無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川リバーサイド01 柳橋~駒形橋   

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神田川・隅田川合流地
春の夜や 女見返る 柳橋 正岡子規  


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柳橋/神田川                  浅草橋/神田川


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石塚稲荷神社/柳橋1       榊神社(浅草文庫跡碑)/柳橋2    



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蔵前橋/隅田川


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駒形橋/隅田川
君はいま 駒形あたり ほととぎす (高尾太夫の句とされる) 


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資料ファイル
《柳橋》
神田川が隅田川にそそぐところ架設されたのではじめは「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の蔵があったことにちなみ矢の蔵橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は正徳(1711~15)頃からの呼称らしい。橋名の由来には①柳原堤の末にあるので②矢之城を柳の字に書きかえる③橋畔の柳にちなむの諸説があって真説は不明。③の説は単純だがはからずも本当の由来かもしれない。創架は「文政町方書上」によると、元禄11年(1698)で同年11月18日に起工し12月26日竣工した。鉄橋に改架は明治28年(1895)。現在の橋は昭和4年(1929)完成である。江戸時代橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降柳橋は花柳界として名高い。 春の夜や 女見返る 柳橋 正岡子規がこの句を残したのをはじめ柳橋は文人にとりあげられた。(台東区)

《浅草蔵前》
蔵前という町名が最初に付いたのは浅草御蔵前片町で元和7年(1621)のことである。幕府の米蔵があったことから付けられた。この米蔵は幕府の直轄領地から送られた米を収納するため、鳥越の丘をけずりその土砂で隅田川河岸を整地して元和元年の頃造られた。当時浅草御蔵などと呼ばれ67棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(3万7千5百トン)の米を収納するこができた。この米は幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であった。(下町まちしるべ)

《浅草御蔵跡》(蔵前橋西詰)
この区域は今の蔵前橋を中心に柳橋2丁目4番から厩橋手前に至る一帯で、敷地約12万平方メートル、弘化年間(1844~48)には67棟、356戸あったといわれています。蔵前の8筋の掘割は大正初期までありましたが、護岸工事のため埋められました。

《浅草文庫跡碑》
浅草文庫は、明治7年(1874)7月に創設された官立の図書館である。翌明治8年(1875)に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。明治14年(1881)5月に閉鎖。跡地は翌明治15年(1882)に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正13年(1924)、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。昭和3年(1928)に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。高さ約4メートルの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和15年(1940)11月建立された。(台東区)

《駒形橋》
駒形(こまかた)の名は浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人びとによればコマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えている。ここは古来交通の要地で「駒形の渡し」のあったところである。江戸の巷説に有名な 君はいま 駒形あたり ほととぎす の句は、文芸・美術などの上で駒形堂とともにこの辺りの雰囲気を伝えるものである。関東大震災の後、復興事業の一環としてこの地に優美なアーチ橋が設計され昭和2年(1927)に完成した。歌人正岡子規の和歌にも 浅草の 林もわずか暮れそめて 三日月低し 駒形の上に というのがあり、この辺りの雰囲気をつたえるものである。(東京都)

by Twalking | 2012-07-21 23:53 | リバーサイドウオーク(新規)

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