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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋   

日時 2015.2.23(月)~25(水)
天気 曇り&晴れ
初日 草津宿~瀬田の唐橋(石山駅)

いよいよエンディングロードを迎えます。
3年かけた東海道、山並みの先が京都と思うと、
なんだか身も心も弾んで足取りも軽やかになります。

初日は草津宿、街道随一の草津本陣や立木神社、
近江国一宮・建部大社の荘厳な社叢などが見事です。
そして、なんといっても瀬田の唐橋、琵琶湖ですよ~。

歴史といい、景観といい、変化に富んだコースです。
きっと楽しんで頂けると思います、
どうぞご期待ください。


・・・草津追分~矢倉の立場~矢倉南交差点へ

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草津宿風景

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矢倉橋/草津川                   矢倉南(横断・斜方向上北池公園へ)

・・・矢倉南から野路集落を通り弁天池へ

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弁天池

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矢倉南信号から迂回し旧道へ          43号を直進(カルバート横断・左にセブン)

・・・弁天池から月輪集落を通り一里山交差点へ
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月輪集落

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大亀川(狼川)横断                一里山1丁目信号(右瀬田駅・スーパー)   

・・・一里山から大江町へ

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鉤の手左折し直進、先の二又を右折/大江町

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大江3丁目信号左折(瀬田小)          初田仏壇二又右折(直進近江国府跡)


・・・大江町二差路から建武神社へ
        
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高橋川を直進

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二差路からT字路を左折              神領交差点(左折・竹部神社)

・・・神領交差点から瀬田唐橋、鳥居川信号右折し石山駅へ

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瀬田の唐橋を直進(西詰信号横断)

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京阪踏切先鳥居川信号右折           駅手前信号左折し石山駅へ


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資料ファイル

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草津宿マップ


 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_16521608.jpg草津宿本陣 
草津宿本陣は、寛永12年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治3年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延47262にのぼる敷地内には、かつての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。この本陣遺構はこれまで、享保3年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた弘化3年~文久3年頃(18461863)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。敷地内には、正面、向かって左手に表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。また、これらの主要建築物の背後には別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されています。(説明板)

 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_17100378.jpg宿札の掲場(復元)
大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、2本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは3間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。宿札に記された「松平出羽守」は、出雲国(島根県)松江藩主です。松江藩はここ田中七左衛門本陣のいわばお得意様であり、田中七左衛門家は同藩の専用継飛脚の御用を務めていました。ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。(説明板)

 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_17100701.jpg上段の間
 
広さ8畳の上段の間は本陣建物の中で最も格式の高い部屋で、大名など主客の休泊に用いられました。部屋の中央には2畳の置畳を設置し奥には正面に向かってたから違い棚、床の間、付書院が設けられています。天井は格(ごう)天井で漆塗り、無かっ津¥て右側の越高障子には松井景文の秋海棠(しゅかいどう)が描かれています。(説明板)

 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_17101134.jpg湯殿 
大名など主客専用の風呂場です。畳敷き4畳は脱井場や供回りの控えの間であり、板張り8畳は中庭や竈で沸かした湯を湯舟へ運び入れ、その場で湯浴みをする浴室として使用されました。(説明板)




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吉川芳樹園店舗兼主家 
平入り正面上部の中篭窯風の意匠や漆喰で塗り込められた出桁(でけた)など町屋らしい雰囲気をかもしだしており、鬼瓦には文政13年(1830)が認めがられます。街道に面は平行した切妻造りの背面で、軒が直交するT字形の屋根形式となっており、草津宿の訂屋にみられた特徴を持っています。草津宿には本陣2軒、脇本陣が時代によって2~4軒ありましたが、この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたります。(草津市教育委員会)


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草津宿田久藏家跡                三度飛脚取次処荒物屋久右エ門家跡


 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_10291557.jpg常善寺
天平7年(735)良弁僧正の創建と伝えられる草津最古の名刹である。かつては堂堤伽藍も整っていたが、兵火や水害によって荒廃したものである。室町時代は「草津御所」と呼ばれ幾度か将軍の宿舎ともなり、江戸時代にも草津宿の最も重要な寺院であった。本尊阿弥陀如来坐像並びに観音菩薩勢至菩薩立像は共に木造寄造りで建長5年(1253)の墨書銘があり国の重要文化財に指定されている(明治33年指定旧国宝)。その温雅な仏相、複雑に翻える衣文など造像当時の作風をよく残し、光背は迦陵頻伽の透かし彫である。台座は寄せ木造り漆箔の九重座に豪華な装飾を施した見事なもので、南北朝時代の代表作とも言える文化財である。(草津市教育委員会)


 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_19130468.jpg草津宿と政所 
草津宿は東海道五十三次の宿場の中でも大宿で、水陸交通の要所であることから関所的な役割を担ってました。草津宿でこの付近一帯は政治的中心地として宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理を行う問屋場がありました。併せて東海道筋で三ヵ所しか置かれていなかった荷物などの拾両検査を行う貫目改所も設置されましたので、太田家を中心とするこの付近は草津の政所と云われた所以です。(案内板)


 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_19130680.jpg八百久店舗兼主屋 
当家は江戸期寛保年間の創業とされ、鋤・鍬・天秤・火鉢などのほか日用品全般を商っていました。建物は昭和3年の建築ですが、街道側から見ると軒高が低く押さえた厨子二階建てであり、格子窓や蟲窓の伝統的な意匠をが用いられています。一方、二階座敷の天井高を確保するため軒坪通りをやや後退させる工夫が用いられています。(草津市教育委員会)


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立木神社祭神
武甕槌命たけみかづちのみこと)御本殿 三間社流造間口三間・奥行三間48
代)
神護景雲元年(767年)のこと、御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ(古来始めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着されました。そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。「この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。(立木神社HP)


黒門の由来/矢倉橋手前
草津宿は、東海道と中山道が交わる宿場町であるため宿場の入口は東海道の江戸方よりの入口と京方よりの入口および中山道よりの入口の三つの入口がありました。宿場町の入口には一般に見付けと呼ばれる施設が設けられていました。見付には石垣や土塁が築かれさらに柵などを設ける場合もあったようです。草津宿では、東海道の入口に「坂口見付」、中山道の入口に「札の辻見付(追分見付)」と呼ばれた見付がありました。一方、東海道の京方の入口である宮町と矢倉村との境には文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を限る施設として存在していたようです。しかし、この黒門は幕末期に草津宿役人を勤めた駒井興左衛門の記録に基づけば、もともとは六町目と宮町の境を流れる宮川に架けられた宮橋の南詰めにあった見附の石垣の上に建てられていたものですが、その後石垣が壊れたため上記のとおり矢倉村境に移築されるにいたったようです。ただ、この黒門の規模や形状については詳細な記述がなく不明といわざるを得ませんが、見附と同様な宿場町の保安的機能を有した門であったと考えられます。また、付近に黒門川(俗称)が流れていましたが、旧草津川の抜本的な放水路計画により分断され、上流・下流で一部その姿を留めることとなりました。

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 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_20033718.jpg矢倉立場 
(道標「右やばせ道 是より廿五丁 大津へ船渡し」)
東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。 立場とは宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で、 矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。この地にそのうばがもちがあり歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに旅人が立ち寄って、うばが餅を賞味する光景が描かれている。また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る 「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が今も軒先に建っている。旅人は俗謡に「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、 旅人の多くはここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て 矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。そしてこの地と矢橋の渡し、瀬田橋はよく使われる俚言(世間でよく使われる言葉)で 「急がば回れ」の語源になった所でもある。(武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)と詠まれ、近道であっても湖上が荒れて舟が出なかったり、 風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより 回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、 成果を急ぐなら遠回りでも 着実な方法を取るほうが良いことを指南したものである。(案内板)

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東海道五十三次 草津・名物立場


矢橋
(やばせ)
矢橋から船に乗り対岸に達すると東海道の近道になることから、古くから琵琶湖岸の港町として栄えた。伯母川三角洲と狼川三角洲の間で、南湖(琵琶湖南部)で最も湾入した地域に位置し、港町として栄えた。近世には東海道から矢倉で分岐する矢橋道の終着点であった。現草津市内には志那・山田・矢橋の三港があったが、矢橋は特に中世に台頭。要港警備の拠点として矢橋氏による矢橋城も築かれた(「城前」という小字も存在する)。明治時代に入ると琵琶湖交通に蒸気船が登場。さらに鉄道が敷設され物資輸送の主役が陸上交通に移ると矢橋港は衰え、矢橋の町も往時のにぎわいを失った。近年、矢橋帰帆島(きはんとう・人工島)の建設や新興住宅地の建設がすすみ、住宅地として発展しつつある。(Wikipedia)

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近江八景 八橋帰帆(広重)



 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_20390659.jpg野路一里塚/上北池公園
この石碑より北西に約30mの所と道路(旧東海道)を挟んだ北東約20mの所の2<ヶ所あった。明治14年頃に官地が私有地に払い下げられ、消滅するにいたった。ここに野路一里塚の旧地を証するため、この石碑を建立する。(案内板)


 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_20391010.jpg清宗塚/教善寺先
文治元年に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(八歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京へ上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年6月21日の事、清宗時に17歳であった。首は京都六条河原にて晒される。平清盛は義経3歳の時、あまりにも幼いという事で命を許した。時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて31歳で殺される。夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。

平清宗
平安時代の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。「吾妻鏡」に「至る野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。(遠藤権兵衛家 当主遠藤 勉)


 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_23255311.jpg野路萩の玉川
「野路」/43号先
平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。ここ玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作
あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけりは名歌として世に広くしられている。又十六夜日記(阿仏尼作)にはのきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはらと咏んだ。十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、あたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。その後野路宿が草津宿に移り次第に玉川も亦さびれる運命となった。近年は泉も涸れ形も小さくなり、風情は一変した。かつては天下の名勝萩の玉川もわずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次第である。(草津市野路町)

古き宿駅 
野路駅の名残り
 野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。『千載和歌集』の中の源俊頼の歌に、あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけりと詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には『近江名所図会』や安藤広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。付近には陣所となった新宮神社をはじめ、小野山製鉄遺跡など多くの遺跡も発見されている。(案内板)

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弁天池                  旧東海道大亀川の渡し(木柱)


 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_09433035.jpg月輪池道標 
「海道より左のかたに池あり、月輪池となづく。むかしこの池に月の落給へりと申つたふ。おぼつかなし。池水すみぬれば、月さやかにうつり給ふを、落ちたりといひつたへしにや。もし李太泊が酒によふて、月水中に落ちたりといひてとらんとして死せるたぐいか」(東海道名所記)



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月輪
月輪池に由来する地名でこの池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれます。付近は荒野でしたが、江戸時代にはいって開墾がすすめられ延宝4年(1676)大萱新田となり、明治7年(1874)月輪村と改称されました。(標柱)



 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_00080266.jpg一里塚

徳川家康が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。ここにあった一里塚は、東海道大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。(大津市教育委員会)


 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_00080795.jpg野上神社旧跡 
大江の名は平安前期以来朝廷の文章道(歴史・文学)を司った大江氏(大江千里)がこの地を開発されたことが地名になったと伝承されている。千里は「ちりんさん」と呼ばれ村人から敬われた36歌仙の一人として著名で、没後住居の旧跡に小祠(野上社)を建て遺徳をしのんだ。明治25年に後霊神社と刻んだ石碑が建立されている。(案内板)

 東海道(33)エンディングロード下見01 瀬田の唐橋_d0183387_00261806.jpg西行屋敷跡 
西行法師は俗名佐藤義清といい、百足退治の伝説で知られる俵藤太(藤原秀郷の後裔で、鳥羽上皇の院御所を警護する北面の武士であったが、23才のとき出家し諸国行脚を重ね仏道修行に歌道に精進した平安時代末期の代表的歌人だが、一時この大江の館(瀬田小学校の南の忠魂碑の近く)に住んでいたという伝承がある。(案内板)



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建部大社
当社は古来、建部大社、建部大明神などと称え延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御されましたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定めその功名を伝えられました(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。景行天皇の46年、神勅により御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)(父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、とくに源頼朝が平家に捕われ14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永暦元年(1160年)320日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されています。遂に頼朝は源氏再興の宿願成って、建久元年(119011月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされたのです。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以です。(建部大社HP)


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瀬田の唐橋 
宇治橋(宇治川)、
山崎橋(淀川)とならんで日本三大大橋の一つとされてきた。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るもしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。本格的には近江大津京遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。
(歴史)壬申の乱(671年・大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった)、治承・寿永の乱(源平合戦 1183年に源義仲対平家、1184年に源義経対義仲の合戦)、承久の乱(1221年 後鳥羽上皇の京軍と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍軍が瀬田川を挟んで交戦)、建武の戦い(1336年足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦)、本能寺の変~天王山の戦い(唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行瀬田城主の山岡景隆で90日で完成させたという。明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった)。江戸時代は膳所藩(本多家)が管、東海道がここを通った。木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことである。(全長260m)(Wikipedia)


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橋守神社と雲住寺

橋守神社は正しくは龍王宮秀郷社と言い、竜宮の主に見込まれた藤原秀郷(俵藤太)が、三上山の百足を退治して竜宮乙姫と結ばれ、後に乙姫と同じく各々が本社に祀られたと言われている。また、雲住寺は、藤原秀郷の子孫によって建立され、秀郷の遺品と伝えられる太刀や槍の鉾先、系図、橋守神社の縁起等が保存されている。


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近江八景 瀬田夕照(広重)

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近江国庁跡 
滋賀県大津市大江三丁目・大江六丁目・三大寺に所在する、律令制下の地方行政機関の施設跡である。「三大寺遺跡」とも呼ばれる。1935年(昭和10年)に、近江国府は大津市瀬田(旧栗太郡)大江三丁目付近であると、歴史地理学者によって学会誌に発表された。それまでは、全国的にも国庁の実態はほとんど不明であり、近江国庁の具体的位置や構造も詳細不明で『和名抄』や『拾芥抄』(しゅうがいしょう)によって栗本(太)郡内にあったことが知られる程度であった。その発表を裏付けたのは、1963年(昭和38年)と1965年(昭和40年)の発掘調査で、近江国庁の中枢部が確認された。国府の広さは8町から9町四方で、その南端中央部に国庁があり、東西2町・南北3町であったと推測されている。国庁地区の中心部には四方を築地(ついじ)塀で囲まれた内郭(政庁)がある。東西72.8メートル(240尺=3分の2町)、南北は推定109メートル(360尺=1町)である。この政庁の建物は瓦積基壇からなる4軒の瓦葺きの建物で、国庁の中軸線を中心に左右対称に配置されていた。基壇の上に東西7間(23.1メートル)、南北5間(15.0メートル)と推定される正殿の前殿があり、その後に南北を1間分小さくしたような正殿の後殿があり、廊が付けられている。前殿の両側には南北に長く延びる東西の脇殿が配置されている。基壇の規模は南北48.5メートル、東西9.2メートルである。この脇殿も前殿と廊で結ばれている。この政庁の遺構は前後2時期に区分される。前期は奈良時代中頃、後期は同時代末から平安時代初期以降である。そして、10世紀末頃までは存続したと考えられている。(Wikipedia)

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琵琶湖 
滋賀県の面積の6分の1を占め、流れ出る水は瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。また、湖水は淀川流域の上水道として利用され、京都市は琵琶湖疏水から取水している。陸上から見た地形により最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側部分を北湖太湖)、南側部分を南湖と呼んでいる。一方、湖底地形から見ると、北湖盆(North Basin)、中湖盆(Central Basin)、南湖盆(South Basin)に分けられ、北湖盆と中湖盆の境界は沖島北方付近で鞍状の湖底地形が存在している。北湖は面積623km2平均水深41m、南湖面積58km2平均水深4m。湖を取り囲む山地からの流れが源流で、京阪神の水がめとしての機能も担っている。また、古くから水上交通路としても利用されており、明治時代に鉄道が開通するまでは、京や大阪から東国・北陸への物資輸送の中継地として利用されていた。「急がば回れ」ということわざの語源である。湖を渡るには現在の草津と大津の間を結んでいた「矢橋の渡し」という渡し舟があったが運休が多かったらしく「急ぎならば、瀬田の唐橋のほうに回れ。遠回りでもかえって近い」という意味の和歌が出典。琵琶湖が形成された時期は、約400万年~600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であった(大山田湖)。湖は次第に北へ移動し、現在から約10040万年前、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。大山田湖以前、現在の琵琶湖の位置には山(古琵琶湖山脈)があり、鈴鹿山脈は未だ隆起せず、今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていた。それを裏付けるように、鈴鹿山脈の主要な地質は礫岩である。また、琵琶湖に流入する最大の川で、東南に位置する野洲川は、当時西方ではなく、東方へ流れていたという。なお、琵琶湖は世界の湖の中でも、バイカル湖やタンガニーカ湖に次いで成立が古い古代湖であると考えられている。(Wikipedia)



by Twalking | 2015-02-27 15:11 | 東海道(新規)

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