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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 日光街道(7) 幸手宿~栗橋宿   

日時 2011.4.29(金)
天気 晴れ

ゴールデンウイークの初日は好天に恵まれました。

幸手宿は日光御成街道の合流地、筑波みちの追分ですし、
利根川の本流・権現堂川には権現堂河岸、西関宿河岸があって
廻船問屋が軒を連ね、陸と合わせて交通の要所として栄えました。
そんな面影が残る宿場をのんびりと訪ね歩きました。

初夏を思わせる日差に思わず木陰が恋しくなるくらいでしたので、
途中、チョット街道を離れて権現堂堤の桜並木や行幸湖畔の
遊歩道を歩きました。爽やかでほんと気持ちよかったですよぉ~!
みなさんも目に染みる青葉と川面を伝うそよ風を思い切り楽しんで
おられたように思います。

行きの高速道路はどこも大渋滞でしたので4号を選んで正解でした。
帰りはうそのようにスイスイと流れてましたが、ドラーバーのTさんと
添乗員のKさんのナイス判断にもう感謝、感謝です!
どうもありがとうございました。


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権現堂堤
戦国時代の天正4年(1576)に初めて築かれたとされています。
江戸時代は「権現堂川通り水除堤」(みずよけつつみ)「御府内御囲堤」
(ごふないおかこいつつみ)といわれたこともあり、言葉に示されるように
権現堂川の大水から江戸を守っている重要な堤でした。

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行幸湖(権現堂調整池・権現堂川)
明治時代の初め、高須賀~外国府間(そとごうま)までの新しい堤防工
事が行なわれた。完成後に明治天皇が閲覧されこれを祈念して「行幸
堤」の名を賜れ「行幸堤之碑」が建てられました。

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小右衛門・大平橋
大正6年に中川改修工事が始まり、権現堂川は大正15年に上流の栗
橋流頭が、昭和2年に下流の西関宿地先が締め切られて利根川から
切り離された。


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記録
人数 30名
歩数 20500歩
時間 5時間

行程
上野8:30⇒道の駅・庄和(高速渋滞・4号選択)9:45⇒幸手駅10:25
幸手駅10:30・・・稲荷神社(一色氏)・・・旅館・あさよろず・・・
本陣・問屋場跡(ポケット公園・S)10:45・・・田宮雷電神社(田宮の庄)・・・
聖福寺・勅使門・・・正福寺(義賑窮餓之碑・道しるべ)11:45・・・一里塚跡・・・
熊野神社・・・権現堂堤(権現堂河岸・巡礼の碑)・・・かつ太郎12:30(昼食)
かつ太郎13:20・・・外国府間の道しるべ・・・外国府間の一里塚・・・
雷電神社13:50・・・小右衛門の一里塚・・・大平橋(行幸湖・WC)・・・
川通神社・・・会津稲荷・・・焙烙地蔵15:20・・・顕正寺・・・静御前の墓・・・
栗橋駅15:50(WC・S)16:10⇒加須IC⇒川口SA17:05⇒上野17:45

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資料ファイル
《一色館跡と陣屋稲荷》(別名一色稲荷)
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幸手駅付近一帯に城山又は陣屋という地名が残っていま
すが、ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれている。
一色直朝は天元年間(1532~55)に足利晴氏、義氏にしたがい田宮庄(幸
手庄)に住したという。直朝の子義直も幸手庄に父とともに住んだが、小田原
の北条没落後は徳川家康に仕え幸手庄から5160万石の領地を与えられる。
(幸手市教育委員会)


《田宮雷電神社》
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中世の幸手は田宮庄または田宮町といいその中心がこの
神社で、日本武尊の伝説も残されている幸手で最も古い神社の一つです。
田の中に金色の雷神が落ちこれを祀り田の中の宮、田宮としました。
(幸手市教育委員会)


《菩提山 東皐(とうこう)院 聖福寺》 
およそ600年前、応永年間(1394から1427)に浄土宗として創建。
総本山知恩院末、開基は不明ですが開山は安阿聖龍上人(あんあしょうり
ゅう)とされています。
日光参内の折、御殿所として将軍休憩所の役割を果たしました。

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【勅使門】
山門は唐破風(からはふ)四脚門、将軍と例幣使以外は通行出来なったと
されています。

【芭蕉句碑】
幸手を行かば栗橋の関    芭蕉
松杉をはさみ揃ゆる寺の門  曾良

奥の細道の旅を終えた芭蕉は4年後の元禄6年9月13日、江戸深川芭蕉
庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思い起こし、同行した弟子の曾良
とならんで上の句をよんだそうです。日光街道四百年を迎え、山門の改修
工事がなりこの句碑を建立とありました。

【昼食メニュー】(ダブルクリックで大きくなります)

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《熊野神社》
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“権現堂”の地名は新編武蔵風土記稿に「村内に熊野・若宮・白山の権現
を合祀せし旧社あれば、この村名起これり」と記されいますが、この3つの
神社を一緒にまつった古い神社あったことに由るそうです。

by Twalking | 2011-04-30 11:12 | 日光街道(完)

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