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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(20) 草薙~府中 02 下見・府中宿   

東海道(20)草薙~府中宿 02

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日本平&府中城下/静岡県庁

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東海道分間延絵図・府中宿

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駿府城


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資料ファイル

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下横田町                延命地蔵尊
江戸時代に入ると駿府96ヶ町の一つに数えられます。上・下横田町のうち下横田町は府中宿の入口にあたり、東境には「見付」がありました。「駿国雑誌」によれば、横田見付は元禄5年(1692)に設置され、道を挟んで両側に桝形の石垣が築かれていました。(案内板)

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清水寺(音羽山清水寺)
この寺は永禄2年(1559)今川氏第8代氏輝の遺命を受けて、家臣朝比奈元長(あさひなもとなが)が創建した真言宗の寺である。本尊は千手観音菩薩であり、寺の名前は開山第一世の道因大僧正が京都清水寺から招かれて入寺したことから故郷を偲んで音羽山清水寺と名付けなれたといわれる。後に徳川家康公はしばしば当寺へ参詣し、公自身の持念仏である千手観音菩薩を納めたと伝えられる。この観音堂は木造瓦葦四柱造(寄棟造ともいわれる屋根形式で、奈良東大寺大仏殿など重要建築物の屋根に多くみられる)廻縁付で内部は剥げ落ちているが、極彩色であって桃山時代の特徴がうかがわれる。なお、境内には昭和7年に建てられた江戸時代の俳人松尾芭蕉の句碑が建てられている。(静岡市)  
駿河路やはなたちばなも茶のにおい

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華陽院                        源応尼の墓

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花陽院門前町(けよういん)
「此町は元横田の内にて寺門前なるによって然唱へ(しかりとなえ)、寺につく地なり」と江戸時代の地誌「駿河志料」に記されています。町は伝馬町と鋳物師町(いもじちょう)に挟まれ東海道に面し府中宿の一画を構成いています。(中略)町名の由来となった玉桂山華陽院は元来智源院と呼ばれ、松平竹千代後の徳川家康公が今川氏の人質時代に養育にあたった外祖母源応尼(げんおうに・家康公の生母お大の方の母)の法名に因み華陽院に改めました。華陽院には源応尼の墓と並んで家康公の五女市姫の墓があります。(案内板)



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久能街道の由来 
東海道府中宿(静岡市伝馬町)から、久能山の麓に通じる久能街道はここから始まります。目の下に青い駿河湾、遠くに伊豆半島をみることができる久能山の頂には、久能山東照宮があり、そこには、300年にわたる平和な江戸時代を開いた徳川家康がまつられています。江戸時代、東海道を上り下りする大名たちは、ここで東海道を離れ、久能山にお参りに行きました。幕府に仕えた大名たちにとって、家康は神様と同じに考えられていたからです。昭和20年代まで、この場所には、「久能山東照宮道」と記した石碑がたっていました。もともと久能街道は、久能海岸で作られた塩を始めとする海の産物を駿府に運び込むために、古代から使われてきた、静岡でもっとも古い街道の一つで、駿府の町の北側から入ってくる安倍街道や藁科街道につながります。そして、町の中央には、東海道が東西に走っています。駿府の町は、南北から生活物資が運び込まれた久能街道や安倍街道と、東西から人や情報が流れ込んだ東海道とが交差するところに発展したことになります。久能街道は、はるか昔から、駿府を支えてきた大切な道でした。(案内板)



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府中宿
府中宿は江戸から約44里(約176km)、品川宿から19番目の宿場です。東見付は横田町、西見付は川越町にあり、天保14年(1843)には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒、家数は3673軒、人口は1万4071人の東海道最大規模の宿場でした。伝馬町には馬の手配や荷物の受け継ぎなど宿場の重要な業務を行う問屋場や大名や公家など身分の高い人が泊まる本陣・脇本陣、東海道に3ヶ所しか設置されなかった公用荷物を定める貫目改所などがあり大変賑わっていた。、また参勤交代の大名たちは家康公の祖母の菩提寺である華陽院にお参りしました。家康公の墓所がある東照宮に向かう久能街道は駿府の町に物資を運ぶ重要な道でした。(案内板)

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伝馬町の由来 
伝馬町の歴史は慶長十四年(1609)に家康公が駿府を町割して、東海道五十三次の宿(しゅく)と定めたことに始まる。宿には本陣、脇本陣、問屋などが置かれ旅宿や商家が軒を連ね、街道を往来する大名行列や旅人により賑いを呈した。明治以後も静岡宿といったが、明治二十二年市制が布かれ、静岡市伝馬町の誕生となった。以来、況不況の波を克服し、或は静岡大火、空襲の災禍にもめげず、人々は手を携えて住みよい街づくりに努力、県部の玄関口、商店街として今日の繁栄を見るに至った。ここに近代的な市街地再開発事業の竣工に当り先人苦心の跡を偲び、併せて未来への発展と、ゆかりの人々の多幸を念願して記念のしるしとする。



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下伝馬本陣・脇本陣跡       上伝馬本陣・脇本陣跡

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西郷・山岡会見の地
京王4年(1868)江戸に向けて駿府に進軍した有栖川宮熾仁(たるひと)親王を総督府とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日にここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた。この会見において15代将軍徳川慶喜の処遇をはじめ、江戸城の明け渡し徳川幕府の軍艦・武器の引き渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定された。江戸城の無血開城が実現した。明治維新史の中でも特筆すべき会談として位置づけられるものである。(静岡県)

西郷・山岡会見之史跡
ここは慶應4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無 血開城されたので、明治維新史上最も重要な史跡であります。明治百年を記念して昭和43年3月9日建立

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【駿府城】 
駿府城は外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城。本丸を中心とした回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層、内部七階)の天守閣があったが、寛永十二年(1635)に焼失しています。駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正十三年(1585)に徳川家康が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長十二年(1607)将軍を退き、駿府に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張、修築しました。当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。(静岡市)

東御門
東御門は駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入り口でした。この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多門櫓で構成される桝形門です。東御門の前が安藤帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」、また台所奉行の松下浄慶(じょうけい)にちなんで「浄慶御門」と呼ばれ、主に重臣たちの出入り口として利用されました。東御門は寛永12年(1635)に天守閣、御殿、巽櫓などどともに焼失し、同15年再建されました。復元工事はこの寛永年間の再建後の姿を目指して復原したものです。(静岡市)

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十返舎一九と「東海道中膝栗毛」
「東海道中膝栗毛」の作者十返舎一九(1765-1831)はここ駿府の府中(現静岡市)出身で、江戸文学における戯作者(げさくしゃ)の第一人者であり、日本最初の本格的職業作家といえます。1765年駿府町奉行同心重田与八郎の長男として両替町で生まれました。本名は重田貞一、幼名を市九といいます。1783年大坂に行き、一時は近松余七の名で浄瑠璃作家として活躍しましたが、その後士分を捨て1794年再び庶民文化華やかな江戸に戻って戯作の道に専念し多くの黄表紙や洒落本などを書きました。「東海道中膝栗毛」は1802年に初編(初編は「浮世道中膝栗毛」のちに改題)、毎年一編づつ8年にわたってかきつづけ809全八編を完結しました。この膝栗毛は爆発的人気を呼び休む間もなく「続膝栗毛」の執筆に取りかかり1822年最終編まで実に21年間に及ぶ長旅の物語として空前の大ロングセラーとなりました。物語は江戸神田の八丁堀に住む府中生まれの弥次郎兵衛(左の像)と江尻(現清水市)出身の喜多八(右の像)という無邪気でひょうきんな主人公たちが、江戸を出発して東海道を西へ向かい伊勢を経て京都・大坂へと滑稽な旅を続ける道中話で、今でも弥次喜多道中と言えば楽しい旅の代名詞となっています。当地の名物として安倍川餅やとろろ汁も登場。また府中では夜は弥勒手前の安倍川町(二丁町といった)の遊郭へ出かけたり、鞠子(現丸子)では飛び込んだ茶屋の夫婦喧嘩に巻き込まれ、名物とろろ汁を食べるどころか早々に退散したといった話が語られています。一九は1861年没、享年67歳。墓所は東陽院(現東京都中央区勝どき)にあります。ここ府中は江戸から44里24丁45間(約175km)19番目の宿です。(静岡市)


日本平
静岡県静岡市の駿河区と清水区の境界にある景勝地。駿河湾沿いにある有度山(うどやま)の山頂及び附近一帯をいう。日本平の名称は、日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説に由来する。日本平からは、富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、眼下には清水区の街並みと清水港が広がり、北には赤石山脈も望める。夜景のスポットにもなっている。丘陵の最高地点は標高307m。広葉樹林が多く、茶畑やミカン畑も広がる。この丘陵は撓曲によってできたもので、過去10万年間で300mも隆起しており、これは日本でも有数の激しい地殻変動である。丘陵の海側は急峻な地形となっているが、これは波や沿岸流に削り取られたためである。この土砂は沿岸流に流され三保半島を形成する要因となった。丘陵の西から北縁にかけては活断層が走る。有度の名称は駿河国に有度郡(うどのこおり)が置かれていたことに由来し、現在の駿河区と清水区の駿河湾岸から東海道本線のあたりまでが郡域で、後に安倍郡に吸収され、現在の静岡市に至っている。丘陵南域の久能山(標高216m)の山腹には徳川家康ゆかりの久能山東照宮があり、日本平山頂から東照宮までを日本平ロープウェイが結んでいる。また、童謡「赤い靴」にモデルになった女の子とその母親が清水区宮加三(旧不二見村)の出身であったことからその母子像が置かれている。(Wikipedia)

駿府(すんぷ)
駿河国の国府が置かれた都市である。駿河国府中の略であるが、律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、江戸期、単に府中と言えば駿府を指した。明治になり徳川宗家ゆかりの地であるがゆえに新政府に恭順の意を示すため、市内の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡に改称。現在の静岡市葵区のほぼ中心市街地を形成している地域に当たる。(古代)律令時代に駿河国の国府が置かれ、駿河国の中心地となる。国府は見つかっていないが、駿府城北側に位置する葵区長谷町付近が有力である。(中世)室町時代から戦国時代にかけて、今川氏の城下町として栄えた。今川氏は京の都を模して駿府の街造りを行い、現在でも地名や町名等に京都と同じ地名や町名が残る。また、荒廃した京の都を逃れた多数の公家や文化人が駿府に居を移し、「東国の京」或いは「東国の都」と呼ばれ、戦国三大文化の一つ、今川文化が栄えた。しかし、1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏は衰退し、武田信玄の駿河攻めによって、駿府は焼討ちに遭い一時荒廃した。(徳川時代)今川氏の人質として幼少時代を駿府で過ごした徳川家康が、1585年に駿府を本拠地に定め、城下を整備し、元の繁栄をとり戻した。家康は1590年に関東移封となるが、江戸幕府を開いたのち隠居、再び駿府城に居住して大御所政治が展開された。大御所家康公が駿府に君臨していた時代は、「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万人とも12万人ともいわれ、上方(京・大阪)、江戸(15万人)に並ぶ大都市となった。この時期、名目上の駿府城主(駿府藩主)は家康の十男・頼宣(よりのぶ)であった。その後、徳川忠長(ただなが/駿河大納言)が駿府城主になったが、忠長の改易以後は、大名は置かず城代が配属され、幕府の直轄都市として駿府城代・駿府町奉行が置かれた。東海道が整備されると、駿府城下には、江戸から数えて十九番の宿場、府中宿が置かれた。府中宿は東海道五十三次中、最大の都市であった。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-12-25 11:31 | 東海道(新規)

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