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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿   

日時 2014.11.18(水)~21(金)
天気 晴れ&曇り
桑名宿~庄野宿(3)采女~石薬師~庄野~荒井田


・・・采女~石薬師宿へ
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石薬師宿

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1号から旧道へ左折                地下道横断し、先の二又路を右へ


・・・石薬師宿~1号合流地へ(コンビニで小休止)
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一里塚から畷道をカルバート右折、橋を渡り右折、高架下を潜り1号に合流・右折
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石薬師寺先の二差路を右へ、橋を渡る    高架下から国道合流し右折、日本Cへ    


・・・1号~旧道へ左折し庄野宿(一里塚左の公民館で小休止)~高架下へ

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庄野宿

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日本C角を右折、次の信号左折         高架下先横断、すぐの角を左折し旧道へ


・・・高架下左折し旧道を安楽川橋~荒井田駅へ

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安楽川橋から堤防下、先の丘を越えて荒井田駅へ

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二又を左手へ、合流右折            踏切を渡り新田川駅へ


・・・・・・・・・・・
資料ファイル

・・・石薬師宿

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北町の地蔵堂
 
延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれている。江戸時代、東海道の宿場として賑った石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのだろう。現在この付近の16軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供花の奉仕がなされている。(石薬師魅力再発見委員会)旧小林家住宅(資料館)この建造物は保管されている棟札から嘉永7年頃建てられたものと考えられます。(案内板)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13071498.jpg小沢本陣跡 
東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立され宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。大名の泊まる宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。国学者萱生由(ふみ)もこの家の出である。(鈴鹿市教育委員会)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13071874.jpg天野記念館 
天野修一はこの記念館を昭和39年ふるさと石薬師本町のために建てられました。天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ株式会社の創業者です。(案内板)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13075647.jpg佐佐木信綱資料館
 
当資料館は、明治、大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として万葉集研究の最高峰を究められた佐佐木信綱博士の業績を顕彰するとともに、市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士生誕の地に建設したものです。市では、今回の開館を機に、佐佐木家をはじめ、博士ゆかりの方々から寄贈、寄託を受けた品々のほか、これまで生家に保管されていた資料一切を当館に収納しました。資料の中には、博士の遺愛品、御下賜品、書簡、作歌、原稿のほか、書籍には「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」の主著三部作をはじめ、歌集「おもい草」「山と水と」など多数を保管、展示しています。(鈴鹿市)

東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13080472.jpg佐佐木信綱先生略伝
 
先生は、明治5年(187263日、歌人弘綱翁の長子としてこの地、この家に誕生せられた。幼少期のゆきとどいた教導と恵まれた資質と加うるに克苦勉励の努力とにより、明治大正昭和の三代、歌壇学界の巨人と仰がれつつ92歳の天寿を全うせられたのである。一郷党の達しえた道標として、この遺構を訪れる人々のためにとどめる。(鈴鹿市)


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東海道五十三次 石薬師・石薬師寺

石薬師宿
 
石薬師宿は江戸から数えて44番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和2年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。弘化2年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約7割をしめており、農村的性格の強い宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣がありその向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱の生家で、一家が松阪へ移住する明治10年(1877)までの幼年期をこの家で過ごした。 裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和63年(1988)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。(案内板)


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石薬師寺薬師堂・石仏
 
寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永6己巳年(1629)再建された。建物の規模は桁行三間、梁間四間、寄棟造。本瓦葺きて一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。石仏は花崗岩で像高190cm、寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおはゆたかで、薬師仏として親しまれてきた。平素は秘仏であるが、1220日の「おすす払い」には、洗い清められる。平安後期の作。(鈴鹿市教育委員会)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13280886.jpg御曹子社 
蒲冠者範頼を祭った神社。範頼は源頼朝の弟であるが、武道、学問にすぐれていたので、それらの願望成就の神様といわれている。昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがあった。境内の左側には神馬(模型)とそのきゅう舎が寄進されている。神社の南薬60mのところに範頼ゆかりの蒲桜がある。(石薬師魅力再発見委員会)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13281043.jpg石薬師の蒲ザクラ
 
この桜は、ヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しい。赤茶芽、花は、一重の五弁、直径五cm、白色から淡紅色で、開花時は見事である。伝説によれば、寿永(118284)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。そのため、俗に「逆桜」とも言われている。(鈴鹿市教育委員会)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13281679.jpg石薬師一里塚 信長記には天文9年冬、40町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎を植えさせたという。家忠日記には、慶長9年秀忠が東海道、東山道、北陸道の3道に一里塚を築かせ、一里を36町に改めたという。江戸川柳「くたびれた やつが見つける 一里塚」



・・・庄野宿

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東海道五十三次 庄野

東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13530250.jpg庄野宿
庄野宿は江戸から102里余、東海道45次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿にくらべ宿立ては遅く寛永元年(1624)といわれている。この宿は、「草分け36戸、宿立て70戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせ七10戸で宿立てをした、南北八町で宿入口の加茂町中町上町からなる。安藤広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作と言われ世界的にも高い評価を得ている。(案内板)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13591350.jpg旧小林家住宅 
この建造物は保管されている棟札から嘉永7年ころ建てられたものと考えられます。(案内板)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13532290.jpg問屋場跡
 
問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。 問屋2名、年寄四名書記(帳付)馬差各45名が半数ずつ交替で詰めた。主な任務は公用書状の継ぎ立て、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村々への人馬の割当て、賃銭、会計などであった。(案内板)

東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13532421.jpg庄野宿本陣跡
 
庄野宿は東海道五十三次の45番目の宿場で、寛永元年(1624)に設置された本陣は沢田家で、間口14間1尺、奥行211尺、面積2297合、畳数197畳半、板数44四畳半あった。(案内板)


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脇本陣跡 
脇本陣は江戸時代、本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕のない時に利用された。大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ宿場の名望家が選ばれることが多かった。庄野宿では、本陣隣の、楠余兵衛家が脇本陣であった。(案内板)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_14082801.jpg高札場跡 
高札場は、法度、掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で、各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。庄野資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。(案内板)

東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_13533650.jpg郷会所跡
 
郷会所は、助郷の割当てを受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所であった。江戸時代も後期になると助郷人馬の割当てが多くなり該当の村々の疲弊が重なり、減免陳情のための会合が繰り返された。庄野資料館には、陳情書の控え等が保管されている。(案内板)

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川俣神社スダジイ 
スダジイはブナ科の常緑樹で、我が国では暖地に自生している。葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏に雌雄の花をつけ、果実は小粒で硬い。この樹は高さ11m、地上の幹回り約5mの巨木である。

・・・

東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_15041322.jpg女人堰跡 
この地鈴鹿川の北岸、安楽川との合流点にあって、完全な堤防のないが為に毎年夏期の水害には耕地住宅の被害甚だしく、人命を失った事も相次ぎ、幾度かの堤防建設の許願も南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主の許す所とならず、強いて行えば打ち首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く、被害を受け留部落民は、眼前の苦悩に堪え難く、如何なる処刑をも恐れず、築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打ち首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い、将来部落の自活に大いなる支障をきたすこの工事は、私等女子の死出の仕事にしましょうと絶唱した。これにどうじた女衆200余人、暗夜を選んで工を続け、苦慮惨憺6年。ついに完成、今日の美田安住の地を得るに至った。この事がいつしか、藩主の知る所となり、処刑の日は来た。今し、その第一番者、菊女が断頭の座に着いた刹那、家老の松野清邦の死を期しての諌による救済の早馬が来たり、既に覚悟した200有余の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して、金1部と絹5匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美拳である。茲にこれを記念せんがため此の碑を建つ。(案内板)


東海道(30)桑名宿~庄野宿03 下見 石薬師&庄野宿_d0183387_15041967.jpg中冨田一里塚
 
一里塚は、慶長9年(1604)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。江戸日本橋を起点として、36町を1里(約4キロ)として、1里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。享和3年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ百里(約400km)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。(案内板)


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川俣神社                           川俣神社

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安楽川
(あんらくがわ)
鈴鹿水系の支流で、三重県中北部を流れる一級河川。鈴鹿山脈南部の安楽峠に発して石水渓を刻み、平野部に出てからは500mと空けずに八島川・御幣川が北から注ぎ、3kmほどで鈴鹿川に注ぐ。下流部の能褒野には、ヤマトタケルが没したとされる伝説が残る。なお河川名にもなった安楽峠の名は、同峠が高低差がさほどなく楽に越えられることから来ているという。(Wikipedia)

  

by Twalking | 2014-12-04 15:16 | 東海道(新規)

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