無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり鎌倉04 鎌倉七口   

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亀ヶ谷坂(かめがやつさか)
この道は扇が谷と山ノ内とを結ぶ亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通とは山を切り開いて造られた道のことで、交通を容易にするとともに防御の拠点ともなっていました。亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中ごろには切通として整備されていたようです。「吾妻鏡」によれば、幕府が鎌倉市中の7ヶ所の商業地域の一つとして「亀谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は経済的にも軍事的にも重要な場所だったことが分かります。江戸時代には「鎌倉七口」の一つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。(鎌倉市)


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化粧坂(けはいざか)
化粧坂は鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たります。鎌倉の交通の要衝であったことから元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。「吾妻鏡』建長3年(1251)12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えてもよい場所の一つとして「気和飛坂山(化粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡(くずはらがおか)とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された処刑場でもありました。指定地内の北側にはやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群・うりがや)があります。また、周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、化粧坂が交通の要衝であると同時に都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになっています。(鎌倉市)



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大仏切通
大仏切通はいわゆる鎌倉七口の一つに数えられ、梶原・山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条常磐亭の存在や朝夷な切通(あさひな)や巨福呂坂の整備期との関係から仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに整備されたと考えられています。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは上野国から南下した軍勢が洲崎(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦になったことが「太平記」に見えていることから、この地も戦場になった可能性もあります。大仏切通は江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場やここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、そして切岸などとともにかつての鎌倉の幹線道路のあり方を今によく伝えています。(鎌倉市)


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山ノ内
北鎌倉駅があるため北鎌倉という通称で知られ、建長寺・円覚寺・東慶寺・浄智寺・明月院などの寺院で有名な観光地。市の区分では鎌倉地域ではなく大船地域に入るが、そのすぐ北西に接し、巨福呂坂および亀ヶ谷坂の切通で鎌倉地域に繋がる。北西にある大船方面に開けた谷状の地形であり、その谷地を鎌倉街道・横須賀線が並行して走る。古くは山内庄の一部であり、この一帯を領したのが山内氏である。鎌倉時代には有力武家や建長寺、円覚寺が造られて栄えた。室町時代には関東管領の上杉氏(山ノ内上杉家)が居を構え、現在でも「管領屋敷」という地名(北鎌倉駅近く)が残る。(Wikipedia)


扇ヶ谷(おうぎがやつ)
扇ガ谷は横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉駅間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周囲を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地名の由来は鎌倉十井の一つ「扇の井」(現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は関東管領上杉定正の旧邸で東勝寺の地で、亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある。(新編相模国風土記、新編鎌倉志)。もともとこの地は亀谷と呼ばれ、「吾妻鏡」には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。源頼朝は鎌倉に入ると先ず父・義朝を偲んで義朝邸があった亀ヶ谷を訪れ、後にここに北条政子が亀谷山寿福寺を建立した。扇ヶ谷の地名は室町時代にこの地に住んだ管領上杉定正が『扇谷殿』と称されてから扇ガ谷の地名が一般的になり、亀ヶ谷の呼び名は廃れた。(Wikipedia)


深沢地域(ふかさわ)
鎌倉市の行政区域のひとつ、8つの大字(梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎)がこの地域に含まれる。平安時代には、桓武平氏の村岡た忠通を祖とする鎌倉氏の支配領域であった。鎌倉景通の嫡男景久は梶原郷に在して「梶原氏」を称したとされる。梶原氏は鎌倉時代初期に源義頼朝の側近として勢力を誇った梶原景時につながる。当地域には等覚寺や御霊神社など、梶原氏や梶原景時の伝承を残す史跡も多い。鎌倉街道う道(吾妻鏡では下道と記述)が当地域内をほぼ東西に貫いていたと想定される。ただし、化粧坂からどのような経路で村岡(現在の藤沢市宮前付近)に至っていたかは不明である。当地域は鎌倉街道上道の鎌倉への入口にあたるため、鎌倉防衛の要所とされた。化粧坂と大仏坂の中間にあたる常盤の谷戸には鎌倉幕府第7代執権の北條政村が別邸を構えていたとされる。1333年に新田義貞の鎌倉攻めの際には、現在の寺分・上町屋付近(かつて「洲崎(須崎)」と呼称された)において、北條氏の赤橋守時らが戦死した洲崎合戦があった。近世には東海道戸塚宿から鎌倉へ向かう道(鎌倉街道中道)から小袋谷で分岐した江の島道が、当地域内をほぼ南北に通っていた。(Wikipedia)


by Twalking | 2014-02-03 18:42 | 鎌倉散歩(新規)

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