存祝和尚が、もとは密教の寺院だったが荒廃していたところを慶長19年(1614)曹洞禅寺として再興した(フットパス案内版)

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本堂                 横額

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養樹院曹洞宗 
下小山田町大泉寺末。山寺号:富亀山養樹院。開山:存祝、寛永7年(1630126日示寂。本尊:釈迦木座像、蓮台とも三尺。本堂:間口八間 奥行五間 ほかに三間四面の開山堂が付属する 寄棟亜鉛葺 三間に二間の向拝があり、正面唐破風 総持寺管長書「養樹院」の横額を掲ぐ。鐘楼:九尺四面総欅。梵鐘なし。明治43年一成建造。円通庵:観音堂なり。二間に二間半御堂造り。本尊ジンテイ観音長一尺二寸。庫裡:三間半に八問、寄棟瓦葺木造平屋。玄関 本堂と庫裡の間を結ぶ。三間の式台あり。山門:間口九尺、奥行一間の組門。総門 石柱。 庭内:彦根緑山の句を中村汀女の筆にした『松山も榛の木山も春の声』の句碑がある。(町田市史)

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円通庵(武相観音霊場第36番札所)

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街道の風景⑤ 旧道を直進すると平薬師堂、神明神社があります。尾根の白い建物が下り口(よこやまの道)です/神明神社

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平薬師堂               薬師堂前の旧道

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神明神社鳥居/上小山田

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神明神社
由緒書によれば、当神明神社は鎌倉幕府の御家人として活躍した小山田一族で小野路城の城主であった小山田次郎重義が、伊勢の伊鈴川の面影が色濃い場所として上小山田の田中谷戸を選んで天照大神を勧請したのが始まりといい、明治に入って村内の神社六社を合祀してこの地に遷座したという。ちなみに神明とは天照大神のことで伊勢神宮を勧請した神社を神明神社と称する。

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北側の参道              鳥居に「山王社」の扁額

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街道の風景⑥「尾根緑道」東側の景観です。養樹院先からの道と合わせます/神明神社先

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小山田付近MAP/まちだフットパス
(橙:奥州古道常盤道 赤:武相観音巡礼道 紫:奥州廃道(長坂道)青:鶴見川)


・・・常盤町(ときわまち)/町田市

町田市の西部に位置する。東で下小山田・忠生、南で矢部町・相模原市中央区上矢部、西で小山町、北で上小山田と隣接する。相模原市との都県境付近を境川が流れる。永禄の頃には既にこの地名が使われていたが地名の詳しい由来についてはわかっていない
Wikipedia

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街道の風景⑦ 「尾根緑道」西側の景観、相州大山がくっきり望めます/種入

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尾根緑道を南へ            公園先から下ります

尾根緑道の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23515579/

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持宝院山門/
常盤町

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持宝院
宗派:本山修験。木曾町覚円坊配下。山寺号 玉郡山持宝院。『風土記稿』には玉郡山田沢寺連蔵坊とあり。開山:持宝院縁起には鎌倉時代とあるがこれは明確でない。『風土記稿』には上記のように載録されているので文政年間にはすでにあった。明治維新の修験廃止に逢い同62天台宗寺門派となり常盤不動尊として今日に至る。本堂:間口三間半、奥行三間半、向拝あり。寄棟亜鉛葺木造平家。庫裡:六間半に五間の草屋。本尊:不動。(町田市史)

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日枝神社鳥居/常盤町

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日枝神社
日枝神社(祭神 大山咋神・おおやまくいのかみ)は永禄元年1558)今から441年前には常盤の集落に鎮座されていたといわれます。永い歴史の中で集落の守護神日枝神社には消長流転を経ながら氏子や崇敬者に支えられてきました。とりわけ明治39年から昭和32年までの51年間、日枝神社は神明神社(上小山田鎮守)に移され、境内社に過ごされておりました。町田市制に伴う町名分割(上小山田町と常盤町)により日枝神社は常磐の鎮守としてこの地に再び還ってきました。漸く諸般の情勢が整い平成55月神社本庁の承認を得、平成83月東京都から宗教法人の認証を得る事ができました。これを機会に平成92月社殿造営計画をを開示しましたところ氏子、崇敬者の篤い理解に支えられて資金の目途も立ち、建設も順調に推移し平成117月社殿完成するに至りました。壮麗な社殿の造形は常磐の里の鎮守にふさわしく信仰の心とともに後世に伝えられると信じます(碑文)


・・・上矢部/相模原市

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街道の風景⑧ 境川を渡ると相模原市、河岸段丘を上り矢部駅へ

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町田街道常盤交差点を左折       常矢橋を渡ります

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上矢部御嶽神社鳥居/上矢部

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上矢部御嶽神社
上矢部御嶽神社は旧上矢部村の鎮守として境川を背にしたところにあります。創建は明確ではありませんが、建久年間(119099)にこの地に居城を構えていた矢部義兼によって「三嶽社」として勧請され、その後、矢部氏滅亡後は建武年間133438)に正覚院浄因によって「御嶽大権現」として再建されたと伝えられています。

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広く静かな境内には弁天社・第六天社・八坂社・蚕影社・日枝社などがありますが、この日枝社の社殿は境内地にあったものが焼失してしまったために、大正初期に柚木村(現在の八王子市)より譲り受けたものです。この神社の例大祭では、市内でも珍しい「笹湯の湯花神事(湯立神事)」が行われます。これは境内に竹を四方に立ててしめ縄を張り、その中央に3本の丸太を組み合わせてかまどを作り、その上に釜をのせて火を炊いて湯を沸かし、神職がそれを笹の葉で左右に散らすという厄除けの神事です。この丸太によるかまどはもちろんのこと、神前に初湯を供える青竹の棚にいたるまですべてをの場の手作業で作らなければならず古式ゆかしい神事として注目を浴びながらも、その継承には難しいものが感じられます。(さがみはら風土記稿)

矢部氏館跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23550016/

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常磐周辺マップ 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(橙:常盤道 紫:町田街道 青:境川)


・・・・
資料ファイル

神明神社
(しんめいじんじゃ)

天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、神明宮皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社などともいい通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているが、一説には約18,000社ともいう。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば伊勢信仰に分類される神社は全国2位(4425社)であるという。祭神の天照大御神太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めた。古代においては皇祖神として天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止されたが、中世に入り朝廷が衰微するに伴い、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、皇室のためだけの存在から日本全体の氏神・鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わった。また、布教とともに各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われ、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され、神明神社が広範囲に分布することとなった。特に神仏習合の教説において神道側の最高神とされたことなどにより近世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになった。その祭事はほぼ伊勢神宮と同じであり、神使もである。鳥居の形は主に「神明鳥居」であり素朴な形式で全体的に直線的である。建築様式は神明造であることが多い。なお、「神明」という言葉は天照大御神のことを指すほか、単に「神」という意味でも用いられる(Wikipedia


山王信仰(さんのうしんこう)

比叡山麓の日吉神社(大津市)より生じた神道の信仰である。山王とは滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を指したものである。日吉神社日枝神社あるいは山王神社などという社名の神社は、山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(おおものぬし)(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。神仏習合期には「山王権現」や「日吉山王」とも称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。なお、日吉大社では猿を神使とするが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。(Wikipedia


# by Twalking | 2018-01-08 22:01 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕景   

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夕景
多摩センター駅前通り/多摩市落合
三連休の中日
穏やかないい日和でした
ありがとう~!

# by Twalking | 2018-01-07 17:56 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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ニュータウン通り/多摩市愛宕
いいお天気
気持いい朝で~す。

# by Twalking | 2018-01-07 11:11 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 天狗像-狭山公園   

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狭山谷の天狗像/狭山公園(瑞穂町石畑)
鼻をへし折られた天狗さん・・・、
狭山谷に伝わる伝説を景観モニュメント
にしたものだそうですよ。


狭山谷の天狗伝説
『昔むかし石畑に大層豪傑な婿殿がおった。ある日うっそうとした狭山谷へ山仕事に出かけたところ、天狗が何やら話し込んでいた。婿殿はズカズカと近づいて行き「わしも仲間に入れてくれと言った。天狗は「これは天狗だけの話じゃ」と言って断った。婿殿はやにわに天狗の鼻をもぎ取って自分の鼻にくっけて「これでわしも天狗だ」と言って再度頼んだがやはりだめだった。仕方なしに婿殿は鼻を土産に持ち帰り家宝としたそうな』(瑞穂町)

# by Twalking | 2018-01-06 22:53 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 桜の蕾   

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乞田川/多摩市落合
おはよう~!
じっくりと、春を待としようね~。


春化
(しゅんか、Vernalization
植物が冬の低温状況に一定期間さらされることによって開花能力誘導されることである。温帯に生息する多くの植物は開花プロセスを進行、促進するために春化を必要とする。また果実をつける多くの種でも休眠状態を打破するために、冬の低温期間を経験しなければならない場合がある。開花や結実に春化を必要とすることでその植物は生殖成長や種子生産を好適環境条件下で行うことが可能になる。ちなみに開花に低温を必要とすることは低温要求(Chilling Requirement)という。通常植物は春化後に開花能力を獲得するが、実際に開花するために更なる季節的シグナルや植物体の生長を必要とすることもある。Wikipedia

# by Twalking | 2018-01-06 17:59 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 パルテノン大通り   

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パルテノン大通り/多摩センター駅(多摩市)
 この大空に
   翼を広げ
     飛んで行きたいよ~♪♪

# by Twalking | 2018-01-06 14:21 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の古道-武相観音巡礼道(改定)   

日時 2018.1.3(木)
天気 晴れ

お天気に誘われて足慣らしに出かけました。
やはり、足が向くのは近場の多摩丘陵、
唐木田から矢部へ歩いてみました。

尾根上のよこやま道から武相観音巡礼道、
上り返して奥州古道・常盤道で矢部へ、
ワクワクするいい道ですね~、楽しみました。


・・・唐木田/多摩市


多摩市の南部に位置する、同市最西端の町である。当地域は1991年(平成3年)に入居が開始された多摩ニュータウン第11住区の西部で構成された多摩市内でも新しい街である。元は落合村の一部であった。地名は乞田川の支流の一つである唐木田川より
Wikipedia

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街道の風景① 左が市境の尾根、正面が松が谷の尾根、すぐが小田急の唐木田駅になります/大妻裏

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棚原の館跡/唐木田(よこやまの道)
ここから左側(東側)に見える操車場付近にはかつて小高い丘がありました。江戸時代の地誌には戦国時代に八王子城で討死した島崎二郎某館跡があって、鎮守の森や馬場跡もあったと記されています。島崎氏の先祖は鹿島神宮や香取神宮に近い常陸国(茨城県)行方群(なめかた)の島崎城付近から来たとも伝えられていますが詳細は不明です。(案内版)

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馬頭観音の道標と古道交差点/唐木田(展望台)
遠く武蔵野を望むこの高台にはかつて鎌倉道奥州古道の十字路がありました。東側崖下の道は昭和9にできた切通しで、その後の開発の時に東側斜面がなくなり新たな車道も一段下にできました。また明治40年建立の馬頭観音が平成10年頃までここにあり「除馬頭観音」「溝 橋本道」や「原町田道」「八王子道」「府中道」と刻まれていましたが、今は近くの民家の庭先に移動し大切にお守りされてます。(案内版)

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街道の風景② 尾根上を行くよこやまの道、左手を奥州古道が通っていたようです/大妻裏

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京と東北を結んだ奥州古道と影取池伝説
多摩よこやまの道に平行して残る山道はかつて京都と東北地方(奥州)を結んだ奥州古道痕跡です。(奥州古道常盤ルート、国府街道とも)京都や奈良から関東諸国の国司として赴任してきた有力貴族や都の警護にあたる衛司の往来、また防人の帰郷の道ともなりました。また江戸時代には巡礼の道(武相観音霊場道、東西領国巡礼道)として振る舞いました。(案内版)

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影取池伝説
その昔、この北側には深い森と影取池がありました。旅人が水面に影を映すと姿を消してしまうので大蛇のしわざではないかとか、また南北朝の時代に落城した小山田城を抜けだした奥方の浄瑠璃姫13人の侍女と共にここへ来て、昔話に花を咲かせた後入水したことの祟りではないかと噂されました。江戸時代にお坊さんを呼んで供養すると水面に雲がわき立ち、笑みをたたえた姫と侍女たちは昇天し、村には平安が戻ったといわれます。八王子市別所の長池にも同様の言い伝えがあります。(案内版)

長池伝説-長池公園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23582343/

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街道の風景③ 左折する尾根筋が巡礼道、この先の尾根が常盤道です/古道の辻

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巡礼古道
この付近には昔から旅の巡礼者たちにまつわる言い伝えが多くあります。それは江戸時代の宝暦年間1759)頃から始まった武相観音巡礼道やそれ以前から東日本と西日本の霊場・札所を行き来する旅人が通過した巡礼道(奥州古道・国府街道)があったからと考えられます。この案内版かの西隣りには二つの古道がT字型に交差するであり、畑と多摩よこやまの道に沿って東西に続く緩やかな窪地(山道)奥州古道、南に分かれて下っていく代官坂武相観音巡礼道です。(案内板)
入口には「嘉永2(1849)の地神塔」が建っています。

唐木田駅周辺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23386710/



・・・町田市

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街道の風景④ 左に石地蔵さん、ほぼ一直線に尾根を下ります。道はこの先で二差路になりますがどちらも集落へ下ります/代官坂

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代官坂
この近くにある地神塔は江戸時代末期の嘉永年間のもので、ここから南方の小山田大泉寺方面に続く武相観音巡礼道は、いつ頃からか「代官坂」と呼ばれていました。名前の由来は不明ですが、道は昔からよく整備されてきた痕跡があり、普通の生活道ではなく計画的な往還道の一つであったことが分かります。途中には行き倒れになった旅人を祀ったという巡礼地蔵石仏が今でもみられます。(案内版)

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街道の風景④ 直進すると耕作地が広がり、それを過ぎると雑木林の下り道になります

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細尾根になってます          掘割状の道が残っています

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街道の風景⑤ 右手が下ってきた道です、ここから大泉寺へはすぐです

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大妻大からの下りと合流        バス通りにお地蔵さん/山の端バス停

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古来より一丁田の辻に鎮座し、地域は基より道行く人々の安全を見守っていた薄山講中の道祖神、延命地蔵尊が何時の日か消滅してしまい、昭和57年に再建いたしましたがこの度の市道の拡張により移転となり、この地に遷座となりました。(薄山講中)


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周辺地図/巡礼古道案内板(180°回転)
(橙:巡礼古道 赤:奥州古道常盤R 紫:長坂道 緑:よこやまの道 茶:現在の道路 赤角:唐木田駅)

大泉寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/18395904/)


・・・・
資料ファイル

武相卯歳観世音札所
武相卯歳観世音札所は武蔵国と相模国にかけて開かれた48の札所からなります。第一回の御開扉(おかいひ)は宝暦9(1759)12年に一度卯歳の春だけ普段は秘仏の観音様のお厨子の扉が一斉に開きます。平成23年卯歳(2011)の御開扉は22回目で第一回御開扉から252年でした。武相卯歳観世音札所は武蔵の国(東京都:八王子市、日野市、多摩市、町田市)と相模の国(神奈川県:横浜市緑区、横浜市青葉区、相模原市、大和市)に所在する48の札所で構成されています(鶴間山 観音寺)

1番 観音寺(大和市下鶴間2240

2番 随流院(横浜市緑区長津田5-4-30
3番 松岳院(横浜市青葉区奈良2-4-7
4番 観性寺(かんしょうじ)町田市成瀬2741-9 
第5番 養運寺(町田市本町田3654
第6番 千手院(せんじゅいん)町田市小野路町2057
第7番 観音寺(多摩市関5-31-11

第8番 真照寺(しんしょうじ)日野市落川1113
 
9番 松連寺(百草観音堂) 日野市百草849-1
10番 清鏡寺(せいきょうじ)八王子市大塚378
11番 大泉寺(だいせんじ)町田市下小山田332 
12番 保井寺(ほうせいじ)八王子市堀之内547
13番 玉泉寺(ぎょくせんじ)八王子市越野726
14番 永泉寺(八王子市鑓水80
15番 福傳寺(八王子市明神町4-10-6
16番 金剛院(八王子市上野町39-2
17番 泉龍寺(相模原市南区上鶴間本町8-54-21
18番 高乗寺(こうじょうじ)八王子市初沢町1425 
19番 福昌寺(ふくしょうじ)横浜市青葉区恩田町1021-1
20番 喜福寺(八王子市中野山王2-11-6
21番 長安寺(八王子市並木町7-1
22番 真覺寺(しんかくじ)八王子市散田町5-36-10
23番 興福寺(八王子市東浅川町754
24番 祐照庵(大戸観音堂) 町田市相原町4643
25番 普門寺(相模原市緑区中沢200
26番 長徳寺相模原市緑区大島756
27番 清水寺(せいすいじ)町田市相原町701 
28 29番福生寺(ふくしょうじ)町田市小山町2524
30番 高巌寺(こうがんじ)相模原市中央区上溝6-18-4
31番 観心寺(かんしんじ)相模原市南区当麻774 
32番 清水寺(せいすいじ)相模原市南区下溝1457
33番 覺圓坊(かくえんぼう)町田市木曽西4-7-33
34番 泉蔵寺(せんぞうじ)町田市下小山田町1391
35番 上柚木観音堂(八王子市上柚木402-2
36番 圓通庵(養樹院内ようじゅいん)町田市上小山田町2536
37番 祥雲寺(町田市高ヶ坂1290
39番 慈眼寺(じげんじ)相模原市緑区城山4-367
39番 宗保院(そうほいん)町田市原町田1-18-13
40番 永昌院(えいしょういん)八王子市中山452-2 
41番 永林寺(八王子市下柚木4
42番 慈眼寺(じげんじ)八王子市片倉町944
43番 信松寺(しんしょうじ)八王子市台町3-18-28
44番 宗印寺(そういんじ)日野市平山6-15-11
45番 観泉寺(かんせんじ)町田市真光寺町1210
46番 吉祥院(八王子市長房町58-3
47番 定方寺(じょうほうじ)大和市下鶴間145
48番 龍像寺(りゅうぞうじ)相模原市中央区東淵野辺3-25-1

# by Twalking | 2018-01-06 09:32 | たまのさんぽ道(新規)