無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水リバーサイド02(上流部)   

日時 2014.5.10(土)
天気 晴れ

玉川上水上流部 羽村取水堰~小平監視所
江戸時代同様、多摩川から取水した水がそのまま流れ水量も豊富な区間である。東京都羽村市の羽村取水堰で多摩川の水を取水し東流する。 多摩川水系は現在でも東京の上水源の1/3ほどを占めており、毎秒17.2立方メートルの水が水道用水の原水として利用されている。取水された水の大部分は、取水堰の下流約500メートルに位置する第3水門から埋設鉄管によって山口貯水池(狭山湖)・村山貯水池(多摩湖)へ送水され、最終的には東村山市にある東村山浄水場で利用される。残りの水はさらに下流、西部拝島線・多摩都市モノレールの玉川上水駅付近の清願院橋から300メートルほど下流にある小平監視所(旧称:小平水衛所)で取水され、東村山浄水場、および現役の農業用水路である新堀用水の双方に送水されている。なお、小平監視所はかつては玉川上水と野火止用水の分水地点であった。(Wikipedia)


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玉川上水駅/多摩モノレール

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見影橋/立川市

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新堀橋/羽村市


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羽村橋/羽村市


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資料ファイル

d0183387_16064010.jpg見影橋と源右衛門分水/立川市
見影橋は江戸時代から架かっていた古い橋です。その頃は村を流れる玉川上水の上流から4番目の橋だったので「四ノ橋」と呼ばれていました。また名主の屋敷に近いこともあって「旦那橋」とも呼ばれていました。大正時代に「御影橋」となり今では「見影橋」の字をあてています。橋が広げられるまではたもとに明治の初めの名主家当主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」の取り入れ口がありました。今でも橋の南西下側にはその跡が残っており見ることができます。(案内板)


d0183387_16210774.jpg新谷橋/立川市
屋号を「しんや」と呼ぶ農家の裏手に架けられている橋なので「しんやはし」と呼ばれています。また砂川村の中で一の橋と呼ばれた上流の天王橋から数えて三つ目の橋だったので「三の橋」とも呼ばれていました。「上水記」寛政3年(1791)には作場橋(耕作地に向かう橋)」rとして書かれています。(立川市)


d0183387_16285678.jpgふせこし/立川市
玉川上水と唯一交差している川、残堀川(村山川、砂川あるいは蛇堀川ともいった)が西部拝島線武蔵砂川駅近くを流れている。かつては「狭山池(箱ヶ池)」として玉川上水に合流していたが、明治になって川が汚れてきたため、玉川上水の下を潜らせて多摩川に放流するように改修された。その後、残堀川の洪水対策としてサイホンの原理を応用した「ふせこし」と呼ばれる工法に改修され、現在では残堀川の下を玉川上水が潜っている。(案内板)


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新天王橋/立川市
現在の新天王橋は昭和45年に建設されたもので、上流部には昭和20年に架設された天王橋があります。天王橋の嬌名はむかし南側に松や杉の茂森があり、天王社を奉っていたためだといわれています。天王橋の北詰めには昔ここでに上水を砂川に分流していた頃、架かっていた石橋が洪水で流失したため橋を架け直す際に建てられた「石橋供養塔」があります。

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砂川用水の由来/立川市
砂川用水は明暦3年(1657)幕府財政再建の一環として武蔵野新田開発のためn玉川上水から分水され、松中橋から上水を平行に東上し、天王橋から五日市街道に沿って開通された。残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三・四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田(村)は砂川用水の通過によって現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発できるようになった(立川市)


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玉川上水開削工事の跡/福生市・みずくらいど公園
玉川上水開削工事の跡は、江戸幕府が承応2年(1653)に江戸市民の飲料水の確保を目的として、多摩川より引水し江戸市中へ配水するために行った開削工事の跡です。開削工事の跡はこの「みずくらいど」公園に残っていますが、この遺構は工事が失敗し新しい堀を北側に掘り直したため、当初計画した堀跡が残されたものです。この付近の土地は古くから「みずくらいど」と呼びならされてきました。これは地中に吸い込まれ、工事が失敗した土地であるとの故事により、古絵図には「水喰戸」「水喰ノ上」の文字が現れます。開削工事の跡は「みずくらいど」公園の北にあるタマガワ丁目付近より武蔵野橋公園付近で東へ方向を変え、西部鉄道拝島駅前の玉川上水平和橋付近まで約1kmにわたって残存していたと伝えられています。しかし、現在ではみずくらいど公園内及び付近に開削跡が残るのみです。(福生市)


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青梅橋の由来/福生市
名前の由来は、この橋が拝島から熊川を経て福生に至り羽村からやがて青梅に至る「青梅街道」と呼ばれた街道にあたるからです。現在の銀座通りが青梅街道にあたります。青梅街道とはこの地域の経済、文化の中心であった青梅に通じる“青梅街道”と称したいくつもの青梅街道が確認されています。この福生の青梅街道もその一つです。青梅橋の名は古く、寛政3年(1791)に完成した「上水記」に「熊川村耕場 作場橋 青梅橋とも云」と記されています。江戸時代に玉川上水ができた時、作業のための通路を兼ねて作られたのでしょう。青梅橋はこの道筋が古くからの街道・青梅街道であることを現在に伝えてくれています。(案内板)


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牛浜橋/福生市
牛浜橋(昭和52年掛替)は東京と甲州を結ぶ五日市街道に架かる橋として馬車や牛車の往来により在来の橋梁では管理費の負担は大変でした。明治初期に新政府が東京市の近代化を図るために熊本より石工を招き、二重橋をはじめ橋などを洋風の目鏡橋に掛替たことを見聞した村民が牛浜橋に取り入れ明治12年にめがねはしと愛称された牛浜橋は建設されました。(案内板)


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東京湧水57選・清岩院/福生市
当院は応永年間(1394~1428)に建設されました。院内には本堂の他弁天堂や珍しい車地蔵があり、静かな佇まいのゆったりとした時の流れを感じさせてくれます。本堂と湧水のある日本庭園は風格が漂い、冬の雪景色も美しいものです。(案内板)


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放流口/第二水門

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羽村取水堰                       玉川兄弟像

堰の筏通し場
「きのう山下げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落し」と筏乗りの唄にうたわれたように、多摩川上流から伐りだす青梅材を江戸に搬出する筏乗りにとって羽村の堰は最大の難所でした。享保3年(1718)江戸幕府は筏による堰の破損を理由に堰通過を全面禁止しました。羽村以西の三田領42ヶ村の筏師仲間は幕府に通行の再開を嘆願しました。享保6年、新たに筏通し場を設置し特定の日時に限って通行が許可されました。以来堰を下る戦場さながらの壮観な筏落し風景は大正末年ごろまで見かけられました。(案内板)東京都新宿区から東京都青梅市を経由し、山梨県甲府市に至る街道である。

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羽村堰/羽村堰下橋


五日市街道
東京都の多摩地域などを通る街道。現在の東京都道7号杉並あきる野線の本線とほぼ一致する。家康家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や楢原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。(Wikipedia)

青梅街道
1603年(慶長8年)、江戸城築城のために青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。当時の名称は成木街道であった。しかし、江戸時代中頃には絵図や紀行文などに「青梅街道」の記述が見られる。内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため「甲州裏街道」とも呼ばれた。道程で甲州街道より二里短く関所が無いため庶民の旅客にも多く利用された。但し、塩山近くに萩原口留番所があり小規模な関所が実質存在した。番所の跡と近くに番所の門を復元した温泉保養施設(大菩薩の湯)がある。また、大菩薩峠登山口バス停にある番屋茶屋はもともと萩原口留番所近くの茶屋だったことから由来しバス路線開設で現在地に移転したものである。1878年(明治11年)には最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。(Wikipedia)



by Twalking | 2014-05-11 15:43 | リバーサイドウオーク(新規)

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