東海道Ⅲ(1)日本橋~品川
天気 曇り
道の起点、なるほどそうですね。
この橋の上に立つと、自然に気持ちがシャキットします。
今日は春の日本橋祭りで橋上が解放されてました。
いつもはレプリカですが、中央に埋められた道路元標、
初めて本物を見ることができ、ラッキーです。
増上寺も春の例祭で賑わってました。
稚児行列は時間が合いませんでしたが、
徳川霊廟が公開中で、みなさん喜んでおられました。
同じ道中でも、その時々の出会いがありますね。
天気も少しぱらついた程度で、無事品川にゴール。
幸先のよいスタートが切れたのではないかと思います。
みなさん、如何でしたでしょうか ?!
長い道中、とりあえず箱根を目指して頑張りましょう。
お疲れさまでした、どうぞ宜しくお願いいたしま~す。
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記録
人数 18名(全体40名 2班)
歩数 23000歩
時間 5時間30分
行程
各所(山梨)⇒9:55三井タワー前10:10・・・日本橋・・・八重洲・・・京橋(大根河岸・
江戸歌舞伎)・・・銀座4丁目・・・新橋(芝口御門趾・金春屋敷跡)・・・芝大神宮・・・
品川プリンスP12:00(WC・昼食)12:40・・・増上寺(境内・徳川家墓所)13:25・・・
薩摩の道・薩摩藩上屋敷跡・・・西郷・勝会見の碑・・・大木戸・・・札の辻・・・
泉岳寺14:35(WC・S)14:55・・・品川駅15:00(WC)15:30⇒各所
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『東海道五十三次・歴史街道めぐり』
企画・催行:(株)読売旅行
【第1ステージ】スケジュール
第1回 日本橋~品川 4月
第2回 品川~蒲田 5月
第3回 蒲田~子安 6月
第4回 子安~保土ヶ谷 7月
第5回 保土ヶ谷~戸塚 9月
第6回 戸塚~藤沢 10月
第7回 藤沢~茅ヶ崎 11月
第8回 茅ヶ崎~大磯 12月
第9回 大磯~国府津 1月
第10回 国府津~小田原 2月
第11回 小田原~箱根湯本 3月
(詳細はHP、パンフレットなどをご覧ください)
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資料ファイル
東禅寺山門/港区高輪3
東禅寺は、幕末の安政六年(1859)最初の英国公使館が置かれた場所です。幕末の開国に伴い安政六年六月、初代英国公使館(着任寺は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)六月まで七年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)五月には尊王攘夷派の水戸藩浪士に、翌二年五月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。東禅寺は臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊藤家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また臨済宗妙心寺派の江戸筆頭でもありました。現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」(せんげんてい)やその前の農園などは良好に残っています。農園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にペアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝える唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。(東京都教育委員会)
(慶長14年(1609)伊東祐慶が嶺南崇六を開山に招聘して、現在の東京都港区赤坂に創建した。寛永13年(1636)現在地に移転)
高輪
東京都港区の南端に位置し、都心から郊外への境界に当たる地域である。江戸時代は町外れで、高台には諸藩の下屋敷(別荘)が多く置かれたことから、明治時代以降に皇族や高官・財界人の邸宅が建ち並ぶ地となった。坂の多い地形で、全体に南北に長い丘陵地の形をしている。東側はかつては海に面した斜面で、斜面の下を海沿いに東海道が通っていた。東海道は現在の国道15号(第一京浜)であり、江戸の玄関口である高輪大木戸の跡が残されている。西側に下ると国道1号を境に白金・白金台と接する。高輪の地名は、戦国時代の軍記物語の中に「高縄原」として書かれていることに由来する。高縄とは高縄手道の略語であり、高台にあるまっすぐな道を意味している。ちょうど丘陵の中心部を南北に走る二本榎通りが、あたかも高いところに張った縄のようであったからと伝えられる。(Wikipedia)
平将門は平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。徳治2年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し板石塔婆を建てて、傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました。幾多の変遷の後、昭和4年(1970)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。(東京都教育委員会)
将門首塚の碑
昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった、現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。明治二年(1869)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。(千代田区教育委員会)
by Twalking | 2014-04-07 19:50 | 東海道(新規)