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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(13)元箱根宿~三島宿 01 下見 元箱根   

下見日時 2013.4.25(水)
天気 曇り/雨

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雨の下見となりました/国指定史跡・旧街道杉並木(吾妻地区)


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手形、お持ちですかぁ~・・・・/国指定史跡・箱根関所跡


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前方の箱根峠(中央鞍部)へ向かいます/箱根宿


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国道の下をくぐります              この上で国道に合流です


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箱根峠(標高864m)


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資料ファイル

箱根関所
狭義においては江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国足柄下郡箱根の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の箱根関所を指すが、広義における「箱根関」は江戸時代以前に箱根山山麓に置かれた関所及び江戸幕府が東海道と並行して走る脇往還に設置した関所も含んでいる。箱根に関所が設置された始期については定かではないが、律令期には既に箱根峠を経由する箱根路が開設されるとともにその路上に関所が設置されており、足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担った。平将門の乱の際に平将門が箱根に兵を派遣してこれを封鎖することを考え、承久の乱の際にも北条義時が御家人から出された箱根路・足柄路に置かれた関を固めて同地で官軍を食い止める策を斥けて兵を上洛させたと伝えられている(『吾妻鏡』承久3年5月19日条・『承久記』など)。室町幕府の鎌倉府も箱根に関所を設置して関銭の徴収を行った事が知られ、康暦2年(1380年)には、箱根の蘆川宿に関を3年間限定で設置して円覚寺の修繕に充てたと伝えられ、その後も応永13年(1406年)に箱根山中の水飲峠に水飲関が置かれたという。その後、戦国時代に後北条氏が箱根山の西側(伊豆国)に山中城を設置した際に関所の機能を吸収したという。
後北条氏滅亡後、江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置したのである。箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。これにより、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所(新居関所:舞坂宿(静岡県浜松市西区)と新居宿(静岡県湖西市)の間に位置)との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。箱根関所以外にも箱根裏街道には仙石原関、足柄路の流れを汲む矢倉沢往還には矢倉沢関所、熱海入湯道(熱海道)に根府川関所など5ヶ所の脇往還にも関所が設置された。江戸幕府の公式な箱根関所と5つの脇関所から江戸時代の箱根関が構成され、それ以外の経路を通過することは「関所破り」「関所抜け」として固く禁じられていた。明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止された。(Wikipedia)

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大番所                       京口御門


東海道(13)元箱根宿~三島宿 01 下見 元箱根_d0183387_16564982.jpg 身替り地蔵
宇治川の先陣争いで名高い梶原景季(かげすえ)はある年箱根を通りかかった時何者かに襲われました。当時弁舌巧みでたびらび人をおとしいれた平景時と間違えられたらしいのです。幸いにもかたわらにあった地蔵が身替りになってようやく命が助かりました。それ以来この地蔵を景季の身替り地蔵と呼んだとのことです。(案内板)


箱根宿
東海道五十三次の10番目の宿場である。1618年に箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置された。これに対して古くからの箱根の町があった関所から江戸寄りの地域を「元箱根」と呼ぶ。これは関所設置に不満を抱いた元箱根の住民が本陣の提供を拒んだため、大坂寄りに急遽人工の町を設置したためである。最初の住民は隣接する小田原・三島両宿場の住民を強制的に移住させたといわれている。標高725m という五十三次の中で最も高い場所に置かれていたため、幕府も宿場の維持に苦心したという。(Wikipedia)


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塔ヶ島                        箱根駅伝往路ゴール地点

神奈川県立恩賜箱根公園
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にある神奈川県立の都市公園(風致公園)。ここはかつての函根離宮跡で、1946年に一般開放された。芦ノ湖に突き出た塔ヶ島と呼ばれる半島にあり、離宮を模した展望台からは箱根外輪山や富士山が一望できる。園内の散策路では、5月にはツツジ、夏から秋にかけてはヤマユリを楽しむことが出来る。周辺には箱根関所跡や旧東海道杉並木などの観光名所がある。(Wikipedia)


東海道(13)元箱根宿~三島宿 01 下見 元箱根_d0183387_17203919.jpg駒形神社
駒形神社は天御中主大神(あめのなかのぬしのおおかみ)、大山祇神(おおやまずみのかみ)、素戔鳴命(すさのうのみこと)を祭神とした箱根宿の鎮守です。箱根神社の社外末社として荒湯駒形権現とも称し、神社の創立は古いものと思われます。(案内版)



東海道(13)元箱根宿~三島宿 01 下見 元箱根_d0183387_1721148.jpg芦川の石仏群
この箱根旧街道向坂地区の入口付近には「芦川の石仏群」と呼ばれる数多くの石仏・石塔があります。もとは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを写したといわれています。ここには箱根で最も古い万治元年(1658)の庚申塔や江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがあります。

国指定「箱根旧街道」向坂地区杉並木・石畳
旧箱根宿の西側にある芦川の街並みを過ぎると旧東海道は箱根峠までの約400mにわたって急坂が続きます。この坂は順に「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」と呼ばれています。江戸時代前期、街道整備の一環としてこの急坂の両側には杉が植えられ、道路には石畳が敷設されました。(案内版)

箱根峠
律令時代には、相模国(箱根町)駿河国(小山町)との境に当たる足柄峠には、足柄関が設置された。鎌倉時代から天正時代まで は東海(駿府、浜松など)や関東(鎌倉、小田原など)に本拠地を置く戦国武将は、箱根峠と足柄峠を防衛の要衝としていた。鎌倉時代以後の「関東」の定義は、「東海道の箱根峠、足柄峠から東の地」となり、この定義が第二次大戦後の「関東地方」の基になっている。戦国時代には、箱根を介して武田氏・後北条氏・今川氏が「甲相駿三国同盟」を結んでいた。江戸時代になると、徳川幕府の五街道整備において、距離の短い箱根峠ルートが重視された。芦ノ湖畔には箱根の関が設けられ、幕府防衛のための関と位置付けられた。(しかし関所として取締りが厳重で厳しかったのは新居の関で、箱根の関は、比較的緩やかだった。)関の守備は小田原藩が担当した。幕末には、佐幕派の遊撃隊と明治政府に恭順していた小田原藩兵との間に関所をめぐり激しい戦闘が行われ、関の大部分が戦火で焼失した。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-04-30 19:57 | 東海道(完)

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