府中ウオーキング下見01 府中崖線
天気 晴れ
秋に開催される府中市のウオーキング大会の
コース下見に行ってきました。
郷土の森公園を起・終点に市内の史跡や
名所などをぐるりと回る20&10kmコースです。
府中も広いですね、知らないところが一杯、
暑かったけど面白かったですよ。
・・・郷土の森公園~中河原駅へ
・・・中河原駅~市川緑道へ
下川原緑道
昭和51年9月に廃線となった旧国鉄下河原線の跡地を利用して、甲州街道ぞいにある下河原線広場公園より南へと、自転車・歩行者専用道として整備したものです。下河原線の前身は、明治43年多摩川の砂利運搬を目的に開通した東京砂利鉄道でした。緑道の一部には、かつてこの道が鉄道であったことを示す2本のレールが路面に埋め込まれて今も残っています。多摩丘陵を臨み、田園風景の中を南北にまっすぐ走るこの道は、四季折々の花や木を楽しむことができます。途中東西に続く新田川緑道と交差して、郷土の森博物館手前で西に折れ南町にある八幡神社まで続いています。(府中市観光協会)
第4都市下水路
都市下水路は臼井を配水するための下水道の根幹施設です。この緑道の下には大きな都市下水路が埋設されています。ここは「新田川」と呼ばれる農業用水路でしたが、都市化が進むにつれてこの付近はたびたび浸水が起こるようになりました。そこでこれを防ぐため全長4086mに及ぶ都市下水路を整備しました(案内板)
・・・市川緑道から西府駅へ
多摩川の水や崖線の湧水を集めて流れる市川沿いに整備された緑道です。
西府町湧水
府中崖線から湧き出している市内で常時みられる貴重な湧水です。府中市はかつて崖線から湧き出す水が良質で豊富だった土地でしたが、現在、湧水はここ1ヶ所となっています。
御嶽塚/西府駅前
御嶽塚は、もともとは古墳時代に築造された古墳で、直径約25mの墳丘とその周囲に幅約7mの溝がめぐる円墳でした。その後、中世になると屋敷を堀で囲む約200m四方の区画の中心に位置することとなり、さらに、江戸時代には信仰の対象として祀られることになったと考えられます。現在、塚上に祀られている石碑には「御嶽大権現 安政五午年十一月吉日 小野宮願主 内藤伊助」の銘があります。御嶽信仰は山岳信仰のひとつで、中世以降さかんになり江戸時代に各地に広まりました。小野宮は、現在の住吉町3丁目に所在する小野神社周辺の集落で本宿村に属していました。西府文化センター周辺では、御嶽塚の他にも、古墳時代後期の6~7世紀はじめ頃に築かれた13基の古墳が確認されています。墳丘に記された円筒埴輪や石室に収められた圭頭大刀、金銅製の耳飾などが出土しています。これらの古墳は、この塚の名に因んで御嶽塚古墳群と呼ばれています。その範囲は、東側の新鎌倉街道から西側の国立市境付近にまでおよんでいます。御嶽塚の北方約500mの位置には、国史跡武蔵府中熊野神社古墳が所在しています。御嶽塚古墳群よりも後の時代に築かれたもので、上円下方墳という国内でも数少ない墳形の古墳です。発掘調査の成果をもとにして、当時の姿に復元されています。(府中市教育委員会)
・・・新田緑道を分倍河原駅へ
農業用の府中用水の流路の一つである新田川にフタをして緑道として整備されたもので、日本電気㈱府中事業場の正面から市民センタ-までを結んでいます。さまざまな樹木が植えられ、なかには梅の並木道もあり、季節を問わず散歩やジョギングが楽しめます。途中には1333年に新田義貞が北条氏を破り、鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった分倍河原古戦場の碑や、しょうぶ池と呼ばれる池のある小さな公園もあります。南北にまっすぐ通っている下河原緑道と交差したあと、「サントリー武蔵野ビ-ル工場」の横を通って南へと行くと、「いこいの森」へと続き,郷土の森博物館のところで、終わります。(府中市観光協会)
光明院坂/府中市分梅
この坂道は普通分梅道あるいは鎌倉街道と呼ばれる古街道です。沿道には由緒ある浅間神社、八雲神社、光明院といった古寺社が点在しています。坂の名も真言宗光明院に由来しています。別名を「根ッ子坂」ともいわれますが。これは以前道が荒れていた頃、道の両側に木の根がわだかまっていたことによるといわれます。この坂下に広がる平地一帯は元弘3年(1333)5月に新田義貞と北条泰家が合戦した分倍河原の古戦場として有名です(府中市)
新田義貞之像/分倍河原駅
この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。元弘3年(1333)5月8日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌9日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月11日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま12日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。同月15日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。その夜、堀兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌16日の未明に怒涛の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。制作は、我が国彫刻界の重鎮で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。(昭和63年5月・府中市)
・・・分倍河原駅~大国魂神社へ
下河原線の歴史
ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。明治43年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町三丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正3年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正5年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正9年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和8年(1933)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和9年(1934)より競馬開催日に限り乗客を輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和19年(1944)に、国分寺~東芝前間で通勤者用専用電車を運転、戦後の昭和24年(1949)からは国分寺~東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和48年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和51年(1976)には貨物線も廃止され、66年にわたる歴史の幕を閉じました。 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。(案内板)
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資料ファイル
文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北條執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘三年(1333)5月、新田義貞は執権北條高時を鎌倉に攻めるため、上野・武蔵・越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北條方の副将長崎高重・桜田貞国を破り(5月11日)、さらに久米川の戦で優勢に立った。北條方は分倍に陣を敷き、北條泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(5月25日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北條勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日に鎌倉幕府は滅亡した。(東京都教育委員会)
立川崖線
立川市や府中市、調布市の中心市街地が載っている立川面は立川崖線によって多摩川の沖積低地と分けられていて、国立市谷保(やほ)から青柳にかけて、および昭島市付近や青梅市付近にさらに低位の面を抱えている。それらを青柳面、拝島面、千ヶ瀬面として区別する研究者もいる。立川崖線は、青梅付近から多摩川に沿う形で立川市内まで続き、JR中央線の多摩川鉄橋の付近から東に向かい、立川市役所の南を通って、南武線と甲州街道の間をさらに東に向かう。谷保の西で甲州街道の南に入る。ここに谷保天満宮が崖線を利用した形で置かれている。そこからは甲州街道のおよそ500mほど南を東に進み、狛江市元和泉付近まで続いている。立川崖線は府中崖線(ふちゅうがいせん)や布田崖線(ふだがいせん)とも呼ばれる。これらは、多摩川(玉川)や東京湾(内海)の海による浸食で出来たものである。(Wikipedia)
府中宿
甲州街道の約7里半に位置する宿場町であり、国府や総社(大國魂神社)が存在する武蔵国の中心部であった。鎌倉街道と甲州街道(現在の旧甲州街道)が交わる交通の要所には高札場があり、非常に栄えた宿場であった。これら街道は、豊臣秀吉が川越から、徳川家康は平塚から府中へ鷹狩に訪れる街道であり、後には東西の甲州街道が幹線となったため、特に甲州街道に沿って六所明神を中心に発展した宿場である。この宿場は府中三町「番場・本町・新宿(しんしゅく)」によって構成され、信州屋・近江屋・万屋・田中屋・鳶屋・松本屋・中屋・柏屋、六所宮・京所などが存在していた。1843年(天保14年)において、宿高は約3000石、人口は約3000人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒、銃帯人馬は25人25頭であった。商店142軒で飲食店をはじめ多肢に渡っており、近隣の消費経済の中心地であった。(Wikipedia)
大國魂神社
東京都府中市宮町に鎮座。武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の東部)の土地の魂である武蔵大国魂大神(おおかみ)のほか、国内有力神社の小野(おのの)大神、小河大神、氷川大神、秩父大神、金佐奈(かなさな)大神、杉山大神などを祀る。創建年代不詳。社伝では景行天皇のとき、神託により創建と伝え、また源頼義・義家父子が安倍頼時父子征伐の途次、本社に祈願、1062年(康平5)平定の帰途報賽(ほうさい)のため植えたのが、現在に残る欅並木と伝える。古代末期、武蔵国の国府に近い有力神社として、国内神社を勧請されたことで、武蔵国総社、また六所宮とよばれた。源氏以下武将の崇敬も厚く、江戸時代に朱印領500石を寄せられた。明治の制で官幣小社。5月5日の例祭は、夜間8基の神輿渡御のとき、灯火を消して行ったので闇夜祭とよばれて有名である。他に4月30日の品川海上禊祓式(みそぎはらいしき)など古式による特殊神事が多い。狛犬1対は国指定重要文化財である。(コトバンク)
大国魂神社本殿
律令時代国司が国内の大社六社を国府に勧請祭祀し、武蔵総社または六所社と称したのがこの大国魂神社である。本殿のうち中殿は大国魂神、御霊大神、国内諸神、東殿は小野大神、小河大神、氷川大神、西殿は秩父大神、金佐奈大神、杉山大神を祀る。この本殿は四代将軍家綱の命によって寛文7年(1667)3月完成したもので、その後数回修理を行っているが部分的に室町時代末期の様式をとどめ、江戸時代初期の神社建築として保存の価値がある。また特異な構造形式は遺例少なく珍しい。構造は九間社流造、向拝五間、銅板葺、三間社流造の社殿三棟を横に連絡した相殿造。(東京都指定有形文化財 東京都教育委員会)
大国魂神社鼓楼
鼓楼は、太鼓を懸け時刻を報ずるための建物で、元来中国で発達し、わが国へは鎌倉時代に移入され、主として寺院に設けられた。そして江戸時代になると鐘楼と相対して造られることが多く、宇治の万福寺や日光東照宮のものがよく知られている。大国魂神社では慶長年間の造営の祭に、三重塔と相対して建てられたが、正保3年(1646)の大火で焼失、200年余たった嘉永7年(1854)に再建されたのがこの鼓楼である。この鼓楼は、現存するその再建連社板によると、府中はじめ日野・多摩・町田の各市域の17名の人々によって寄進されたことがわかる。その後、3回程修理が加えられているが、よく当初の原形を保っており、神社では数少ない貴重な建築物である。(府中市教育委員会)
木造狛犬
阿形・吽形(うんぎょう)、二狗一対の檜製の狛犬です。阿形像は高さ70.3cm、吽形像は高さ72.1cm、いずれも寄木造で、玉眼、全体に漆塗り金箔仕上げの痕跡もみられます。阿形像は、口を大きく開けて今にも吠え掛からんばかりに感じられます。一方の吽形像は、口を堅く結んで眼光鋭く身構えています。頭部とたてがみは大きく装飾的に作り出され、体躯や前肢は調和のとれた筋肉質の身体で、そのたくましい写実的な表現には、見る者を圧倒させる力強さがあります。 阿形像の胎内に納入された木札には、「紀州 根来/平之内正信作之/元和五己未年 卯月吉日」との墨書銘があり、江戸幕府作事方大棟梁を務めた平内正信によって、元和5年(1619)に制作されたことが分かります。正信は、大國魂神社の社殿の造営を慶長年間に指揮したことでも知られています。しかし、この狛犬の制作年代・作者については、その作風から鎌倉時代初期の彫刻家である運慶の作とも伝えられています。この狛犬はもともと本殿と拝殿の間に置かれ、神社を守護していました。武蔵総社の狛犬としてふさわしい堂々とした気風を備えた作品です。現在は、宝物殿内で見学することができます。(東京都文化財めぐり)
高安寺(こうあんじ)
府中市にある曹洞宗の寺院である。開基は室町幕府初代将軍足利尊氏であり、室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた。なお、江戸時代初期までは臨済宗の寺院であった。寺の随所に古刹としての面影を残すなど、多摩地域を代表する寺院の一つである。平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の近くにあり国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまった。
そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興した。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名された。現在の本堂は寛永元年(1624)に火災に遭い消失したものを享和3年(1803)に再建したもの。本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名である。明治5年(1872)に建てられ左右に仁王像を配する山門、安政3年(1856)に建てられた鐘楼と共に東京都選定歴史的建造物に選定されている。(Wikipedia)
高安寺本堂・山門・鐘楼
龍門山高安寺は暦応年間に創設された臨済宗建長寺派末であった。後に小田原北条氏滅亡後、慶長年間曹洞宗海禅寺の7世により再建された。本堂は木造平屋建て、屋根は寄棟造銅板葺(旧茅葺)六間取りで内部正面に広縁、両側面に入側縁から構成されている。内陣や大間の組物廻りに意匠を凝らした点に特徴が見られ大縁(8尺間)は禅寺基本の姿をとどめている。山門は本堂の東方に位置する規模の大きい二重門である。木造(柱・梁等の構造材はすべて欅)二階建てで屋根は入母屋造銅板葺、柱はすべて円柱である。初層の左右からも出入りできる点に特徴がある。
高安寺の観音堂はもとは寺の西、観音橋付近にありましたが江戸時代初期の大水に流され、享保年間(1716~36)に現在地に再建されたと伝えられます。この観音堂は桁行3間、梁間3間の入母屋造りで、多摩地区においては数少ない江戸中期の三間堂です。また垂木や組物そして格天井の彩色絵様など建築史的にみても18世紀前半の特色を伝える貴重な堂宇です。(府中市教育委員会)
by Twalking | 2015-07-25 20:31 | たまのさんぽ道(新規)