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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 湘南シーサイド『大磯・高麗山のみち』01下見   

日時 2015.1.12(月)
天気 晴れ

鎌倉を起点に“湘南の海”を歩くシリーズの第3弾になります。
第1回が「稲村ヶ崎・岩礁のみち」、第2回は「砂浜のみち」
そして今回「大磯・高麗山のみち」へと繋いでいきます。

いずれも“関東ふれあいのみち”を中心に周辺をアレンジした
した企画ですが、これまではいずれも平坦なシーサイドコース。
今回のコースは“湘南アルプス”がメインになります。

200mに満たない高麗山、低山と侮れないタフな登りとなります。
でも、大磯の良さは“山”と“海”、この両方を如何なく堪能するには
やはり“湘南平”と“こゆるぎ浜”は外せないポイントです。

一応、太平洋自転車道を歩くコースも用意して下見をしましたが、
“継続性”と“変化”を重視し、平塚海岸をプラスしたコース取りになりました。
ちょっとタフなコースになりますが、それだけに変化に富んだ
贅沢なコースです、どうぞご期待ください。


平塚海岸
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平塚砂丘と呼ばれていますが、富士と西へ続く海岸線が素晴らしいです/平塚海岸


湘南アルプス
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花水川河口より/134号・花水川橋

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左のピークへ登ります/高来神社

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この階段登れば頂上です          浅間山への尾根道


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あの尾根を歩いて来たんですよ/大磯港


湘南平展望
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大磯富士、東側からみる富士になります


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箱根連山(中央)&伊豆の山並み(左)


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相州大山(中央)&丹沢主脈(左)


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江の島(中央)茅ヶ崎&馬入川(左)平塚&花水川(手前)、歩いて来た湘南の海が一望できます


こゆるぎ浜
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サンドウオークもいいですね!


・・・・
資料ファイル

高麗山
(こまやま)
神奈川県の平塚市と大磯町に跨る山。大磯丘陵の東端にあたり、標高168m。広葉樹の自然林が残り、「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれている。一帯の県有林約29haは、高麗山県民の森に指定されている。歌川広重の『東海道五十三次』では平塚宿にその姿が描かれた。名称は高句麗(中国東北部から朝鮮半島北部にわたる地域)からの渡来人に由来するといわれる。

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東海道五十三次 平塚・高麗山

地元では高麗寺山(こうらいじさん、こうらじやま)とも呼ばれているように江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった。高麗寺は高句麗から渡来した高麗若光を祀った古い寺院と言われるが、室町時代には数度の戦火に見舞われ、廃寺寸前にまで追い込まれる。しかし江戸時代に徳川家が権現信仰のあるこの寺を上野寛永寺の末寺とし東照宮を置いたことから隆盛を取り戻した。しかし明治時代に入るとこのことが仇となり、徳川色を消し去りたい明治政府によってこの寺は廃寺とされ、廃仏毀釈で山内の堂塔は悉く破壊され高麗神社だけが残った。高麗神社は明治時代に高来神社(たかくじんじゃ)と改名し現在に至っている。高麗寺が健在の時は、山頂の大堂とその西側の西天照(現在の八俵山)東側の東天照で三権現と呼ばれ、大堂、東天照の地名は今も山中に残る。なお、江戸時代には高麗寺領は高麗寺村という独立した村となっていた。
高麗寺山から現在の高麗山になった。

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高麗寺領境内見取り図

否定する人もいるが、7世紀に滅亡した高句麗からの亡命者の一部がこの付近に定住し、寺院を建立してこの名をつけたと考えられている。このことは付近の古墳群から出土した装飾品や山の南側にもろこしが原(現在は唐ケ原、とうがはら)という地名が残っていることなどからも推測できる。唐ケ原は藤原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が更級日記に「もろこしが原に大和撫子しも咲きけむこそなど人々をかしがる」と書いた地とされる。この地に一旦は定住した大陸からの移住者はその後現在の埼玉県にあった高麗郡に集められ移住していった。旧高麗郡の埼玉県日高市に高麗神社と高麗山聖天院(現在は真言宗)があり、どちらも高麗若光に縁がある。(Wikipedia)


湘南シーサイド『大磯・高麗山のみち』01下見_d0183387_13445432.jpg湘南平
(しょうなんだいら)
神奈川県の平塚市と大磯町の境にある標高
181mの丘陵で、高麗山(こまやま)と泡垂山(あわたらやま)の山頂一帯を指す。(かながわ公園50選)高い山ではないが相模湾を一望できる眺望は素晴らしく、桜の木も多く花見の季節は家族連れで賑わう。高麗山公園内にはハイキングコースが整備されている。そのため四季を通じて家族連れや中高年ハイカーが訪れ、近隣の小学校では格好の遠足コースとなっている。泡垂山から高麗山に向かう途中には浅間山があり、浅間神社と一等三角点がある。平らな山頂に現在はレストハウスとテレビ塔(平塚テレビ中継局)がある。泡垂山の地名は曽我物語に由来し、虎御前のもとにいた兄十郎の危急を聞き曽我の里から駆けつけた弟五郎が近道をしようと馬でこの山に駆け上ったところ山頂付近で馬が泡を垂らしたところからつけられたという。またその時に馬が前足を踏ん張った場所から泉が湧きでたとされ、のちに十郎が虎女への文をこの水で墨をすりしたためたことから「十郎の硯水」として現在も湘南平東側入口の横に史跡として残っている。昭和の初期頃まで此処には茶店があったという記録もあり、昔の日本人の曽我物語好きを偲ばせる。(Wikipedia)


湘南シーサイド『大磯・高麗山のみち』01下見_d0183387_14011173.jpg花水川
(はなみずがわ)
神奈川県の中西部を流れる二級河川金目川の下流部における別称。丹沢山系に源を発し、大山の西側を流れ相模湾に注ぐ金目川の流路のうち、平塚市徳延付近の渋田川との合流点から相模湾に注ぐ河口までの約2.5kmの間を花水川と呼ぶ。東海道が渡っており、昔は多くの人の信仰を集めた高麗寺のあった高麗山が近くにあることや更級日記に出てくる唐が原(もろこしがはら)もその岸辺にあることから、それほど大きくない川ながら古くからその名前は知られていた。現在の流域は江戸時代に河川改修されたもので、それ以前の流れとは大きく変わっている。河川改修以前に流れていた場所は平塚市側に古花水という地名が残っているものの現在は定かではない。(Wikipedia)



湘南シーサイド『大磯・高麗山のみち』01下見_d0183387_12162106.jpg大磯町
南は相模湾に面した遠浅の海で、小漁港と砂浜になっている。町の東西を東海道が貫通し、町域を南北に二分している。北東部には高麗山、北西部には鷹取山という小丘陵があり、大磯丘陵(大磯地塊)とよばれる。町域面積の6割を占める丘陵地帯は西へつづき、小田原市にまで至る。明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地として知られており、特に以東博文、吉田茂のそれは特に有名である。山縣有朋や西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩明弥之助、安田善次郎といった政財界要人の別荘が多く建てられた。1907年(明治40年)頃の大磯には150戸以上の別荘があったといわれる。また、吉田茂の場合は首相退陣後は大磯にて隠棲生活を送ったが、晩年も政界への影響力を保持していた為、「大磯」は吉田茂を示す別称(政界用語)でもあった。(Wikipedia)

大磯丘陵
この丘陵は、北側は東西にのびる渋沢断層で秦野盆地と、西側は国府津-松田断層
で酒匂川低地(足柄平野)画され、東側は鷹取山、高麗山などで相模平野と接する隆起地塊である。地質的には大部分が新生代第四紀中期の砂・泥層と関東ローム層かなる。中井町北部から二宮町にかけては葛川や中村川により切り開かれた「谷戸」(やと)地形が見られる。(Wikipedia)


by Twalking | 2015-01-13 14:15 | ツーリズムウオーク(新規)

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