無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(23)岡部宿~藤枝宿~金谷宿 01下見・藤枝   

東海道(23)その1(初日:岡部宿~藤枝宿~六合駅)
日時:2014.3.25(火)~26(水)
天気:25日 晴れ 

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朝比奈川は高草山に沿って流れ、先の焼津で駿河湾に注ぎます/横内橋

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葉梨川・八幡橋                   須賀神社


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旧道の名残松/水守交差点


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藤枝宿を抜けると勝草橋です/瀬戸川

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千貫堤瀬戸染飯伝承館              一路六合駅へ/上青島松並木


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資料ファイル

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常夜灯&「東海道岡部宿」道標/内谷新田   岩村藩傍示杭
岩村藩領傍示杭(東)
この杭は、江戸時代享保二十年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。    (横内歴史研究会)

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慶長4年の開基・慈眼寺(曹洞宗)           岩村藩陣屋跡入口標柱

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横内あげんだい/横内橋             川除地蔵/横内橋

盆送り火法要あげんだい
このあげんだいは明治38年にはじまり、大東亜の大戦後途絶えていた「あげん台」を昭和53年に復元しました。古老の意見を元に試行錯誤の結果、なん年もかかって「この形」に落ち着きました。年明けより山に落葉を拾いに行き、夏の暑い山で竹取を行い加工組み立てと、会員一同汗を流しながらの作業です。盆送りは16日には盛大なイベント行事がこの朝比奈川原にて繰り広げられます。(横内歴史研究会)

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岩村藩領傍示杭(西)/仮宿手前          田中藩領傍示杭/仮宿先

従是西田中領 
この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示標は総て石材に改むべしとの布令があったので、田中領主本多侯は、欧陽詢の書風よろしき、領内小土の藪崎彦八郎に命じ「従是西田中領」の文字を書かせた。又これを城下、長楽寺町の石材業某に命じ彫らせた。筆跡彫刻ともに街道中に比類なき作と称された。斯くして、この碑を領地境に建立したが、やがて明治四年(1871年)、廃藩置県令が発布され、この傍示石を撤去することとなり、故あって水守の菊川晋一氏宅に在ること数十年、1950年頃田中城跡、現西益津中学校正門脇に建てられ今日に至っているが、この碑を本来あるべきこの地に復元しようと、ここに複製を建立し後世に伝えるものである。因みに碑文の題字は本碑の拓本に依るものである。(広幡の歴史を探求する会の碑文)

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一里山の半鐘                   鬼島一里塚趾

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左手は田中城への御成道とか/八幡橋    鬼島立場趾石碑

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須賀神社のクス                  全居寺観音堂

このクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道中膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ淵など、東海道ゆかりの史跡があります。樹高:23.7m  根廻:15.2m  目通:10.9m  枝張:東西21.2m 南北27.9m(案内板)

史跡 鐙ヶ渕と観音堂
此処の広場は、元葉梨川の渕でその形が馬具の鐙に似ていたので古来より鐙ヶ淵と呼称されていた。崖上の観音堂は通称山之堂と言われ人々に親しまれて来た。御本尊は蛇柳如意輪観世音菩薩と言い、お腹篭りという珍しい尊像で胎内仏は、平安時代中期の名僧で恵心僧都の御作と伝えられる。昔から子宝、安産等に霊験あり婦人の参詣者が絶えなかったという。 昔、渕のかたわらに柳の大木が有りその木に触れたものは、浄土往生の志を覚え渕に身を投げたという。人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかった。後に聖僧により切り取られ一体の観音像として鐙堂の御本尊となる。(鐙堂略縁起より) 伝説に依れば徳川家康は戦勝祈願の為、愛用の鐙を渕に沈めたという。(鐙堂略縁起より) 弥次喜多道中で有名な十辺舎一九は「東海道中膝栗毛」三篇の中で鐙ヶ渕の歌を詠んでいる。 ここもとは鞍のあぶみが渕なれば  踏んまたがれて通られもせず(案内板)

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藤枝宿

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藤枝宿に入ります/東木戸(右)付近       藤枝成田山山門

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成田山新護寺                   左車神社

藤枝成田山の歴史と左車
当山は今から約七百年前の建長年間、照光院と云う名前の寺院であったが、後嵯峨上皇の子宗尊親王(十代)が六代将軍となる為京都から鎌倉へ東海道を上る途中、ここ藤枝の宿で 親王の乗っておられた御所車の左輪が外れてしまった。そこで御所車を修理する間照光院で 休息された。光栄ある休息にあづかった寺ではこれを記念してそれ以来休息寺と改め た。又この修復に当たり破損した左輪や車軸を寺の裏の聖地を運んで埋めた後、その跡に 宮一宇を建立した。現在保存し左車神社と名付けた。又この地名をも『左車』と名付け現在に至っている。その当時寺内には本堂、不動堂、大師堂、庫裡等の伽藍があったが、そ の後今川氏から武田氏の戦国時代となり、文禄~慶長に渡っての二度の戦火に遇ったため 焼失した。のち廃寺同様となっていた所、千葉県大本山成田山の御分身を勧請して皆様方の燃ゆるが如き、旦つ不断の御熱誠によりまして、静岡県下唯一の成田山として明治初年落 成し、未曾有の盛況裡に入佛大法会を終え今日に至り、駿河鎮護の道場として信頼を添え 得ましたことは法幸限りなく御同慶至極の事と存じます(案内板)

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東海道藤枝宿絵図

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白子由来碑/小川眼科前
凡今より390年前本能寺の事変の折、伊勢白子の住人小川孫三徳川家康公の危急を救い、覚えとして天正14年8月14日御朱印を賜る。是より藤枝町白子町と称えこの地に居住す(碑文)

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蓮生寺は熊谷直実が出家した後の蓮生法師からの命名。出家後にここにあった屋敷に立ち寄ったのが起源といわれています。山門は文化8年(1811)田中藩主・本多正意が寄進したものです。

蓮生寺のイブキ
イブキはヒノキ科の常緑高木でビャクシンともいわれ、幹がねじれる性質もある。雌雄異株であるが蓮生寺のイブキは雄株である。球果は熟して紫黒色となる。蓮生寺のイブキは、明治36年1月木町から出火した大火のため一部類焼したが、その後授樹勢を復活し今日に及んでいる。 根廻:1.65m  目通:1.55m  樹高:6.8m  枝張:東西7m 南北7m (藤枝市教育委員会)

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藤枝だるま
江戸時代からの伝統を受け継いでいる“藤枝だるま”は創業170余年。かぼちゃ型、面長型などは明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が愛玩したということから『八雲だるま』や『乙吉だるま』とよばれて親しまれている。“藤枝だるま”の大きな特徴は、びんの左右に描かれた「8の字」である。

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王子神社                          旧藤枝製茶貿易会社事務所

若一王子神社(じゃくいちおうじ) 藤枝の由来
「若一王子神社」の最初のお祭り(祭祀)は天平2年(730)と記されています。それから時は下り平安時代に源八幡太郎義家が奥州での争乱を平定するため下向したその途中で若一王子神社で武運長久をお祈りしました。その時、神社の古い松の木の枝に藤の花が今を盛りと咲きにおっておりました。これを見て『松に咲く 藤枝の一王子 宮居ゆたかに 幾千代をへん』という和歌を詠み、自身も松を若一王子神社に手植えしました。その後、この松を「千歳の松」というようになり、この辺り一帯を「藤枝」と呼ぶようになったといわれております(案内板)

とんがり屋根の洋館
水色の壁と、とんがり屋根が特徴のこの建物は、かつてお茶の輸出が盛んだった頃の藤枝製茶貿易会社の事務所でした。2階の屋根の隅棟につく鬼瓦には、星形の枠の中に「茶」の文字を浮き立たせた紋章が入っています。お茶のまち藤枝を象徴する建物です。(藤枝市)

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田中城祈願寺・大慶寺庫裡(くり)

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本堂(祖師堂)                    久遠の松

日蓮聖人京都遊学往復お立ち寄りの霊跡
今を去る七百余年前、鎌倉時代建長5年初春(1253)日蓮聖人が京都比叡山へ遊学の折、 往復お立ち寄りになって道圓、妙圓の両夫婦を説法教化され、題目のご本尊と毘沙門天王を受興され、記念に一本の松をお手植えされました。この松は『久遠の松』と命名されま した。道圓、妙圓の名は聖人より授けられた法号で、後年、両夫婦は自宅に法華堂を建立 して当山の基を開きました。両夫婦の墓碑は鎌倉時代の作で、大慶寺は法華経流布の大慶にちなんで寺号としました。当山は東海道有数の日蓮聖人直接のお立ち寄りの霊跡であ ります。現在の本堂は間口、奥行き十間(18m)四面で昭和2年完成したものです。
久遠の松(県指定・天然記念物)
日蓮聖人お手植えの松で樹齢七百余年の黒松。松としては最高の年齢で全国まれにみる大木で天然記念物に指定されています。高さ25m、根元周囲7m
 境内の建築物
庫裡は相良城(田沼公)の御殿を天明8年(1788)に移築したものであり、境内には鐘楼堂・ 三光堂・弁天堂・淨行堂がある。当山は徳川期より明治前迄は『さむらい寺』と称せられ、田中城主(四万石)姫君病気平癒の功により祈願寺とされました。境内には田中城主太田摂津守、田中藩姫君、同藩漢学 者石井縄斎先生(日知館創立者)、国学者熊沢惟興先生を初め家老高瀬重富氏等の墓碑並びに大塚亀石、荷渓、翌崖等地方文人の墓石があります。(案内板)
 

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下本陣跡                      上本陣跡

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問屋場跡

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東海道五十三次 藤枝・人馬継立


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正定寺                        本願の松

樹種:クロマツ  形状:傘状に枝張りした美しい外観を呈する  目通:約3m  枝張:東西11.5m 南北14m  樹勢:良好  本願のマツ(別名 延名のマツ)は枝張・姿の点で市内では優れたクロマツである。田中城主土岐丹後守頼稔が大坂城代となった時(享保十五(1730)年)に寄進したものと、その由来を伝えている(藤枝市教育委員会)

(正定寺付近が木戸)

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勝草橋/瀬戸川                    志太一里塚

瀬戸川の徒歩渡し
瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われていた。瀬戸川の川越し制度が創設されたのは貞淳2年(1685)に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。両岸の河原町、志太村、稲川村には川越し人足15人が常置されていた。

勝草橋の名前の由来
明治8年(1875)11月に初代勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となった。勝草橋という名前は旧幕臣の伊佐新次郎がつけたものといわれる。伊佐は江戸幕府の時代に下田奉行所支配組頭として外国との交渉に当たるなど活躍し唐人お吉の物語にも登場している。彼は明治維新によって徳川家に従って駿府に入り、廃藩後には牧之原の茶園開墾に尽くすと共に、書道・漢籍に深く通じていたため旧幕臣の子弟らの教育にもあたった。前島の博習舎、志太の為善館でも教鞭をとり志太地域の近代教育の振興に努力した。勝草橋の名前の由来は二つの説が伝えられている。一つはむかし田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍橋といっていたのが縮まって勝草橋になったという説である。もう一つは志太という地名が植物のシダ(羊歯)の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草橋になったという説である(説明板)

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直進は藤枝駅、歩道橋へ/青木交差点     356号を横断/水上東

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田中藩領傍示杭/瀬戸新谷         鏡池堂(六地蔵)             

瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り込む特異な村で、藩境に境界を示す牓示石を立てた。この牓示石は一丈余(約3m)の石柱で、「従是東田中領」と書かれていた。これと対となるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。牓示石は、田中城主本多正意(まさおき)が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。上青島にも牓示石があった(青島史蹟保存会)

六地蔵尊の由来
この六地蔵尊の由来を概略して記すれば、昔の人の遺い伝えと郷土の史跡から六地蔵は近在の名所として亦々東海道筋の由緒ある歴史の地として広く知られている所である。六地蔵尊は神龍凄みし鏡ヶ池から出現したるにより鏡池堂六地蔵尊と称し駿河国弐拾四番札所第九番の霊地に指定せられ東海道を旅する著名な人々がここに立寄って祈願をされたという記録、また、正徳三年には大草太郎左エ門当地支配の節御嗣子なきため六地蔵尊に祈願せしところ感銘あってお子様が授けられしにより御手代向坂仁右エ門を普請役として派遣されこの堂守を寄附されたという。また六地蔵尊の本像は知証大師の自作とされ長さ三十糎ばかりの金色に彩色した木仏である。さらに鏡池堂の額は儒学の人渡辺崋山の揮亳であると伝えられている。六地蔵尊の霊験は著しくあらたかにして願いごとが叶えられ災難消除・延命長寿・家内安全・交通安全等祈願すれば必ず感応すること疑いなし。依而近郷庶民帰依頼みに厚く遠近よりの参詣者絶えず。この堂宇は昭和三十三年に昔の形をのこして改築したものである。六地蔵尊の縁日は毎年八月二十三、四、五日に行い、二十四日の晩は附近に夜店が並び余興もあって近郷界隈より参詣する善男善女でにぎやかく夏の夜の盛り場として有名である。六地蔵尊の開扉供養(お開帳)は三十三年毎にそのときは本像を開けて信者に拝観せしむるその外に一切開扉しない。尚六地蔵尊の周辺は時代の変遷により変化しておるが堂宇の位置は変わっていない。六地蔵尊霊験あらたかなることは以上の通りであり、この由緒ある状況を今の人たちに広く知って頂くと共に永くこれを保存顕彰して次の時代に伝え遺したい所存であります。(瀬戸新屋町内会)

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古東海道蹟
昭和三十年代までは、ここから西に瀬戸山の丘が続いていた。この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下ると内瀬戸の部落へ通じていた。この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる(青島史蹟保存会)

d0183387_19595598.jpg東海道追分
ここには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵を通るようになったのは、開拓が進んでからである。当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた(青島史蹟保存会)

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千貫堤                        染飯/千貫堤瀬戸染飯伝承館     
慶長や寛永の大井川の大洪水でこの地は度々水害に悩まされた。寛永十二年(1635)田中城主となった水野監物忠喜は領内を洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺)まで約360m、高さ3.6m、巾2.9mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したものでこの名がある。昭和四十年代の土地開発によって、藤五郎山を始め堤は取り除かれ、現在は石野家の南側に約40mの堤がそのままの姿で残ってい(青島史蹟保存会)

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上青島一里塚/一里山手前           日本橋から206km/島田市道悦



by Twalking | 2014-03-29 21:42 | 東海道(完)

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