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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり京都04 哲学の道   

日時 2015.3.9(月)
天気 小雨

みなさんそれぞれにプランをお持ちでしたので、ぶらりと哲学の道歩いてみました。ここは一度歩いてみたかった道、いい所ですね~、素晴らしい!


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哲学の道 
京都市左京区
にある琵琶湖疏水分線に沿った歩道である。永観堂付近にある熊野若王子寺神社横から始まり、銀閣寺道バス停付近の白川通今出川交差点まで続く。熊野若王子神社から大豊神社参道までは琵琶湖疏水分線が山裾に沿って流れており、疎水の山側は自然の森となっており、対岸側に桜並木がある。そのため春は桜、秋は紅葉が美しい区間である。桜の季節や紅葉の季節には多くの観光客でにぎわう。明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。その後、京都学派の哲学者・西田幾太郎や田辺元らが散策したため「哲学の小径」と云われたり、「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。1972年(昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。(Wikipedia



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慈照寺
(じしょうじ)
京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。足利義政は文明5年(1473)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。延徳2年(14902月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。(Wikipedia


番外 ぶらり京都04 哲学の道_d0183387_00332880.jpg観音殿(銀閣)
銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建つ。長享3年(1489)の上棟である。屋根は宝形造、杮葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた。鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を張った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は張られておらず、張られていた痕跡もない。上層は当初は内外とも黒漆塗であった。初層の平面規模は東面および西面が8.2メートル、北面が7.0m、南面が5.9mである(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1mほど長くなっている)。金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことである。万治元年(1658)に刊行された『洛陽名所集』などの文献に「銀閣寺」の名前が見られる。(Wikipedia


番外 ぶらり京都04 哲学の道_d0183387_00335012.jpg東求堂(とうぐどう)
一重入母屋造、檜皮葺きで、文明18年(1486)の建立である。軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。「東求堂」と「同仁斎」の名は義政の命で横川景三(おうせんけいさん)が撰した候補のなかから義政が選んだもので、「東求堂」は「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」(六祖壇経)、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁」(韓愈)を出典とする。現在の東求堂は方丈の東側に建つが、当初はもう少し銀閣寄り、現在「向月台」と呼ぶ砂盛のあるあたりに建っていたと推測されている。(Wikipedia

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浄土院
  
京都市左京区
銀閣寺町にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は清泰山。五山送り火のひとつ「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称される。この寺は、かつて慈照寺(銀閣寺)の場所に浄土寺という天台宗の寺院があった。この浄土寺の創建年代等については不詳であるが、986年(寛和2年)浄土寺で有明親王(後醍醐天皇の皇子)の妃である藤原暁子が出家し、有明親王の子救(みょうぐ)が入寺している。その後、皇室との関係が深かったが、室町時代8代将軍足利義政が山荘(後の慈照寺銀閣)を建てるにあたり、相国寺付近に移されその後廃絶した。その浄土寺の跡を引き継ぐにあたり亨保年間に建てられたのがこの寺とされる。(Wikipedia


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法然院
(ほうねんいん)
京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院である。元は浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28年(1953年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが院号の「法然院」で名が通っている。寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代なり、延宝8年(1680年)に、知恩院の第38世である萬無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍徴と共に再興したのが当寺であるとされる。寺は、鄙びた趣きをもつ、茅葺で数奇屋造りの山門と、内藤湖南ン、川上肇、谷崎潤、九鬼周造などの著名な学者や文人の墓が数多く存在する。本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されている。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定されている。また境内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。
Wikipedia


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安楽寺
(あんらくじ)
京都市左京区にある浄土宗の寺院で
7月に中風除けを祈願するカボチャ供養で有名である。通称「松虫鈴虫寺」(まつむしすずむしでら)ともいわれる。安楽寺は、1207年(建永2)におこった建永の法難のきっかけとなった法然の念仏道場「鹿ヶ谷草庵」の後身の寺であり、寺宝として安楽房遵西・住蓮坊と後鳥羽上皇の女官であった松虫・鈴虫関連のものが残されている。(Wikipedia



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霊鑑寺(れいがんじ)
京都市左京区鹿ヶ谷にある臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。円成山と号する。通称谷の御所、また鹿ヶ谷比尼御所。本尊如意輪観音。後水尾法皇の発願で皇女浄法身院宮宗澄尼(多利宮)を開山に、寺領120石を寄せて開創。1654(承応3)勅許により円成山霊鑑寺と称した。そののち明治維新まで皇女が入寺して歴代住持となり、堂宇再造には禁裏の旧御殿を下賜されるなど皇室との関係は深かった。現在本堂、庫裏、書院、表門などを備え寺域は広く境内は閑寂典雅な景趣に富む。(コトバンク)


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大豊神社
この社は少彦名命、応神天皇、菅原道真を祀っている。社伝によると仁和3年(887)宇多天皇の病気平癒のため尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願社であり、朝野の信仰が篤かった。建武の中興、応仁の乱の兵火などに遭って焼失したが本殿、東社、拝殿、絵馬堂が再建され、鹿ケ谷法然院、南禅寺一帯の産土神として信仰を集めている。特に末寺の大国社、日吉社の狛猿、愛宕社の絵馬はそれぞれ神の使いとして有名である。また神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花、山野草が四季折参拝者の心を和ませている。更に椿の名所として知られている。(案内板)


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熊野若王子神社
祭神として国常立神(くにとこたちのみこと)、伊佐那岐神(いざなぎのみこと)、伊佐那美神(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。当社は永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権を勧請して建立した若王子の鎮守社で、社名は天照大神の別称「若一王子」に因んでこのように名付けられた。以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に花見の名所としても知られ、寛正6年(14653月には足利義政により花見の宴が催された。その後、応仁の乱により社殿は荒廃したが豊臣秀吉により再興され、社殿及び境内が整備された。現在の社殿は昭和54年(1979)に一社相殿に改築されたもので、以前は本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていた。また、境内には末社として恵比須神社及び三解社が祀られ、背後の若王子山頂には同志社英学校(同志社大学の前身)の創立者である新島襄の墓がある。(案内板)


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総門&中門

禅林寺
(ぜんりんじ)
京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の
永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観の頃から浄土教色を強めていく。永観は文章博士の源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三輪宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは延久4年(1071)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。
境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれている。Wikipedia


番外 ぶらり京都04 哲学の道_d0183387_00574991.jpg御影堂
1912年(大正元年)に完成した総ケヤキ造の仏堂。宗祖法然を祀る堂で、本尊を安置する阿弥陀堂よりも規模が大きい。





番外 ぶらり京都04 哲学の道_d0183387_00575510.jpg阿弥陀堂
御影堂より一段高い敷地に位置する。1597(慶長2年)の建築。本尊の「顧り(みかえり)阿弥陀」像(重文)を安置す





・総門 江戸時代末期の建築。「高麗門」と呼ばれる形式である。
・中門 延亨元年(1744)の建築。「薬医門」と呼ばれる形式である。「高麗門」「薬医門」ともに、寺院建築よりは城郭、大名屋敷な  どに多く見られる形式である。
・多宝塔 境内の最も高い位置にあり、景観上重要な位置を占めている。
1928年(昭和3年)篤志家の寄付で建設された。
・方丈「方丈」は禅宗寺院特有の建物で、他宗ではあまり見かけないものだが、禅林寺の方丈は、平面、立面ともに禅宗寺院の方丈と同形式の建物である。寺伝では永正年間(15041511)後柏原天皇によって建てられたというが、実際の建築は江戸時代に降るものとみられる。Wikipedia

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南禅寺 
京都市左京区
南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。Wikipedia

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山門 
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれである。ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の役の戦死者の位牌などを安置する。天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに京都三大門の一つに数えられている。湯豆腐は
南禅寺周辺参道の精進料理が起源とされている。


勅使門 寛永18年(1641)、御所の日ノ御門を移築したものという。法堂 明治28年(1895年)にこたつの火の不始末で焼失した後、明治42年(1909年)に再建されたもの。Wikipedia

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境内案内図/南禅寺HP


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史跡琵琶湖疏水のうち「水路閣」
疏水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年に起工され、同23年に竣工した。水路閣はこの疏水事業の一環として施行された水路橋で、延長93.17m、幅4.06m、水路幅2.42m、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち京都を代表する景観の一つとなっている。また、ここから西500mにあるインクラインは、高低差のある蹴上(けあげ)の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、当時の舟運(しゅううん)による交通事情がよくうかがえる。いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計・施工されたもので、土木技術史上極めて貴重なものであり、昭和5871日に「疏水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。また、平成86月にはこの水路閣、インクラインに加え第1疏水の第1・第2・第3隧道(ずいどう)の各出入口、第1竪坑(たてこう)、第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。(説明板)


by Twalking | 2015-03-11 23:43 | 東海道(新規)

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