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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(22)丸子宿~岡部宿 01 下見・宇津ノ谷峠   

日時 2014.2.25(火)
天気 曇り

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この谷間を詰めていきます/道の駅宇津ノ谷峠(逆川口)


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前方ピークの左側を上ります/宇津ノ谷上集落

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宇津ノ谷峠

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中央ピークの裏を越えてきました/道の駅宇津ノ谷峠(廻り沢口)


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資料ファイル

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高札場跡(レプリカ)                 大日如来

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誓願寺                        且元夫妻の墓
誓願寺は建久年間(1190~99)に源頼朝の両親追善のために建立されたが、天文年間(1532~55)の丸子城の戦火で類焼した。しかし、永禄十一年(1568)駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建したものである。この寺はまた、大阪冬の陣を起こしたいきさつの舞台となったところである。慶長十九年(1614)、豊臣家の重臣で、賎ヶ岳七本槍の勇士でもあった片桐且元は、京都方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字について、駿府城の徳川家康に申し開きのため、この寺に滞在していた。有名な方広寺大仏鐘銘事件である。しかし、家康には且元の意がくまれず、遂に大阪冬の陣を起こし、続いて翌年元和元年(1615)五月の大阪夏の陣で、豊臣家は亡びてしまうのである。境内には、子孫の片桐石見守貞昌によって建てられた且元夫妻の墓が、二基仲良く並んでいる。また、本堂右側にある古池には、珍しい産卵法で知られる「モリアオガエル」が生息しており、五月から七月にかけて、その産卵風景を見ることができる。(静岡市)

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丸子紅茶
日本で初めて紅茶を栽培した多田元吉の茶樹にダージリンとアッサムをかけ合せ、日本人に好まれる新しい品種を作っています。「紅富貴」は香り高くまろやかな風味、「紅ひかり」は中国系のあっさり味で、どちらも鮮やかな赤色と渋みのないまろやかな口当たりが特徴です。(パンフ)

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長源寺・起木神社
長源寺は宝台院の松寺として、寛保元年(1741)慈悲と心の安らぎの観音様を祭ったお寺です。山門左側正面に、平成元年に建立された高さ3mの座像で、観音菩薩が三人の子供を抱き寄せた石仏の「早百合水子観音菩薩」の供養塔がある。境内には、幕末の国学者野沢昌樹の墓がある。昌樹翁は甲斐の人で、明和事件(1767)で尊皇の志士で有名な弟の山県大武が処刑されたので、駿府丸子長源寺に移り住んだ。時に府中に寓居し、国学・医学の道を教えた人だった。木枯の森の本居宣長撰文の碑も建立された。寛政12年(1800)79歳で没し、縁り深い長源寺に葬られた。辞世の歌に「心引く ほたしなき身は 梓ゆみ かへらぬ旅の 道にまよわず」  鳥居の奥に、源頼朝公縁りの起木神社が祭られている。平安中期に学問の神として知られる菅原道真公を御祭神として鎮祭された。当社は古来神域に紅梅が多く「赤梅ヶ谷」と言われ、何時しか「赤目ヶ谷」となった。春秋二度の例祭日には「合格祈願」「雷除けの神」として信仰篤く、遠近より参詣者で賑わっている。(静岡市観光レクリエーション課)

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丸子は紅茶の発祥の地
丸子に茶園を開いた多田元吉は明治9年政府からインドに派遣され、紅茶製造技術を持ち帰り全国に広めました。伝統の紅茶作りは現在も続いています。


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宇津ノ谷は丸子、岡部両宿の間に位置する間宿です。行き交う旅人が宇津ノ谷名物「十団子」(とうだんご)を求めたり、無事に峠を越えてほっと息ついたところです。ここからの眺めは今も昔も変わらず、山間の集落の景観は当時を彷彿とさせてくれます(静岡県)

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慶龍寺
慶龍寺は、正6年(1578)歓昌院第四世宗旭和尚が開いた曹洞宗の寺で、当山の鎮守として延命地蔵尊(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩である。当寺は、室町時代から伝わる「十団子(とうだんご)」が有名で、毎年8月23・24の両日催される縁日の際に、この「十団子」が参拝者に売られている。この「十団子」の由来を要約すると、昔、宇津ノ谷峠に旅人を食べてしまう鬼が現われるため、諸人の難を救おうと在原業平の祈願によって地蔵菩薩が旅僧に姿を変えて、宇津ノ谷峠で鬼と対決した。旅僧は人間の姿に化けて現れた鬼に「すみやかに本体を現せ」と言うと、たちまち六メートルの鬼の姿に変身した。「なるほど、お前の通力はたいしたものだ。今度は、できるだけ小さくなってわしの手のひらに乗ってみよ」。鬼は「よし」と答えて小さな玉となって旅僧の手のひらにぴょんと飛び乗った。旅僧はいち早く手に持った杖で、その玉を砕き「お前はこれで仏になった。これからは旅人を苦しめてはならぬぞ」と悟し、砕かれて十粒になった鬼を飲み込んでしまった。その後、鬼の災いもなくなり、道中守護のために、お団子を数珠の型にして「十団子」を作り、魔除けとしたもので、それが今も当寺に伝わっているのである。(静岡市)


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御羽織屋
秀吉公のお羽織の由来 
天正十八年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話しをしたので、帰りに立ち寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後に家康もこの羽織を見て記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。(東海道宇津谷石川家)


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旧東海道のぼり口                 馬頭観音

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雁山の墓
俳人雁山は山口素堂に俳諧を学び甲府と駿河に庵を結んで自らの地盤を固めました。享保12年(1727)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが旅先で没したと思いこの墓碑を建てたと伝えられています。しかし雁山はその後「有渡日記」や「駿河百韻」等を著し、明和4年(1767)82才で甲府に没しました。もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていましたが山崩れで流れ、この位置に移されました。


東海道(22)丸子宿~岡部宿 01 下見・宇津ノ谷峠_d0183387_23432510.jpg登り始めて少し行った辺りは、明治43年8月に起きた集中豪雨による山崩れのため、地形が大きく変わってしまったところです。階段は整備に伴い便宜的に設けられたもので、江戸時代には今より山側上方を幅2間(約3.6m)の道が通っていまいた。

 




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峠の地蔵堂の石垣
この石垣は江戸時代中頃(18世紀末)宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂(石垣上)を構える際、平らな土地を確保するため積まれたものです。石垣は段構えで総高7mm最大幅約12m、石材はすべての難所で総幅が縦幅より長い(平置き)積み方を施しています。根石はやや大きい寸法の石材を用い、天端石はやや小さい石材を用いているようです。上段の石垣は下方で膨らみ上方で反る形状となり、勾配が一定ではないばかりか表面的に凹凸を持つ形状となっています。この積み方は中世以降の城郭や近世の高石垣に見られるような積み方とは異なりますが、石材の一つ一つが加工度の高いこと及び石組が丁寧な技法で行われていることが石垣の安定をもたらしているといえます(静岡市)

峠の地蔵堂
峠の地蔵堂は東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また「道しるべ」の役割を果たしていました。地獄の入口で衆生(全ての生きもの)を救うという「地蔵信仰」は江戸時代に庶民の間で盛んになりました。村境に地蔵を祀り、信仰することによって村や旅人を守る一つの形として峠の地蔵信仰も流行します。宇津ノ谷峠には静岡市側に「峠の地蔵」、岡部町坂下に「坂下地蔵(通称:鼻取地蔵)」があります。「峠の地蔵」も明暦2年(1656)に狩野探幽による「東海道地取図絵」に描かれています。また坂下の地蔵堂には寛文11年(1671)銘と元禄14年(1701)銘の石灯篭が奉納されていることから、両地蔵は共に江戸時代初期には既に信仰されていたことが分かります。峠の地蔵は明治42年に慶龍寺へ移されました。(静岡市)

東海道(22)丸子宿~岡部宿 01 下見・宇津ノ谷峠_d0183387_23433244.jpgこの奥の空き地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を忍ばせている。江戸時代末期の歌舞伎脚本作家、河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」という芝居がある。盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りして用立てた百両を持って京に上がる。文弥は、道中、護摩の灰、提婆の仁三に目を付けられながら丸子宿にたどり着く。一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文弥の百両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。文弥の百両ほしさに十兵衛が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場、『文弥殺し』の舞台がここ延命地蔵堂前である。この延命地蔵尊は、現在慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年八月二十三・二十四日である(丸子路会)


東海道(22)丸子宿~岡部宿 01 下見・宇津ノ谷峠_d0183387_23425492.jpg髭題目の碑
碑の書面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。裏面には建立年月の「天保六年霜月再興」と「備前国(岡山県)木綿屋門平」をはじめ、清水市から島田辺りまでの建立者達の名前が刻まれている。このような髭題目は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである(岡部町教育委員会)


東海道(22)丸子宿~岡部宿 01 下見・宇津ノ谷峠_d0183387_23432137.jpg蘿径記碑跡
蘿径記碑は文政13年(1830)駿府代官・羽倉外記(簡堂)が蔦の細道の消滅をおそれ、末永く残すために建立した石碑です。「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります(藤枝市)




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旧東海道(別名大名街道)
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の険路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説が生まれたのも、難所であった証拠であろう。豊臣秀吉が天正十八年(1590)七月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。慶長六年(1601)徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、二十万石以上の大名は武将が二十騎、足軽が百二十人から三百人もあり、一万石の大名でも五、六十人の共揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治九年トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。(岡部町教育委員会)

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東海道(22)丸子宿~岡部宿 01 下見・宇津ノ谷峠_d0183387_11054240.jpg坂下地蔵堂                                           蘿径記碑
建立年代、建立者は不明ですが、元禄十三年(1700)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の三人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立しました。霊験あらたかと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験のあらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されています。
堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒しました。 今でも八月二十三、四日の大縁日には、串に刺した十団子をお供えして供養します。また、新盆供養のために遠方からも参拝者が訪れます。(岡部町教育委員会)


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蔦の細道
古代・中世(約700年~1590年頃)の東海道です。古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ、平安時代の歌人在原業平が「伊勢物語」にこんp峠道のことをかきしるしてから全国的に名前をしられるようになりました。(案内板)
旧東海道
天正11年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のとき大軍を通すために開拓されたものといわれています。江戸時代に入り正式の東海道として参勤交代の大名をはじめオランダ商館長、朝鮮通信使、琉球使節や一般の旅人が明治初期まで通行しており、当時はたいへん国際色豊かな街道として使われておりました。(案内板)


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明治のトンネルの由来 宇津ノ谷峠(旧東海道)は江戸時代初、期東海道の駅伝制が整備され官道となりました。明治のトンネルは旧東海道を通行する人達のために明治9年総工費24800円で築造された日本初の有料トンネルです。当寺は測量技術が発達していなかったため「く」の字型のトンネルになってしまいまい見通しが悪いため照明用のカンテラを設置していました。このトンネルの構造は静岡口の約20mは青石造りでしたが大部分が角材の合掌造りであったため、明治32年に照明用のカンテラの失火により焼失崩壊し、一時廃道となりました。現在の赤煉瓦トンネル(通称)は静岡口を直線的に手直ししたため203mとなり、明治37年に竣工しました。(案内板)


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東海道五十三次 岡部宇津之山


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岡部宿
岡部宿は東に宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)宿の指定を受けました。岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり明治5年(1872)1月の伝馬所廃止を機に宿駅制が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。江戸時代の作家・十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」にも登場します。雨中の宇津ノ谷峠で滑って転んだ弥次さんと喜多さんが、増水の大井川が川留めと聞いて岡部宿に投宿する際に一首「豆腐なるおかべの宿につきてけり足にできたる豆をつぶして」と交通の難所であった様子が描かれています。

 



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十石坂観音堂
入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外人の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。(厨子一)中央にある厨子で宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入りである。彩色が施されていて江戸もやや末期の作と思われる。(厨子二)観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。江戸時代も中期以降の作と思われる(岡部町教育委員会)


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大旅篭柏屋(かしばや)              小野小町の姿見の橋

東海道(22)丸子宿~岡部宿 01 下見・宇津ノ谷峠_d0183387_14441583.jpg五智如来像
内谷の誓願寺境内(この前方)にあったが、廃寺となり現在、寺跡に移されている。地元産の三輪石(安山岩質凝灰岩)で作られ石像仏としては形の大きなものが特徴で、五体揃ったものが二組ある。一組は宝永二年(1705)に陸奥棚倉から駿河田中城主に移封された内藤弌信の家老の脇田次郎左衛門正明が同年に寄進したものである。 昔、当時の田中城主だった内藤紀伊守に、お口の不自由なお姫様があった。このことが絶えず殿様と奥方の心痛の種で、ある日この話を耳にした徳川家の奥方から、岡部宿のはずれ誓願寺の五智如来をひたすら念ずるように紹介されたそうである。そこで早速殿様は奥方共々家老をつれ、この寺にまいって願をかけた。いく日か経ち、霊験あらたか、お姫様はやがてお口も不自由なく話されるようになり立派な大名の許へおこし入りされた。殿様はいたくこのことに感謝され幾ばくかの田、畑を寄進された。向かって右から 釈迦如来  阿しゅく如来  大日如来  宝生如来  阿弥陀如来 (岡部町教育委員会)


by Twalking | 2014-02-27 17:47 | 東海道(新規)

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