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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺   

日時 2014.10.1(水)~3(金)
天気 晴れ&曇り
東海道(28)-03 岡崎宿~池鯉鮒宿


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矢作橋の上流側(右)を渡ります

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西詰のアンダーパスで1号横断         東詰先からぐるっと迂回して旧道へ


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矢作町の町並み/竊樹神社(ひそこじんじゃ)付近

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1号合流・右折/矢作町猫田           鹿乗橋/宇頭東町


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薬王院先・尾崎東から旧道へ

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コンビニで小休止/宇頭茶屋           明治用水碑直進/明治川神社


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東栄町・今本町を抜けるとのどかな田園風景です/猿渡橋手前

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猿渡橋を渡ると来迎寺公園           御鍬神社先信号を右折して無量寿寺へ

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資料ファイル

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八丁蔵通り

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八帖往還通り               純情きらり手形のみち

岡崎の地場産業 八丁味噌
 
大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも船運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみでなく江戸にも多く積み出され、その名を高らしめました。現在も両家は「カクキュー」「まるや」の商号で製造を続けています。(説明板)

歌にみる八丁味噌
  
「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極くよし、焼いて又よし」といわれる八町味噌は、三河武士・農民・町民たちの常食・兵食として親しまれ、一日も欠くことができない食品でありました。また、天正18年(1590)徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い、三河木綿の運搬との相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。(説明板)


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矢作川

矢作橋
橋の東の八帖町は八丁味噌で知られ、橋の袂の味噌工場が味噌の香りを漂わせている。矢作橋は慶長6年(1601)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。架橋がみだりにできなかった江戸時代には日本最長の大橋であった。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置し、さらにもう少し南へ下ると名鉄名古屋本線の矢作橋駅と岡崎公園前駅を結ぶ鉄橋(矢作川橋梁)が架かっている。その後矢作橋は昭和26年(1951年)に15代目が架け替えられ、老朽化や耐震化などの観点から新橋への掛け替え工事を平成18年(2006年)10月に着手、平成23年(2011年)3月13日に16代目の橋が完成した。新しい橋の車道の幅員は、従来の3.25mから3.5mに広がり、歩道の幅員もそれまでの1.75mから3mに広がった。車線数は現行通りの片側二車線である。なお、現代の矢作橋の橋長は300mである。(Wikipedia)

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東海道五十三次 岡崎・矢作之図


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_16271147.jpg出合之像/西詰・右袂
日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)は、八歳の時に奉公に出され、12歳の時に奉公先の陶器屋から逃げ出した。矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと頭を睨みつけた。この頭は海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であり、日吉丸の度胸の大きさを買って手下にしたという。実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は幼少時代どころか既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされているが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられた。像の裏側には「平成元年十二月」とある。(Wikipedia)


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東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_16304548.jpg勝連寺/土手から70m・旧道(右)
柳堂勝蓮寺と言われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞上人と柳堂、布教の記事がみられます。また、17代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、武田方と内通したとの疑いを受け自刃。若宮八幡宮に首塚がある)との関係も深く、信康画像をはじめ多くの遺品が残されています。(岡崎市)


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誓願寺・十王堂/中日新聞70m先(右)
長徳33月(997)恵心僧都が、溺死した当寺の住僧の慶念の冥福を祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。時代は下り、寿永3年(11383月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。十王とは、十王経に説く冥府(あの世、冥土の役所)で死者を裁くという王である。すなわち、秦広王、初江王、宗帝王、伍官王、閻魔王、変成王、太山府君、平等王、都市王、五道転輪王をいう。死者は冥府に入り、初7日に泰広王の庁に至り、以下順次に、27日、37日、47日、57日、67日、77日、百箇日、1周年、3周年に各王の庁を過ぎて娑婆(この世)で犯した罪の裁きを受け、これによって来世の生所が定まるという。この堂内には、これら十王の極彩色の像が安置してあり、壁には、地獄・極楽の有り様が描かれている。(贈・文責 ボーイスカウト岡崎第五団)

(岡崎の浄瑠璃姫伝説)
 
蒲原伝説では吹き上げの浜で世をさったことになっているが岡崎では、
後を追った浄瑠璃姫は蒲原付近で倒れるが、故郷に連れ戻され、近くの菅生川(すごうがわ)で入水自殺を遂げたという。その身は誓願寺に葬られたという。十王堂の前に「浄瑠璃姫菩提所」の碑が建っている。また、岡崎城・大手門の脇に供養塔がある。これは浄瑠璃姫の亡骸(なきがら)がここで発見されたからだという。

・・・・・矢作町猫田で1号合流(右折)


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和志王山薬王寺/鹿乗橋300m先(右)
奈良時代に創建されたと伝えられる由緒あるお寺です。ご本尊の薬師瑠璃光如来は17年に一度御開帳される秘仏として本堂に納められています。この寺に伝わる薬師如来縁起によると、尊像は和同年間(708~71)に(現在の宇頭南町にあった)神の御手洗御立笠取(みたらいみたちかさとり)の池から光を放ってこの世に現わになった。この地に住んだ豊阿弥長者(ほうあみ)が持念仏とされたが、後に僧行基を開祖として和志王山薬王寺を創建され納められた。時は経って淳和天皇(じゅんな)天長6年(829)春に疱瘡が流行した。長者の子も重い疱瘡を病んだ。そこに何処からからともなく僧が現れ、瑠璃の壺から取り出した薬を子に含ませ、子の五体をさすると病は癒えた。僧は子が遊んでいた銭輪を貰い受け首にかけて退出され忽然と消えられた。長者は薬師のご利益と気づき尊像にお参りすると、御首に銭をかけお身体には疱瘡の跡が残っていた。長者はわが子の身代わりになられた尊像をますます崇敬された。さらに時が経ち、天文18年の戦い(1549年にあった織田信秀と今川・松平の安祥城を巡る戦い)により寺は焼かれ、長者の子孫も絶えてしまわれた。元和2年(1616)4月村人たちが豊阿弥長者らの墓をこの地に移そうとした際、土中より御首に銭をかけた尊像を掘りだした。不思議なご縁を感じた村人たちは心を合わせ御堂を造営した。このように記されたいます。なお、薬王寺本堂は古墳時代中期の前方後円墳宇頭(うとお)大塚古墳の後円部に造られています。(中略)その規模は周壕を含めた全長70m、後円部径30mと推定されます。和同年間にこの地に住まわれた豊阿弥長者は五十狭入皇子(いさきいりひこのみこと・別名気入彦命)の子孫と伝えられています。古墳時代中期(5世紀)この地に勢力のあった皇孫の古代豪族の子孫が奈良時代に和志王山薬王院を建立されたと考えられます。(宇頭町)

・・・・・尾崎東で旧道へ

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熊野神社/分岐から700m(右)     尾崎一里塚(83里目)

鎌倉街道跡 
建久3年(1192)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅63ヵ所が設置された。尾崎町では、里町不乗(のらす)の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったので、この神社の森を踏分(ふみわけ)の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印の松」が残されている。(
安城市教育委員会)


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予科練之碑
此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり 自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり 生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく 間もなく血涙をのんだ終戦爾来28年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである(碑文)


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永安寺/宇頭茶屋から700m(右)    雲竜の松

永安寺
大浜茶屋村(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の菩提寺。助太夫は貧しい村人のために助郷免除を願い出て死罪になったと伝えられる。

雲竜の松
永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。助太夫延宝5年(1677)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢300年くらいと推定されます。この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。樹高 : 4.5m 幹の周 :3.7m 枝張り : 東西17m、南北24m(案内板)


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明治用水/明治川神社角
西三河南西部に農業用、工業用の水を供給する用水である。幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として中原に位置する安城市が「日本デンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。安城ヶ原の開発により10万石以上の収量となった。(当時岡崎藩が5万石) 明治川神社は安城市東栄町にある神社。1885年建立。都築、伊豫田、岡本ら明治用水建設の功労者が祀られている。(Wikipedia)



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青麻神社/グリーンセンター先(右)
境内には江戸時代に活躍した地元の力士又市にちなんだ三州前浜清見潟又市碑、清見潟又蔵建立の碑があります。


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_00075665.jpg市指定天然記念物 
東海道のマツ並木1601年(慶長6)家康は、東海道に宿駅を定め、つづいて1604年(慶長9)には、街道に一里塚を設置して、道の両側に並木を植えさせた。さらに、1612年(慶長17)道路・堤などの補修、道幅・並木敷地等の定めをして、街道を直接管理した。こうして、街道の松並木は、旅人に風情を添え、夏は緑の陰をつくり、冬は風雪を防ぐに役立った幕府は、その保護補植に力をそそぎ、沿道・近郷の農民たちの、往還掃除丁場という出役によって、その清掃整備が維持されてきた。明治以後も重要幹線国道として維持管理がつづけられ、四世紀にわたる日本の歴史の大きな役割の一部を、担ってきた。近年、風害や公害等のために、その数を減じているが、この松並木のうち大きいもので、樹齢200年から250年ぐらいと推定される。(安城市)

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猿渡川を渡ると知立市です       御鍬神社/公園先(右)


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_00205222.jpg元禄の道標/神社先(右角)
 
道標とは、道路を通行する人の便宜のため方向・距離等を示し、路傍に立てた標示物のことである。この道は江戸時代の東海道であったから諸処にこの様な道標が建てられていた。「従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白」と記されており、これは、元禄9年(1696)に在原業平ゆかりの八橋無量寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ500mの牛田町西端にも『東海道名所図会』に記されている元禄12年の道標が残されている。(知立市教育委員会)


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_00520556.jpg現在の明治用水西井筋
明治用水は明治政府の殖産興業政策を推し進めるため愛知県の紫藤のもとに明治13年(1880)に開削されました。この政策により開削された安積疎水(福島県)那須疎水(栃木県)とともに「明治の三大疎水」のひとつとして全国的に知られます。明治用水の開削により、この台地は「日本のデンマーク」と称される農業の先進地に発展しましたが、昭和30年後半から工業化、都市化の波が押し寄せごみの投棄、水路の安全性、用水の管理などいろいろな障害がでてきました。そこで現在では地下に埋められた管水路となり、その上部は水環境整備事業により「緑あふれる用水の道」として整備さえました。(案内板)

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無量寿寺
名勝八橋の中心となる寺で現在臨済宗妙心寺派に属しています。寺伝では奈良時代の慶雲元年(704)の創立としており、当時は慶雲寺と称し真言宗として寺坊大いに栄えたと申します。延喜2年(902)山号寺号を八橋山無量寺に改めているので、このころいまの地へ移されたと伝えられ、その後無量寿寺と改められ現在に至っています。(案内板)

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在原業平と万葉椿 
八橋の鎌倉街道沿いには、珍種と見られる“万葉椿”が多くみられます。文献によりますと椿は日本古来の花木で、万葉の頃から、椿を詠み込んだ歌も見られます。在原業平も東国への旅に出て八橋至り、この里にて金魚の尾に似た椿の葉を見つけ、“万葉椿”とよんだところからその後村人達は“業平万葉椿”と呼ぶようになったと言い伝えられています。謡曲「杜若」と業平の和歌 謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて 唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠にして作曲されたものである。東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、伊勢物語の故事を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平と歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという雅趣豊かな名曲である。(謡曲史跡保存会)


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_01180150.jpg八橋山無量寿寺
 
慶雲年間(7048)に創建された慶雲寺が、弘仁3年(821)八橋のこの地に移され、無量寿寺となったと伝えられている。史跡名勝の地として知られたここ三河八橋は、古くから文人墨客の訪れることが多かった。(案内板)


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_01252858.jpg芭蕉句碑 
かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉 
麦穂なみよる 閏ひの里 知足  
芭蕉が貞享元年(1684)に『野ざらし紀行』を終え翌年四月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊り俳筵を開いた時の作といわれる。芭蕉は知足の案内でこの旧蹟八橋に遊んで懐古にふけったのであろうか。碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永6丁酉6月」(1777)とあり、三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものとされている。(知立市教育委員会) 


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_01192857.jpg八橋古碑 
史跡名勝の地として知られたここ三河八橋は、古くから文人墨客の訪れることが多かった。この碑文は、荻生徂徠門下の秋本嵎夷が岡崎候に招かれて儒官をつとめていたとき、偶この地を訪れ「八橋紀事弄王孫歌」と題して“八橋と業平の故事”についてまためたものである。書は門人の国分興伯機で、同門人の由良不淰により寛保2年(1742)に建立された。亀の上に三五七の漢字を刻んだ碑柱が建ち、一般に亀甲碑と呼ばれている。(知立市教育委員会)

東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_01304524.jpgひともとすすき 
 
謡曲「筒井筒」の故事にならって植えられたと伝えられてる。八橋の一もとすゝき穂にいでて はるばる来むる人まねくらん と「三河名勝絵図」にはあります。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるといふ言い伝えから、縁結びのすすきと言われている。(案内板)


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_01305539.jpg心字池 
この庭園は、寺の再興者であった方巌売茶和尚が文政年間(181829)に、以前よりここにあった池や庭を茶亭風に改造したものと思われる。庫裏前の杜若池を中心とし、一の段から四の段まで生垣で区切られ、人の影を見ることなく杜若を眺めながら回れる回遊式庭園となっている。また正面遠景には岡崎の村積山、近景には逢妻川の清流を借景として取り入れている。生垣には赤目樫・山茶花が植えられ美しく刈り込まれている。毎年五月には約三万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑わう。(知立市教育委員会)


東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_01310314.jpg方巌(売茶)井戸のいわれ 
方巌売茶翁が、紀州におもむいた折、紀州大納言徳川治憲より「旧跡八橋を大切にせよ」とのお言葉があり、帰寺して心字池に水を入れるための井戸を掘る予定でしたが、病気になりその志を果たせず、嘉永2年(18498世朴仙和尚の代にようやく完成し、心字池に水を入れたと伝えられている。(案内板)

東海道(28)赤坂宿~池鯉鮒宿 下見03 矢作川&無量寿寺_d0183387_01381763.jpg杜若姫供養塔 
花崗岩で作られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、全高は約1m 全体に風化が著しいが、基壇は矢作川流域にみられる蓮華を省略した形式のものである。笠は五段であるが四隅の耳を欠き、相輪も途中で折れており、燈身の四仏の梵字もはっきりしない。杜若姫は小野中納言篁(たかむら)の娘と伝えられ、東下りの在原業平を恋い慕って、やっとこの八橋の逢妻川で追いついたが、業平の心を得ることができず、悲しんで池に身を投げて果てたと伝えられている。この塔は姫をあわれみ、後の世に供養して建てたとものと思われる。(知立市教育委員会)


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かきつばた園
からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
平安時代の歌人在原業平(ありわらなりひら)が「かきつばた」の5文字を句頭に入れて歌を詠んだ八橋は、伊勢物語の昔から広く知られるかきつばたの名勝です。敷地13000m2の庭園には3万本が生息し、5000m2の池一面に咲きそろう4月~5月が見所で多くの人を魅了します。(案内板)

by Twalking | 2014-10-07 09:56 | 東海道(新規)

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