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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 六浦道02 十二所&浄明寺   

日時 2015.5.23(土)
天気 晴れ

・・・十二所
昔は、十二郷ヶ谷ともいわれたようです。十二軒の村だったのでこういう名前がついたのだとか、熊野神社の十二社があったからだともいわれています。(鎌倉市)

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十二所神社(じゅうにそうじんじゃ)
十二所の鎮守社。中世には三浦十二天(『吾妻鏡』)、近世期には十二天社(『新編相模国風土記稿』)十二天明神社、または熊野十二所権現社とも称された。創建年代は定かではなく、弘安元年(1278)との伝承があるが、寿永元年(1182811日の条には北条政子の出産に際して、奉幣使が派遣されたとの記述が(『吾妻鏡』)、さらに813日の条には十二所神社のほか諸社に源頼家誕生を祝って神馬を奉納した旨が記されている(『吾妻鏡』)ことなどから、遅くとも12世紀末までには確立していたと見られる。古くは、現在の光触寺境内にあったと伝えられる(『新編相模国風土記稿』)が、天保9年(1838)に現在地に再建された。当時、別当寺院を務めていた明王院所蔵の記録『十二所権現社再建記』によると、この再建事業は、氏子三十余軒による土地・用材の寄進と土木開墾の奉仕によるものであるという。明治新政府の神仏希釈分離政策や廃仏毀釈の動きにより現社名に改称され、1837年(明治6年)十二所地区の鎮守として村社に列せられた。(Wikipedia)


・・・浄明寺(じょうみょうじ)
昔は浄妙寺と書きましたが、浄妙寺があるので「妙」を「明」に改めたといわれています。(鎌倉市)


六浦道02 十二所&浄明寺_d0183387_15361865.jpg足利公方邸旧蹟/鎌倉市浄明寺4丁目

頼朝開府の初、足利義兼、居を此の地に卜して以来二百数十年間、子孫相嗣いで此の地に住す。尊氏、覇を握りて京都に遷るの後、其の子義詮、二代将軍となりて京都の邸を嗣ぎ、義詮の弟基氏、関東管領[初代鎌倉公方]となりて兵馬の権を此の邸に執る。而して之を子孫に伝ふ。子孫、京都に比擬して公方と僭称す。享徳4年(1455年)、公方成氏[五代鎌倉公方]、執事上杉憲忠[関東管領]との不和の事より下総古河に遷るに及びて、遂に永く廃虚となる。(鎌倉町青年会石碑)

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浄明寺周辺案内図



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本堂奥からの景観

浄妙寺
(じょうみょうじ)
山号は稲荷山(とうかさん)。詳名は稲荷山浄妙広利禅寺という。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位。鎌倉市の東部、市の中心部から横浜市の金沢に抜ける金沢街道沿いにある。境内は南に開けた谷の中央に位置し、西には杉本寺と杉本城址、東は胡桃ヶ谷(くるみがやつ)があり、南に衣張山を望む。鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していた。現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用いる)、住宅団地名にも使用されるなどその名残を残している。寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされている。境内墓地には足利義貞の墓とされる宝篋印塔がある。
本堂:寄棟造、銅板葺(もと茅葺)。平面は方丈形式の六間取りとする。江戸時代中期の建物だが、仏壇周辺などには室町時代の材が用いられている。
喜泉庵:天正年間(1573 - 1591年)に建立された茶室喜泉庵を復興したもの。枯山水庭園があり、有料で茶菓が供される。
稲荷山:寺の裏山で、藤原鎌足が子孫のために「霊鎌」を埋めた地とされ、これが「鎌倉」の地名由来となったという伝承がある。複数ある「鎌倉」の地名由来伝承の一つである。鎌足稲荷神社の小祠がある。


六浦道02 十二所&浄明寺_d0183387_16171214.jpg宝篋印塔:本堂裏の墓地に足利貞氏の墓と伝える明徳3年(1392)銘の宝篋印がある。基台の銘文により、罪障消滅・後生善根を願う逆修塔とされる。





六浦道02 十二所&浄明寺_d0183387_16183770.jpg足利義直墓とありました/石窯ガーデン奥








室町時代には浄妙寺の東側に足利公方屋敷が構えられ、足利尊氏やその子孫が居住していた。
境内に隣接して大休寺跡と延福寺跡がある。大休寺は足利義直(尊氏の弟)の菩提所、延福寺は足利高義(尊氏の異母兄)が母の追善のために建てた寺である。寺の西側の熊野神社付近が大休寺跡、裏山のカフェレストラン付近が延福寺跡である。(Wikipedia)


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報国寺
(ほうこくじ)
鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は功臣山。本尊は釈迦三尊。境内に竹林があり「竹の寺」とも称される。鎌倉観音霊場第十番、鎌倉十三仏第八番
(観音菩薩)、東国花の寺百ヶ寺鎌倉5番札所。この寺は1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれている。1438年(永享10年)におきた永享の乱で敗れた鎌倉公方方足利持氏の子義久がこの寺で自刃している。
Wikipedia)

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足利氏のヤグラでしょうか         竹林の庭園



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杉本寺
鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院。山号は大蔵山。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所である。鎌倉最古の寺とされている。寺伝によれば天平6年(734)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まるという。文治5年(1189)堂宇が焼失しているが、このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと伝えられる。『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年(1189)の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったという。同書には建久2年(1191)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとある。背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害している。

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本堂(観音堂)
寄棟造、茅葺、方五間(正面側面とも柱間が5間)の密教仏堂である。棟札から延宝6年(1678年)の建立と判明する。堂内奥には本尊として3体の十一面観音像を安置し、他に前立十一面観音像、新十一面観音像、観音三十三応現身像、毘沙門天立像、地蔵菩薩立像(2体)などを安置する。

六浦道02 十二所&浄明寺_d0183387_17010473.jpg山門(仁王門)
切妻造、茅葺の八脚門。左右に金剛力士(仁王)像を安置する。江戸時代、18世紀半ば頃の建立。






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金沢街道から石段を上った先に山門(仁王門)が建ち、さらに上ったところに本堂(観音堂)が建つ。山門から本堂へ上る正面の鎌倉石の石段はすり減っていて通行禁止となっており、参拝者は左側の新しい階段を使用する。本堂の裏山は杉本城跡であり、本堂右手前には杉本城の戦いで戦死した斯波家長と一族の供養塔とされる石塔群がある。Wikipedia)


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杉本城

三浦氏の棟梁である三浦義明の長子で杉本氏の祖・杉本義宋が三浦半島を出て鎌倉郡杉本郷に居を構えて築城した。同地は三浦氏の勢力下で六浦道を抑える要衝であった。義宗は三浦氏の勢力が及ぶ安房国に水軍率いて出陣し、長狭常伴と合戦に及び待ち構えていた長狭勢からの矢傷が原因で杉本城内で亡くなるが、その後、義宗の長子、和田義盛は三浦郡和田郷に拠点を構え、義宗の次男、義茂が入城し、杉本の家督と城を守った。その後、源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島で挙兵し、三浦一族は源氏方についたものの、頼朝勢が大庭影親勢と激突した石橋山の合戦で敗北した後、鎌倉由比ヶ浜に平家方の畠山重忠が進駐してきたが、三浦氏は畠山氏と姻戚関係にあるため、すぐさま合戦にはならなかったが、畠山勢の三浦勢攻撃と誤解した義茂は杉本城内から畠山勢に攻めかかり、合戦に及ぶなど杉本城は治承・寿承の乱(源平合戦)における軍事拠点として重要な役割を果たしている。南北朝時代、北朝方(足利方)奥州大将・斯波家長が朝夷奈切通から攻め入った杉本城の戦いで陸奥将軍府・北畠顕家軍に敗れ杉本城は落城の憂き目にあった。その後、現存する杉本寺境内に城跡としてその痕跡を残すのみとなっている。Wikipedia)


by Twalking | 2015-05-25 17:30 | ○鎌倉散歩

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