無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 江戸城外濠(4) 総武線から見る外濠   

日時 2015.7.7(火)
天気 曇り

総武線の四谷駅から水道橋の各駅から外濠を眺めてみました。
いつも見ている外濠と少し風景が違うかな~と、いう感じがします。


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外濠

かつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称である。かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。「外濠」の語を広い意味で用いる場合、その経路はおおむね、現在の千代田区から神田地域を除いたものの外周である、と言うことができる。 またこれに加えて、飯田橋以東の神田川下流部までを外濠に含める場合が少なくない。Wikipedia

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総武線四ツ谷駅

四谷濠(真田濠)

この部分はもともと台地であり、東西に延びる分水嶺の南北を繋げる形で開削して作られた人工の地形である。戦災の瓦礫により埋め立てられ、現在は南半が上智大学のグラウンド、北半はJRおよび東京メトロ丸ノ内線・四ツ谷駅の敷地になっている。Wikipedia



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総武線市ヶ谷駅

d0183387_13433555.jpg市ヶ谷濠

濠を一部埋める形でJR中央線が走るほか、南半は外濠公園の敷地であり、野球場やテニスコートなどがある。東半には水面を遺し、JR市ヶ谷駅からの景観に独特の風致を与えている。Wikipedia



d0183387_12283838.jpg市ヶ谷門(市ヶ谷見附)

JR市ヶ谷駅前付近に存在した。別名「桜の御門」と呼ばれ、春には桜が人々の目を楽しませたという。現在は、バラバラになった組石を数個遺すのみとなっている。なお、南北線駅に通じる地下コンコース内には濠の石組みが再現されているが、説明板によれば、これは雉子橋(日本橋川)付近から出土した石を移築したものである。Wikipedia

d0183387_12331398.jpg市谷
名の由来には、市ヶ谷孫四郎の領地があったからとか、四谷第一の谷なので「一ヶ谷、或いは亀岡八幡宮の門前で市が開かれていた「市買」が訛った、などの説がある。また、飯田橋駅寄りの市谷砂土原町三丁目、払方町、市ヶ谷船河原町は大名屋敷を経て明治時代より都心部有数の高級住宅街であり、元祖山の手の一つである。。Wikipedia


d0183387_13514634.jpg新見附濠
市ヶ谷門から牛込門までは、もともとあった川筋を拡張したもの。鉄道(現JR)の開通によってやや幅を狭めてはいるが、現在まで非常に広い水面を遺している。土手部分は外濠公園として歩道が整備され、春には桜の名所となる。市ヶ谷門寄りには旧い釣り堀があり、長年親しまれている。また牛込門寄りには、大正時代に開業した貸しボート屋が前身の、水辺のカフェレストランが営業している。その脇には、ややわかりにくいが、かつて旧牛込駅への通路であった遺構が残存する。なお、新見附橋は明治期に新設されたものであり、新見附という見附が江戸時代に存在したわけではない。また、新見附橋のできる以前には、市ヶ谷門から牛込門までの全区間を牛込濠と呼んでいた。Wikipedia

外濠公園 
千代田区
(一部新宿区)にある公園である。江戸城外濠の土手や濠の跡を利用して作られており、濠に沿ってJR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅南側までの約2kmにわたって細長く続く。江戸城外堀としては往時の姿をそのままに残す国指定の史跡である。




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牛込濠/総武線飯田橋駅


d0183387_14171623.jpg牛込見附(牛込御門)

正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のように二つの門を直角に配置した「枡形門」という形式をとっています。この牛込見附は外堀が完成した1636年に阿波徳島藩蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。江戸時代の牛込見附は田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、下図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。足元には、かつての牛込見附の跡をイメージし、舗装の一部に取り入れています。(千代田区)

d0183387_14172243.jpg牛込橋

富士見二丁目から新宿区の神楽坂に通じる早稲田通りにある橋です。江戸城外郭門の一つ牛込門のあった所です。今でも橋の手前(千代田区側)の左側に枡形の石垣の一部が残っています。橋の右手、飯田橋との間はセントラルプラザがあります。ですから、外濠の水はいったんここでせき止められ、姿を消します。橋は平成8年に架け替えられました。(千代田区教育委員会)

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牛込見附


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神楽坂
「神楽坂」の名称の由来について「江戸名所図会巻之四」 (天保7) によれば、この坂の右側に高田穴八幡の旅所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したからとも、「若宮八幡の社」の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれる。また、「改撰江戸志」には、津久戸明神が元和の頃に牛込の地に移転した時、神輿が重くてこの坂を上ることができなかったが、神楽を奏すると容易に上ることが出来たため、この時より「神楽坂」の名が付いたと記されている。(Wikipedia

牛込
江戸時代は大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で、伝統ある山の手の住宅街である。一方で町屋も少なからず形成され、古くからこの地に住む住民が多くコミュニティ活動が活発なことも当地の特色である。地名のとおり、牛込の歴史は少なからず牛に縁がある。701年(大宝元年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧(ぎゅうまき)」という牧場が設けられ、「乳牛院」という飼育舎がこの地に建てられたという。古代の馬牧が今日東京都内に「駒込」、「馬込」の地名で残されているところから、「牛込」がこの牛牧に比定された。近代以降も夏目漱石 (父祖の代からこの地の生まれである)や尾崎紅葉をはじめとする作家・文化人が数多く住んだ。Wikipedia


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江戸名所図会 牛込神楽坂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



d0183387_14301174.jpg飯田濠
牛込門の下には落し口(小さな滝)があったが、飯田濠までは東から舟が入ることができた。付近には神楽河岸、揚場町、軽子坂(軽子は人足の意という)など、荷揚げ場に関連する地名が残っている。飯田濠は反対運動を押し切り、1970年代に暗渠化された。現在は、その上に飯田橋セントラルプラザが建っている。Wikipedia


d0183387_13215850.png牛込揚場跡碑
江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。昭和47年(1972)に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルのせせらぎを造った。小濠の水はこのせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。(東京都)


d0183387_00360281.jpg神楽河岸 
飯田濠には地名にもなった神楽河岸と呼ばれる揚場があり、第二次世界大戦後もしばらく使われていた。(この揚場は隣の新宿区揚場町の由来にもなっている)。しかし1970年代以降、水質汚濁など環境悪化により、飯田濠は埋め立てられ再開発されることになった。これに伴い1983年(昭和58年)濠跡部分の千代田区と新宿区の境界線が変更された。従来は濠の中央が境界だったが、変更後は濠跡の南側が新宿区神楽河岸、北側が千代田区飯田橋となった。これにより、濠跡に建設された飯田橋セントラルプラザの2つの建物のうち事務棟が新宿区、住宅棟が千代田区にそれぞれ属することとなった。(Wikipedia)



d0183387_15302943.jpg飯田橋
地名の由来は、現在の飯田橋駅東口に接する、飯田橋交差点の一部を構成する橋「飯田橋」。さらに遡れば、人名を起点としておおむね以下のような経緯を踏んでいる。(町名)1590(天正18)年、開府前の江戸で徳川家康にこの地域を案内したのが、土地の長老であった飯田喜兵衛なる人物であった。家康はその功を称え一帯を「飯田町」と命名した。(橋名)1881(明治14)年、交通の便のため新たに外濠を跨ぐ橋が架けられ、飯田町に接する橋であることから「飯田橋」と命名された。Wikipedia))



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総武線水道橋駅


d0183387_15372085.jpg日本橋川分岐/三崎橋

日本橋川
関東移封後、徳川家康は江戸城普請の一環として日比谷入江に直接流れ込んでいた平川を道三濠・外濠に繋ぎ替えた。この内、明治以後に道三堀の西半分と外濠(現在の外掘通)が埋め立てられた結果、残った流路が現在の日本橋川となった。なお、江戸幕府開幕に伴う天下普請による神田川開削で日本橋川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ外堀から切り離されていた時期もあるが、1903年(明治36年)に再びこの区間が開削され現在に至っている。Wikipedia


d0183387_15110747.jpg水道橋
水道橋千代田区と文京区の間を流れる神田川に架かる橋である。右岸(南側)が千代田区三崎町一・二丁目、左岸は上流側が文京区後楽一丁目、下流側が同本郷一丁目となる。文京区には水道という町名があるが、本橋より神田川沿いに2kmほど上流に離れている。江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していた。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺」とも呼ばれた時期もあるが、この寺院は1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失し、本駒込に移転している。1670年(寛文12年)の地図では「水道橋」と表記されており、この橋名は本橋の下流に神田上水の架け懸樋があったことに由来する。1928年(昭和3年)長さ17.8m、幅30.7mの鋼橋が架けられた。現在の橋は1988年(昭和63年)に架け替えられたものであり、先代よりやや大ぶりの橋であるWikipedia

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神田川上流側/水道橋

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神田川下流側/水道橋

神田川下流部
飯田橋駅東口の近辺で外濠は北からの神田川(旧称江戸川)と合流し、以東も神田川と呼ばれる。この部分は完全に人工的な水路である(本来の川筋は日本橋川である)。御茶ノ水駅近辺など、両岸に高い崖を見せ、北から南へ延びる尾根筋(神田山、駿河台)を強引に横断したものであることを物語る。現在まで暗渠化されることもなく、ゆたかな水面を維持し、東京の都市景観の大切な一要素となっている。往時、隅田川までの間にさらに3つの門(小石川門、筋違門、浅草門(浅草橋門))があり、また水道橋、昌平橋をはじめいくつかの橋も架けられていた。Wikipedia


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江戸名所 お茶の水 (安藤広重)


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d0183387_01104662.jpg御茶ノ水 
文京区湯島
から千代田区神田に至る、千代田区神田駿河台を中心とした一帯の地名(通称)。台地上にあり、中央部を東西に走る掘割に神田川(両区の境界)が流れ、またJR東日本御茶ノ水駅がある。江戸時代は、付近一帯が大名屋敷地であった。現在では、地区内と周辺に明治大学、東京医科歯科大学、順天堂大学などの大学や専門学校、予備校が集る日本国内最大の学生街として知られ、また、江戸の総鎮守・神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂等を始めとする宗教施設、有名病院等が多数存在。更に、国内最大の書店街・楽器店街・スポーツ店街、多くの食通を惹き付ける老舗名店街等も内包、隣接するなど、名所を多く抱える広範な文化ゾーンを形成している。古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。Wikipedia


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水道橋方向


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万世橋方向

駿河台 
千代田区
の台地。元は北の本郷台地の南端に当たる部分だが、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達正宗が1620年(元和6)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となった。削って下町を埋めたために今は台地ではないところもある。地名は江戸時代初期に、駿府(駿河府中、現・静岡市葵区付近)から江戸に移住した徳川家康の家臣が居を構えたことに由来する。Wikipedia

by Twalking | 2015-07-08 18:24 | 東京散歩(新規)

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