無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩のさんぽみち13 七生丘陵散策路西コース   

七生丘陵散策路西コース(約4.1キロ)
平山城址公園駅から多摩動物公園駅までの丘陵を行きます。コースの大半は林の間を抜ける道。途中には丘陵の自然たっぷりの公園もあり森林浴にもピッタリ。そして歴史も、坂東武者平山季重ゆかりの地も巡れるコースです。

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多摩センター(左)&堀之内(右)の望景/旧多摩テェック裏


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平山城址公園西園・猿渡の池

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くぬぎの道                     さくらの道


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浅川&八王子市街/平山城址公園先


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資料ファイル

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宗印寺山門                     平山季重墓(五輪塔)
              
《都旧跡 平山季重墓》
平山季重は平安末期、鎌倉初期の東国武士の典型である。平山氏は武蔵七党の中の一つ西党に属し宗家日奉氏の分派になる。秋川流域を中心として後代この地を支配した小宮氏は平山氏の同族で政権の移転によって改姓したのではないかという説もある。健保元年(1213)5月の和田の乱で横山党は滅亡したが、同族の平山氏はこの乱に加担しなかったと思われる。季重は一の谷合戦に際し熊谷直実、直家父子とともに勇名をはせたことが活写されているように、豪放大胆な関東武士の面影をあますところなく発揮し、さきの保元、平治の乱にも活躍した人物である。五輪塔の高さは1.7m、旧平山小学校内にあったが、大福寺が明治6年(1873)に廃寺になったので現在地に移転された。この墓は季重25代の孫松本藩の平山季長が追悼のために建立したものである。(東京都教育委員会)


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西園入口                       平山季重神社

平山季重神社
都立平山城址公園入口の北側、丘陵が少し突き出ている所に平山季重神社の小さな祠が建っています。古くは日奉明神社と呼ばれており、現在でも日奉神社とも呼ばれてます。平山季重が祖先の日奉を祀ったものとも、季重を子孫が祀ったものともいわれています。この場所は丸山と呼ばれ、かっては平山氏の見張り台があった場所との言い伝えもあります平山季重の居館があったとの言い伝えもある平山橋北の大名淵。そこには大正末頃、安田財閥の安田善衛氏の別荘があり、昭和30年代それが取壊しとなった時、敷地内にあった稲荷を丸山に移して祀り、祠を建てたのが先代のものです。もともとこの場所には古くから石で出来た小さな祠があり、そこに合祀したのです。その石祠はその当時も、そして、今回も祠の礎石の中心に大切に祀られています。(日野市観光協会)


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七生丘陵散策路西コース/日野市観光協会


《平山 季重》(ひらやま すえしげ)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武蔵七党の一つ西党(日奉氏)の武将。平山直季の子。多西郡舟木田荘平山郷(現東京都日野市平山)を領し、院武者所に伺候したため平山武者所と呼ばれた。武蔵国平山(平山城址公園駅付近)で生まれる。保元元年(1156年)の保元の乱で源義朝に従い、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝の長男源義平に従い、待賢門での戦闘で平重盛の軍勢500騎に17騎で戦いを挑んでいる。義朝の敗死後は平家に従い、在地領主として平穏な日々を過ごしている。しかし治承4年(1180年)に伊豆国に流罪となっていた義朝の遺児源頼朝が挙兵するとそれに従い、その弟源義経に従って富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍している。特に佐竹氏征伐の金砂城の戦いでは同僚の熊谷直実とともに抜群の戦功を挙げている。寿永3年(1184年)、季重は源義経率いる木曾義仲追討軍に従い上洛。宇治川の戦いで根井行親、楯親忠を撃破して京都へと入った。同年の一ノ谷の戦いでは源義経に従って、奇襲部隊に参加。同僚の熊谷直実とともに一ノ谷の平家軍に突入して、勝利のきっかけを作った。翌元暦2年(1185年)の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも常に先陣を切って、勇猛果敢に戦った。戦後、後白河法皇によって右衛門尉に任ぜられたが無断での任官であったため、これが源頼朝の怒りを買った。『吾妻鏡』に他の無断任官者と共に「平山季重、顔はふわふわとして、とんでもない任官である」と頼朝に罵られた記述が残っている。また、この頃に筑前国三笠郡原田荘の地頭職を得ている。文治5年(1189年)には奥州合戦に息子の平山小太郎重村と参戦。そこでも戦功を挙げ、鎌倉幕府の元老として取り立てられた。建久3年(1192年)の源実朝誕生の際、鳴弦の大役を務めている。建暦2年(1212年)に病没とされるが詳細は不明。(Wikipedia)

《西党》(にしとう)
平安時代から戦国時代にかけて武蔵国西部、多摩川流域を地盤とした武士団である。いわゆる武蔵七党のひとつで、武蔵守日奉宗頼を祖とすることから日奉党(ひまつりとう)ともいう。一族には一ノ谷の戦いで有名な平山季重が居る。名前の由来は2つの説がある。1つは宗家の西氏は土淵庄(つちぶちのしょう、現在の東京都日野市栄町5丁目)の東光寺上の七ツ塚付近に居を構えた。ここは国府(現在の府中市に置かれていた)の西にあたることから、西氏を称したという説。1つは日奉氏が日祀部(ひまつりべ)と関係があることから、これを音読みしたという説である。(Wikipedia)

日奉 宗頼(ひまつり の むねより、生没年不詳)
武蔵七党の1つ西党の祖。日奉氏の祖は、大伴氏と同じ高皇産霊尊の子孫といわれる。承平元年(931年)、京より武蔵守として下向し国府(府中)で政務にあたり、任期満了ののちも帰郷せずに土着したともいう。土着したのは、日野郷の土淵の地であり、近郷の油井の牧、小川の牧を支配した。彼の子孫は、武蔵国府の西側に勢力を拡げたので西党と呼ばれ、平山、小川、立川、由井、二宮、川口などの姓を称した。平山氏には一ノ谷の戦いで名をはせた平山季重がいる。宗頼は、日野宮神社(東京都日野市栄町)に祀られている。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-05-25 17:03 | たまのさんぽ道(新規)

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