無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(9) 大磯宿~国府津 01 下見・大磯   

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旧跡鴫立澤/鴫立庵入口


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鴫立庵門の扁額「鴫立澤」           俳諧道場・秋暮亭

京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として、現在第二十二世・鍵和田庵主へと続いています。



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延台寺
                   
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本堂                         虎御石が安置されている法虎庵曽我堂



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藤村夫妻の眠る寺/地福寺
境内の梅林は藤村が非常に気に入っていた場所で、生前自らの墓所として希望していました。今では梅の名所として知られ、樹齢100年~200年の古木、約20本に囲まれて藤村夫妻の墓碑が建てられています。(旧島崎藤村邸パンフ)

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本堂                        島崎藤村夫妻の墓


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資料ファイル

鴫立庵(しぎたつあん)
〈鴫立庵の創設〉
今日に古跡として標識の立てられている鴫立沢は、昔の沢らしい面影が残り、しかも景色の最もすぐれている地点を、西行法師を記念する為に、後人が選んで、それと名づけたものです。それは寛文4年(1664年)(万治元年ともいう)の頃のことで、今を去る三百年余の昔に当たります。当時小田原の崇雪という人が、石仏の五智如来像をこの地に運んで、草庵を結び、始めて鴫立沢の標石を建てたといわれます。その場所が、今日の鴫立庵であり、五智如来の石像(後世修復せしか)も、鴫立沢の標石も、庭内にそのまま残っています。五智如来とは、釈迦、阿弥陀、大日、薬師、宝勝(宝生)の五仏をいい、その像は庵の後の丘の上に、東面して並んでいますが、最初はこれを本尊として、西行寺などを作るのが目的だったといわれています。

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五智如来の石像             堂内には等身大お西行法師の座像を安置/円位堂

d0183387_1530332.jpg〈法虎堂〉
堂の内には有髪僧体の虎御前十九歳の姿を写した木像が安置されています。三千風在庵の頃に、堂も木像も江戸新吉原から寄進されたと伝えられています。これも元禄そのままの遺物であります。



d0183387_14521758.jpg「鴫立澤標石」(複製)
表・「鴫立澤」  
裏・「著盡湘南清絶地」
(ああ、しょうなんせいぜつち)
江戸時代初期の1664年。小田原の崇雪が西行法師の詠んだ歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」に因み、昔の沢らしい面影を残す現在の鴫立庵の地を選んで「鴫立沢」と名付け標石を建てました。崇雪にとって大磯の「鴫立沢」附近の景色は、中国・湘江の南方一帯の“湘南”の美しい景色に似てなんとも美しい場所であったことから、「著盡湘南清絶地」と刻んだといわれています。

西行法師
西行法師がこのあたりの海岸を吟遊して、「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」という名歌を残したことは、史上にも名高い語り草となっています。その歌によまれた鴫の立つ沢が、果してこの附近の地名であったかどうかは、学問的に明らかではありませんが、そのような言い伝えは、すでに古く足利時代からあって、西行が大磯の鴫立沢なる場所で、右の歌を詠じたことは、動かし難い口碑になっています。

大淀三千風
その後三十年程たって、元禄8年(1695年)の頃、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風が、庵を再興して入庵しました。これが鴫立庵第一世の庵主であります。その以前にも崇雪その他の人々が庵に住んでいたようですが、始めて庵室らしい形となったのは、三千風の苦心経営によるもので、三千風が第一世として庵史に記録されています。その後は鳥酔・白雄・葛三その他有名な俳諧師が跡を継ぎ、今日の二十二世現庵主まで続いているのであります。


d0183387_13543066.jpg〈こよろぎの浜〉
門前を流れる谷川は、すぐ右折して沢となり、沢の水はやがて渚近い砂地に吸い込まれて消えますが、このあたりの沢が鴫立沢で、海を控えた砂浜は「こよろぎの浜」と呼ばれています。『万葉集』に「相模路のよろぎの浜のまなごなす児らはかなしく思はるるかも」と歌われ、昔から景色のよい海岸として知られていました。今も防風林の松原や、広々とした砂浜が、美しい海岸風景を形作り、晴れた日には沖に大島が見えます。
(大磯・鴫立庵パンフレット)


d0183387_15492143.jpg湘南発祥の地 大磯の由来
崇雪という人が寛文4年(1664)頃、西行法師の詠んだ名歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」を慕って草庵をここに結び標石をたて東海道を往還する旅人に鴫立澤を示し、「著盡湘南清絶地」
と景勝を讃えて刻んだのがはじめです。中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南と云い、大磯がこの地と似ているところから湘南と呼ばれるようになりました。(案内板)


延台寺
『曽我物語』の虎御前縁の寺として知られ、曾我祐成と曾我時致兄弟を追善するため、虎御前が法虎庵・曽我堂を建て、跡地に慶長4年(1599年)、身延山19世法主法雲院日道により、開かれた。

〈虎御石〉
安元元年(1175)大磯の山下長者に一人の娘が生まれた。長者は四十歳を過ぎても子宝に恵まれず虎池弁財天に願をかけて授かったので虎と名付けた。この時弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石と名付けて大切におまつりしていた。不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。虎女も舞の名手として広く天下に知られるほどに成長し、いつか曽我兄弟の兄の十郎と恋仲となった。十郎が虎女の家で敵方の刺客に襲われた時、この石のおかげで命がたすかったので一名身替りの石ともいう。兄弟は富士の裾野で父の敵、工藤祐経を討ち本懐を遂げて死んだ。虎女は兄弟の最後の地をたずね「露とのみ消えにしあとを来てみれば尾花がすえに秋風ぞ吹く」とよんで庵を結んで兄弟の菩提を弔ったのが当山である。(説明版)


d0183387_19182439.jpg〈虎御前祈願の龍神〉
虎御前が十郎祐成との恋の成就を祈願した龍神と伝えられている。元来は山下長者の屋敷内にまつられていたものを尼となった虎御前がこの地に移したとつたえられる。(案内板)


d0183387_19191945.jpg〈虎御前供養塔〉
当山開山法雲院日道聖人が鎌倉の昔に当山の基を開いた虎御前の菩提をとむらうため建てた供養塔と伝えられています。(案内板)


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「余にふさわしき閑居なり」 旧島崎藤村邸~靜の草屋~
藤村は明治5年(1872)2月17日筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の木曽郡山口村神坂区馬籠)の本陣の家に生まれ本名を春樹という。昭和16年(1941)1月14日大磯のドンドン焼きを見に来て珍しい郷土行事であるのをよろこばれ、これを左義長と言い初められた。大磯の温暖な地をこよなく愛し、その春大磯町東小磯のこの地に住まわれ、「東方の門」の筆を起こしたのであった。藤村は「一葉舟」「夏草」などの詩集を刊行して日本近代詩史に不滅の名を刻み、他に文明批評随筆、旅行児童文学など数多くを残している。昭和18年(1943)8月21日、静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中、頭痛を訴え急に倒れた。8月22日午前零時三十五分「涼しい風だね」という言葉を残して木曽の生んだ大文豪は行年71歳でw永眠され、本人の希望により大磯地福寺に葬られた。(説明版)


d0183387_23472032.jpg新島襄終焉の地
明治の先覚的教育者新島襄は1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。その当時は近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り苦学10年、キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して1875年(明治8年)11月29日、京都に同志社英語学校を設立した。その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地・百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。(説明版)

大磯宿
享和3年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三か所に本陣があった。尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれていた。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの現在の大内館(旅館)の場所にあった。(案内板)

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小嶋本陣旧跡                  尾上本陣跡

by Twalking | 2012-12-23 20:12 | 東海道(完)

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