無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川リバーサイド03 新大橋~佃島   

d0183387_1332131.jpg

新大橋 /新大橋通り
最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。(Wikipedia)


d0183387_13342041.jpg

清洲橋/清洲橋通り
関東大震災の復興計画で新しい幹線道路がこの地を通ることになり架橋がつくられました(昭和3年3月)。ライン川に架かるケルンの吊橋をモデルとして曲線的な優美さを表現しました。橋の名は当時の深川区清澄と日本橋区中洲町を結び「清洲橋」と名付けられました。(案内板)


d0183387_13485243.jpg

隅田川大橋 /水天宮通り
隅田川大橋は首都高速道路(9号線)と都道47号線が重なった二段構造の橋となっており、上段部分が首都高速道路、下段部分がいわゆる“隅田川大橋”です。(昭和54年・1979完成)また地下には東京地下鉄半蔵門線が通っています。


d0183387_13501355.jpg

永代橋/永代通り
永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋。「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。(Wikipedia)



d0183387_13453251.jpg

中央大橋/八重洲通り
1993年に佃大橋と永代橋との間に新しく架けられた橋です。高層ビル群が立ち並ぶ近代的な街並みとして生まれ変わった佃地区と都心を結ぶ橋として計画されました。形式は近代的な街並みとマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすようタワーを配した斜張橋となっています。隅田川とセーヌ川の友好河川提携を記念して、パリ市の協力によりフランスの彫刻家オシップ・サッキンが制作した「メッセンジャー」像が設置されています。(説明版)



d0183387_13432194.jpg

佃橋/晴海通り
佃大橋は隅田川最後の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流に平行している永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋である。当時佃島と月島を隔てていた佃川は、佃大橋の取付道路建設のために埋め立てられ、島であった佃島は地続きに、同時に佃川に架かっていた佃橋は廃橋となった。(Wikipedia)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
資料ファイル

《隅田川の呼び名》
本来は荒川ですが、荒川放水路が荒川となって以来荒川下流の支流の部分だけの名称になっています。住田川、隅田川、角田川とも書き、澄江・墨水ともいいます。さらに別称には須田川、あすだ川、染田川、大川、両国川、みやこ川、浅草川の名もあります。一つの川にこれほど多くの名称を持っていることはいかに深く人びとの生活に溶け込んでいたかを示しています。(案内板)


d0183387_1523281.jpg《船員教育発祥の地/永代橋橋詰》
明治維新後、わが国の海運界は国際的にみて立ち遅れが目立っていました。1875年大久保利通の命令により岩崎弥太郎は「三菱商船学校」を設立し、これがのち東京海洋大学(旧東京商船大学)となりました。当初この学校は隅田川に成妙丸を繋留して校舎とし、生徒全員を船に起居させて近代的船員教育を完成しました。(説明版)



d0183387_15232882.jpg《新川の碑/新川1丁目》
新川は現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐しこの碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約590m、川巾は11~16mと狭い所と広い所があり西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。この新川は豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へ運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため万3年(1660)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えたと伝えられています。当時この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸に立ち並ぶ酒蔵の風景は数多くのさし絵や浮世絵にも描かれました。昭和23年新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため昭和28年新川史跡保存会によって「新川の碑」が建立されました。(中央区教育委員会)



d0183387_1523596.jpgd0183387_15241483.jpg
《佃島渡船跡/佃1丁目》
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲(よりす)である。徳川初代将軍家康の時摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師を招いて住まわせたところという。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通っていたのが佃の渡しである。目地9年7月には渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出ている。大正15年東京市の運営に移り昭和2年3月無賃の曳舟渡船となった。この石碑はこの時建てられたものである。昭和30年8月佃大橋の完成によって廃止された。(中央区教育委員会)


d0183387_1774043.jpgd0183387_1715244.jpg
《石川島人速寄場/佃公園》
1790年「鬼の平蔵」として知られる長谷川平蔵の建策により石川島後に人速寄場をつくり、無宿人等を収容して職業指導をおこないました。明治中期以降は石川島造船所(現石川島播磨重工業)の敷地になりましたが工場は1979年に閉鎖され、その跡地は「大川端リバーシティー」の高層ビル群に生まれ変わりました。(説明版)

d0183387_15332842.jpgd0183387_15335531.jpg
《住吉神社の水盤舎(おみずや)・陶製扁額》
住吉神社は江戸初期に摂津西成郡(大阪府)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は創建以来佃島の鎮守のみならず水運関係の人々から厚い信仰を受けて賑わいました。水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。っ明治2年(1869)に再建され同44年に改築されました。欄間は明治2年再建時のものを使ったと推定されます。正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった廻船や網をうつ小舟、背面には磯の風景、また内側には潮干狩など佃島の風景が彫られています。石造り水盤には「天保12年(18419白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。正面鳥居の扁額は珍しい陶製で、白地に呉須で扁字や雲文を染め付けています。明治15年(1882)6月に制作され、額字の筆者は有栖宮幟仁(たかひと)親王です。(中央区教育委員会)


d0183387_15345521.jpgd0183387_1535617.jpg
《鐵砲洲稲荷神社》
鐵砲洲稲荷神社は江戸湊の入口に鎮座する神社として地域の人々の信仰を集めてきまいた。神社は寛永元年(1624)頃稲荷橋南東に遷りましたが明治元年現在地に移転し今日に至っています。関東大震災により被害を受けた境内は昭和10年(1935)より復興整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神神輿庫が設けられています。また西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚がありそこを富士信仰の場としていました。昔の富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なももでした。(中央区教育委員会)

by Twalking | 2013-03-02 14:36 | リバーサイドウオーク(新規)

<< 日本橋川02 豊海橋付近 ○Bird >>