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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり新宿~神楽坂/大久保通り    

今日は年に一度のOB会があるんですが、
なんか、このところ気持ちが沈んで冴えない感じなんです。
まぁ~、こういうことってままありますよね。。
『どうせなら、歩きながら悩んだら・・・』と云いますので、
早めに出て、新宿界隈を神楽坂までぶらりと歩いてみました。

懐かしいですね、新宿。
夜しか記憶がありませんが・・・、知らない所一杯ありました。
歩きまわっていたら、“悩み?”どこかへいっちゃいましたぁ~。。
よかった!、これなら気持ちよく皆さんにお会いできま~す。。


・・・百人町

内藤清成が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことから名付けられた。百人組と呼ばれた江戸の街の警護を担当する鉄砲隊は、その鉄砲術が江戸でも1、2を争うほどの腕前であったという。新大久保駅前にある皆中稲荷(かいちゅういなり)はそれにちなんでいる。江戸時代、鉄砲隊が居住し副業としてつつじの栽培が盛んであった。

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花園神社/新宿区新宿5丁目

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威徳稲荷神社                 大鳥居

花園神社(はなぞのじんじゃ)
東京都新宿区にある神社である。旧社格は郷社。倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の3柱の神を祀る。新宿の街の中心にあり、新宿総鎮守として江戸時代に内藤新宿が開かれて以来の、街の守り神として祀られている。また敷地内では各種劇団による催し物などが定期的に開かれ、新宿の街の文化の一翼も担っている事でも知られている。創建の由緒は不明であるが、徳川家康が江戸に入った1590年にはすで存在しており、大和国吉野山よりの勧請と伝えられている[1]。その後、当地に内藤新宿が開かれるとその鎮守として祭られるようになった。元は現在地よりも約250メートル南にあったが、寛政年間、その地を朝倉筑後守が拝領しその下屋敷の敷地内となって参拝ができなくなった。氏子がその旨を幕府に訴えて、尾張藩下屋敷の庭の一部である現在地を拝領し、そこに遷座した。そこは多くの花が咲き乱れていた花園の跡であることから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられる。また、真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも、地名から「四谷追分稲荷」とも呼ばれた。(Wikipedia)

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四季の路                      ゴールデン街/歌舞伎町1丁目

新宿ゴールデン街
東京都新宿区歌舞伎町一丁目にある飲食店街。花園神社と隣接し、第二次世界大戦後に建てられた木造長屋建ての店舗が狭い路地をはさんでマッチ箱のように並んでいる。作家、ジャーナリストが多く集まる街としても知られる。もともとは新宿駅東口にあった闇市(和田組マーケット)が起こりである。1950年ごろ東京都が駅前の闇市を撤去した際の替地として当時都電沿いの土地であった場所に移転してきた(都電の跡が現在、四季の道という遊歩道)。当時は繁華街から離れた場所であり、ほとんどの店が飲食店の名目で赤線まがいの営業をしていた。風俗営業法の許可を取らないもぐり営業のため、俗称で青線と呼ばれた。歌舞伎町付近にはこれ以外にも青線が集まっており、都内でも有数の売春街であった。売春防止法施行(1958年)の後は飲み屋が密集する「ゴールデン街」と名を変えた。この街の店は、文壇バー、オカマバー、ボッタクリバーの3つに分類できるとも言われた。店内は3坪または4.5坪と狭く、カウンターに数人並ぶと満席になる。(Wikipedia)


・・・大久保

かつてはこの地に川が流れて相対的に周りより大きな低地(窪地)であったことから、大久保と呼ばれた。江戸時代までは農村であった。明治時代にはつつじの景勝地として知られ、近郊から多くの人が訪れたという。

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稲荷鬼王神社/歌舞伎町2丁目

稲荷鬼王神社

JR新大久保駅の南東約400mに鎮座する。全国唯一の鬼の福授けの社として信仰を集め、「撫で守り」の授与で有名である。皮膚病・その他病気平癒に御利益がある。境内の三島神社に祀られている恵比寿神は新宿山ノ手七福神の一つである。天保2年(1831)、大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となった。熊野の鬼王権現は現存していないため「鬼王」の名を持つ日本唯一の神社となっている。また、大祭で担がれる宮御輿は、鬼面が彫られた珍しいものである。祭神は、稲荷神の宇迦之御魂神、鬼王権現の月夜見命・大物主命・天手力男命。また、大久保村が祀っていた神々(火産霊神など)も明治時代に合祀されている。神社の名前から誤解されやすいが「鬼」を祭神としているわけではない。他、平将門の幼名が「外都鬼王」「鬼王丸」といったことから名前を取ったという伝承もある。

ぶらり新宿~神楽坂/大久保通り _d0183387_15140721.jpg鬼王神社の水鉢
文政年間(1818-1829)の頃制作されたもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保年間(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。」とある。この水鉢は、高さ1m余、安山岩でできている。(新宿区教育委員会)

大祓(おおはらえ)
6月と12月の晦日(新暦では630日と1231日)に行われる除災行事である。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。夏越の祓では多くの神社で「
茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。(Wikipedia


ぶらり新宿~神楽坂/大久保通り _d0183387_15281791.jpg島崎藤村旧居跡/歌舞伎町2丁目4番

詩人・小説家の島崎藤村(18721943)は馬込(長野県)の生まれ。本名を春樹といった。明治学院を卒業後、明治26年(1893)「文学界」の創刊に参加。明治30年の「若菜集」にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。明治38年(1905429日小諸義塾を退職した藤村は家族とともに上京し、翌39102日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保405番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。この頃から小説に転向した藤村は、ここで長編社会小説「破戒」を完成し作家として名声を不動のものとした。しかし、一方で転居そうそう三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった。(新宿区教委区委員会)


ぶらり新宿~神楽坂/大久保通り _d0183387_15513741.jpg椎木坂 
かつて尾張藩富山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎木があり、この坂道を覆っていたため椎木坂の名がついた。また、古くはこの辺りが砂利取場で東西に上るこの坂があったことから向坂とも呼ばれた。(新撰東京名所図会)/標柱

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戸山公園・大久保地区

戸山公園/新宿区
敷地は明治通りを挟んで大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に完全に分かれている。当地一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷であった。2代藩主徳川光友により回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山・標高44.6mと山手線内では一番高い地点)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられた。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園であった。その後は数度の火災や水害により荒廃したが尾張藩の財政難などもあり復興されなかった。明治維新後後、戸山山荘は明治政府に明け渡される。跡地には明治6年に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後、軍事施設はすべて廃止された。昭和24年、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、昭和29年には敷地の一部を公園として整備し「戸山公園」として開園した。(Wikipedia



・・・牛込

701年(大宝元年)大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧(ぎゅうまき)」という牧場が設けられ、「乳牛院」という飼育舎がこの地に建てられたという。古代の馬牧が今日東京都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているところから「牛込」がこの牛牧に比定された。確実な史料は伝わっていないが、伝承によれば、現在の光照寺(新宿区袋町)を中心とした一帯に牛込城があったとされる。


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幸国寺/原町
江戸十大祖師のひとつ。加藤清正公お手植えと伝えられる新宿区天然記念物の銀杏がある。(樹齢推定500)

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幸国寺山門
日蓮宗幸国寺の山門で、向かって右側脇に番所が併設された形式等から江戸時代後期の建築と推定される。形式は棟門(腕木門)で、切妻造・桟瓦葺である。背面には控柱が建ち、主柱と貫でつながれており、番所袖壁が付属する全体的に雄大・素朴な造りであり、装飾的な要素はほとんど見られないが、番所には繊細な彫物による装飾がみられる。この山門は幕末から明治時代に檀家の三郎兵衛の寄付を得て移築されており、長嶋家では大名屋敷の門を移築したと伝えられている。かつての幸国寺の門前町はその後原町となり、現在も町名として残っているが、この山門は門前町を含めた当時の面影を伝える数少ない建築であり、また区内でも稀少な江戸時代の建築物として需要である。(新宿区教育委員会)


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大久保通り              牛込柳町駅

若松町・河田町
地名の若松町の「若松」は、江戸時代将軍家へこの地から正月用の若松を献上していた事によるもの。河田町の「河田」は田圃の事。ここでの「河」は湿地帯の事を指す。古来この辺は川田窪とも言った。かつて河田町は市谷河田町という町名だった。



・・・神楽坂

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神楽坂上


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本多横丁              
江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった。



ぶらり新宿~神楽坂/大久保通り _d0183387_17461485.jpg軽子坂
軽子とは軽籠持(かるこもち)の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり船荷を軽籠(縄で編んだもの)に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことから名がついた。


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外濠の夜景



by Twalking | 2012-06-29 21:17 | 東京散歩(新規)

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