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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 甲州街道(17)蔦木宿~金沢宿   

日時 2013.3.27(水)
天気 晴れ/曇り

はれ後くもりの予報でしたが新宿は小雨模様、アレレ~。。。
でも、中央道から南アルプス、八ヶ岳などうっすらと見え、
こらなら大丈夫と一安心しました。

何せ今日は最後の“峠越え”。
小仏・笹子程ではないにしても結構タフなコースです。
蔦木宿、瀬沢、原の茶屋と早春の里山を味わいながら
のんびりと、でもしっかりとみなさん歩かれてました。

やはりこれまで歩かれてこられた成果でしょうか、
いや、実に素晴らしいことだと思います。
みなさんお疲れさまでした!

さぁ、次回はいよいよエンディングの下諏訪です。
がんばりましょう!


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三光寺山門

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本堂                         代表して鐘ついていただきましたぁ~


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いざ、富士見峠へ/神代・諸水橋付近

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瀬沢の上りへ/机                 御射山神戸へ下ります/原の茶屋先


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この先から金沢宿へ下ります/ 御射山神戸一里塚  
ケヤキは樹齢390年余。甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、とても貴重な存在です(富士見市) 


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記録
人数 22名
歩数 23200歩
時間 6時間

行程
新宿8:00⇒談合坂(WC)8:55⇒小淵沢IC9:55・・・道の駅蔦木宿(WC)10:10⇒
新国界橋(S)10:30・・・高座石・・・真福寺・・・応安の古・・・三光寺(小休)・・・
蔦木宿・本陣・・・川除碑・・・平岡一里塚・・・瀬沢追分・・・瀬沢合戦古戦場跡12:00⇒
道の駅(昼食)13:45⇒古戦場跡(S)14:00・・・尾片瀬神社・・・とちのき防風林・・・
塚平の一里塚・・・透関の馬頭観音・・・富士見公園15:00(WC)15:15・・・原の茶屋・・・
御射山神戸・・・御射山神戸一里塚15:55・・・泉長寺・・・金沢コミュニティー16:35
(S)16:45⇒諏訪南IC16:55⇒八ヶ岳PA(WC)17:25⇒石川PA(WC)⇒新宿19:25


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資料ファイル


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本陣表門                      本陣跡碑
甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革
蔦木宿は江戸幕府の宿駅制度のよって、慶長十六年(1611)ころ甲州道中第四十三番目の宿駅として設置された。街は街道に面して屋敷割をし、本陣・問屋などが位置づけられた。本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。この宿駅は、元禄十五年(1702)、延享三年(1746)、明和八年(1771)、寛政六年(1794)、文化六年(1809)、元治元年(1864)の計六回の大火にあい罹災戸数も知られているが本陣の類焼についての詳細は不明である。この宿場街は、明治維新による宿駅制度廃止と、さらに、鉄道がこの宿駅から離れたところに敷設されたため次第にさびれていった。本陣も主屋は、明治四十年(1907)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和五十年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(1846)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治三十八年(1905)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(1990)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(1992)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。(富士見市教育委員会)

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南の桝形道趾             北の桝形道趾


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川除古木
釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、宿の上の入口付近につくられた信玄堤とよばれる堤防がある。川除古木は、この信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株である。明治三十一年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向おうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれる。キササゲは胸高幹囲(きょうこうかんい)215センチ、主幹は地上3メートルより上は枯れ、分かれた枝が張っている。キササゲは中国原産で暖地に植栽され、また河岸などに逸出している。果実が肝臓病の薬に利用される。富士見町内では釜無河原に見られる。サイカチの一株は胸高幹囲335センチ、主幹は地上4メートルで大枝二本に分かれ、樹高16メートルに達する。サイカチは本州・四国・九州の温帯および暖帯に分布し、通常、樹高10~15メートル、胸高直径30~40センチに育つ。富士見町内では釜無および入笠地域に認められるが、株数は少ない。果実は洗濯に、葉は食用に、根皮および木の刺は薬用に、花は薬湯に利用される。ケヤキは国内の温帯及び暖帯に広く分布し、他の樹木に比べて大きく育って目立つので、けやけき木という意味からケヤキと名づけられた。また地方名「ツキ」は強木の略であり、防風のため植えられている例がある。(説明版)



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瀬沢古戦場跡                   吉見屋/瀬沢
瀬沢合戦跡
瀬沢合戦とは「甲陽軍艦」によれば、次のような合戦のことです。
天文十一年(1542)二月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武田晴信(信玄)を攻めようと、甲信境の瀬沢に陣取りました。これを察知していた晴信はひそかに軍勢を発し、三月九日朝、信濃勢の不意をつき、武田軍は大勝したが、味方にも多数の死傷者を出しました。(富士見市)

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とちのき風除林 
とちのきには、古くから樋口姓の者が住んでいた。しかし村は風当たりが強く、五穀は実らず、全戸が今の若宮地籍へ移り住み無人家の地となった。元和六年(1620)、樋口氏が木之間から今の塚平の地へ移住した。ここは周りが草原だったので、神戸から草刈に来た人達や甲州道中の通行人が時々失火して火災にあった。それで、やや南の方の今の地へ移った。このころ片瀬から小林氏が来て住むようになった。やはり北風は強く、内風除けを作ったが、なお稲はよく実らなかった。寛政年間(1789~1800)に村では高島藩へ願い出て、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。この風除けは甲州街道に直交し、かつ東西に100メートルずれるように設けられている。東側は村の北西、ソリの道地籍の崖縁に沿う延長160メートルの間に植えられている。樹高20メートル余り、いま胸高幹囲140~240センチのもの35本を数える。西側は延長45~50メートルに上端の幅10メートル余、高さ2メートル余の土盛りをして植えられ、いま胸高幹囲160~250センチのもの14本を数える。風除けと呼ばれる林は藩の許可を得て設けられるもので、富士見町内では30余りが数えられる。現存するものの中でこの風除林は、往時からの姿を伝える顕著なものである。(富士見市教育委員会)

by Twalking | 2013-03-28 16:53 | 甲州街道

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