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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり本郷通り界隈   

日時 2014.7.3(木)
天気 曇り

飯田橋で集まりがありましたので、早めに出て巣鴨から飯田橋方面へ歩いてみました。
六義園に寄り、出ましたら本郷通りの表示、ここは本郷台地になるんですね。
気の赴くままにぶらりと歩きましたが、面白い所ですねぇ~、この界隈は。。。


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三四郎池/東大本郷キャンパス


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天祖神社/本駒込3丁目

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吉祥院/本駒込3丁目

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赤目不動尊/南国寺・本駒込1丁目



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資料ファイル

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歴史と文化の散歩道 駒込寺町散歩案内図

「旧岩槻街道と文学の道」
吉祥寺前の本郷通りは、人形の街岩槻に続く道である。江戸時代、将軍が日光東照宮へ向かう日光御成り街道としての役割を果たした旧岩槻街道にあたる。絵図で見られるように多くの店が軒を連ねていたこの街道は、東京の台地のひとつである本郷台地の中央を通っている。この尾根筋のみちに対して、台地の淵にあたる根津神社から団子坂下へ抜ける藪下通りは明治の文豪たちの散歩道であった。付近には「吾輩は猫である」の舞台となった夏目漱石の旧居(猫の家)をはじめ居宅の2階で海を眺められとこらから名付けられた森鴎外の観潮楼などがあり、この地と文学のかかわりの深さをしのぶことができる。(案内板)


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高岩寺(とげぬき地蔵)

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とげぬき地蔵の由来
江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。そこから他の病気の治癒改善にも利益(りやく)があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。(Wikipedia)

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真性寺本堂 
       
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真性寺参道                        芭蕉句碑

白露も こぼれめ萩の うねりかな  芭蕉翁
萩植えて ひとり見習ふ 山路かな  杉風(裏)

旧中山道はタネ屋街道
旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。旅人は農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると国元で栽培しようとタネを欲しがる人も多く、やがて農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウや滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現すると、タネを扱う専門店ができ明治の中頃には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋清水町にいたる約6kmの間にはタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並び、さながらタネ屋街道になっていました。(案内板)

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江岸寺と鳥井家
曹洞宗江岸寺(こうがんじ)の開基は鳥居忠政である。以後当時は鳥井家の菩提寺となった。忠正の父・元忠は今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は見方ヶ原の戦い、長篠の合戦などで家康に常に付き従い輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東入国の際は下総矢作(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは家康から伏見城の留守番を命ぜられ、西軍に伏見城の明け渡しを命ぜられた時、拒否し石田三成等の総攻撃けた。これが関ヶ原の戦いの導火線となった。城を出て戦うこと五たび力尽きて討死し城も落ちた。その子・忠政は大坂の陣では江戸城の留守居役を勤め、その後東北の押さえの地・山形22万石を与えられた。忠政は三河武士の範たる祖先を祀るためこの寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英の時下野国壬生4万石に移封された。(文京区教育委員会)


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天祖神社
江戸時代駒込の氏神として神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた。社伝によると文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐(藤原泰衡追討)の途中この地に立ち寄り、夢のお告げで松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)を祭ったのがこの神社の起源といわれる。社殿の様式は神明造り。大麻がかかっつていた大木は神木としてあがめられ、さしわたし4尺(1.2m)もある大木と伝えられている。その後、宮守もなく神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年ごろ堀丹後守俊直によって再興された。神木はその後枯れたという。社殿の裏に都立堀込病院あたりにあった「鷹匠頭」の寄進名が刻まれた石柱が今も残る(文京区教育委員会)


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吉祥寺山門

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吉祥寺本堂

曹洞宗諏訪山吉祥寺
長禄2年(1455)太田道灌が江戸城築城の祭、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け「吉祥寺」と称したのが始まりという。天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋辺りにあった橋は吉祥橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転大寺院となった。僧侶の養成機関として栯壇林(駒澤大学の前身)を持ち一千人の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。(文京区教育委員会)
古い堂塔  山門 享和2年再建(江戸後期の特色を示す) 
        経堂 文化元年(1804)再建(栯壇林の図書収蔵庫)
墓所    二宮尊徳(江戸時代の農政家)   鳥居耀蔵(江戸南町奉行) 
       榎本武揚(江戸末期の幕臣)     川上眉山(小説家)

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経堂                          二宮尊徳の「墓碑」


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目赤不動尊/南国寺
この不動尊はもとは目赤不動尊と云われていた。元和年間(1615~24)万行和尚が伊賀国の赤目山で黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐりいまの動坂の地に庵を結んだ。寛永年間(1624~44)鷹狩の途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍・家光から現在の土地を賜り、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊としていっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。不動明王は本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪を懲らしめる使者である。剣を持ち怒りに燃えた形相などからお不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊等は五色不動尊としてその名が知られている。目白不動尊は戦災で豊島区に移るまで区内の関口2丁目にあった。(文京区教育委員会)

五色不動(ごしきふどう)
五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称。東京(江戸)のものが有名であるが、厳密には四神や五色に関連する同様の伝説は各所に存在し、それが不動尊と関連付けられたものを五色不動と称されることがある。東京の五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5種6個所の不動尊の総称。五眼不動、あるいは単に五不動とも呼ばれる。(Wikipedia)

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  • 赤門(あかもん)
  • キャンパス南西部にあり、本郷通りに面している。同キャンパスの正門とよく間違われるが、正門ではない。旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門であり、1827年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られた。建築様式としては薬医門であり、切妻造となっている。左右に唐破風造の番所を置いている。国の重要文化財、旧国宝。転じて東京大学の俗称となっている。(Wikipedia)


    by Twalking | 2014-07-09 21:37 | 東京散歩(新規)

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