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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 お伊勢参り02 内宮周辺   

日時 2014.11.18(火)
天気 晴れ

おかげ横丁でぶらりと散策して二見ヶ浦へ、と考えていましたが、
「古市参宮街道」というのが気になったので歩いてみました。
この街道は外宮と内宮を結ぶ古道、外せないですね、よかったです。

時間もありましたので、二見ヶ浦にもいってみました。
やっぱり海は気持ちいいですね、来てよかったです。
さぁ、かえろっと。。。

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正宮 

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宇治橋                        参道

五十鈴川に架けられた木造の橋は神宮の表玄関です。長さは101.8m、両端の鳥居は両正宮の旧正宮の旧正殿棟持柱をリサイクルしています。

皇大神宮(こうたいじんぐう)
主祭神は天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ、天照大御神)三種の神器の1つ・八咫鏡を神体とする。伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである。一般には内宮(ないくう)と呼ばれる。式内社(大社)。伊勢信仰の中心となる神社で、日本全国の神社で授与される神宮大麻はこの皇大神宮の神札である。複数の神社を参拝する場合、格の高い神社から低い神社の順が一般的だが、神宮の通常の神事は外宮、内宮の順で行う。これを外宮先祭と呼び、参拝も外宮、内宮の順で行なうのが正しいといわれる。別宮として、境内に荒祭宮と風日祈宮、境外に月讀宮、滝原宮と伊雑宮のほか、境内・境外に27社・33座の摂社、16社・16座の末社、30社・30座の所管社を有する。『日本書紀』によれば、天照大御神は宮中に祀られていたが、崇神天皇6年笠縫邑に移し豊鍬入姫命に祀らせた。垂仁天皇25年、倭姫命が後を継ぎ、御杖代として天照大御神を祀るための土地を求めて各地を巡った。この経路は『日本書紀』にあまり記述がないが、鎌倉時代初期成立と考えられる『倭姫命世記』には詳述されており、その途中に一時的に鎮座した場所は元伊勢と呼ばれる。垂仁天皇26年、伊勢国にたどり着いたとき、「この国に留まりたい」という天照大御神の神託があり、倭姫命は五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが皇大神宮の始まりである。Wikipedia

倭姫命(やまとひめのみこと。生薨年不明)記紀に伝える古墳時代以前の皇族。第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。天照大神を磯城の厳橿之本(笠縫神社、檜原神社比定)に神籬を立てて、(垂仁天皇253月丙申)伊勢の地に祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。Wikipedia


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五十鈴川御手洗場(みたらし)
ここは昔から祓いの場所で、参拝する前に先ずこの五十鈴川の清流で身も心もきよめ、さわやかになって大宮にお参りするのが古来からのしきたりです。


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荒祭宮(あらまつりのみや)
天照大神の荒御魂(あらみたま)を祀る別宮で、荒御魂とは神の特別な働きをする状態、または神が現れて状態といわれています。




番外 お伊勢参り02 内宮周辺_d0183387_23490315.jpg風日祈宮(かざひのみのみや)
風の神を祀る別宮です。鎌倉時代の元寇の時、神風を吹かせて日本を守った神です。





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瀧原宮                        神楽殿


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・・・おかげ横丁

おかげ横丁
三重県伊勢市の伊勢神宮皇大神宮(内宮)前にあるお蔭参り(お伊勢参り)で賑わった江戸時代末期から明治時代初期の門前町の町並みを再現した観光地である。運営は伊勢名物赤福餅を生産・販売する株式会社赤福の子会社である有限会社伊勢福が行う。おはらい町の中ほどにあり伊勢志摩を代表する観光地となっている。Wikipedia

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赤福                            豚捨


・・・古市参宮街道

古市
(ふるいち)
参宮街道の外宮・内宮の中間にある古市丘陵を意味する場合が多いが、古市町のみを意味する場合がある。江戸時代以前は丘陵にあるため水利が悪く民家もほとんどなく楠部郷に含まれていたが、伊勢参りの参拝客の増加とともに遊廓が増え歓楽街として発達し、宇治古市として楠部郷から分かれた。江戸時代前期に茶立女・茶汲女と呼ばれる遊女をおいた茶屋が現れ、元禄(16881703)頃には高級遊女も抱える大店もできはじめた。寛政6年(1794)の大火で古市も被害を受けたものの、かえって妓楼の数は増え、最盛期の天明(17811789)頃には妓楼70軒、遊女1000人、浄瑠璃小屋も数軒、というにぎやかさで、「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳があるほどに活気に溢れていたという。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場した。江戸時代末には、北は倭町から南は中之町まで娼家や酒楼が並び、江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊廓、あるいはさらに大阪の新町、長崎の丸山をたして五大遊廓の一つに数えられた。代表的な妓楼としては、備前屋(牛車楼・桜花楼とも呼ばれた)、杉本屋(華表楼とも)、油屋(油屋騒動で有名)、千束屋(一九の膝栗毛に登場)などがあった。明治期に古市丘陵を迂回する道路が整備され衰退し、1872年(明治5年)では貸座敷33件、娼妓640人、昭和初期(1930年代)では22件、135人に減少した。20世紀後半には麻吉が旅館として1軒残るのみとなった。麻吉は古市丘陵の斜面に位置し、階段状の木造6階建てである。明治期には、楼上からの眺望がよい料理屋兼旅館「聚遠楼」として知られていた。Wikipedia


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宇治惣門跡
参宮街道の牛谷坂と宇治の町並みとの間に設けられ、俗に「黒門」と呼ばれて明治維新までここに番屋があった。(ガイドマップ)


番外 お伊勢参り02 内宮周辺_d0183387_09352388.jpg牛谷坂
江戸時代の1674年に内宮官藤波氏富によって改修され、その後宇治年寄が再改修した。1805年古市の妓楼千束屋(ちつかや)によって大改修がされてほぼ現在の姿になった。(ガイドマップ)


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常夜燈                        古市参宮街道資料館


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山門                          観音堂
寂照寺
家康の孫「千姫」の菩提を弔うため1677年建立。知恩院から月遷上人が住職として普山し、絵を売り寺の再建・貧民救済に尽力。(ガイドマップ)


番外 お伊勢参り02 内宮周辺_d0183387_08475420.jpg麻吉旅館
1851年創業とある由緒ある旅館で昔の姿を今に伝え、現在も営業中。崖上に建てられた5層6階の建築になっている。有名人が多数宿泊し色紙や額が飾られている。(ガイドマップ)


番外 お伊勢参り02 内宮周辺_d0183387_08480591.jpg長峯神社
祭神は猿女の祖といわれている天鈿女命(あめのうずめのみこと)である。芸能の神様ともいわれ歌舞伎役者なども参拝に訪れている。(ガイドマップ)



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倭姫宮(やまとひめのみや)
倭姫命は、第11代垂仁天皇の皇女です。第10代崇神(すじん)天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の後を継いで「御杖代(みつえしろ)」として皇大御神(すめおおみかみ)に奉仕され、皇大御神を戴いて大和国をお発ちになり、伊賀・近江・美濃等の諸国を経て伊勢の国に入られて、ご神慮によって現在の地に万代不易の皇大神宮をご創建されました。「御杖代」とは皇大御神の御杖となって、ご神慮を体して仕えられるお方の意です。倭姫命から後、代々の天皇は未婚の皇女を伊勢に遣わして皇大御神に奉仕させられましたが、このお方を斎王(いつきのみこ)と申し上げます。 倭姫命は皇大神宮ご鎮座ののち、神嘗祭をはじめとする年中の祭りを定め、神田並びに各種ご料品を奉る神領を選定し、禰宜(ねぎ)、大物忌(おおものいみ)以下の奉仕者の職掌を定め、斎戒(さいかい)や祓(はらえ)の法を示し、神宮所属の宮社を定められるなど、神宮の祭祀と経営の基盤を確立されました。このように大きなご功績をお示しになられた命の御徳をお慕いして、大正の初年から神宮司庁と宇治山田市(現在の伊勢市)が命をまつるお宮の創立を請願してきましたが、大正1014日、皇大神宮別宮として当宮のご創立が許可され、同12115日にご鎮座祭が執り行われました。(伊勢神宮HP)


・・・二見ヶ浦

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二見興玉神社
(ふたみおきたまじんじゃ)
夫婦岩の沖合約
700mの海中に沈む、祭神・猿田彦大神縁の興玉神石を拝する神社である。猿田彦大神は天孫降臨の際に高天原と豊葦原中津国の間の道案内を務めたことから、「道開き(導き)の神」といわれている。この神の神使はカエルとされており、神社参拝の後に神徳を受けた人々が、神社の境内にカエルの塑像を献納する。このため、境内には無数のカエルの石像が並んでいる。この神社の授与品もまた「無事カエル」「貸した物がカエル」「お金がカエル」(カエル帰る返るの掛詞)と呼ばれるカエルをモチーフにしたものである。1910年(明治43)猿田彦大神を祀る興玉社(おきたましゃ)と宇迦御魂大神を祀る三宮神社(さんぐうじんじゃ)を合祀したもので、その際に現社名に改称した。興玉社の歴史は、夫婦岩に注連縄を張り興玉神石の遙拝所を設けたのに始まるという。天平年間(729 - 748)、僧行基が興玉神の本地垂迹として江寺(えでら)を創建し、境内に興玉社を建てて鎮守社とした。後に現在の二見浦へと遷座した。三宮神社は、元は現社境内の天の岩屋の中に祀られていたが、文禄年間に岩屋の外に移された。1910年(明治43年)に興玉社本殿に合祀された。古い参詣記には三狐(さんぐ)神社などとも記される。Wikipedia


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夫婦岩
(めおといわ)
日の大神(天照大神)と興玉神石を拝むための鳥居の役目を果たしている。古来、男岩は立石、女岩は根尻岩と呼ばれていたが、いつの頃からか、夫婦岩と呼ばれるようになった。この名称がついた時期は定かではないが、江戸時代中期中期の『伊勢参宮名所図会』に大注連縄を張った夫婦岩の絵が載せられている。Wikipedia


by Twalking | 2014-11-24 12:11 | 東海道(新規)

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