無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水リバーサイド01(中流部)   

日時 2014.5.4(日)
天気 晴れ

中流部(1)陣屋橋(小金井公園)~清願院橋(玉川上水駅)

玉川上水の流路
現在の玉川上水は、保存状態・利用状況の違いによって、おおまかに3つの区間に分けて考えることができる。 すなわち、上流から順に、「多摩川からの導水路として今も供用されている区間」、「清流復活事業によって少量の水を流している区間」、「大部分が暗渠化され、水路としても水辺としても利用されていない区間」である。 以下では便宜的に、これらの区間をそれぞれ「上流部」、「中流部」、「下流部」と呼ぶこととする。

中流部(小平監視所~浅間橋まで)
東京都の清流復活事業に従って処理水を流している区間である。 古くからの樹木がよく茂り、豊かな木立に覆われている箇所が多い。小平監視所より下流は、かつては多量の水が新宿区の淀橋浄水場まで送られていたものの、1965年(昭和40年)の同浄水場廃止とともに送水を停止し、以降は水道施設としての利用はない。 その後長いあいだ“空堀”状態であったが、1986年(昭和61年)以降、都の策定した「清流復活事業」により水流が復活した。昭島市宮沢町にある多摩川中流再生センターにて高度二次処理を施した下水が、このために送水されてきている。 途中、JR武蔵境駅北方・境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)付近で分水して千川上水へも高度二次処理下水の20%を分流させている。流路は一貫して東流、ないしは南東流をつづける。一橋大学小平キャンパスの傍らにある商大橋地点から前述の境橋までは五日市街道と併走。その後境浄水場の脇を流れ、三鷹駅の直下をくぐりぬけ、井の頭公園を横断し、神田川の500メートルばかり南方を並ぶようにして流れる。京王井の頭線・富士見ヶ丘駅の南方、往時には橋が架かり浅間橋(せんげんばし)と呼ばれていた地点の付近で中央自動車道にぶつかる。 開渠区間は浅間橋の200メートルほど上手でひとまず終わっており、清流復活事業の区間も当地点までとなっている。(Wikipedia)


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小金井橋付近/小金井市


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久右エ門橋付近/小平市


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玉川上水放流口(上水小橋)/小平市


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資料ファイル

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清流の復活ー玉川上水/玉川上水放水路入口
玉川上水は約330年前(承応2-3年)江戸の飲料水供給のために作られた上水路です。この上水は江戸市中への飲料水の供給という本来の目的を果たす以外に、武蔵野台地の各地に分水され飲料水、灌漑用水、水車の動力として武蔵野の開発に大きな役割を果たしました。近年までこの上水路はそのまま淀橋浄水場への導水路として使われていましたが、新宿副都心計画による淀橋浄水場の廃止に伴い昭和40年以後、小平監視所より下流については水がとだえていました。しかし、東京都の清流復活事業により野火止用水に続き玉川上水にも昭和61年8月清流がよみがえりました。(東京都水道局)


d0183387_22332053.jpg甦る水100選/玉川上水放水路入口
この水は、昭島市にある東京都流域下水道「多摩川上流処理場」からの再生水です。これによって水のなくなった「玉川上水」に清流がよみがえりました。我国のの清流復活の先駆けとして全国の「甦る清流100選」に選ばれました。(東京都)



d0183387_22574192.jpg名勝小金井(サクラ)/小金井橋
小金井堤の桜は、元文2年(1737)頃八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が大和の吉野や常陸の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6kmにわたり植えたものです。これは新田の賑わいのためほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。植樹されておよそ60年後の寛政9年(1797)多摩地域(現東大和市)出身の漢学者・大久保峡南が「武蔵野八景」の一つとして世に紹介すると江戸からの花見客が増え、佐藤一斎「小金井橋観桜記」や太田南畝(なんぼ)「調布日記」など文人による紀行文等に登場するようになりました。また初代歌川広重が描いた「江戸近郊八景之内小金井橋夕照」などによって富士山を背景とし玉川上水に映る桜並木の風景が有名になり、天保15年(1844)の将軍世子(のちの13代将軍家定)の観桜を契機に幕府の命により近隣村々によって大規模な補植が行われ桜並木の景観を整えました。明治16年(1883には明治天皇が騎馬で行幸されるなど関東第一の桜の名所として西の吉野と並び称せら、明治22年(1889甲武鉄道が開通するといっそう多くの花見客で賑わいました。(小金井市・小平市)

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d0183387_23421244.jpg国指定史跡・玉川上水
(江戸・東京の水道に果たした役割)
玉川上水は羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3年(1654)に完成しました。これにより多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給すぁれることになり、江戸が大きく発展することができました。その後明治31年(1898)に完成した淀橋浄水場への水路として昭和40年(1965)に同浄水場が廃止になるまで利用されました。小平監視所までは現在の水道用の水路として都民の生活を支えています。

(貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値)
玉川上水は約43kmの区間を92cmの標高差(100mでわずか約21cmの高低差)を利用して水を流すように設計された長大な土木施設・遺構です。特に小平監視所から浅間橋までの中流域は開削当時の素掘りの水路・法面が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。玉川上水は近世の水利技術を知る上で貴重な土木施設・遺構であることから平成15年国の史跡に指定されました。(東京都下水道局)


d0183387_00145482.jpg陣屋橋/小金井市
江戸時代前期の承応3年(1654)江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み享保年間(18世紀前半)八十二か村の新田が誕生した。この時上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。この陣屋から南に真っすぐ小金井村に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。また、玉川上水の小金井桜は新田開発が行われた元文2年(1737)頃、幕府の命により川崎平右衛門が植えたものです。(小金井市教育委員会)


d0183387_00194356.jpg小金井橋/小金井街道
承応2年(1653)玉川上水が開かれた時に架けられたものと思われます。やがて小金井堤が桜の名所となると「金井橋」・「黄金井橋」・「金橋」などと呼ばれ、歌川広重らが錦絵や挿絵に描きました。・・・このレンガと要石は旧小金井橋の一部を記念に残したものです(小金井市教育委員会)



d0183387_22432338.jpg清願院橋/玉川上水駅
清願院橋は芋窪街道と玉川上水の交差部に架かる橋で、明治39年(1906)に東京市水道局が作成した「玉川上水実測平面図」では「八ノ木橋」と記録されています。これは、砂川村の玉川上水に架かる橋の中で西から八番目の橋という意味です。江戸時代に遡る古い橋ですが架橋年代や嬌名の由来は詳らかではありません。ここから400m下流左岸は、承応4年(1655)武蔵川越藩主・松平伊豆守信綱の家臣・安松金右衛門吉実によって開削された最初の分水である野火止用水があります。(案内板)


by Twalking | 2014-05-05 21:39 | リバーサイド(新規)

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