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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり上野-寛永寺   

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東叡山寛永寺


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上野東照宮


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東叡山寛永寺開山堂(両大師)


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資料ファイル

ぶらり上野-寛永寺_d0183387_15475959.jpg《寛永寺》
東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。
江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は天海を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院である。徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えた。当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信枚、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。秀忠の隠居後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立された。この年が寛永寺の創立年とされている。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したものの、寺の規模は大幅に縮小した。

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江戸名所図会 東叡山寛永寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

〈旧伽藍〉
松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたりの道をかつて「広小路」と称したが、これは将軍が寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟に参詣するための参道であり、防火の意味で道幅を広げていたため、広小路と呼ばれた。上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と称する橋があって寺の正面入口となっており、その先に総門にあたる「黒門」があった。上野公園内中央を通り、大噴水、東京国立博物館方面へ向かう道がかつての参道であり、文殊楼、その先に法華堂と常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂、本坊などがあった。その周囲には清水観音堂(現存)、五重塔(現存)、東照宮(現存)、不忍池の中島に建つ弁天堂(現存するが20世紀の再建)などが建ち、また、36か院にのぼる子院があった。天海は江戸と寛永寺との関係を、京都と比叡山の関係になぞらえて構想していた。すなわち、根本中堂、法華堂、常行堂などは比叡山延暦寺にも同名の建物があり、清水観音堂は京都の清水寺になぞらえたもの(傾斜地に建つ建築様式も類似する)、不忍池と中島の弁天堂は、琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺の弁才天にならったものである。(Wikipedia)



ぶらり上野-寛永寺_d0183387_15494521.jpg《徳川家綱霊廟勅額門》
創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた[2]。また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている。(Wikipedia)



ぶらり上野-寛永寺_d0183387_1771228.jpg《上野東照宮》
東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。
寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したものである。(Wikipedia)
《銅灯篭》
全48基。国指定重要文化財。寛永慶安年間に諸大名が奉納。唐門両側6基は徳川御三家(紀伊・水戸・尾張)より寄進されたものです。家康公の13回忌に藤堂高虎が奉納した1基が最も古く、形も南円堂形と特徴的です。(上野東照宮HP)

《開山堂》
東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正をお祀りしているお堂です。天海僧正が尊崇(そんすう)していた慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)大僧正もお祀りしているところから、一般に〝両大師〟と呼ばれ、庶民に信仰されてきました。初建は正保元年(1644)ですが、現在のお堂は平成五年に再建されたものです。(寛永寺HP)

by Twalking | 2012-08-04 17:15 | 東京散歩(新規)

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