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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(19) 興津~草薙 02 下見・江尻宿   

東海道(19)興津~草薙 02

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巴川/稚児橋

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江尻宿中心部/清水銀座

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江浄寺


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資料ファイル

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江尻宿案内板

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江尻宿東木戸跡
江尻宿東端の出入り口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。この付近は道路が枡形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。(「生き活き」街づくり辻の会)



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江浄寺                        恋塚

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東海道江尻宿(18番目)
むかし「矢倉の辻」より秋吉町の東側に称名寺集落があり、また吉添町・大手町あたりに元宿という小字が残っているので、その周辺がもとの江尻(家尻)の宿場があったと思われる。時代の変遷により今川の頃からこの江尻は三日市場として栄え、永禄12年(1569)武田信玄が江尻城(小芝城)を築くことにより、江尻は城下町となり職人の町が発達した。慶長6年(1601)徳川家康は東海道五十三次を定めるにあたり、それまでの今の北街道が主要街道であったものを改め銀座通りを通すこととし、この地を江尻宿とした。慶長12年(1607)巴川に初めて稚児橋が架けられ交通が便利となり、江尻宿は上町(魚町)・中町(仲町)・下町(志茂町)の宿通りを中心に西は入江町の木戸、東は伝馬町・鋳物師町・鍛冶町・本郷町から辻村の木戸まで長さおよそ2kmであった。宿は伝馬町と魚町で鉤の手に曲がり見通しが悪く、また紺屋町・七軒町は袋小路になっているのは万一の場合の警備のためであった。宿には人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣三軒、それに準ずる脇本陣三軒と一般の旅籠屋が50軒ほど立ち並び、人々の往来で栄えていた江尻宿の昔の姿である。(江尻地区まちづくり推進委員会)



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清水銀座                      クジラのモニュメント

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稚児橋の由来
慶長12年(西暦1607年)徳川家康の命により、東海道五十三次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日とはなった。 さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川に中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を登り忽然と入江方面へ消え去った。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けられたといわれている。 なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童がいるのは、この伝説による。

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船高札
徳川時代の初め頃、河川交通の重要な場所であった巴川畔のこの附近に現在の掲示板にあたる「船御高札」が建てられていました。記録によると、正徳元年(1711)六月に代官より、この町に船高札が御下渡しされました。

一、公儀の御船(官船)は無論、諸国回船共すべてに暴風などの時には、助船を出して難破させない様にする事。
一、船、破損せる時は、近くの浦の人達は力を合せ、荷物、船具等を引揚げる事。褒美として海船には浮いていた荷物は二十分の一、沈んだ荷物は十分の一を、川船には、浮荷物の三十分の一、沈んだ荷物は二十分の一を引揚げた者に遺すと     他五條略
(入江まちづくり推進協議会)


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河童のこしかけ石
平成三年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った時、五つの石が掘り出され、誰言うことなく、稚児橋のかっぱ伝説にちなみ「河童のこしかけ石」と呼ばれる様になりました。これらの石は、駿府城を築くため、石垣の石を伊豆から運んだとき、巴川に落ち、そのままになったものと思われます。昔、巴川は駿府への大切な交通路でした。その証として、この石をここに置くことにしました。。(入江まちづくり推進協議会)



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案内標識                      江尻宿西木戸跡


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追分道標 
正面には「是より志ミづ道」と彫られている

追分羊羹の由来
江戸三代将軍家光のころ府川のあるじ箱根の山中に旅に病める明の僧と出合いこころあたたかく介抱。やがて病癒えたかの僧は感謝の涙とともにあずきのあつものづくりの秘法をねんごろに伝授して去った。それがそもそもこの追分羊羹のことの発(おこ)り。ひたすらな善意と素朴な感謝がいみじくも交流したところからこの羹(あつもの)の風味は生まれ出で、爾来300年ひとの口にひとつのこころにしみじみわたってきている。
つゝましくほのぼのと いまも。  詩人 長田恒夫(清水市)


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都田一家諸精霊供養塔
春まだ浅き文久元年(1861)正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。此処を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。(入江まちづくり推進協議会)


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追分と金谷橋の今昔
昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていた。周囲には数軒の家が並び街道の両際は松並木が続き、その外側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。古来、牛道と言われた名残りを今にとどめている東海道の史跡である。(入江まちづくり推進協議会)


東海道の案内板 
東海道という言葉は崇神天皇十年九月、四道将軍として武淳川別(たけぬなかわわけ)東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家のための重要路として、防人(さきもり)達が遠く九州に下り、調(ちょう)を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。中世には「いざ鎌倉」のために整備され徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長十二年(1607年)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった。善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語を残した東海道も国の発展と共に昔日の面影は消えてしまったがここに日本の歴史と共に歩いて来た古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。(有度まちづくり推進委員会 有度公民館歴史クラブ)

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一里塚の由来
一里塚は徳川幕府より慶長九年(1604年)大久保長安を一里塚奉行に命じ一里(3920m)を三十六町と定め東海道・中山道に一里塚を築いた。東海道は江戸(今の東京)日本橋を起点に京都までの120里(約470Km)の道の両側に松並木を植え、一里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。草薙一里塚は江戸より四十三里(170Km)の処で四十三番目の塚です。道を挟んで南塚が在り一対となって居た。塚は五間(9m)四方高さ一間(1.8m)と大きなもので塚の脇には高札所があり、榎の大木の枝が繁り街道往来の大名の参勤・飛脚・旅人の道しるべ・休息所等と成って居た。榎の木蔭で旅の疲れを癒した旅人達が「府中(駿府、今の静岡市)二里半あと一息だ頑張ろう」と道中合羽に三度笠、振り分け荷物を肩に、旅立つ姿が偲ばれます。 因みに一里山の起源は此の地に一里塚が築かれており一里山と呼ばれる様になった。



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東海道五十三次 江尻

清水湊(巴川河口港)
巴川の河口部付近は、近世まで港として利用されてきました。戦国時代には、現在の稚児橋(2.7km)から清水江尻小学校付近(3.0km付近)までは江尻湊と呼ばれ、海陸交通の要所でした。駿河に侵攻した武田信玄は、巴川の蛇行を利用して江尻城を築き、そこを水軍の基地として上洛に備えたそうです。徳川家康の駿府退隠後には、巴川河口(港橋1.0km付近)に近世江戸時代の新たな清水湊が形成されました。この湊は駿府との密接な繋がりをもつ軍港としての機能も果たしていましたので、幕府による廻船問屋の保護もありました。駿府市場は巴川を介して清水湊を通じ、江戸・大坂の両中央市場を結びつけました。同様に甲州・信州地方と江戸・大坂を結びつける役割を果たし、大きな賑わいを見せました。明治時代に入り、洋式帆船や蒸気船といった大型船時代が到来すると、外海での新たな築港が始まり、全国に開かれた港としての役割を終えました。(しずおか河川ナビゲーション)

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稚児橋                       港橋

駿府と巴川
徳川家康は駿府城に退隠した後も幕府に大きな影響力を持っており、全国支配を確固たるものとするため、駿府城を拠点とした城下町の整備に着手しました。 駿府城の拡張工事に必要な石材等を、巴川の水運を利用して駿府城に運びこんだと言われています。その後も、駿府城は巴川や清水湊を介して全国へとつながっており、様々な物資が巴川の舟運により運ばれました。運ばれた物資は、現在の巴橋(10.5km)付近で荷揚げされ、駿府城下へ移されたとされています。(しずおか河川ナビゲーション)

by Twalking | 2013-11-22 21:26 | 東海道(新規)

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