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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原   

東海道(17)吉原宿~蒲原宿 (2)


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富士川&間宿岩淵


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街道風景                      富士川橋&富士市


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ここを右折して中之郷へ

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東名を潜り左折/中之郷             新幹線を潜り峠へ


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この先の東名OVを渡ります/峠


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振り返ると富士/峠                 眼前に駿河湾/OV先下り


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夕暮れの蒲原宿


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資料ファイル

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東海道名所図絵 富士川


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_23131675.jpg角倉了以翁の紀功碑
京都の豪商、角倉了以(1554~1614)・素庵(1571~1632)の父子は、慶長十二年(1607)同十九年(1614)両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。その水路は、岩淵河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約十八里(71キロメートル)で、大変な難工事の末、完成しました。これにより、富士川水運は明治四十四年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩淵河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。町では、了以の偉業を顕彰し、後代まで伝えようと、昭和十二年、田中光顕伯爵の助言を受けて、富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、平成二年四月に現在地に再移転したものです。 

渡船「上り場」常夜燈
慶長七年(1602)六月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同十九年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道に出ました。「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政十三年(1830)正月、甲州三河岸、岩淵河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。

船型の植樹桝
この「船型」の植樹桝群は、平成元年度県道富士川・身延線の修景工事として完成したものです。 江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸がありました。渡船には、定渡船(長さ10.3メートル、幅1.57メートル)六艘、高瀬船(長さ13.2メートル、幅1.8メートル)十八艘があり、一方甲州三河岸との通船には高瀬船(笹船または小廻船とも呼ばれた)三〇〇艘(明治時代には八〇〇艘)があり、これら多数の船が出入していました。この「船型」は、定渡船の規模を再現し、それにシラカシの木を帆に身立て、舳先を上流に向けて富士川を溯った高瀬船をもイメージしています。(案内版)


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光栄寺                       小林本陣常盤邸

間宿・岩淵には富士川を渡る準備をするため休憩する私設として小林本陣、脇本陣がありました。常盤邸は安政元年(1854)の地震後に再建され、現在も残されています。岩淵村の名主だったため一般の民家には見られない上段の間と言われる部屋があります。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_2339628.jpg史跡 岩渕の一里塚 
江戸時代に築造された東海道の里塚である。慶長九年(1604)二月、幕府は東海道の一里毎に、五間(約九メートル)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる。この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四二年枯死してしまった。そこで昭和四五年三月、二代目を植えたものである。(案内版)


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ツル家製菓店                   岩渕名産「栗ノ粉餅」

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秋葉常夜灯                 明治天皇御駐輦之跡石碑


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0355775.jpg東海道一里塚跡 
一里塚は慶長九年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約四km)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。一里塚は、道路をはさんで両側に約二mほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。(案内版)



東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0362018.jpg北條新三郎の碑
永禄十二年(1569)十二月六日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城しました。城主北條新三郎は、城から抜け出し常楽寺まで逃れましたが、寺に火を付け自害したと伝えられています。その後供養のために、ここに碑をつくりました。碑には「常楽寺殿衝天良月大居士」の戒名が記されています。常楽寺につきましては、現在裏付ける資料は残っていませんが、「奥の院ここより五丁」という道標や常楽寺の奥の院と考えられる観音穴があることから、この近くに常楽寺があったことが推察されます。(案内版)



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東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_037346.jpg東木戸・常夜燈
江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。なお木戸と木戸との間のことを「木戸内」といいます。東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていました。文政十三年(1831)ものと考えられています。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0375778.jpg木屋の土蔵(渡邊家)
渡邊家(屋号は木屋)は江戸時代末期、問屋職(宿駅の長)を代々務めた旧家です。天保年間の「家屋敷配置図」によると当家は街道に面して間口二十間余(約36m)の敷地に、本宅や数棟の蔵や穀倉がある大きな家でした。しかし、安政の大地震で大半の建物が倒壊し、今では土蔵のみが残っています。この土蔵は東海道でも唯一と言えるほどの珍しい「四方具」(しほうよろい)という工法で、内部には江戸時代の貴重な資料が保管されています。※「四方具」は当時の耐震工法です。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_038362.jpgなまこ壁に「塗り家造り」の家(佐藤家)
当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果は大きく、家紋入りの雨樋に見られるように、昔から贅沢普請といわれています。なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが調和して、重厚感にあふれています。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_911278.jpg商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)
当家は、昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく広々とした「店の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん状の階段があって、二階に通じています。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0385144.jpg問屋場跡
問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交替の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていました。ここに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が、毎月十五日交替で詰めて宿の経営にあたっていました。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0394090.jpg「蒲原夜之雪」記念碑
「蒲原夜之雪」の絵は歌川(安藤)広重が天保3年(1832)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念してこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑がたてられました。(案内版)

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東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0404259.jpg本陣跡 
本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていました。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0405966.jpg旅籠「和泉屋」(鈴木家)
当家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の二軒に仕切られています。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0415073.jpg手作りガラスと総欅の家(磯部家) 
明治四十二年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。日本における板ガラスの生産開始が明治四十年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0421213.jpg御殿道跡
かって、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなりました。御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山が「御殿山」で、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。ちなみに、寛永十一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0424112.jpg大正時代の洋館 「旧五十嵐歯科医院」
旧五十嵐歯科医院は、当町にいくつかある大正時代の洋館の中で代表的なものです。大正の初め、帝国ホテルに代表される西洋風の建築が移入され、洋館造りが流行しました。南側がガラス窓、下見板張り(羽目の板が横に張ってある)の白いペンキが眩しい洋館でしたが、内部はほとんど和室で、水道がなかった時代に井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。名医として知られ、田中光顕伯爵も患者の一人でした。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_04309.jpg蔀戸のある家(志田家)
安政元年(1854)の大地震の翌年に再建され、東側二階建て部分が当時の建物です。蔀戸は日光や風雨などをさえぎる戸ですが、多くは上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸け金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締まりの役を果たしました。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_1048951.jpg美しい格子戸の家(増田家)
格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つです。細い角木を縦横に間をすかして組み、窓または出入り口に取り付けますが、組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、一面に板を張るものなど、気候風土に合わせた工夫がなされています。(案内版)


東海道(17) 吉原宿~蒲原宿02 下見・蒲原_d0183387_0432055.jpg西木戸・茄子屋の辻
蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄十二年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。承応2年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫等が江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。(案内版)



富士川(ふじかわ)
長野県・山梨県及び静岡県を流れる河川。一級水系富士川の本流であり日本三大急流の一つに数えられている。甲斐と駿河を結ぶ水運としての要路であり、古くから人々の暮らしに密着してきた。
釜無川本谷として、南アルプス北部、山梨県と長野県の県境に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、長野県富士見町にて八ヶ岳などからの源流とする立場川と合流しながら、山梨県北杜市まで長野・山梨両県の県境を成す。一般的に釜無川と笛吹川の合流点より下流を富士川と呼び、そのまま富士山の西側を南流し、富士市の雁堤南で東海道と交差し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぐ。
江戸時代の始めには、いくつもの支流をつくりながら、富士市の東(現在の田子の浦)の方向へ曲がり、川沿いにあたる富士市は度重なる洪水による災害が多発していた。江戸時代(1674年)に古郡重高・重政・重年の父子三代が50年以上の月日を費やし、富士川の流れそのものを直線となる現在の場所に変えた。水田を富士川の洪水被害から守るため、洪水が多発していた場所に遊水地としての機能も持つ全長2.7kmに及ぶ大規模な堤防『雁堤』を完成させ、『加島五千石』と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成した。 
富士川は急流で難所も多かったが、内陸の甲斐南部と駿河との交通路として、駿州往還とともに古くから水運が利用された。江戸時代の1602年に駿河国と甲斐国(現在の富士川町)との間に富士川渡船が開始されたという。江戸期には甲斐が幕府直轄の天領であったため、慶長12年(1607年)の角倉了以らによる開削事業により運行の安全が確保されて、江戸への廻米輸送を中心に水運が発達した。寛永年間には鰍沢河岸 ・黒沢河岸・青柳河岸が設置されて山梨・八代・巨摩三郡からの廻米輸送が行われ、後に信濃南部の諏訪・松本からの廻送も行われるようになった。廻送された廻米は駿河国岩渕(現在の静岡県富士市)の河岸で陸揚げされ、馬力により蒲原へ運ばれそこからさらに清水港へ集められた後大型船で江戸へ廻送された。また、上荷には塩や海産物など内陸の甲斐で産しない商品を中心に輸送が行われ、身延詣の旅人にも利用された。富士身延鉄道(現在のJR東海身延線)の全通(1928年)とともにその役目を終えた。(Wikipedia) 

 

by Twalking | 2013-10-04 11:23 | 東海道(完)

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