無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(3)筏道03-野毛   

日時 2017.8.13(日)
天気 曇り


二子から先のハケも風情があっていいですね。
ハケ上には古刹や古墳があるので
坂を上り下りしながらの散策が面白いです。

ちょっとひと休みはやっぱり等々力渓谷、
矢沢川との合流点も興味深いですね。
そしてフィナーレは多摩川台公園、
古墳展示室もありますから寄られるといいですよ。



・・・上野毛

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川の風景① 二子の賑わいをよそに閑静な住宅地、街に潤があります/上野毛

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稲荷橋(坂下)                   坂上は上野毛駅へ通じます/上野毛通り

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上野毛稲荷神社鳥居/上野毛

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上野毛稲荷神社
祭神は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)で通称お稲荷さんとよばれ、玉川の台地末端の稲荷坂の途中にある。穀物や農業一般をつかさどる神としてまた上野毛鎮守の神として古くから尊崇されている。「新編武蔵風土記稿」でに「稲荷社除地一畝歩、字橋際の上にあり、上屋二間に九尺、東向なり。中に三尺四方の祠あり由緒不詳と言えども 上野毛村の氏神なり」とある。例大祭は1010日、上野毛周辺地区よりの参詣客が集まり賑わう。なお、鳥居左側に「菅公一千年祭再建、北野神社」の石碑があり明治35425日氏子総代によって建てられたものである。(せたがや社寺と史跡)

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覚願寺山門/上野毛


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覚願寺
自性山聖徳院覚願寺と称し真言宗智山派に属する古刹である。「新編武蔵風土記稿」には「此寺元は村の西の方台のにありしが、いつの頃か此所に移せし」とのみあり、その創建の時期を明らかにしていない。しかし、文禄3年(1594)の「武州荏原郡世田谷領上野毛郷縄打屋敷帳」には覚願寺の名が見えておりこの頃寺地が確定したと考えられる。本尊は大日如来で脇仏として弘法大師と興教大師が祀られている。なお、享保6年(1721)の「両大師造立帳」(当寺所蔵)には聖徳太子像(木像漆塗、江戸時代現存)が本尊であったことが記されている。当寺の院号が「聖徳院」と称されているのはこのためであろう。その後、大日如来像が本尊とされたようで現在もこの大日如来像が当寺の本尊となっている。文政7年(1824)には本堂が大破したため大修理を行った記録が残されている。現存する本堂、観音堂は天保年間1830-1843)に再建されたものである。総門は昭和63年に造営された。(世田谷区教育委員会)

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覚願寺から南の坂途中にありますが、内部は見られません

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上野毛稲荷塚古墳/上野毛
この古墳は多摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する野毛古墳群を構成する古墳の一つで、その西端部に位置し、標高33mほどの舌状台地の上部に立地している。前方後円墳で規模は全長20数m、後円部の高さ約3mである。前方部はかなり削平を受けているが、本来低い墳丘をもっていたと推定され、クビレ部から後円部にかけては良好に遺存している。主体部は、後円部中央に位置する粘土槨で、鉄剣と直刀の破片が出土している。野毛大塚古墳先行する初期の前方後円墳である可能性が高く、野毛古墳群中で最初に築造された首長墳と考えられる。築造された時期は古墳時代前期、4世紀後半と推定される。本墳は、田中泰雄氏(上野毛2丁目在住)から平成94月本区に寄付されたものである。世田谷区指定史跡(世田谷区教育委員会


・・・野毛


野毛はもともと上野毛との対で下野毛村と呼ばれ、1889年に玉川村の大字下野毛となる。1912年に下野毛のうち多摩川右岸は神奈川県に編入された。1932年には世田谷区玉川野毛町とされ、1969年の住居表示改正により現在の「野毛」となった。野毛大塚古墳
は野毛一丁目の玉川野毛町公園内にある、丸子川沿いの荏原台古墳群を代表する古墳である。この古墳のみならず周辺には多くの古墳が存在しており、帆立貝型の前方後円墳が特徴。古く「ノゲ・ニゲ・ヌゲ・ナゲ」は「崖」を意味する言葉。当地が国分寺崖線にある事から「野毛」とされた。Wikipedia

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街道の風景① 多摩川がすぐ近くを流れています。道端に「おもいはせの道」の標柱があります

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おもいはせの道
季節や時の流れとともに表情を変える古代から現代までの様々な顔が見える路です。歴史におもいをはせる、ということから名付けられました。貴重な文化遺産を有する九品仏浄真寺から始まるルート上には、御岳山古墳や玉川野毛町公園内の野毛大塚古墳など古代からの遺跡が点在し、宇佐神社善養寺行善寺などの歴史ある寺社や祠が多く存在しています。また、23区唯一の渓谷である等々力渓谷や上野毛自然公園には都会であることを忘れさせてくれる程の自然が残されています。最後は現代的な高層ビルの立ち並ぶ二子玉川駅まで歩く6.7kmのコースです。(世田谷区)

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川の風景② 対岸に武蔵小杉のビル群を望みます/多摩堤通り

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野毛六所神社鳥居/野毛

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野毛六所神社
六所神社は元和年間(1615-1623)遷座と伝え、古くより上下野毛両部落鎮守で、上下野毛境にあった。祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊で、例祭は926日である。明治31年に村内の末社天祖神社、山際神社、日枝神社、北野神社の4社合祀となり、新たにその祭神天照大神、大山都見之命、大山咋之命、菅原道真を現在地に奉斎した。ただし、合祀社は明治23年に天祖神社に合祀したものをさらに六所神社に合祀したのである。

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「新編武蔵風土記稿」によると「除地一段五畝、(中略)上屋九尺二間、本社六尺に八尺西向なり」とある。この社は昔洪水のとき府中の方から流れてきたというので、土地の人は六所明神と崇めて1社を草創したという。鳥居も西向きに立て別当は善養寺であった。現在、鉄筋コンクリート造の社殿を建造中で11月に落成する。整地の際、石鏃・縄文土器片が多数発見された。近くに六所東貝塚があった。縄文前期に属する黒浜式と諸磯式で、多摩川に面する斜面に形成されていた。貝塚にはヤマトシジミ・ハマグリ・マガキ・アカニシ・キサゴ・イオフキなどがあり、当時は東京湾の海水が浸入していたことを思わせるが、ヤマトシジミが多いことはすでにこの付近は河口になっていたことを示しているのかも知れない。もちろん竪穴住居が設けられていた。(せたがや社寺と史跡)

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善養寺山門/野毛


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善養寺
野毛町玉川通りにある。影光山仏生院と号し真言宗智山派満願寺の末である。本尊は金剛界大日如来で木の座像、高さ4(1.1) 余、開山は阿闍梨祐栄で慶安5年に寂している。『新編武蔵風土記稿』によれば「除地一段五畝許、(中略〉次太夫堀北側ニ臨メリ(中略〉本堂八間ニ六間(中略〕此寺ハ古深沢村ニアリシガ、中ゴロ此地へ移スト云(中略〉表門柱間九尺、門内ニ石階十二級、門前ニ四級、神輿堂門ヲ入テ左ニアリ、九尺四方、鎮守六所明神(野毛六所神社)ノ神輿ヲ入ル所ナリ、閤魔堂(中略〉三間ニ三間半」と記している。本社は近年天平様式の唐招提寺の金堂を模して新築された。境内のカヤの大木は昭和39年に都の天然記念物に指定されている。玉川88ヶ所の一霊場である(せたがや社寺と史跡)

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山門                    善養寺のカヤノキ

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野毛大塚古墳/野毛
野毛大塚古墳は全長82m、後円部の高さ10mの帆立貝式の前方後円墳で、前方部に近接して小さな造出部(つくりだしぶ)が付設されている。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は104mである。三段に構築された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされている。後円部頂上には4基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、北西側に2基の箱形木棺が納められている。割竹形木棺からは甲冑、刀剣、鉄鏃などの武器・武具類、鉄鎌、銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛などが、箱式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造品などが、2基の箱形木棺からは刀剣、鉄鏃、鉄鎌、石製模造品、玉類などがそれぞれ出土している。野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する5世紀前半に築造された古墳である。出土した多量の武器・武具類や石製模造品はこの古墳が南武蔵の有力な首長墓であることを示している。(東京都教育委員会

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野毛大塚古墳
野毛大塚古墳は5世紀初めに造られた全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳です。墳丘の全長はやく2mで、後円部は直径が約68m、高さ約10m、前方部は前端の幅約28m、高さ約2mで、後円部に比べて極端に小さく低いことが特徴です。また、前方部の脇には長さ、幅とも約10m、高さ約1mの造出部と呼ばれる小さな方形部分が付設されています。さらに、古墳の周囲は最大幅約13m、深さ約2mの空堀で馬蹄形に囲まれています。墳丘は平坦な地面に盛土をして築かれていて前方部は1段、後円部は3段になっています。また、その表面はすべて多摩川の河原石を使った葺石で覆われています。幅約3mのテラス(平坦な部分)と後円部および前方部の頂上には円筒埴輪と朝顔形埴輪による埴輪列が、造出部には柵形埴輪がそれぞれ1重に巡っています。この他には家、盾、鶏などの器物や動物などをかたどった形象埴輪が置かれています。また、濠の中からは本来は墳丘の上に立てられていた埴輪や、祭りに使われた高坏などの土器(土師器)が出土しました。(世田谷区教育委員会)

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帆立貝形古墳(ほたてがいけいこふん)
古墳の一形式で、円丘に小さな方形の張り出しをつけて全体の平面形が帆立貝形になる古墳の総称である。この形式の古墳には(1) 円墳に方形の造り出しがつくものと(2) 前方後円墳の前方部が短小化したものとの二種類があるが、実際には判断の困難な場合が少なくない。前者には奈良県の乙女山古墳があり、後者には群馬県の赤堀茶臼山古墳があげられる。前者は、ほぼ中期初頭に出現し前方後円墳に造り出しがつく時期と一致し、円墳に祭祀の場として造り出しを付設したものと理解することができるWikipedia

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古墳から南へ下ると等々力渓谷、ちょっとひと休み/日本庭園

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日本庭園入口             涼を求めて沢山の人/不動の滝

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等々力渓谷日本庭園・書院
等々力渓谷矢沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に昭和36年(1961)に建築された書院建物とそれを取り巻く日本庭園があります。池、流、石畳の階段園路などがある庭は昭和48年に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されています。園内には陽当たりのよい芝生広場があり渓谷散歩の休憩にご利用いただけます。(パンフ)

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川の風景③ 矢沢川はこの手前先で丸子川(六郷用水)と交差します

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渓谷の水・湧水
等々力渓谷を構成する矢沢川は現在の上用賀6丁目付近を水源とし、用賀・中町を貫流します。そして等々力駅付近から渓谷の様相を呈しはじめ渓谷内で不動の滝も合わさり、その後一部六郷用水(丸子川)へ、残り多摩川へと流れていきます。この矢沢川には平成6年(1994)より仙川浄化施設からの導水が始まり水質の改善が行われました。また、等々力渓谷には約30箇所以上の湧水が発生し、一部は窪地に集まって湿地を形成しています。矢沢川の水質はゴルフ場橋から下流に行くにしたがって改善されているから、この矢沢川に流れ込む湧水が水質や水量の維持に大きく寄与していることがうかがえます。等々力渓谷の湧水は平成15年に「東京の名湧水57選」に選定されています。(パンフ)

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街道の風景② 丸子川・矢沢川合流地
現在の丸子川は分水路で矢沢川と合流して多摩川へ、そして矢沢川から揚水した水が丸子川へと注いで南流して行きます。

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丸子川の分水路            矢沢川からの揚水

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街道の風景③ 尾山台から下る「寮の坂」、坂途中に伝乗寺・宇佐八幡神社があります/八幡橋

尾山台・寮の坂の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25235304/



・・・田園調布

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田園調布八幡神社鳥居/田園調布


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田園調布八幡神社
田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の建長年間(1249-1256)と伝えられる。この時代、鎌倉幕府は執権の北条氏が実権を握り国内基盤固めを行っていた。各地で武士達はもとより村人達も幕府に忠誠を尽くす意味もあり源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛んで多くの八幡神社が建てられた。当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地篭谷戸(ろうやと)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしていた。また、この村の高台部分には東より西へ貫いて鎌倉街道が通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一体には多くの鎌倉武士が駐屯し、鎌倉海道の要衝の地となっていた。そして、この八幡神社の地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所であった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て八幡神社を勧請した。以来、この八幡神社の地は聖地となり人々に崇められてきた。天正18年(1590)小田原北条氏滅亡後、八王子城主・北条氏照の旧臣、落合某がこの村に庵を結び主家の冥福を祈った。そして、寛永年間(1624-1644)落合某の孫・落合弥左衛門らによりこの聖地に新たな社殿が創建されご神体が祀られた。江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田谷領上沼部村に属し、明治中期の四村合併まで村社であった。寛政4年(1792)には、この村の知行主となった神谷縫之助も氏神とするなど、今日まで常にこの地域の人々の心の拠り所として崇敬されて来たのである。(説明板)

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川の風景④ハケに沿って緩やかに蛇行して流れます


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照善寺山門/田園調布


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照善寺
当寺は天正14年(1586)にこの地の芝山を開いて草庵がつくられたのが始まりだと伝えられている。のち寛永16年(1639)に至って漸く堂宇が整備され、この時始めて寺号を得て照善寺と称した。川崎市上小田中の古刹泉澤寺の頓誉上人から常光山無量院と贈号され以来泉澤寺の末寺となった。(大田区の寺院)

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街道の風景④多摩堤通りと合流、ハエ上は多摩川台公園です

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川の風景⑤ 多摩川に架かる丸子橋、この辺りが国分寺崖線の南端でしょうか
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湿性植物園の背後の丘が亀甲山古墳になります/多摩川台公園

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多摩川台公園/田園調布
多摩川に沿って北西から南東に向かって舌状に広がる台地上に約600mにわたって面積66,6612で展開している。公園のある台地は武蔵野台地の南端部にあたり、国分寺崖線に位置するために多摩川との高低差は大きく、多摩川方面への眺望はすばらしい。また、2の大前方後円墳と8古墳があってすぐ近くで眺められるのも本公園の特色のひとつである。 さらに桜の木が多く春には桜の名所として知られている。Wikipedia)

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亀甲山古墳/多摩川台公園



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史跡亀甲山古墳(かめのこやまこふん)
この古墳は大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群最大前方後円墳である。発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことやその古墳の形により、5世紀前半の築造と考えられる、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。この前方後円墳は後円部南端を浄水場建設により削られているものの、比較的よく原形を保っている。港区芝公園にある丸山古墳とならんで都内の代表的古墳である。昭和3年国の史跡に指定されている。(大田区)
全長107m、前方部の長さ41m、前方部の前端幅49m、後円部の直径66m、前方部の高さ7m、後円部の高さ10

芝公園丸山古墳の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24459496/

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多摩川台公園案内図(赤・青:筏道&六郷用水)

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田園調布付近マップ
(紺:六郷用水 青:多摩川 赤:筏道 橙:品川道)


・・・・・・・・・
資料ファイル

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地形ジオラマ(等々力渓谷付近)/世田谷区郷土資料館
(紺:六郷用水 青:矢沢川・逆川 赤:筏道)

世田谷の地形と遺跡
いわゆる「武蔵野台地」と呼ばれる地域は、古多摩川の形成した東西50km、南北30kmにおよぶ広大な扇状地であり、富士・箱根などの火山灰を厚く堆積させている。この台地のほとんどは多摩川の浸食によって作られた武蔵野面に相当するが、その東端にはこれより古い海成の高位段丘が2ヶ所島状に残されている。淀橋台荏原台で、いずれも下末吉面に相当する。世田谷区において淀橋台は区東北部(代沢~桜上水方面)に、荏原台は区東南部から中央付近(玉川田園調布・等々力~砧方面)にかけて樹枝状に分布している。世田谷の地形はこの下末吉面を最古として、以下武蔵野面・立川面・沖積地の順に形成された。この4つの地形面は、古多摩川によって形成された河成段丘であり、最高位の下末吉面から沖積地に向かって順次低位となる。このうち沖積地を除いた地形面は、それそれ黒色土以下に関東ローム層が堆積しており、下末吉面には立川・武蔵野・下末吉ローム、武蔵野面には立川・武蔵野ローム、立川面には立川ローム層が見られる。武蔵野面と立川面との境にある高低差20mにもおよぶ崖線は「国分寺崖線」と呼ばれる。(展示解説シート)


・・・

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大田区古墳展示室
公園内には4世紀から7世紀に造られた古墳が10基点在しています。公園の南の湿生植物園側から亀甲山古墳、その西側に連なる8基の小山が多摩川台古墳群です。南の1号墳から北の7号墳までは虹橋の手前にあり、虹橋を渡った左側の小山が8号墳です。園内の一番北側には宝莱山古墳があります。この公園内にある古墳群は、かつて都内に存在した古墳群の多くが都市化の波に埋もれてしまった中でも往時の姿をとどめている大変貴重な古墳群です。公園内には田園調布周辺の古墳から発掘された出土品を分かり易く解説した古墳展示室が公園管理事務所に併設されています。(多摩川台公園の古墳群)

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展示風景 大田区の古墳 宝莱山古墳・亀甲山古墳

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展示風景 多摩川台古墳群

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木棺に埋葬された首長
棺の中には美しく盛装した先代の首長と共に首長が生前愛用していた武器や装身具、首長のシンボルとしての鏡などが埋葬品として納められている。周辺ケース内に展示されている出土品も昔はこのように美しい姿をしていた。この副葬品の種類や量を調べることによって、首長が埋葬された年代、武人としての活躍したのかもしくは文人として優れていたのかなど、首長としての性格、権力、他地域の首長との関係、古墳時代の生産技術や生活の様子などいろいろなことが考えられる。(説明板)


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武蔵国造の乱
(「日本書紀」安閑天皇元年の条)
武蔵国では笠原直使主(おみ)とその同族の小杵(おき)が国造(国を治める豪族)の地位を争っており、年を経ても決めがたい状態であった。小杵の性格はけわしく逆らうことがあり心は高慢で素直さがなかった。密かに上毛野君小熊に援助を求め使主を殺そうとした。このことを知った使主は逃げて京へいたり、そのありさまを訴え出た。朝廷は裁断を下し使主を国造とし小杵を誅した。国造使主はかしこまり喜んで横渟(多摩横山と埼玉県横見郡の二説あり)橘花(川崎市と横浜市港北区の一部)多氷(多未の書き誤りといわれ、東京都多摩地域とされる)倉樔(横浜市南部)4箇所の屯倉(みやけ・朝廷の直轄地)を朝廷(大和政権)に献上した(説明パネル)

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小杵(おき)・使主(おみ)・小熊の勢力圏と屯倉の位置


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上毛野国と荏原(台)古墳群を結びつける副葬品
滑石製模造品
滑石製模造品は武器や生活用具をまねて滑石を材料に造られた、マツリなどで使われる道具と考えられている。荏原(台)古墳群の野毛大塚古墳出土のセットは上野毛(群馬県)の白石稲荷山古墳のセットとよく似ており、上野毛以外の関東ではみられない飲食用具の模造品も含まれている。そのため上野毛で造られ南武蔵に持ち込まれたのではないかと考えられる。
甲冑
野毛大山古墳から出土した武具では最古とされる甲冑が出土している。これも上野毛の首長の元にあった甲冑が分け与えられたと考えられる。
鈴鏡
6世紀前半を盛りに上野毛を中心に流行したと考えられる鈴鏡が荏原(台)古墳群の御岳山古墳と西岡第28号古墳でも出土している。
これら両地域は鈴鏡を使ってマツリを行う共通の文化圏としてとらえられるのではないだろうか。
これらの資料は野毛大塚古墳が築造された5世紀前半頃、南武蔵の首長が当時先進的であった上野毛国の政治勢力下に入ったことを暗示している。その結果、①鈴鏡を用いた祭祀(マツリ)が荏原(台)古墳群でも行われたり②武蔵国造の継承権の争いに上野毛君が介入した事件が起こったとかんがえる。(説明パネル)


武蔵国造の乱

古墳時代後期の安閑天皇元年(534?)に起きたとされる戦い。武蔵国造の笠原氏内紛とされる。『日本書紀』に記される出来事であるが伝承性が強いため事実か創作かは明らかとなっていない。乱の経緯は『日本書紀』安閑天皇元年条に記載されている。同条によると武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の笠原直小杵(おき・おぎ)は武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみおぐま)の助けを借り使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉(みやけ・全国に設置した直轄地を表す語)として献上したという。Wikipedia

勢力関係
埼玉県行田市には関東有数の大型古墳群として埼玉古墳群が残っており武蔵国造の本拠地と推測される。また助けを求められた上毛野小熊はその名のように上毛野地域(のち上野国、現在の群馬県)における豪族と推定される。それらを基に乱の舞台・規模を巡って次の2説が存在する。
南北武蔵の抗争とする説
使主の拠点は北武蔵(埼玉古墳群)、小杵の拠点は南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)とする説。そして、乱後に小杵の領域から橘花・多氷・倉樔の屯倉が供出されたとする。小杵と上毛野が使主を挟む形になる。
北武蔵での抗争とする説
使主の拠点は北東武蔵(埼玉古墳群)、小杵の拠点は北西武蔵(比企地方の古墳群)とする説。小杵と上毛野が隣接し協力を得やすい形になる。
考古学的には5世紀から6世紀で武蔵の古墳群の中心が南武蔵から北武蔵に移動する。また、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方で武蔵の埼玉古墳群が成長するという傾向も関連する出来事として指摘されるWikipedia


# by Twalking | 2017-08-20 12:06 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 バスターミナル   

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バスターミナル
多摩センタ駅南口/多摩市落合
晴れてきた~、と喜んだのもつかの間
その後、一転して土砂降り
めまぐるしい夏の夕暮れだこと。


# by Twalking | 2017-08-19 20:37 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 上之根通り   

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上之根通り/多摩市豊ヶ丘
あらら、うっすら色づいて
勘違いしてないかい
バフウくん。

# by Twalking | 2017-08-19 14:46 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 仁王像-九品仏浄真寺   

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阿形

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吽形
九品仏浄真寺/世田谷区奥沢
こちらは右に阿形、左は阿形です。
重厚な仁王門は見応え十分ですね。



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紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩
当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいごうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。

仁王門
重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか風神・雷神の像も立って、寺域全体の安全が意図されている。(浄真寺)

# by Twalking | 2017-08-18 13:38 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(3)筏道02-岡本   

日時 2017.8.13(日)
天気 曇り

世田谷時代、家族そろっての食事というと
二子玉川のレストラン、でしたね。
いろんなお店があるし、駐車も便利でした。

難点は道が混むこと、狭いし信号多いですから。
そんな時、裏道として使ったのが岡本の坂、
眺めもいいし、変化があって好きな道でした。
懐かしいですね~・・・岡本、楽しみです。



・・・岡本

明治22年砧村の大字となる。昭和11年
年より世田谷区岡本町。近代において国分寺崖線沿いには政財界重鎮の別邸が多く建てられたが岡本にも岩崎小弥太、鮎川義介、高橋是清などの別邸が存在した。地名は村内の長円寺の山号からとった、或いは木曽義仲配下の岡本成勝の出身地であることに因むなどと伝えられているが、実際は地形的な命名と考えられる。Wikipedia

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街道の風景① 永安寺からすぐですがハケ下ではなかったようですね~?/水神橋

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せたがや百景-岡本玉川幼稚園と水神橋
岡本幼稚園の建物は2・26事件で暗殺された蔵相高橋是清別邸だったもので、山荘風の構えがよく幼稚園にマッチしている。風光明媚な国分寺崖線には戦前多くの高官や財界人の別荘別邸が立てられ現在の良好な住宅街に引き継がれてきた。水神橋あたりには当時別荘から眺められた田園風景の面影がそこはかとなく残っている。(せたがや百景)

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六郷用水の歴史
六郷用水は徳川家康の家臣小泉次大夫吉次によって慶長2年(1597)から15の歳月をかけて開削された農業用水です。この用水は多摩郡和泉村(現狛江市)で多摩川より取水し、多摩川に並行して掘られ、全長23.2kmありました。堀の幅は世田谷領では平均4.5mありました。主に六郷領(現大田区六郷付近)の35ヶ村を灌漑する目的でしたが、併せて用水が通る世田谷領14ヶ村もその恩恵を蒙りました。六郷用水は小泉次大夫吉次の名にちなみ次大夫堀とも呼ばれています。(世田谷区)

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川の風景① 西谷戸橋からは「丸子川水親公園」になっています/岡本民家園付近

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池の風景 盆休み、お子さん達が伸びやかに遊んでいました/岡本公園

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岡本公園/岡本
1977年(昭和55年)に開園した公園で、メインは江戸時代に建てられた建物を展示した民家園である。園内はかつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように世田谷区の有形文化財第一号に指定された旧長崎家住宅主屋と旧浦野家土蔵、旧横尾家住宅椀木(うでぎ)門を復元し、世田谷周辺で江戸時代後期の典型的な農家の家屋敷を再現している。その他園内には遊具整えられていたり隣接して次大夫堀(丸子川)が流れていたり、また近隣には岡本静嘉堂緑地があったり緑豊かな地域になっている。園内は広く公開されており、民家園では一般の人が参加できる様々な行事が年中執り行われている。Wikipedia

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旧長崎家住宅主屋
区内の瀬田に建っていた旧長崎家住宅主屋は江戸時代後期の建物です。長崎家は村の民政を行っていた村方三役の一つ百姓代を勤めた家でした。主屋の間取りは創建当時広間型形式と推測されています。その後、文政期に当家が百姓代になると室内空間を拡大するため現在復元されている食違い四ツ間取り形式へと増改築されたと考えられます。この改築に伴い、デイに重きが置かれるようになり床と平書院が設けられました。またこの改築により大黒柱や差し鴨居が用いられるなど大幅な構造の変更を行いました。(パンフ)

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旧横尾家住宅腕木門
大正13年、区内桜に建てられたこの門は数寄屋風の形式で造られています。農家の形式とは異なることから、ここでは岡本八幡神社の参道に面した場所に裏門として復元しました。(パンフ)

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岡本隧道
この案内板から右50m、民家園の左奥に石垣囲いの蒲鉾型の扉があり、中は高さ2m、幅2.5mのトンネルになっていて、そこには直径80cmもある送水管が通っていてその長さは120mに及びます。1921年(大正10年)当時の豊多摩郡渋谷町(現在の渋谷区)では多摩川の水を町に引き込もうと大規模な水道工事を始めました。砧下浄水場で取水・浄化された水は駒沢給水所、三軒茶屋を経て渋谷に至り、地下の送水管は南西から北東へ直線的に世田谷を跨いでいます。水は駒沢給水所までは揚水ポンプの力で高く持ち上げられ、給水所から渋谷までは自然の重力で送水されました。砧下浄水場を出てすぐにこの岡専用のトンネルが利用されました。これらは1923年(大正12年)に竣工した近代水道の建造物であり、今でも珍しい施設で極めて貴重な歴史的遺産です。(世田谷区教育委員会)

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せたがや百景-岡本民家園とその一帯
瀬田から移築復元された茅葺きの古民家を中心に農家のありさまが再現されている。鶏の遊ぶ庭先、野菜や草花の植えられた畑など当時そのままの姿を見ることができる。民家園の隣には岡本の鎮守様八幡神社が深い木立の中に鎮まっている。また民家園のある岡本公園の一角ではホタルを養殖しているが、これは崖線から湧き出る清冽な水が利用できるからだ。夏の夕辺にはホタルの飛びかう姿を見に多くの人が岡本公園を訪れる。(せたがや百景)

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八幡神社鳥居/岡本


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八幡神社
神体は30cmばかりの木像である。「新編武蔵風土記稿」には「除地一段、小名河原ニアリ、本社ニ間四方、南向ナリ、神体ハ木像ニテ長サー丈許其作ヲ伝へズ 坂下ニ石ノ鳥居ヲ立、石階60段アリ、例祭ハ927日、(下略)」と記しているが、現在の堂宇は大正11に改築しており、石段も明治128月に再建し50段である。坂下に石の鳥

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居が立ち、高い石段を登ると松やけやきの大木が生い茂り、小島のさえずりがきこえ、いかにも村の鎮守らしい宮居である。鳥居のほとりに天保5年と記した手洗鉢が放置されている。祭礼は10月の第1、土・日の2日間行なわれる。(せたがや社寺と史跡)

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岡本静嘉堂文庫/岡本

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岡本静嘉堂文庫
武蔵野の面影をよく留める丘陵の一隅にこの建物は建っている。鉄筋コンクリート造2階建てスクラッチ・タイル貼りの瀟洒な建物で、イギリスの郊外住宅のスタイルを濃厚に表現している。静嘉堂文庫は元三菱合資会社の第4代社長であった岩崎小彌太がその父彌之助の収集した日本や中国の貴重な古典籍を永久に保存し更に研究者に公開することを目的に建設されたものである。設計者の桜井小太郎はイギリスで建築を学び、英国風の落ち着いた品格あるデザインを得意とした。岩崎小彌太も明治33年イギリスに留学し、ケンブリッジ大学を卒業した英国通でもあり、両者の呼吸が一致した作品でもある。内部は玄関ホール。ラウンジ、閲覧室、2階に応接室等があり19世紀後半のイギリスのアーツ・クラフト運動の雰囲気を持っている。(東京都生活文化局)
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岩崎家廟堂

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岩崎家廟堂案内
この奥にある青緑色のドームを戴く白亜の建物は、静嘉堂文庫を創設した岩崎弥之助の霊廟として建てられ岩崎弥之助、小弥太をはじめ岩崎家代々の墓である。明治433月、わが国西洋建築の始祖というべきジョサイア・コンドルによって建てられた。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、三菱1号館なども設計している。青銅の扉に刻まれている中国の二十四孝のレリーフ並びに全面の大香炉は岡崎雪聲の作品である。また森の奥には松形正義の文と書による男爵岩崎君墓碑がある。この霊廟は平成11年東京都により歴史的建造物に選定された。(世田谷区教育委員会)

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岡本静嘉堂文庫正門          大蔵通り

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せたがや百景-岡本もみじが丘

綾錦のような紅葉に松の緑を点々と散りばめた秋景は息を呑むようで多摩川八景(行善寺八景)の一つ「岡本紅葉」とうたわれた。今、開発の手から守ろうとする地元の熱意は強い。(せたがや百景)

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岡本静嘉堂緑地

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岡本静嘉堂緑地
岡本静嘉堂緑地は国分寺崖線の一画にあり、もとは岩崎家の所有する庭園であったものです。昭和20年頃までは庭園とともに維持管理されていたものが、その後人の出入りもなくほぼ自然状態のままにあったため貴重な自然が残されています。地域の貴重な財産として末永くこの緑地を残し、人々が身近に自然にふれるあえる場となることを目指しています。(砧公園管理事務所)






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国分寺崖線の自然
国分寺崖線とは武蔵野段丘の南縁に位置する段丘崖線で、立川市の北東に始まり国立市、国分寺市を通って世田谷区の等々力へと続く高さ10m~20mの崖です。崖線の直下には崖線の武蔵野礫層から湧水によって養われている野川が流れています。かつて崖線の南側には水田、北側には雑木林がありました。国分寺崖線はその地形から開発の影響が他に比べて少なく、東京の区部では武蔵野の自然を偲ばせる最後に残された地域となっています(案内板)

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坂の風景①「馬坂」大蔵通りから瀬田に上ります。右手が瀬田4丁目旧小坂緑地、坂上と坂下に入口があります

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旧小坂家住宅/瀬田
旧小坂家住宅は衆議院議員などを歴任した小坂順造1881-1960)が、昭和12年に別宅として建てたものである。昭和124月の空襲で渋谷区金王町にあった本宅が焼失した後はここを本宅としていた。多摩川沿いの国分寺崖線は自然がよく残り明治から昭和初期にかけて政財界人の別邸が多く建てられた。この住宅もその一つで、崖線の中腹にある湧水と緑を巧みに取入れた屋敷構えを持つ。

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主家は大地上に建てられ主家棟、書斎棟、二階建の寝室棟が雁行型に配置され、全ての棟から崖線越しに多摩川の流れを望む。三棟建物は外観を和風に統一しながら内部は、主家棟は和風その他を洋風とし趣を変えている。主家棟や書斎棟に見られる古民家風の意匠は、別邸ならではの個人の趣向のみならず大正から昭和前期にかけて流行した民家風和風住宅の形式を色濃く反映したものとなっている。当時の政財界人の生活・文化意識を良く表しており、建築史、分化史を知る上で貴重遺構である。また、当時この辺りに多くあった別邸のうち現存するものは他になく、地域史を知る上でも重要である。(世田谷区教育委員会)

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瀬田4丁目旧小坂緑地
緑の生命線である国分寺崖線の斜面樹林の一部であり、園内には区指定有形文化財「旧小坂家住宅」と紅葉と竹林が美しい湧水の流れる庭園があります。ここはかつて衆議院議員などを歴任した小坂順造氏の別邸として利用されていました。多摩川が近く国分寺崖線の緑が多いこの地域は、明治から昭和にかけて建てられた別邸が多くありました。都心から玉川電車で往来できるこの辺りは、当時の財界人の週末住宅として絶好の立地でもありました。昭和12年に建てられた「旧小坂家住宅」は別邸として現存する貴重な近代建築です。木造和風平屋建(一部2階建)で、萱葺き風の古民家を思わせる外観を持ち、南向きの斜面を利用した庭園と一体となった美しい景観を形成しています。また、庭園部分はコナラ、トチノキなどの大きな樹林が武蔵野の雑木林の面影をとどめており、崖面からあふれる貴重な湧水は園内に潤いを与えています。散策路や木道を回遊しながら国分寺崖線のみどりとみずを身近に感んじられる空間となっています。(案内板)

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下山稲荷神社鳥居/岡本町

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下山稲荷神社
祭神は倉稲魂命。多摩川岸に近い丘陵の上の欅椿榎等の古木繁茂せる地に鎮座している。社は南向で1間に9尺。欅造りの小祠ながらかえる股、唐獅子等の彫刻を掘施してあり、古い時代よりの神社との土地の古老の説であるが創立の年月は不詳である。当地の芹田氏に古い時代の鰐口が頚けてあり、祭礼の度に向拝にかけて使用している。祭礼は毎年215日と定め、小字下山の20人の旧農家の人々により講社を結成しており、毎年5人ずつを年番役に当てて、五穀豊穣を祈る初午祭を行っている。(せたがや社寺と史跡)

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川の風景② 静嘉堂緑地下で谷戸川が合流します/下山橋

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丸子川親水公園-下山橋
ここから西約900mにある仙川の水神橋際からはじまる丸子川は国分寺崖線に沿って大田区へと流れています。丸子川は江戸時代初期に小泉次大夫と多くの農民の手により開削された六郷用水の一部で、世田谷では俗に「次大夫堀」とも呼ばれてきました。丸子川親水公園は親水橋からここ下山橋までの区間で、水辺の遊歩道に沿って岡本民家園や静嘉堂緑地が続きます。(きしべの路)


・・・玉川


世田谷区の南西部に位置し周囲を鎌田・岡本・瀬田・上野毛の各町に隣接する。多摩川高島屋ショッピングセンター、東急田園都市線・大井町線二子玉川駅、兵庫島公園がある。Wikipedia
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坂の風景②「慈眼寺坂」慈眼寺経由で下ってくる大山道と交差します/次太夫橋

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親柱のイラスト            次太夫橋の標柱と案内板

治大夫橋
大山道とは大山詣りの道のことで大山は神奈川県伊勢原市にあります。世田谷を通る大山道は江戸赤坂御門を起点とし二子玉川で多摩川を経て伊勢原から大山まで続いています。二子玉川にはここ治大夫橋を渡る大山道と、行善寺の東側を通る大山道があります。(世田谷区)


大山街道慈眼寺坂Rの関連記事はこちらへ(
http://teione.exblog.jp/22627917/

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坂の風景③ 246号・東急線の先で善行寺経由の大山道と交差します/調布橋

善行寺坂

急勾配の行善寺坂を登りきったところに行善寺がある。昔、寺の境内からは多摩川の眺望が開け行善寺八景とうたわれた。行善寺坂はもと大山道の一部だった道で、の街道は八十八坂七曲といわれるほど起伏の多い地形を通っていた。(せたがや百景)

大山街道善行寺坂Rの関連記事はこちらへ(
http://teione.exblog.jp/22650910/

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街道の風景②「南大山道道標」の立つ辻、右折が二子の渡しへの道です。この辻で多摩堤通りからの筏道が合流します/調布橋

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調布橋道標/玉川2丁目
ここの道標は安永6(1777)瀬田村の講中により六郷用水脇に建てられたもので『南大山道、左・西、赤坂道、右・東、目黒道』となっている。この用水前の道は筏道、奥多摩へ帰る筏師たちが利用した。調布橋の名は新しい。(みどころマップ・川崎国道)

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二子玉川周辺の案内図
(紺:丸子川 青:多摩川・野川 青点線:筏道 赤点線:大山道)


# by Twalking | 2017-08-17 22:17 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩川駅   

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東横線多摩川駅/大田区
綺麗になりましたね~
昔の面影は全くありません。


多摩川駅

大田区田園調布一丁目にある東京急行電鉄の駅である。線路名称上で当駅に乗り入れているのは東横線と東急多摩川線の2路線である。ただし東横線には田園調布-日吉駅間の複々線を利用して東横線の列車と目黒線の列車も乗り入れておりそれぞれ別路線として案内されている。そのため当駅は東横線・目黒線・東急多摩川線の3路線の接続駅として案内されている。198811月から19976月にかけて東横線複々線化の一環として田園調布-多摩川(旧多摩川線)間改良工事が行われ当駅についても駅舎の大規模改造工事が行われた。東横線、目黒線ホームは高架に島式ホーム24線、東急多摩川線ホームは地下に島式ホーム12線がそれぞれ設置されている。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-08-17 20:58 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夏の宵   

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多磨センター入口/多摩ニュータウン通り
シトシトピッチャンに
リンリンリンリンの虫の声
ちょっと、早いんじゃないかい、鈴虫くん。

# by Twalking | 2017-08-16 21:58 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(3)筏道01-宇奈根   

日時 2017.8.13(日)
天気 曇り


このところ天気はぐづつき気味ですが、
予報が晴れでしたので出掛けてみました。
暑いので街中は避けて木陰のあるハケの道へ。

なんだか予報外れたみたいですね~、
でも歩るくには幸いだったかもしれません。
知行院から品川道別ルートと筏道を行ってみます。



・・・喜多見

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街道の風景① 成城から登戸道を知行院門前の分岐へ向かいます/内田橋(次太夫堀)

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門前から南西へ向かう品川道          東名を潜ると宇名根です


・・・宇奈根(世田谷区)

宇奈根という地名については『武蔵名勝図会』という書物には「上古の世には海比(うない)と号せしにや。万葉の古詠などにもありけり。それより唱えを転じてウナニともいいけるや。上古には溝渠をウナニと唱へける由」云々とあります。この溝渠はどぶではなく用水路だろうとされ、平陸の地で昔から農業(陸稲)がさかんだったと思われることからウナニが多くあり、これが転じてウナネになったとする説、宇奈根神(宇迦売神なら稲の神様)という穀物の神様説、畦目(うなめ)、畝目(うねめ)からつけられたとする説など、さまざまです。(世田谷区)

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街道の風景② 筏道はこの一本左側、寺社は右側にあります/荒玉水道道路

荒玉水道道路(都道428号)
杉並区梅里から東京都世田谷区喜多見に至る特例都道(約9km)である。道路の地下には荒玉水道の水道管が埋設されておりほぼ全線が一直線の道路形状となっている。1934年(昭和9年)竣工、当初は歩行者専用道路で1962年(昭和37年)より自動車通行可能となった。水道管保護のため重量制限が設けられており大型車両は通行できず、幅の広い車両の進入を制限するために他道路との交差部にポールが設けられているのが特徴である。Wikipedia

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観音寺山門/宇奈根


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薬滝山修善院観音寺(天台宗)
永正年間(15041521)川越喜多院・実海僧正の創立で、本尊は十一面観音、伝教大師作と伝え、円正寺といい小田原にあった。後、氷川社のかたわらに移築したが天文の頃兵火に罹り、元亀年間(15701573)此の地に再建した。円正寺という寺号が炎上と同音なのを忌み今の名に改めた。墓域に後北条の家臣荒井対馬守治義およびその子孫で、井伊家世田谷領の大場氏とともに代官をつとめた当地の水田開拓者、荒井以謙善応父子の墓がある。境内の大銀杏は樹齢数百年といわれる。(世田谷区教育委員会)

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宇奈根氷川神社鳥居/宇奈根町

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宇奈根氷川神社
祭神は素盞嗚尊。喜多見町、大蔵町のそれと共に氷川三所明神のーで「新編武蔵盟風土記稿」には「小名中通リニアリ、村内ノ鎮守ナリ、本社四尺五寸四方ノ東向、上屋二間半四方、前ニ木ノ鳥居ヲ立ツ、神体ハ白幣、イツノ頃鎮坐セシト云コトヲ伝ヘズ、村内観音寺持」とある。村の鎮守で明治4年村社となった。昭和25年の戦災にあったが同3710月社殿を建立した。境内に樹令数百年を経たと思われる銀杏の大木があるが、地上10m程のところで切断され、そのかたわらから数本の枝が出てまだ樹勢の衰えを見せていない。(せたがや社寺と史跡)

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世田谷百景-宇奈根氷川神社
農村風景をそこかしこにとどめる宇奈根。氷川神社の境内には子ども達の遊ぶ姿を見かけることも多い。村の鎮守様は健在だ。都市化の波でつぎつぎに失われていった村の鎮守の原像を見る思いがする。秋祭りには地区の人総出で大いに賑わう。(せたがや百景)
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常光寺/宇奈根町
日蓮宗身延山末、本尊は日蓮大菩薩、35cm程の木彫坐像である。越後の人・泉蔵院日礼はこの土地の青山氏に頼ったが青山氏は日礼に帰依して堂宇を創建して日礼を開山としたという。寺は昭和20525日の大空襲によってすべて災厄にあい、日蓮の尊像のみかろうじて助けだしたとの事である。元禄年間、喜多見若狭守断絶の際、種々の什物を然るべき所へ配ったといわれるがこの寺に手水鉢、石灯篭が送られた。空襲の時手水鉢は焼けてしまったが、石灯籠だけは焼け残って境内にある。高さ44cm程の小灯龍である。(せたがや社寺と史跡より)

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野川の手前の畑にひまわりが群生していました/ハンカチ公園

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川の風景① 多摩川の東側、畑もありますが住宅地ですね/野田橋 

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街道の風景② 野田橋を渡り宇奈根経由のルートもここで合流。直進が筏道になります/永安寺門前

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宇奈根周辺地図(赤:筏道 茶:荒玉水道道路 青:多摩川・野川)


・・・鎌田


鎌田村は隣接する大蔵村の村域内に18箇所飛地状に立地する小村であった。砧村成立時に大字鎌田になり、東京市編入で世田谷区鎌田町となるもいずれもそのまま飛地状態で存立していた。大蔵町の区域は内部に鎌田町が点在していたほか、岡本町、祖師谷一丁目、喜多見町、宇奈根町の飛地が混在しこれに1912年に神奈川県から編入した久地町、諏訪町(いずれも多摩川の河川敷)が含まれていた。市郡合併で旧大字をそのまま町に置き換えたために生じた飛地存続による弊害を1955年に解消することとなり、大蔵町を三分割して北部に砧町、南部に(新)鎌田町を設置して、(旧)鎌田町および当該各町の飛地を新設三町に振り分けた。その後1971年に実施した住居表示で再度区割りに変更が生じて現在の町域が確定した。
Wikipedia

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街道の風景③ ハケ下から離れ鎌田橋(野川)へ向かいます/吉祥院入口

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二差路を右折             砧南小の向かいに吉祥院

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吉祥院山門/鎌田町

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大聖山吉祥院
縁起によると当寺は天平12年(740行基の開基と伝え、同人の作による地蔵菩薩立像を安置し、東覚山と称していた。本尊は不動明王坐像で開山良弁僧正の作と伝えられている。建武2年(1335)兵乱により堂宇などが焼失し、その後は世田谷吉良氏が当寺を再興するが、天正18年(1590)主君北条氏の没落と共に滅び、以降は無住となった。近世後期、周辺の村人によって伽藍などが建てられ現在の配置となる。また、当寺は玉川霊場第61番札所である。(世田谷区教育委員会)

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「贔屓」さんかな???        六地蔵

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天神社鳥居/鎌田町

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天神社
吉祥院の前にあり境内を接している。菅原道真公を祀る、御神体は束帯姿の道真公で約35cmの木彫坐像、胸にあたるところに梅鉢紋がえがかれている。堂宇は2間半に3間の小堂である。「新繍武議風土記稿」には「除地一段ニ畝、村内吉祥院ノ門前ニアリ、本社一門ニー間半、拝殿ニ間ニー間半、東向ナリ、神体ハ尋常ノ形ニテ長サ五寸余リ、社前ニ鳥居ヲ立、例祭ハ年々九月廿五日、本村ノ鎮守ニシテ吉祥院持、元ハ西寄りノ田間ニアリシヲ近村此処ヘ移ス、故ニ除地ハ其旧地ニアリ、社地ハ吉祥院境内ナリ、末社稲荷・神明合祀」と記されている。昔は人々その能筆ならんことを祈念して社の扉に筆をさげ、祈ったものだが今はその風習も絶えてしまったという。堂宇の右傍に明治35年村の有志によって建てられた菅公千年祭記念碑がある。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景④ この先筏道は多摩川沿いの多摩堤通りを二子へ向かいます/鎌田橋

野川(仙川合流地)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23104580/

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川の風景② ハケ下の方が面白そうなので仙川を上流へ/鳥居田橋


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坂の風景 懐かしい坂道です、坂上は「関東の富士見百景」に選ばれてます/西谷戸橋(仙川)


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せたがや百景-岡本三丁目の坂道
国分寺崖線には多摩川沿いに下る坂道が何本も通っている。岡本3丁目の坂道はなかでも勾配が強く、急な坂をたどるとき国分寺崖線の斜面を実感する。坂上からは丹沢の山々も眺望できる。(せたがや百景)


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川の風景③ 右が仙川、左の細い流れが丸子川です/西谷戸橋

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丸子川(まるこがわ)
世田谷区及び大田区を流れる一級河川。六郷用水下流部分が整備され名称を変えて残っている川である。世田谷区岡本3-25にある湧水を水源とする(世田谷区岡本の透明高速道路より下流に位置する仙川の新打越橋付近で取水され、地下の浄化装置を通った水が丸子川に流されているとの説があるが誤りである)。湧水の量は豊富であり、東名高速道路沿いに細い側溝を流れるのを見ることができる。仙川にぶつかる手前でほぼ直角に曲がり、仙川護岸沿いに蓋付きの細い側溝を流れる。15mくらいすると仙川護岸沿いにコンクリート蓋の暗渠になり、仙川の西谷戸橋付近からは開渠となって水神橋付近仙川から離れる。岡本公園周辺から仙川の西谷戸橋付近は整備された丸子川親水公園として南東へ流れ、世田谷区岡本で谷戸川を合わせる。さらに南東へ流れ、世田谷区野毛付近で矢沢川と交差し、大田区田園調布付近で多摩川に合流する。Wikipedia

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次大夫堀流路図(大蔵付近)/説明板
(紺:六郷用水 青:野川・仙川・谷戸川 赤:品川道 橙:筏道 紫:登戸道)


# by Twalking | 2017-08-16 09:50 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 石仏-善養寺   

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善養寺/筏道(世田谷区野毛)
「ふぅ~・・・」
頬杖ついて思案のご様子。


# by Twalking | 2017-08-15 11:23 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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岡本民家園/世田谷区岡本
う~ん、美味そうだな~
なんだかウナちゃんに見えちゃって
夏バテにはいいでしょうね~。


# by Twalking | 2017-08-14 18:50 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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囲炉裏
岡本民家園/筏道(世田谷区岡本)
いぶしてないと蚊が寄ってくるので・・・
虫よけですね~、ありがとうございます。
ほっこりしました。


囲炉裏(いろり)

屋内に恒久的に設けられる炉の一種。伝統的な日本の家屋において床を四角く切って開け灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のことである。主に暖房・調理目的に用いる。数える際には「基」を用いる。古くは比多岐(ひたき)や地火炉(じかろ)とも言った。部屋中に暖かい空気を充満させることによって、木材中の含水率を下げ、腐食しづらくなる。また薪を燃やすときの煙に含まれるタール(木タール)が、梁や茅葺屋根、藁屋根の建材に浸透し、防虫性や防水性を高める。ただし、家の中に煙が充満することで眼病などの原因にもなる。Wikipedia

# by Twalking | 2017-08-14 14:34 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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草草履
岡本民家園/筏道(世田谷区岡本)
涼しいでしょうね~
なんだか懐かしい風景
惹きつけられます。


# by Twalking | 2017-08-13 21:45 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お地蔵さま-滝不動尊   

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お地蔵さま
滝不動尊/不動の滝(世田谷区等々力渓谷)
涼しげな、優しいお顔だこと
合掌。

# by Twalking | 2017-08-12 21:36 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柘榴の実   

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多摩市愛宕
おはよ~!ドナルドくん
雨あがったみたいだね~。

# by Twalking | 2017-08-12 12:44 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 武蔵小杉駅   

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東横線武蔵小杉駅/川崎市中原区
どしゃぶり
雨宿りは電車のなかで
帰るまでにやんで欲しいな~。

# by Twalking | 2017-08-11 18:54 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 山の日   

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パルテノン十字路/多摩センター(多摩市)
お~い、夏
もどっておいで~!

# by Twalking | 2017-08-11 08:56 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 クレオメ?   

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クレオメ?
品川道/狛江市岩戸北
「なんの花でしょう?」
「忘れちゃったわ、持ってもいいわよ~」
「ありがとうございます、写真で」
後で調べてみましたが、クレオメのような、
どうでしょうか???。


クレオメ

フウチョウソウ科フウチョウソウ属の総称。熱帯から亜熱帯に150種ほど知られ、沖縄にはヒメフウチョウソウが分布する。一般に栽培されるのはセイヨウフウチョウソウ(西洋風蝶草)で熱帯アメリカ原産の一年草。茎は単生または23本立ちで高さ約1m。葉は47枚の小葉からなる掌状複葉で、基部に刺(とげ)がある。69月、茎頂に総状に多数の花をつける。花弁は4枚で下半分は細く線状となり、花色は淡桃、紫桃、白色。雄しべは花色と同色で、57.5cm、花外に長く突き出るのが特徴である。雌しべは1本で、花期後に15cmほどの細長い莢(さや)となり、長柄をつけて四方に広がり花とともに観賞される。45月に播種(はしゅ)するが、土質を選ばずきわめてじょうぶで、翌年にこぼれ種からでも成長する。(コトバンク)


# by Twalking | 2017-08-10 12:44 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 朝の広場   

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乞田・貝取広場
乞田川/多摩市乞田
ぐるぐるだね~
くぐれるかな???
ちょっとやってみるか~。

# by Twalking | 2017-08-10 10:20 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 仁王像-伝乗寺   

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吽形

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阿形

伝乗寺/世田谷区尾山台
凄味がありますね・・・、
右に吽形、左に阿形の配置になってました。


# by Twalking | 2017-08-09 21:25 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 田園調布駅   

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田園調布駅/大田区
久し振りにきましたが地下なんですね、
便利にはなったんでしょうが、
雰囲気は昔の方が好きだな~・・・。


田園調布駅

大田区田園調布三丁目にある東京急行電鉄の駅で、東横線と目黒線が乗り入れている。線路名称上では当駅が正式な目黒線の終点であるが、東横線の当駅から日吉駅までは複々線で、そのうち2線を使用し目黒線の列車は日吉駅まで運行しており、当駅-日吉駅間でも両系統を案内上別路線として扱っている。島式ホーム24線を有する地下駅で外側は東横線、内側は目黒線が使用する。改良工事前は34線の形態で、東側は目蒲線が西側は東横線が使用し、駅舎も地上にあったが、改良工事中は橋上駅舎駅となり、同時に現行の形態に変更された。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-08-09 13:16 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 階段   

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階段
愛宕下通り/多摩市愛宕
なんだか誘われている感じ・・・
ちょっと急だけど、行ってみるかな~。


# by Twalking | 2017-08-09 12:12 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(2)狛江~田園調布 02-等々力   

日時 2017.7.29(土)
天気 曇り


瀬田から先は環八沿いの住宅地ですから、
街道歩きの妙味はあまりありませんが、
満願寺、九品仏などの古刹は外せない所です。

それに等々力渓谷ですね~、ここは素晴らしいです。
気分を変えるのにハケ下の筏道に寄りましたが
ここも面白いところだと思います。


・・・上野毛

世田谷区南西部に位置し玉川地域に属する。北で瀬田、東で中町、南で野毛、南西で多摩川を跨いで川崎市高津区北見方・諏訪、西で玉川と隣接する。駅周辺と環八通り沿いに商店街があり、南の多摩堤通り沿いが河川敷となっている他は主に住宅地として利用される。古く「ノゲ・ニゲ・ヌゲ・ナゲ」は「」を意味する言葉。当地が国分寺崖線にあり、その崖の上に当たる地域である事から「上野毛」とされた。
Wikipedia

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街道の風景① 環八の多摩美先を左折し旧道に入ります/上野毛

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上野毛通りと交差します。この道は二子からハケを上り目黒・渋谷に向かう鎌倉街道中道になります/上野毛交番裏

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川の風景① 上野毛から緩やかに下ると矢沢川と交差、この先が等々力渓谷です/等々力通り

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矢沢川                この先を右折し等々力駅先へ


・・・等々力


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等々力は江戸期以前は荏原郡等々力村であった。のち周辺の7ヶ村(用賀、瀬田、上野毛、下野毛、野良田、奥沢、尾山)と合併し玉川村(現在の世田谷区玉川地域)の一部となる。1923年(昭和7年)東京市域拡張時に世田ヶ谷町、駒沢町、松沢村と合併し「東京市世田谷区」となった。等々力村・玉川村時代、村役場は一貫して等々力にあった。世田谷区成立後は支所となり現在は玉川総合支所が置かれる。等々力の名は等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説が有名だが、ほかにも渓谷の崩落する音から来たという説、兎々呂城(「とどろじょう」のよみが「とどろき」と変化/現在の園芸高校の地)を由来とする説等がありいずれが正しいのかは詳らかではない。Wikipedia

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満願寺山門/等々力


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満願寺
本尊は大日如来(12寸の木像〉で真言宗智山派、京都智積院の末寺である。開山は文明2(1470)定栄和尚、開基は吉良氏で、深沢兎々巴城内にあったが天文18(1549)2世栄心和尚の代、現在地に移した。等々力の地名はこの兎々目域から出たという伝えがある。江戸時代でも御朱印寺領13石を与えられていた。第9世実祐和尚は柳沢出羽守に召され易経の講義をしている。本堂は宝暦13(1763)に再建したが昭和43年耐火建築に改築しつつある。本掌の額は細井広沢のむすこ九皐の筆である。寺内には細井広沢はじめ一族の墓があり、寺宝には広沢の書や版木等がある。

細井広沢
万治元年(1658)108日掛川に生れ寛文8(1668)11才で父に従って江戸に来、経史を林信篤に、和歌を清水谷実業に、兵学を木工源右衛門に、剣を堀内源太衛門、柔術を渋川伴五郎、槍術を南部宝蔵院、射法を石螢林斉に、騎術を大坪道雲に、天文測量を金子立運に学んだ。元禄6(1693)柳沢吉保に200石で用いられ、 15年辞職し深川八幡前で子弟の教授にあたった。広況は書家として時代を代表する有名人であった。大石良雄は主君の復讐の計画を広沢に告げ、打入の時に彼が用いた「君仇不倶戴宍」のことばはその助言によった。堀部安兵衛とは剣の同門で討入前夜には詩を贈って激励した。広沢は晩年多摩川を愛し、蕉林庵玉川の号を用いた。享保20(1735年〉江戸青山で逝去した。しきたりとして亡父の碑文を世つぎの人が作ることになっている。広沢の命日1223日には最近まで土地の青年会で試胆会を行なっていた。末寺には等々力不動堂、善養寺、金剛寺、覚願寺、真福寺がある。(せたがや社寺と史跡)


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満願寺薬師如来堂              満願寺沿いの庚申塔

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世田谷百景-等々力の満願寺

吉良氏によって創建された寺で等々力不動はこの寺の別院である。境内の建物は新しいが、整った荘厳さを持っており身がひきしまる。柳沢吉保に仕えた学者細井広沢の墓があり国の史跡に指定されている。(せたがや百景)


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江戸名所図会 満願寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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玉川神社鳥居/等々力 

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玉川神社 
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解命である。文亀年間に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、明治41熊野神社の社号をいまの玉川神社に改め、字上原にあった伊勢宮(天祖神社)諏訪神社、字小山根にあった御嶽社を合祀した。なお、本社には天照大神・日本武尊、少彦名命、建御名方命が合祀されている。玉川神社の総本社である熊野新宮はもともと熊野に移住した出雲族が、郷里の氏神であったところの島根県八束郡八雲村字熊野にある熊野神社を分祀したもので、微々たる存在だったが平安中期に起った熊野信仰の隆盛と共に、朝廷以下一般の民衆の支持により全国的に信仰せられ、鎌倉時代には山伏や先達により全国に熊野神社が勧請され、特に武士に厚く信仰されるようになり、代々社寺を尊崇した吉良頼康も当村の流行でこの熊野神社を創立したものと思われる。

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境内にある「豊田正冶翁頌徳碑」の石碑は昭和29年に玉川全円耕地整理組合によって建てられたものである。豊田翁はこの地累代の名家に生まれ、学を杉浦重剛先生に受けその思想を実践した人で、玉川村村長として将来の郷土開発事業として玉川村全域の耕地整理、道路整備(宅地造成)に時価にして数十億の巨費と32年の歳月をかけいろいろな妨害や障害をのりこえて昭和32年に完成させた。現在、玉川村の人々が郊外住宅地として恩恵を受けているのは翁のおかげである。なお、その石碑と並んでいるのは、この耕地整理の技師、高屋直弘氏の留魂碑である。玉川神社の真南、等々力1-25にあった八幡社は玉川神社の管理であったが昭和39年玉川神社に合祀された。(せたがや社寺と史跡)


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川の風景② 清流と緑のオアシス、生き返ります/矢沢川

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等々力渓谷
等々力には23区内唯一の渓谷である等々力渓谷がある。等々力駅から等々力渓谷までゴルフ橋を通って徒歩2分ほどの場所にある。西側を矢沢川が流れこの川が渓谷を形成している。目黒通りが傍を通り、環八通りが渓谷の上に蓋をするように通っている。渓谷地内には古墳時代後期から奈良時代(7世紀後半-8世紀)のものと推定される横穴式墳墓があり「等々力渓谷横穴古墳」と呼ばれている。不動の滝の近くには平安時代に創建された「等々力不動尊」がある。Wikipedia

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等々力ゴルフリンクス
玉川野毛町公園とそこに隣接する国土交通省住宅、都営住宅の敷地は、戦前、目黒蒲田電鉄の経営する「等々力ゴルフリンクス」というゴルフ場であった。等々力駅前のゴルフ橋はその名残である。1931年にオープンしたが戦争の激化により1939年に政府に買収され内務省防空研究所が置かれた。戦後、一部に引揚者住宅が建設された時期もあったが環状8号線整備による道路拡幅に伴って施設の再配置が実施され、現状のように三分割されて今に至っている。Wikipedia

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等々力渓谷案内図

武蔵野の道-等々力渓谷の関連記事はこちらへhttp://teione.exblog.jp/21873742/


・・・尾山台

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世田谷区南部に位置し玉川地域に属する。西から北で等々力、東で奥沢、南東で玉川田園調布、南で大田区田園調布、南西で玉堤と接する。東急大井町線尾山台駅が置かれている。江戸中期には「小山村」とある。明治中期、同じ荏原郡にある小山(現在の武蔵小山)と紛らわしくなるため「尾山」と漢字を充て変えた。小山は国分寺崖線の高台・岡を指すものとされる。Wikipedia

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街道の風景② 等々力駅先を右折して住宅街を真っ直ぐに南へ/尾山台小

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寮の坂

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寮の坂由来
松高山傳乗寺は区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和5(1316)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたためにこの坂道を土地の人は寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせるとこの坂の名称の由来が思い起こされる。

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なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主太平出羽守は上流から運ばれた武器、兵糧の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたとも言い伝えられている。さらに時代は下り江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。(石碑)

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宇佐神社鳥居/尾山台


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宇佐神社
祭神は応神天皇で例祭は923日、境内末社として稲荷神社(倉稲魂命)御嶽神社(大己貴命・日本武之命・少名彦名之命)を祀る。村内に散在したものを明治年間に合祀したものである。神殿には狐塚から発掘した刀・土器片などを奉納してあるという。「新編武蔵風土記稿」によると「除地二段、村ノ中央一字根通リノ内ニアリ、社九尺ニ二間、南向、中二又宮作リノ社アリ、前二鳥居ヲタツ、両柱ノ間七尺、元禄十二年ノ夏、七世精蓮社進誉貞悦ノ時再造セントミエテ、ソノ時ノ棟札アリ、祭礼九月二十三日二行フ、伝乗寺持ナリ、注連引松二株アリ、向ヒテ鳥居ノ右ニアリ、囲尺一丈六七尺モ有ベシ、末社稲荷社向テ右ニアリ、上屋一間ニ一間半、神明社末社ヨリ東北ノ角ノ山ニアリ、南向ナリ」とある。「新編武蔵風土記稿」に大塚・字堂ノ上ニアリ、事跡ツマビラカナラズ」とあるものであろう。かつてこれを開墾した際埴輪・土偶・刀剣の類を出したという。前方後円墳であろうという。(せたがや社寺と史跡)

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伝乗寺山門/尾山台


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伝乗寺
次太夫堀(六郷用水)のほとり北側にある。松高山法生院と号し浄土宗で川崎市小田中の泉澤寺の末、開山は住誉良公和尚という。本尊は阿弥陀如来で木の坐像3尺(約1m)ばかりで板碑を数多く存している。『新編武蔵風土記稿』によれば「除地三段五畝、字根通ニアリ、(中略)本堂ハ六間二四間、南向ナリ。(中略)表門両柱ノ間9尺」と記している。寛政10年(1798)の西村和泉守作になる村念仏話中の伏鉦がある。享和2年(1802)に「さいの神」の火が移って焼失したことがあった。本堂は文化4年(18073月に庫裡は享和2年(18022月に建てられている。本寺の地蔵菩薩立像は頭部のみ古作で一木で保存もよく美しい。藤原期のもので胴体は後補である。小阿弥陀如来座像は鎌倉期のものである。(せたがや社寺と史跡)

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仁王門                   五重塔


・・・奥沢

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貞和頃から吉良氏の所領となり奥沢城が築かれた。江戸時代には荏原郡奥沢村となり、城の跡地には浄真寺が創建された。1622年(寛文2年)西の開墾地が奥沢新田村として分村した。天保頃には奥沢村が奥沢本村、奥沢新田村が奥沢村と称されるようになった。地名は吞川の支流九品仏川水源の湿地帯であることを指す。Wikipedia

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九品仏浄真寺参道/奥沢

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総門

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仁王門
建立は寛政5年(1793)で別名紫雲楼とも呼ばれ楼上には阿弥陀如来と二十五菩薩が安置される


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九品仏浄真寺
本尊は釈迦牟尼仏で浄土宗である。延宝6年(1678)珂碩上人が開いた寺で知恩院の末である。寺の結構がコの字型になっており、総門と本堂が反対を向いて並んでいるのは珍らしい。本堂には上人のほりあげた釈迦牟尼仏を中心に、右に善導大師、左に法然上人の像を安置している。中でも右側にある珂碩上人像は乾漆製の芸術価値の高いものである。堂の隅にはぴんずる尊者像がある。

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本堂は総欅造りで昭和42年修築しかや茸屋根を銅茸にかえた。本堂前にある三つの堂にはそれぞれ3体の丈六の阿弥陀如来9体があり、右から中品、上品、下品の位があるので九品仏といわれ本堂の此岸に対して彼岸をあらわしている。すべて珂碩上人と弟子珂憶上人の合作といわれている。4年毎(オリンピックの年)の81617日には「お面かぶり」の行事が行われる。これは釈尊が漫殻に入り、阿弥陀如来に迎えられて彼岸にわたる意味をあらわしている。山門は紫雲楼といい、楼上には25菩薩の像がある。鐘は、宝永5年(1793)世田谷領の深沢・谷岡又左衛門の寄進で、作は神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である。堂屋も欅造りで欄間には十二支がはられ北に子、南に午がほられている。寺宝には国宝級のものが多いが飛び茶釜は有名である。境内には天然記念物のカヤ、大銀杏、ケヤキ等あるが、ケヤキは枯れてしまった。上品堂の両側には菩提樹がある。境内の周囲の土塁は旧奥沢城の城塁といわれている。(せたがや社寺と史跡)

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三仏堂

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九品仏珂碩上人(161794)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられその彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも18歳で発願、51歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。上品堂のうち中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。

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中品堂、下品堂と同様でしたがって阿弥陀さまには上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、

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三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏仏像の双璧である。


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開山堂                  閻魔堂

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江戸名所図会 奥沢村
浄真寺九品仏 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

創建の由来
当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院浄真寺」といい、浄土宗に属し境内約12万m236千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置しこの寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。(説明板)

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奥沢城
奥沢城は吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城出城として用いられた。昭和62年(1987)に世田谷区の区指定史跡に指定されている。天文-永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。天正18年(1590)小田原征伐の後廃城となった。延宝6年(1678珂碩(かせき)により九品仏浄真寺が開かれた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。また、現在は開発が進んで失われたが、城跡周囲には近年まで堀跡及び「奥沢の底なし田圃」と言われていた深田が拡がっていた。往時はこの堀と北麓の沼地とで、三方の守りを固める構えとなっていたものと考えられる。Wikipedia


・・・田園調布/
大田区


1918
年(大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により開発、1923年(大正12年)から分譲された地域であるである。現在の大部分の地域が第一種低層住居専用地域と第2種風致地区であり東京でも有数の高級住宅街である。大田区田園調布以外に田園調布本町(ほんちょう)、田園調布南の住所表記もあるが、旧「大森区田園調布」に相当する地域で、大田区田園調布の南側に位置する。また隣接する世田谷区側に玉川田園調布の表記があるが田園都市株式会社が多摩川台住宅地として田園調布と一体に造成・分譲を行った地域である。Wikipedia

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街道の風景③ この先東横線を右折環八にでます。今回はここまで、田園調布駅に向かいます/玉川田園調布

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すっかり変わりましたね・・・/田園調布駅

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こちらが北口             かつての駅舎が復元されてます

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次大夫堀流路図(2)/説明板
(青:六郷用水・野川・仙川・矢沢川 赤:品川道 橙:筏道 緑:大山街道 紫:中原街道)

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品川道(狛江~田園調布)ルート図

# by Twalking | 2017-08-09 10:17 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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多摩丘陵/多摩市
通り過ぎたようですね
久し振りの青空
静かに遊んでてくれてるのが何より。

# by Twalking | 2017-08-08 13:49 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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橋の風景-ゴルフ橋
等々力渓谷/世田谷区等々力
ゴルフ橋???
戦前、この先に「等々力ゴルフリンクス」があったそうです。
その名残なんですね~、等々力渓谷の入口に架かります。


# by Twalking | 2017-08-07 21:46 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 愛宕坂02   

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愛宕坂/多摩市愛宕
う~ん、いい風
嵐のまえの静けさかな
ひどくならねばいいけど・・・。

# by Twalking | 2017-08-07 10:14 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 等々力駅   

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東急大井町線等々力駅/世田谷区
構内踏切があるんですね・・・、
駅前の商店街もお洒落だし、
等々力渓谷が駅からすぐ、いい街です。


等々力駅
世田谷区等々力三丁目にある東急電鉄大井町線の駅である。島式ホーム12線を有する地上駅。駅舎はプラットホームから二子玉川側に連続して上下線に挟まれた場所にある。駅両脇の道路と駅舎を結ぶ構内踏切がありそこから駅舎に入る。等々力陸上競技場と川崎とどろきアリーナのある川崎市中原区の等々力は、かつては同じ村(等々力村)であり多摩川の概ね対岸に位置するが、当駅付近は多摩川を渡る橋はない。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-08-06 22:57 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(2)狛江~田園調布 01-大蔵   

日時 2017.7.29(土)
天気 晴れ


曇りの予報なので出かけました。
品川道を狛江から田園調布あたりまで。
この辺りは登戸道や大山道で尋ねたところです。

でも、道筋が違うのでまた感じが違います。
国分寺崖線の上を行く品川道、ハケ下が筏道ですが、
ハケ上を行ってみました。


・・・東和泉(狛江市)

狛江市の南部に位置し小田急線小田原が通過している。北から時計回りに和泉本町1丁目、岩戸北3丁目・岩戸南1丁目、緒方134丁目、多摩川を挟んで川崎市多摩区登戸、元和泉31丁目と接する。Wikipedia

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街道の風景① 狛江通りの1本西側に旧道が残ります/東和泉

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庚申塔のある二差路を左へ       合流地に「品川道」の標識/狛江三叉路

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街道の風景② この植え込みは六郷用水の名残のようです/一の橋(世田谷通り)

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一の橋へ/狛江三叉路         二の橋を右へ/世田谷通り

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慶岸寺山門/
岩戸北


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慶岸寺
除地、境内共三段、中央より三町を隔てて北の方にあり、榮氷山道安院と號す、浄土宗、郡内喜多見村慶元寺の末、開山然度正保二年四月十五日遷化、開基は村民河合氏とのみ傳へり、客殿東向、七間に五間半 本尊弥陀木の坐像一尺五寸を安せり。地蔵堂。客殿の東にあり、二間に一尺西向き本尊地蔵は木の坐像一尺八寸、厨子入にて彩色を施せり』(新編武蔵風土記稿)


・・・喜多見(世田谷区)

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街道の風景③ 二差路に念仏車と庚申塔の祠、品川道は直進です

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念仏車/喜多見
旧岩戸村(現東京都狛江市岩戸)とのに近い「いかだ通」と「中通」の交差した地点にある。念仏車とは念仏を唱えながら廻すものであり、一回廻す毎にお経を一巻読んだと同じ功徳があるとされ、念仏の功徳をより効率良く広めるものとして造立されたと考えられる。当地の念仏車には石造四角柱の上部に六角形の車輪が取り付けられており、各面に六字名号の各字が刻まれている。銘文によるとこの念仏車は文政4年(182111月喜多見郷の「女念仏講中」によって建てられた。

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念仏講は女性のみによって構成される場合がままあり、このような念仏講による地蔵等の造立例が区内でも幾つか認められる。しかし区内で近世以前に造立された念仏車の遺例は他に見られないのでこの念仏車は近世世田谷の女性による信仰の遺跡としてはかなり貴重な例といえる。またこの念仏車の傍らの小祠には元禄5年(1692)の庚申塔、並びに享保4年(1719)の地蔵が安置されており、近世の喜多見村における民間信仰の面影を今に留めている。(世田谷区教育委員会)

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知行院山門/喜多見

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龍寳山常楽寺知行院
本尊は薬師如来で延暦寺の末寺、文明頃(146987)の草創で天正16年(1588)頼存法印が中興開山といわれる。喜多見若狭守勝忠が館の鬼門除けの祈願所として不動明王、閻魔大王をもあわせ祀り、除地若干を寄進した。また
須賀神社別当寺でもあった。慶安2年(1649)江戸幕府より寺領八石二斗余の朱印状を受け幕末におよんだ。明治6年本堂を喜多見小学校(現在の砧小学校)の仮校舎として使用した。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景④ 知行院門前で登戸道と交差します/喜多見


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二差路を直進             多摩堤通りを右折し新井橋へ

登戸道(喜多見)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23022006/


・・・大蔵


『江戸名所図会』は延暦期に武蔵国守兼大蔵卿石川豊人が居住していたことを由来とする。1240年(仁治元年)安達景盛次男兼周石井郷を拝領して石井氏を名乗り、現在に至るまで旧家として残る。永享の乱で鎌倉を逃げ延びた二階堂盛秀の子秀高(清仙上人)が1490年(延徳2年)鎌倉大蔵ヶ谷にあった永安寺を同じ地名のここ大蔵再建した。16世紀には吉良頼康の所領で1557年(弘治3年)大平氏に給付された。1633年(寛永10年)彦根藩領となる。江戸時代後期には国学者石井至毅を輩出した。1889年(明治22年)砧村の大字となる。1936年(昭和11年)に世田谷区が成立した際、大蔵町となる。
Wikipedia

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川の風景① 野川を渡ります、上流側の風景です/荒井橋(多摩堤通り)

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東名を潜ります            先を左折して永安寺へ


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永安寺山門/
大蔵


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永安寺
当寺院は、元々当地に建立されたものではなく室町時代に鎌倉公方となった足利氏満 (足利基氏の子)が没したのち、その菩提寺として足利氏満法号から「永安寺」と称した寺院を、応永5(1398)鎌倉の二階堂大蔵谷の地に建立したものが起源になっている。開創当初は天台宗ではなく臨済宗で読みも「ようあんじ」であった。その後鎌倉公方4代目であった足利持氏が永享の乱で敗れ永享11(1439)にこの永安寺において多くの家臣とともに自害した。その後この永安寺も廃れたが、持氏の遺命で家臣であった二階堂信濃守の子で清仙上人が延徳2(1490)に鎌倉の大蔵谷に似た地名であった武蔵国中丸郷大蔵村(現在の世田谷区大蔵)の地に寺院を再建し、名前も同じ「永安寺」とした。これが当寺院の直接的な起源である。その後、天正年間に良深大和尚によって臨済宗から天台宗に改められた。また、明暦年間に法印乗海大和尚によって本堂などが整えられて中興され、現在の永安寺の基礎と言えるものが出来た。現在の本堂は昭和に入ってからで1960年のもの。本堂左手の墓地には江戸幕府書物奉行石井至毅一家累代の墓がある。Wikipedia

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本堂の特色
天台宗本堂堂としての特長が内陣の来迎柱や内陣と外陣の大虹梁(だいこうりょう)によく表れています。平面形式の大きな特色は柱と柱の間を一間六尺(約1.82m)ではなく、二間十五尺(約4.55m)の半分7.5尺を採用しているためとても伸びやかで明るい空間になっています。(説明板)

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不動堂(旧薬師堂)          開山堂長春殿

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せたがや百景-
大蔵の永安寺

山門を入ると樹齢数百年といわれる大イチョウがある。永安寺は室町時代鎌倉の大蔵谷に建てられたものが、地形も地名も似たここに再建されたと伝えられている。本堂右側には江戸幕府のころ書物奉行を務めていた石井一族の墓がある。6代目兼重(かねしげ)は世田谷地域での図書館の始まりとなった「玉川文庫」を創ったので知られている。(せたがや百景)


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大蔵氷川神社鳥居/大蔵

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大蔵氷川神社
祭神:素盞嗚尊 例祭:102
暦仁元年(1238)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川神社を勧請したものと伝えられる。もと大蔵町の永安寺別当であった。永禄8年(1565)の棟札には「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神第四ノ宮」と記されていた。明暦2年(1656)に再建され文政(1818-30)の初めにも本殿および拝殿が再建された。(世田谷区教育委員会)

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大蔵氷川神社本殿並びに棟札
現存する最も古い年記のある棟札は何の目的で奉納されたのかは不明であるが、明暦2年(1656)のもので、これを含めて11枚の棟札がありうち社殿造営に関するもの4枚、鳥居に関するもの4枚、その他奉納金や上棟祭などに関するものが3枚となっている。社殿造営に関しては延宝3年(1675)、元禄6年(1693)にそれぞれ「氷川大明神社頭一宇」と記された棟札が一枚ずつあり、その後文政3年(1820)の幣殿建立と同7年(1824)の本殿再建の棟札がある。幣殿は現存していないが現在の本殿はこの文政七年再建のもので昭和63年に再建された社殿の中に納められている。社殿の造営関係の棟札の他に鳥居の造立やその他の奉納に関する奉納札がある。うち2枚は木製の鳥居の造営と修復について、他2枚は寛政7年(1795)の石華表(石鳥居)と石灯籠、湯立釜の奉納札、文化8年(1811)の石華表とその額、石灯籠の奉納札である。その他にも文化8年(1811)には奉納金として三両三分が納められその金子を元に土地を買い求めていることが記された奉納札などが残されており、これらの一連の棟札は社殿の造営のみならず村社としての氷川神社の変遷や当時の庶民の信仰を知ることができる貴重な史料である。本殿は一間社殿造の様式を持ち屋根は柿葺、総欅造りである。正面に向拝が配されその下には木階五級が付けられる。木階下には浜縁が三面に廻り身舎の四周には幅2尺の大床が付く。装飾は白木造りで、龍の丸彫をはじめ鮎や賢人の浮彫、籠彫が施されており社殿に華美な彫刻を施すという時代的特徴を良くあらわした建物である。棟札により建築年代のほか上平間村(現川崎市)の大工渡辺喜右衛門源棟暁が造営にあたり彫刻は渡辺徳次郎源棟績により行われたことが判る。このように本殿は江戸時代後期の時代的特徴をあらわし、一連の棟札は社殿の造営や神社の変遷を知るうえで貴重である。(世田谷区教育委員会)

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板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図
奉納絵図は画面の下方を六郷用水(次大夫堀)が流れ、中央やや右よりに氷川神社社殿その前面に幟と二基の鳥居、画面左横には永安寺本堂や庫裏、観音堂の姿が描かれている。さらに鳥居に向かって右横に堀で囲まれた草葺の農家と土蔵が描かれているが、これが大蔵村名主を勤めた安藤家の屋敷である。六郷用水流域には川で洗い物をする婦人の姿や、子供をつれた村人らが描かれのどかな田園風景が描写されている。絵図背面の木地には寄進社29人の名と明治7113日の年紀が墨書され幕末から明治時代初年頃の情景を描いたものと推定できる。長期間社殿に懸けられていたため彩色の剥落が甚だしいが、墨線は良く残りまた胡粉・群青・緑青・茶などの顔料が幾分認められ当初はかなり鮮やかであったことが窺える。絵図の作者はわからないが描写は専門の絵師の筆とは見えない。いわゆる民画風の素朴な筆法で描かれ、たくましい墨線が随所に残る明治時代初期の民間風俗画の典型を示す。大蔵村民が寄進したためもあって画題に豊かな現実感があり、昔日の大蔵本村一帯の地勢を窺わしめるものとしてもまた貴重な資料である。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景⑤ 品川道は永安寺裏の新坂を登ります、筏道はハケ下を直進します



・・・岡本

地名の岡本は長円寺の山号の岡本山(こうほんざん)からとって「おかもと」にしたとする説、鎌倉時代の武将木曽義仲に属していた岡本次郎成勝の出身地であることから付けられたとする説、丘陵起伏の多い地であることから岡本とつけられたとする説などがあります。(世田谷区)


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川の風景② 下ると仙川、ハケ下を流れます/清水橋

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仙川の清水橋を渡ります        庚申塔の祠を右折

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街道の風景⑥ なかなかいい道です。この先は東名沿いに岡本へ向かいます/大蔵運動公園下

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東名を渡り左折            下ると谷戸川の一の橋

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袂に庚申社が祀られています。
石碑に「当社の縁起は定かならざれども、新編武蔵風土記稿に庚申坂の名を記し、石像風化の状などより推して近郷屈指の古祠たる疑いなし」「祠前の道は耕地整理施行前には、東に庚申坂を登れば大山街道に通じ、西に庚申橋を渡れば府中方面に至って往来繁く、堂宇自ら道標として諸人頗る重宝せりと伝う」と記されています。

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川の風景③ 谷戸を流れる谷戸川、岡本は坂の多い街、面白そうです/四の橋

谷戸川

世田谷区を流れる河川。祖師大蔵駅周辺から南流し、砧公園を貫流、世田谷区岡本で丸子川に合流する。コンクリート護岸で整備されている。Wikipedia)

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長円寺境内/
岡本

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長円寺
岡本山安養院長円寺、新義真言宗智山派満願寺末、本尊は大日如来、木彫坐像。開山・開基は寺伝が失われてわからないが中興開基快誉は元文3(1738)1117日に寂している。現在の堂宇は昭和415月の建築になる。境内に門人らが建てた榎本金六の墓がある。金六は筑後(福岡県〉久留米藩の関流六伝藤田閑海の門人で和算の塾を聞き多くの門人を指導した。彼に学んだものはかなり広範囲で,横根村瀬田村用賀村喜多見村大蔵村経堂村奥沢村等々力村鎌田村等世田谷南西部9ケ村に及んでいる。法名春峰道悦信士弘化2(1845) 18日に没している。堂宇内に岡本村信者の寄附した元禄4629日銘の小梵鐘がある。高さ54cm直経34cm(せたがや社寺と史跡)



・・・瀬田

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街道の風景⑦ 大きな木とお地蔵さん、旧道の感じは残ります/瀬田 

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お地蔵さんの祠            環八を右折

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街道の風景⑧ 瀬田陸橋から西を望みます。右手が義眼寺経由、左手は行善寺経由の大山道です

大山街道善行寺坂Rの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22650910/

大山街道慈眼寺坂Rの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22627917/



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資料ファイル

六郷用水
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永安寺へ向かう品川道に次大夫堀跡が残ります/大蔵


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次大夫堀(六郷用水)の由来
慶長2年(1597)から15年もの歳月をかけて慶長16年(1611)に完成した次大夫堀は、多摩川の水を和泉村(現狛江市)で取り、野川・仙川などの河川と合流し多摩川沿いの武蔵国荏原郡世田谷領14ヶ村(和泉・猪方・岩戸・喜多見・大蔵・鎌田・岡本・瀬田・上野毛・下野毛・等々力・小山・上沼部・下沼部)を通り、下流の六郷領(現大田区)に注いでいました。次大夫堀は江戸の初め江戸近郊の開発を進めた徳川家康の命により、幕府の用水奉行小泉次大夫吉次の指揮・監督によって開削され、世田谷地方における最初の農業用灌漑用水路です。主に六郷領35ヶ村の水田開発を目的とした水利事業「六郷用水」と命名されましたが、婦女子の労働力に頼ったといわれる工事のため俗名「女堀」とも呼ばれていました。一方で世田谷地方の人々は小泉次大夫の功績を称えて六郷用水とは呼ばずに独自に「次大夫堀」と呼んでいました。

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全長23km、川崎側の煮二ヶ領用水との同時平行工事のため長期にわたる難工事となり、沿岸の農民の扶役も相当過重だったようです。しかし世田谷領、六郷領併せて49ヶ村は新田の造成等により大幅に村高が増加し大きな恩恵を受けました。このような由緒ある歴史を持ち玉川八景などにも謳われた美しい環境に流れていた次大夫堀も、戦後の急激な都市化によってその役割を終え、一部が「丸子川」と改称されて僅かに往時の面影を残すのみです。(世田谷区教育委員会)

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かつての六郷用水路(紫:六郷用水 青:多摩川)

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世田谷近辺の流路図
(紺:六郷用水 青:野川 赤:品川道・筏道 黄:登戸道 緑:大山道 橙:甲州街道・中原街道)

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次大夫堀流路図/説明板
(青:次大夫堀・野川・仙川・谷戸川 赤:品川道 橙・筏道 紫:登戸道 緑:大山道)

# by Twalking | 2017-08-06 12:14 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 落合夏祭盆踊大会   

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落合夏祭盆踊大会
パルテノン大通り/多摩センター(多摩市)

かちかち山に 月がでた
 みんななかよく はらづつみ
  にこにこ笑えば 心も晴れる
   ぽこぽん音頭だ ぽんぽこぽん
夏の宵、沢山の人で賑わってました、いいですね!

# by Twalking | 2017-08-05 23:39 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩センター駅南口   

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多磨センター駅南口/多摩市落合
バスターミナルから階上の南口へ
この経路はあまり使わないんですが
ちょっと気分転換で・・・。



# by Twalking | 2017-08-04 22:17 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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クスノキ
玉川神社/世田谷区等々力
社叢にひっそりと佇むクスノキ
力強いですね~・・・
世田谷区の名木に指定されています。

# by Twalking | 2017-08-03 19:11 | ○写真上達への道