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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 葛原岡・大仏ハイキングコース   

北鎌倉駅から葛原岡の尾根を伝いに源氏山へひと登り。
化粧坂切通、銭洗い弁天、佐助稲荷に寄り、樹ガーデンで昼食。
pmは途中の大仏切通を往復し、大仏口へ下り、
高徳院、長谷寺にお参りして鎌倉駅へゴール。
年の瀬の鎌倉、堪能しました。

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北鎌倉駅からスタート


葛原岡・大仏ハイキングコース_d0183387_13083926.jpg東慶寺
鎌倉幕府の第八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼(かくさんしどうに)が開創。夫から離縁状をもらわない限り、妻からは分かれることができなかった時代に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として開山以来600年近く縁切り寺の寺法をひきついできました。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の入寺以来は松岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられていました。明治時代になると寺法は終わりをつげ釈宗禅士を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となりました。学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙、西田幾太郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成(よししげ)、高見順、小林秀雄らの墓があります。(鎌倉市)


葛原岡・大仏ハイキングコース_d0183387_13122877.jpg長寿寺
足利尊氏の邸跡に建武3年(1336)創建し、諸山第一位の列に定めました。尊氏没後、父の菩提を弔うため鎌倉公方足利基氏(もとうじ)によって七堂伽藍を備えた堂宇が建立されました。尊氏の法名を京都では等持院殿、関東においては長寿院殿と称しています。開山は古先印元(こせんいんげん)。正面本堂に足利尊氏坐像と古先印元禅士の坐像が祀られています。右奥の観音堂は奈良時代の古刹忍辱山円成寺の多宝塔を大正時代に移築・改造したものです。境内奥に尊氏の遺髪を埋葬したお墓があります。(鎌倉市)


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浄智寺

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鎌倉石の石段                    
浄智寺(じょうちじ)
鎌倉五山第四位、臨済宗円覚寺派金宝山浄智寺は、弘安4年(1281)北条時頼の三男宗政が29歳で没後、間もなく宗政夫人と幼少の師時(もろとき)を開基として、宗政の菩提を弔うため創建されました。中国の宗の名僧・兀庵普寧(ごつたんふねい)と大休正念及び日本僧・南洲宏海(なんしゅうこうかい)の三人が開山になっています。これは当初開山に招かれた宏海が任重しと身を引き、師の大休正念を迎えて入仏供養をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧を開山としたためです。創建当時の伽藍は外門・山門・行堂・仏殿・方丈・庫裡などを備え、塔頭は11支院に及んだということです。永い間にはたたずまいも変化し、現在は看門尞・山門・鐘楼門・仏殿・書院・方丈・隠寮・庫裡などの堂宇が柏槇や杉木立の山に囲まれ、昔ながらの広大な寺域を残しています。地理的環境と鎌倉五山の伽藍構を後世に伝えるため国の史跡として保護されています。(神奈川県)


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葛原岡神社
鎌倉幕府の執権を北條氏から後醍醐天皇の親政にしようとして幕府に捕えられ、元弘2年(1332)この葛原が岡で露と消えられた。太平記俊基朝臣再び関東下向の事に名分が綴られている。(由緒)


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日野俊基墓(国指定史跡)
日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣。後醍醐天皇に仕え倒幕に参加した。正中の変(1324)に捕えられ許されたが、元弘の乱(1331)の時、再び捕えられ鎌倉に送られて翌年この葛原岡で処刑された。(鎌倉市)




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源氏山からの展望


葛原岡・大仏ハイキングコース_d0183387_01223290.jpg源頼朝像/源氏山公園
年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「源氏山」とか「旗立山」といわれるようになったといいます。鎌倉時代、葛原岡一帯は刑場だったといわれており後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基もこの場所で処刑され、その墓といわれる宝篋印塔(国指定)や俊基の霊を祀る葛原岡神社、銭洗弁天、佐助稲荷が近くにあります。


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銭洗弁財天宇賀福神社(うがふくじんじゃ)
巳の年の文治元年(1185)巳の月、巳の日、源頼朝に宇賀福神の夢のお告げがありました。「西北の谷に湧き出す霊水で神仏を供養せよ。天下は泰平になるであろう」お告げの通りこの地に湧き水があったので、さっそく宇賀福神を祀り、その水で神仏を供養をおこなったことが創建の由来といわれています。この湧き水でお金を洗って使うと何倍にもなって返ってくると信じられています。(鎌倉市)


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佐助稲荷神社
伊豆の蛭が小島に流されていた源頼朝が病に伏していた時、「かくれ里の稲荷」と名乗る翁が夢枕に立ち、平家討伐の挙兵を促しました。後に幕府を開いた頼朝は、かくれ里に祠を探しあて稲荷神社を建てたと伝えられています。幼少の頃、佐殿(すけどの)といわれていた頼朝の名を付けたといわれています。参道登り口に縁結びの11面観音が祀られています。(鎌倉市)


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樹(イツキ)ガーデン


葛原岡・大仏ハイキングコース_d0183387_14193967.jpg鎌倉大仏/高徳院
鎌倉大仏の名で親しまれている高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像は、1252(建長4)年から10年前後の歳月をかけて造立したとみられる。制作には僧浄光(じょうこう)が勧進した浄財が当てられたという。鋳工として丹治久友、大野五郎右衛門の名を記す史料もあるが、原型作者も含め創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を収めていた仏殿は、1334(建武元)年と1369(応安2)年に大風で損傷したらしい。15世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。(総高13.4m 仏身高11.3m 総重量121t)


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由比ヶ浜展望/長谷寺

葛原岡・大仏ハイキングコース_d0183387_14194299.jpg長谷寺
長谷寺本尊の11面観音像は日本最大級の木造の仏像です。寺伝によると開山は徳道上人が大和国(奈良県)初瀬の山中で見つけた樟(くす)の巨大な霊木から2体の観音像が造られました。一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体が衆生済度の願いが込められ海に流されたといいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初瀬あたり)に流れ着いた観音像を遷し建立されたのが長谷寺です。境内の見晴らし台からは鎌倉の海が一望でき、2000株を超えアジサイをはじめ四季折々の花木を楽しめます。(鎌倉市)


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葛原岡・大仏ハイキングコース案内図
  

by Twalking | 2014-02-03 15:08 | 鎌倉散歩(新規)

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