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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり江戸城 内濠(1)   

日時 2015.8.6(木)
天気 晴れ

九段下から北の丸公園、皇居東御苑、皇居前広場と、
江戸城内濠を眺めながら歩いてみました。
季節によってお濠の表情が違うんですね~。


・・・北の丸公園

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牛ヶ渕/九段下


ぶらり江戸城 内濠(1)_d0183387_23062909.jpg旧江戸城田安門(
重要文化財)
江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。田安門は、北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和3641年度の修理で復旧整備したものである。田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり、高い価値を有している。(案内板)


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千鳥ヶ淵/千鳥ヶ淵緑道

千鳥ヶ淵緑道 
皇居西側の千鳥ヶ淵に沿う全長約700mの遊歩道で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑入口から靖国通りまで伸びています。千鳥ヶ淵緑道のソメイヨシノやオオシマザクラなど約260本の桜は遊歩道を歩く人の頭上に咲き、まるで桜のトンネルの中を歩いているような体験ができる、全国的にも有名な桜の名所です。観桜期には、日本全国から100万人以上の人が訪れます。(千代田区観光協会)



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東京国立近代美術館工芸館       北白川宮能久親王銅像

北の丸公園
名前のとおり江戸城の北の丸であった場所で、現在は環境省の管理する国民公園の一つである。多くの文化施設を公園内に持ち、旧江戸城の遺構(田安門、清水門はいずれも重要文化財に指定)も多い。もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧・田安明神)の旧地であり、のち徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所である。その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、明暦の大火以後は火除け地になっていたが、8代将軍である徳川吉宗が就任してからは徳川氏の後三卿であった田安徳川家が1731年(享保16年)に、清水徳川家が1759年(宝暦9年)に上屋敷を構えるようになった。敷地内には御蔵地や植溜御用地、馬場などもあった。維新後、明治政府によって近衛師団の兵営地が設置された(現在の東京国立近代美術館工芸館は、近衛師団司令部の建物を改修して利用している)。Wikipedia

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北の丸公園案内図


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乾門
江戸時代にはなかった門です。この門はもともと坂下門
内側にあった西の丸裏門(西丸裏門)ですが、1888年(明治21年)の明治宮殿造営に際して現在の場所に移設し、黒の薬医門形式の門に改築したそうです。皇居から見て乾(いぬい)の方角にあるため、乾門と名づけられました。

清水門橋

内濠に架かり、九段南一丁目から北の丸公園に入る土橋です。江戸城北丸の清水門の橋でした。昔、天台宗山門派の祖といわれる慈覚大師が関東に下向の途中、平川のほとりに寺を建立し、清水寺と名付けたことが門名の由来といわれています。土橋とともに門の枡形も現存しています。門は寛永元年(1624)に建築され、国指定の重要文化財になっています。清水門橋の南側は清水濠、北側は牛ケ淵です。江戸時代初期の江戸城北丸には、春日の局や千姫・阿茶の局・お勝の方など屋敷が、武家屋敷とともにありました。宝暦8年(1758)には、10代将軍徳川家治の子重好が門内に徳川御三卿の一つ清水家を興しました。(千代田区観光協会)



・・・皇居東御苑

皇居東御苑 
皇居
の東側に付属している広さ約21haの庭園。宮内庁の管轄。当地はかつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡に位置し、少し離れた場所の西の丸を含めたこの範囲のことを江戸城といった。明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があった。戦後の1963年に特別史跡に指定され、196年から一般に公開されるようになった。苑内は緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構など歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れる。Wikipedia


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大手濠/平川橋

竹橋御門

竹橋御門は、旧江戸城内曲輪15門の一つで天正18年、徳川家康江戸入国の頃「竹を編みて渡されしよりの名なり」と、その由来が伝えられているが、他にも諸説あり、竹橋の架設時期と併せいずれも定かではない。御門を通る道は、桜田門外の変により一時閉鎖されるが、明治3年再開通し、今の通称代官町通りへと変遷する。沿道の様子は、時々の社会情勢を色濃く映し、戦後は都心の交通・文化・観光のアクセスとして発展し、この地を巡る皇居周回ジョギングは、全国的な健康増進気運を高め親しまれている。現在のアーチ型竹橋は、大正15年、帝都復興事業で架設され、平成53月周辺景観との調和や補強を目的に改修を受け、白・黒・桜のみかげ石の橋に装いを新たにした。(千代田区)


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乾濠/北桔橋門

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平川濠/北桔橋門

ぶらり江戸城 内濠(1)_d0183387_10465815.jpg北詰橋門(きたはねばしもん)
その名の通り、江戸時代は平川堀に跳ね橋がかけられていた門です。天守や本丸御殿に近い門なので、防御性を高めていたのでしょう。堀からの石垣もかなりの高さになっています。





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平川門

平川門は竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう平川濠に伸びた細長い城郭[=帯曲輪]を持つのが特徴です。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたので不浄門とも呼ばれていました(案内板)


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ぶらり江戸城 内濠(1)_d0183387_01075064.png平川橋 
皇居
北側の内濠に架かり、千代田区一ツ橋一丁目から皇居東御苑に渡る木橋である。徳川家康が江戸に入る前はこの付近は上平川村、下平川村などの集落があり、平川という河川に粗末な門がある程度であった。初代の橋が架けられたのは1614年(慶長19年)。1635年(寛永12年)、枡形櫓門と番所が構築された。この櫓門と高麗門、平川橋を含めた一式を平川門といい、竹橋から侵入する敵を撃退する目的があった。平川門は、当時は江戸城三の丸の正門で、徳川御三卿の田安・一橋・清水の各徳川家の登城口であった。奥女中の通用門として「お局御門」、死者や罪人をここから運び出したことから「不浄門」の異名を持つ(Wikipedia)



・・・皇居外苑

皇居外苑 
皇居外苑は厳密には1969年(昭和44年)に開園した北の丸地区(北の丸公園)と皇居前広場の皇居外苑地区、それに皇居の周り濠に沿った皇居外周地区を総括的に指すが、通常は皇居前広場を中心とした地区を指す。広大な広場のほかに、桜田門と二重橋といった日本を代表する歴史的にも貴重な建築物を見ることが出来る。元々は皇室苑地であったところを戦後、国民公園として開放することが閣議決定され、1949年(昭和24年)に開園。広大な芝生と黒松の木を中心とした皇居前広場に、巨大な噴水を上げている和田倉噴水公園など都心で数少ない安らぎの空間となっている。東京都内の観光ツアーの訪問地の代表格でもあり、海外からのも含め観光客の姿も多い。(Wikipedia)

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大手濠/大手橋

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桔梗濠/大手橋


ぶらり江戸城 内濠(1)_d0183387_12034827.jpg巽櫓
桜田二重櫓ともよばれ、櫓の中には鉄砲、弓、長柄、持筒などが備えられていました。江戸城には隅櫓だけでも20 基以上ありましたが、現存しているものは桜田二重櫓のほか、富士見(三重)櫓、伏見(二重)櫓の三基のみです。(東京都文化財めぐり)




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桔梗橋

内濠の桔梗濠と蛤濠の間に架かり、皇居外苑から皇居東御苑にある皇宮警察本部前に通じる土橋です。桔梗門は慶長19年(1614)に造られました。門名の由来は最初に江戸城を築いた太田道灌の時代に、この近くに泊船亭があったと伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から付けられたといわれています。現在でも門の鬼瓦には桔梗紋が刻まれています。別名として、「内桜田門橋」があります。(千代田区観光協会)

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蛤濠

ぶらり江戸城 内濠(1)_d0183387_00335408.jpg坂下門橋
内濠の蛤濠と二重橋濠の間に架かり、皇居外苑から皇居(旧江戸城西丸)に通じる土橋です。門内の近くに宮内庁があります。坂下門は江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられています。西丸大奥に近く、西丸の通用門として利用されていましたが、今は宮内庁の出入口として利用されています。文久2年(18621月、老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名です。(千代田区観光協会)


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正門石橋と伏見櫓

二重橋
皇居正門から宮殿へ向かう途上、二重橋濠に架かる鉄橋で、本来の名称は正門鉄橋(せいもんてつばし)である。皇居の入口には皇居前広場側から見て、石で造られた手前の「正門石橋」と、鉄で作られた奥の「正門鉄橋」という2つの橋がある。「二重橋」とは正しくは奥の正門鉄橋の呼称である。正門(江戸城の西の丸大手門)は普段は閉じられており、天皇の即位大礼、天皇、皇后、皇太后の大葬儀など特別な行事のある時や国賓来訪の際以外は使われない。奥の鉄橋は、江戸城の西丸下乗橋のあった位置で、木造橋時代に橋桁が上下二段に架けられていた。そこから、「二重橋」と呼ばれるようになった。現在の鉄橋は昭和39年に架け替えられたもので、橋桁は二重ではない。手前の石橋は江戸城の西丸大手橋があった位置で、現在の石橋は明治20年(1887年)の建造である。二重アーチ構造であることから、「この石橋が二重橋である」との誤認が多い。(Wikipedia)


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皇居前広場案内図


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外桜田門

この門は、古くは小田原口といい、この地域に古東海道が通っていたことをうかがわせます。そのため、ここが江戸城防備上重要な拠点となり、かなりな規模の門となったと考えられます。この門は、寛永期に建設されたようですが、現在の門は寛文3 年(1663)に再建されたものが基となっています。その後、明治4 年(1871)に一度撤去された後に再建され、関東大震災後に復原されて現在に至ります。江戸時代には、この門を外桜田門、桔梗門を内桜田門と称し、大名登城路に利用されていました。また、幕末に桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士に暗殺された場所は現在の警視庁の前辺りでした。外桜田門のすぐ目の前に警視庁はあるので、ドラマなどでよく「桜田門」と称されます。なお、田安門には「寛永13」(1636)、清水門には「万治元歳」(1658)と高麗門の肘壺金具に刻まれており、外桜田門とともに江戸時代初期の城門を示す建造物として残されています。(東京都文化財めぐり)


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凱旋濠/桜田門

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桜田濠/桜田門

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霞が関跡
この辺りは、江戸時代、霞が関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっています。霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』という史料の「上古ハ荏原郡に属す今ハ豊嶋郡にあり。」という記述、『江戸名所図会』という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から導きだされています。また、名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されています。(千代田区教育委員会)


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皇居外苑全図

by Twalking | 2015-08-08 12:21 | 東京散歩(新規)

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