江島道01 腰越
天気 晴れ
小動岬からの展望が見てみたくて、
江ノ電経由で江の島に向かいました。
朝の江の島、気持いいですね、最高!
小動岬(こゆるぎみさき)
八王子山とも呼ぶ。岬には腰越村の鎮守として信仰を集めた小動神社(当時は八王子社と称す)がある。幕末には台場(八王子山台場)が設置され川越藩・会津藩・長州藩などが沿岸の監視に携わっていた。かつては「小動」という地名の由来となった「小動の松」が岬の山頂にあったが、明治以降いつのまにか枯れてしまい現在は見る事ができない。岬の南は相模湾に面し、東は七里ヶ浜、西は腰越と接し、腰越漁港が隣接している。(Wikipedia)
小動神社(こゆるぎじんじゃ)
建須佐之男神・建名方神・日本武命を祀る。鎌倉市腰越の小動岬にある神社である。旧腰越村の鎮守社である。文治年間(1185 - 1189)の源平合戦の際、佐々木盛綱が父祖の領国であった近江国の八王子宮を勧請したものと伝え、江戸時代までは八王子神社と称していた。元弘3年(1333)5月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したと伝えられる。江戸中期には、小田原藩主・大久保忠真が扁額を奉納した。明治元年(1868)、神仏分離に伴い地名をとって小動神社と改称し村社に列格した。(Wikipedia)
腰腰(こしごえ)
鎌倉市の最南西に位置し、南部は相模湾に面し、西部は藤沢市と接している。北部は西鎌倉・津(津村)・津西と接し、東部は小動岬をはさんで七里ヶ浜と接している。海岸線を国道134号と江ノ島電鉄線が平行して走る。また大字を縦断するように神戸川が走り、神奈川県道304号と旧江の島道が川をほぼ併走している。龍口寺や満腹寺、腰越村の鎮守として信仰を集めた八王子神社(現在の小動神社)など寺社も多い。鎌倉幕府成立以前の古代腰越については史料が残存していないため不明な点も多い。しかし鎌倉が古代から地域政治の中心として栄えていた事や、三浦半島を経由し海路で房総半島へ向かう古代の海道が腰越を走っていたらしい事が考古学の分野から判明しており、このことから腰越は古代から宿駅(腰越駅)として栄えていたと推測されている。元暦2年(1185)源平合戦にその名を残す英雄源義経は念願の平家討滅を成し遂げたにも関わらず兄頼朝から面会を拒絶され続けた。そして旧暦5月24日(6月23日)腰越の満福寺に逗留していた義経は頼朝の近臣大江広元に兄への心情を訴え、執り成しを依頼する書状を認めたとされる。これが世に有名な腰腰状である。(Wikipedia)
龍口寺(りゅうこうじ)
神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山(霊蹟寺院)。山号は寂光山(じゃくこうさん)。略字体を用いて「竜口寺」と称す場合もある。この地はかつて刑場跡で文久8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ。その後延元2年(建武4年、1337)に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。なお、本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津(鎌倉市)の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年(1601)に土地を寄進して以来のこととされている。明治19年(1886)までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していた。現住は15世本間日恩貫首(台東区善慶寺より晋山)、池上法縁五本山の一つ。(Wikipedia)
本堂
天保3年(1832)竣工。法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため、敷皮堂ともよぶ。木造欅造り。
五重塔
明治43年(1910)竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。建造には竹中工務店が携わった。彫刻は一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つ。
仏舎利塔
昭和45年(1971)9月12日竣工。龍口法難700年を記念し日本山妙法寺(藤井日達上人)が建立。塔内には仏舎利が安置されている。龍口寺裏山(龍口山)の高台にあり、かつては江ノ島や相模湾を一望のもとにできたが、国道134号・国道467号沿いに複数の高層ビルが建って以降、視界がビルにさえぎられるようになった
御霊窟
法難の際に日蓮が入れられていたとされる土牢。中には祖師像が安置されている。
龍口(たつのくち)
神奈川県藤沢市片瀬南東部にある小字、龍ノ口とも表す。龍口という地名はこの地に残る五頭竜の伝承にちなんでつけられたという。この伝承は、かつて悪事の限りを働いていた五頭竜が江の島の女神(弁財天)に惚れ、改心し山に姿をかえて津村・腰越の守護神となったというもの。伝承によるとちょうど龍口のあたりが五頭竜の頭部にあたるため「龍口」という名前がつけられたという。龍口は鎌倉時代後期ごろより刑場として史書に登場する。特に文久8年(1271)9月12日に日蓮が処刑寸前に助命される事件(龍ノ口法難、日蓮宗では処刑直前に奇跡が起き助かったと伝わっている)は有名。ほかにも元の使者杜世忠や、中先代の乱を起こした北条時行もこの地で処刑された記録が残る。(Wikipedia)
満福寺(まんぷくじ)
鎌倉市腰越にある真言宗大覚寺派の寺院。元歴2年(1185)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。(Wikipedia)
義経宿陣之蹟
文治元年 (1185年)五月、源義経は、朝敵(平家)を滅ぼした。ときの敵方の総大将・前内府平宗盛を捕虜として引きつれ鎌倉に凱旋して来たが、頼朝の不審を蒙り、鎌倉に入ることを許されなかった。腰越宿に滞留して、積もる鬱憤のあまり、因幡前司 大江広元に一通の書状を送ったことが、「東鑑」(吾妻鏡)に記載されている。世に言い伝えられている 『腰越状』とは此の時の書状のことである。其の下書きと伝えられている物が、「満福寺」に保存されている。(鎌倉市青年)
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江の島道(えのしまみち)
旧藤沢宿から龍口を経て江の島に至る旧道。また鎌倉街道を小袋谷(こぶくろや)を経て江の島にいたる旧道も江の島道と呼ばれた。いずれの旧道も江の島へ向かう遊山客や地域住民の生活路としてにぎわい、多くの寺社・旧家が立ち並んでいたが、明治時代以降になると鉄道・新道の開通によって廃れていった。現在では要所要所に残されている道標などが往時の姿をしのばせている。この道標には江の島と深い縁を持つ杉山検校が建てたものが多い。(Wikipedia)
by Twalking | 2015-06-05 19:26 | 鎌倉散歩(新規)