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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿    

日時 2014.9.14(日)
天気 晴れ
板橋宿~志村一里塚

天気もいいし、時間もありましたのでJRで帰ろうと思い戸田橋手前まで歩きました。
帰ってから地図など見直しましましたら、どうやら清水坂を見落としていたようです。
あらら~・・・ですが、次回は志村坂上からスタートすることにします。


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板橋から明治通り(首都高)へ/一里塚付近

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手前を左折し信号横断               向かいの商店街へ/平尾追分


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板橋宿仲宿


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板橋/石神井川


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板橋宿上宿を抜けて環七へ/縁切榎前

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環七を横断/板橋本町駅             17号合流/宮本町


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志村一里塚/志村坂上(17号)


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資料ファイル

板橋宿
江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、江戸四宿の一つとして栄えた。江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち「江戸」として扱われていた。板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側・北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。道中奉行による天保12- 15年(1841- 1844)の調べ(『中山道宿村大概帳』)によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)宿内家数は573軒であった。 うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠は総計54軒であった。 板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。 また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいた。

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木曽街道 板橋之驛


・・・・・平尾宿

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東光寺/
信号横断しベローチェ角右折
創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現、板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。境内には、寛文2年(1662)の庚申塔と石造りの地蔵仏坐像、明治になって子孫が供養ため交流した宇喜多秀家の墓などがあります。(板橋区教育委員会)


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平尾一里塚/板橋南口入口付近      平尾追分/アーケード入口

平尾追分/平尾宿
板橋宿は第一に中山道の宿場であるが、脇往還として江戸側から分岐する川越街道(川越・児玉往還)が平尾宿を起点としており、平尾追分と呼ばれていた。 また、日本橋から2里(約7.9km)の平尾宿には道中2つ目の一里塚(平尾一里塚)があったが、今は何も残されていない。


 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿 _d0183387_22275706.jpg近藤勇と豊田家/花の湯向いの路地を入る(左)新選組隊長であった近藤勇は慶応4年(1868)板橋刑場で処刑された。近藤の墓そのものは現在JR板橋駅前にあるが、処刑される直前まで平尾宿の脇本陣・豊田家に軟禁されていた。豊田家は代々平尾宿の名主として江戸時代中期より脇本陣を勤めた。脇本陣の建物自体は現存していないが、明治末期まで江戸時代の風情をとどめていた。(板橋宿今昔みちしるべ)


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観明寺と寛文の庚申塔/アーケード先(右)
当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。『新編武蔵風土記稿』には、延宝5年(16777)10月に入寂し た慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの信仰を集めました。明治6年、当寺の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請しました。現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、このお不動様に由来します。境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(16618月に建立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財となりました。(板橋区教育委員会)

・・・・・仲宿

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板橋観光センター/ローソン右折         加賀藩前田家下屋敷図

加賀藩下屋敷(加賀公園) 
板橋宿の旧街道に面した町場部分の外は畑と水田が広がり、南東部一帯は二十二万坪(約76.2ha)におよぶ加賀藩の下屋敷が広がっていた。この下屋敷が板橋宿に移ってきたのは、天和3年(1683)とされる。明治維新により、江戸間の藩邸や武家地が官有地となった時、加賀藩下屋敷も没収された。一部の領地は払い下げられたが、広い敷地は陸軍に移管され、火薬製造所が造られた。これが明治9年(1876)のことである。これにより、それまで農耕が主であった板橋に初めて工場が進出し、後に軍の下請け工場が付近に集積する契機となった。(板橋観光センター)


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縁切榎
中山道板橋宿上宿(現本町18番地)にあった初代の縁切榎である。板橋宿の街道脇にたつ縁切榎は、旅人には薄気味悪い榎として恐れられていたが、榎は本来縁結びの木として知られていたものだが、板橋の榎は縁を切る木として、特に離縁を願う女性たちの信仰の対照となったのである。文久元年(1861)皇女和宮が徳川将軍家茂(いえもち)に嫁ぐ江戸への登城では、板橋宿にある縁切榎をさけるため迂回路が作られたほどである。明治時代には茶屋が店を開き、板橋名物として厚い信仰を集めた。現在地にも三代目の縁切榎がある。(板橋観光センター)


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板橋宿中宿辺り絵図(板橋観光センター)


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偏照寺/観光センター先(右)
江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治4年廃寺となった。その後明治14年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政10年(1789)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本遊女道中の扁額が納められている。(板橋区教育委員会)

乗蓮寺
応永年間に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建したと伝えられている。その後、江戸時代の初期のころまでに板橋区仲宿に移転した。当時は孤雲山慶学院乗蓮寺と称していた。後に慶学山乗蓮寺になった。当寺院は、郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺になるなど人々から信仰を得ていた。天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となった。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われた。その後も長く仲宿の地にあったが首都高速道路の建設と国道17号の拡幅により、昭和48年に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転した。(Wikipedia)

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江戸名所図会 乗蓮寺 相生杉 女男松 (わたしの彩『江戸名所図会』より引用しました)


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高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)/スーパー・ライフ前の「石神医院」
幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英(180450)は、弘化元年6月晦日小伝馬町獄舎の火災により切り放しのときに脱獄、そして逃亡した。出牢後の1ヶ月は幕府の厳しい探索にも拘わらず消息不明であったが、7月下旬の或る夜、彼の門人である医師水村玄洞宅を訪れた。玄洞は身の危険を知りながら一両日長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜には北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の医師高野隆仙宅へ人をして逃れさせた。長英はその後郷里水沢に老母を尋ね、さらに江戸、近畿、四国、九州と逃亡生活を続け再び江戸に舞い戻ったが、寛永31030日青山町の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。(板橋区教育委員会)


 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿 _d0183387_15480571.jpg板橋宿本陣飯田新左右衛門家/スーパーライフ手前(右)
本陣は一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半(約10km)の近距離にあたる板橋宿では宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。また、その際は藩主と家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。板橋宿本陣は古くは飯田新左右衛門家ら数家で勤めていたようです。宝永元年(1704)当家は飯田本家より別家していますが、その際世襲名「新左右衛門」と本陣・問屋場役を引き継いでいます。また合せて屋敷地359坪、田畑1.5町(約16000m2)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家三代新左右衛門珠儀(ちんぎ)の遺言状から、別家役の江戸時代中頃に当家が宿内唯一の「御本陣」に指定されたことが覗えます。本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪97坪、門構え玄関付の建物でした。また、本陣指図からは間口桁行とも12間半8約22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか御膳所や18畳の玄関などを備えていたことがわかります。他宿にくらべ小ぶりな本陣は宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。本陣は明治23年(1890)に火災に遭い焼失しましたが、昭和39年に建てられた母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は区有形文化財に登録され本陣の姿を今に伝えています。(板橋区教育委員会)


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文殊院/
スーパー ・ライフ右折・先 
江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内を広げて建立された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保6年に全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺ヘ転住し、出世寺とも呼ばれた。山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る魔堂、足腰の守り神と知られる子の権現がある。魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。(板橋区教育委員会)

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江戸名所図会 板橋驛 (わたしの彩『江戸名所図会』より引用しました)


 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿 _d0183387_16213632.jpg板橋(右)
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで209間(約2.2Km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所絵図」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度改修が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。(板橋区教育委員会)


・・・・・上宿


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中山道板橋宿上宿/交番横(右)
江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは1549間(約1.7Km)でした。天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。(板橋区教育委員会)



 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿 _d0183387_16272858.jpg縁切榎/交番先信号(右)
中山道板橋宿の薄気味悪い名所として旅人に知られていたのがこの縁切榎である。いつの頃からか、この木下を嫁入り・婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるとの信仰が生まれ、徳川家に降嫁の五十宮(いそのみや)・楽宮(さぎのみや)の行列はここを避けて通り、和宮の折には榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入った。この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩ノ坂を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切りに通わせたとする説と、富士に入山した伊藤身禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。現在の榎は三代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は今でも続いている。(板橋区教育委員会)


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皇女和宮様御下向行列の迂回路(板橋観光センター)


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智清寺                日曜寺

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 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿 _d0183387_17010426.jpg氷川神社/本蓮沼駅歩道橋先(右)
当社は古来、蓮沼村の鎮守で御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)です。慶長年間(1596~1645)に現さいたま市の氷川神社から蓮沼村字前沼(浮間舟度駅西側一帯)に勧請されたのが創建と伝えられています。蓮沼村は享保年間(1716~36)に荒川氾濫の被害を受け、高台にあたる現在地へ移転しています。また、当社の別当院であった南蔵寺も同様に移転したと伝えれれています。(板橋区教育委員会)


 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿 _d0183387_17010880.jpg南蔵寺(真言宗)/神社の隣(右)
開山は寺歴では宥厳とされますが「新編武蔵風土記稿」では開山を宥厳、開基を蓮沼村の名主新井家の先祖・新井三郎盛久としています。当社は荒川低地にあった「道生沼」の畔に建っていましたが、度重なる洪水によって現在地に移転したといわれています。(中略)享保7年11月25日に行われた8代将軍徳川吉宗による戸田・志村原の鷹狩に際しては当院が御善処となっています。境内にある更新地蔵は承応3年(1654)に庚申侍講中が建立したものです。また、安永6年(1777)と文化元年(1804)に建立された石造出羽三山供養塔の台座には蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員70名の氏名と房号が刻まれており、当該期の出羽三山講の様子えお知る貴重な資料となっています。(板橋区教育委員会)


 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿 _d0183387_17011142.jpg齋藤商店/一里塚手前(右)
齋藤商店は欅を主に扱う原木商として明治22年に当地で創業しました。現在は箒や笈などの竹製品も商っています。現在の建物は昭和8年の中山道(国道17号)の拡幅工事に伴って新築されたものです。



 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿 _d0183387_16581207.jpg志村一里塚(左右)
江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(16042月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の塚が江戸日本橋を起点として一里ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目に築かれたもので、天保元年(1830)の『新編武蔵風土記稿』では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。幕末以来、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積がなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保存され、現在に至っています。今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。(板橋区教育委員会)


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石神井川
東京都小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流する。荒川水系の支流である(流路延長25.2km、流域面積61.6km²)江戸時代以前の石神井川は、上野の不忍池へと流れさらにそこから東京湾へと繋がっていた。しかし流路変更により現在の形になった。流路変更の時代については諸説ある。(縄文末期)縄文末期の気候異常による洪水で、隅田川への越流が発生したとする自然由来説。(室町時代)流域の地方豪族・豊島氏が領内の治水、利水の為に開削したとする人為的由来説。(江戸時代)江戸の街づくりの一環として治水対策で開削されたという人為的由来説。

谷田川(藍染川)
石神井川のかつての本流で不忍池を経由して東京湾に流れていた部分。石神井川が切り離された後は上野台と本郷台の湧水による小河川が流路跡に流れる。現在は全て暗渠化されている。付近は藍染めが盛んであった事から藍染川とも呼称されていた。

石神井川下流の流路変更
石神井川は武蔵野台地東端の北区王子付近で渓谷(音無渓谷)を作り、いくつもの滝を落としていた。これは埋没谷上の沖積低地をゆったり流れることの多い武蔵野台地の川の流れ方としては例外的である。武蔵野台地を流れる川で渓谷を持っているのは、他に矢澤川(等々力渓谷)と神田川(お茶の水渓谷)のみである。同時に、上流から王子付近まで続く石神井川の谷底低地は飛鳥山の手前で南へ向きを変え、本郷台と上野台の間の谷田川が流れる谷底低地へと地形的に連続している。これらのことから、石神井川がかつては谷田川へと流路を取っていたが、河川争奪によって現在のように隅田川へ流れるようになったとする説が、戦前は地形学舎の東木龍七、戦後は地形学者の貝塚爽平などによって唱えられていた。流路変遷が起こった原因と時期については諸説ある。(Wikipedia)

朱引
江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでにその範囲は不明確となっていた。幕府目付・牧野助左衛門(まきのすけざえもん)は1818年(文政元年)8月、市域の確定を求める「御府内外境筋之儀」についての伺いを出し、それを受けて同年12月、老中安部正精(あべまさきよ)によって示された幕府の見解が朱引である。「旧江戸朱引内図」(1818年、東京都公文書館所蔵)はこの答申に基づいて作成され、江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。これは、歴史上初めて正式に示された江戸市域(大江戸)の範囲であり、「朱引内(しゅびきうち)」「御府内(ごふない)」などとも呼ばれる。この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれる。朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈(つのはず)周辺、南は品川周辺、北は千住・多多橋周辺までである。

墨引
朱引図(旧江戸朱引内図)には朱線と同時に黒線が引かれていたが、これは墨引(すみびき)と呼ばれ、町奉行支配の範囲を示していた。墨引は、目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の、江戸城を中心としたより小さな環状域である。(Wikipedia)

by Twalking | 2014-09-19 17:34 | 中山道(新規)

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