無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(17) 吉原宿~蒲原宿01 下見・吉原   

下見日時 2013.10.1(火)
天気    雨/曇り


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毎月1日は一の市、旧街道の商店街も賑わってます/吉原宿・岳南堂前(脇本陣)


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市役所通りをピンクの建物へ/錦町      潤井川・高安橋を渡り本市場へ


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旧東海道 間宿 本市場


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煙突方向へ横断し一里塚へ           富士本町通りを横断し札の辻へ       


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街道は前方の山並みに沿って左手に向います/雁堤(かりがねづつみ)


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JR身延線・柚木駅(ゆのき)           橋下五差路を右折し雁堤へ


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富士川橋
「我が国に名を得たる大河はあまたあれど、ことに冨士川は海道一の急流なり。舟に乗りて渡るに、渡し守 ちからを出でだし 棹をさし、櫓を押し出す時、岸より見るものは、あわやと危うく思い、船中の人は目まい、魂の消ゆる心地ぞしける」(東海道名所図会)  

  
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資料ファイル

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吉原宿/見よう歩こう富士市の東海道
東海道・吉原宿 吉原宿は江戸から数えて東海道十四番目の宿場町である。しかし、度重なる津波や高潮の被害により三たび所替えをし、現在の地となった。延宝八年(1680)八月の大津波でかっての吉原宿(現在の富士市依田原・通称「中吉原宿」)が大被害を受けると、直ちに所替えの準備にかかり、幕府の許可を得て、北方のこの地を選び、天和二年(1682)に所替えをした。東の木戸を旧日産自動車西門の辺りとし、西は小潤井川の四間橋とした。宿の面積は十三町三反九畝(約13.3ヘクタール)、石高は百一石余。長さは約十一町(約1200メートル)、奥行き平均三十間(約54.6メートル)とし、まず新しい町中に東海道を通し、それに沿って問屋場の位置を定め、道路の両側に二百九十軒の民家をおおよそ中吉原宿時代を規準にして割り付け、裏道をつけ、寺地を定めた。新しい吉原宿の町割りの基点として、天満宮(天神社)を鬼門にあたる場所に設けたが、神社も寺院も、みな中吉原宿から所替えをしたという。また、再建のため家の材木には富士山の風損木(ふうそんぼく)を利用した。その後、吉原宿は本陣二軒、脇本陣四軒に加え、百軒を超す旅籠屋をかかえ、東海道有数の宿場町として栄えてきた。(案内板)


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上本陣跡/富士会館前              次郎長・鉄舟の定宿/旅籠・鯛屋


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大運寺単体道祖神            四軒橋・西木戸跡/小潤井川


d0183387_1195083.jpg旧東海道跡の碑/富士市役所通り 
昭和四一年、富士 吉原 鷹岡の二市一町が合併して現富士市となりこの周辺は、中心市街地として依田原新田区画整理事業により整備されましたが、それに伴い旧東海道がこの地で分断されました。この西隣に東海道跡の碑が置かれ、平成十三年東海道四〇〇年祭に因み今のように改修されました。砂利道に敷かれた細長い石は、ここより南方350メートル青島地先より出土した当時の石橋の石です。この上を大勢の旅人や荷車、参勤交代の大名行列が通ったことでしょう。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが渡ったかもしれません。すべすべした石の表面を触ってみると賑わった往時が偲ばれます。(案内板)



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青嶋八幡神社/青島町              蓼原(たてはら)の単体道祖神/蓼原町
    
 

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間宿・本市場
この地は吉原宿と蒲原宿の間にあって間の宿として旅人たちで賑わっていました。霊峰富士を讃えた鶴芝の碑も近くに建てられています。本市場の名物として白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどが知られ、広重は白酒売りの茶屋で憩う旅人を描いています。(案内板)


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間宿・本市場の案内板              富士市フィランセ

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広重の描いた「駿河吉原 山川白酒」


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鶴芝の碑 

この碑は、文政三年(1820)六月、東海道間の宿(旅人の休けい所)本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここから雪の富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、この奇観に、京都の画家蘆洲が鶴をかき、これに江戸の学者亀田鵬斎が詩文を添え、碑とした。市内では旧東海道をしのぶ数少ない貴重な文化財である。(富士市教育委員会)


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本市場一里塚


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旧松永邸跡/フジホワイトホテル

平垣の豪農・松永家の150坪におよぶ居宅の一部を復元したもので、安政4年(1857)に建造された、武家風様式をのこす貴重な建物です。江戸時代の富士市には旗本領が多く、松永家には旗本領の陣屋がおかれ、領主に代わって年貢のとりまとめを行う業務を担っていました。明治時代になって陣屋を解職されてからは、富士駅や製紙会社の誘致、小学校の建設など、近代化をすすめる事業に携わりました。ここに復原されたのは表門と主屋の一部ですが、当時の主屋は150坪ほどで、およそ20余りの部屋がありました。(富士博物館)


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平垣の札の辻跡

ここで旧東海道が富士早川からの用水路にかかる橋を今でも札の辻橋という。このあたりにかつて平垣村の高札場があった。

札の辻のいわれ
実相寺は約800余年の昔、久安元年鳥羽法王勅願の寺で、西に比叡山 東に実相寺とまでうたわれた関東の名刹である。四十九院五百の僧坊が甍を並べて常に数百の学僧が寮生活をして教学に精進した霊場である。昔の岩本山実相寺は方一里と称せられ南は今の平垣札之辻まで及んでいたという。


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道標と常夜灯/橋下五差路           旧道は左、雁堤は右へ

秋葉山常夜灯は慶応元年(1865)に建てられ、総高143cmある。その傍らには「左東海道」と刻まれた道標が置かれている。(案内板)


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雁堤(かりがねづつみ)/岩本山(Wikipedia) 
雁堤は、江戸時代に富士川の洪水対策として築かれたもので、富士川左岸、県道396号線(旧国道1号線)の北側に位置しています。江戸時代前期までの富士川は、加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)を蛇行して流れ、現在の田子の浦港附近で海に流れ込んでいたと考えられています。当時の富士川には堤防もなく、洪水により、周辺農地はたびたび被害を被っていました。 戦国時代が終わり、水田の開発が活発に行われましたが、開発に当たり、水田を富士川の洪水被害から守るため、大規模な堤防を造成する必要があり、堤防の造成に取り組んだのが、豪族の古郡氏でした。古郡氏は、親子三代が50年余りに及ぶ工事の末、延宝2年に全長2.7㎞に及ぶ雁堤を完成させ、加島五千石と呼ばれる水田を造成しました。その後、この堤は富士市指定史跡となり、現在の規模は延長2.7㎞、高さ5.5~7.3m、馬踏平均10m、堤敷33~46mです。雁堤の名称は、堤の形が、雁の群が空を飛んでいる姿に似ているところから付けられました。この工事は、工事の途中に何度も洪水被害に遭うほどの難工事であったので、工事の安全と無事に完成することを祈り、中島天満宮が建立されました。(案内板)

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東名、新東名の橋梁&岩本山・奥の山並みは天子山地か

広大な富士平野の護り神
富士川は富士市岩本と富士市木島の間に至って山間部から平地に顔を出します。この平地が富士平野で昔は加島五千石と言われたところです。富士平野は富士川が造った扇状地なのです。この扇状地は、岩本地先を扇頂として1/230の勾配で駿河湾に向かって傾いており半径は約7km、先端の弧 の長さ約10kmの拡がりを持つ平野です。富士川はこの平地の上を流れ、川を挟んで左岸には富士市が右岸には富士市と静岡市清水区があります。平安時代の昔も交通の要衝であり三代実録の貞観6年(864)の条に蒲原駅(うまや)、柏原駅(うまや)の記述がありますが、現在は我が国の大動脈とも言うべき新幹線、東名高速道、東海道本線、国道1号や水管橋等7つの路線の橋が架かっています。富士川の洪水を安定して流し、川路を安定すると共に氾濫を防御しているのがここに紹介する「雁堤(かりがねづつみ)」です。この堤防を高い所から見ると全体の形が空を翔ぶ雁の姿に似ているところから「雁堤」の名が付けられたと伝えられています。完成から今日まで約330年、昔は加島荘と言われた富士平野を守り、そこに住む人々や財産を守り我が国の主要産業、交通 の大動脈を譲ってきてくれました。「雁堤」はあの奇妙な形の中に治水の工夫の極意が秘められているのです。(建設省甲府工事事務所)



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水神社                       富士川渡船場跡 富士山道標

東海道「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場 
江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いことと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせ渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村との間で行われました。東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川上二十町の間で、上船居、中船居、下船居の三箇所があり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。用いた船には定渡船、高瀬船、助役船があり通常の定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。水神の森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤(かりがねづつみ)は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。(富士市教育委員会)


実相寺(じっそうじ)
静岡県富士市岩本にある、日蓮宗の本山(霊蹟寺院)。山号は岩本山。かつては、円珍が唐より招来した一切経を格護する、天台宗の古刹であった。村山修験の祖・末代は、時の住持・智印法印に師事した。日蓮が訪れ、経蔵に入り一切経を閲読し、立正安国論を著した。その後、多くの学徒が日蓮に師事し、弟子となった。1145年(久安1年)鳥羽法皇の勅命により、天台宗の智印法印は実相寺を建立する。1258年(正嘉2年)日蓮が入寺する。1276年(建治2年)学頭・智海法印により、日蓮宗に改宗し、智海法印は日源と改名する。1568年(永禄11年)武田氏の侵攻により、焼失する。その後、再建する。(Wikipedia)  


吉原宿名物
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宿場小まんじゅう/きよせ            生フルーツゼリー/杉山フルーツ

by Twalking | 2013-10-03 14:01 | 東海道(完)

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