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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 府中ウオーキング下見03 郷土の森   

日時 2015.8.9(日)
天気 晴れ

10kmコースの後半、前回見れなかったので歩いてきました。
大国魂神社からゴールの郷土も森公園まで、長閑な田園が残る
いい道です。

途中、サントリーや市場がありますから寄り道もいいし、
郷土の森博物館も散策するには持って来いの場所です。
常設展示のジオラマは素晴らしいですね、参考になりました。


・・・大国魂神社~府中本町駅

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大国魂神社西参道

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府中街道横断/大国魂神社西          本町商店会へ


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_09133808.jpg本町

本町(本町)の集落は現在の本町12丁目の一部(府中街道、鎌倉街道沿い)と西宮町2丁目の一部(府中街道沿い)に中心があった宿場です。この宿場は府中宿の一番古い宿です。国府が栄えていた頃より府中はこの地域を中心に発展しています。江戸時代には府中宿の本陣もここに置かれています。幕府の地誌には「甲州街道より南にをれり 横道なり 民家東西に並居れり 或いは南分陪に散在するもあり 凡百八十三軒」(新編武蔵風土記稿)とあります。地名の起こりは、古くこの地に六と九の六斎市がたち、交易が盛んに行われるなどこの地域の中心としてまちが形成されたことによるようです。この地は妙光寺、称名寺、善明寺などの古刹があります。(石碑)


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_09165573.jpg善明寺
天台宗。正しくは、悲願山善明寺。建長5(1253)国分寺黒鉄谷戸(くろがねやと)の刀鍛冶、藤原助近作の「大鉄仏阿弥陀如来坐像」及びその胎内仏とされる「小鉄仏阿弥陀如来立像」が寺宝として安置されています。共に国指定の重要文化財です。墓地には依田伊織や勤王の志士西園寺実満が眠っています。(府中市観光協会)



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武蔵野線府中本町駅

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階段を上り駅ロータリーへ            ロータリー先の階段を下りふるさと通りへ


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_09213295.jpg府中御殿
(武蔵国甲州街道府中宿1590年建、1646年焼失)
府中市本町にある「御殿山」と呼ばれた御殿で1646年に建造されたもの。徳川家康・徳川秀忠・徳川家光が鷹狩・鮎漁をした際に休憩や宿泊をしたという、富士山が見える景勝地の御殿跡(1646年の大火により焼失)が発掘された。御殿跡は国の史跡に追加指定(武蔵国府跡に包括)した。茶屋としても使用されたもので、水を汲む御殿坂を通り多摩川へ至る道は現在でも「御茶屋街道」と呼ばれている。


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_09213569.jpg府中御殿井戸跡発見場所

この仮設道路の折れ曲がった部分から、徳川家康が造った府中御殿の井戸が発見されました。今は埋め戻されて地下(地表より約80cm下)に保存されています。徳川家康にも水が供されたかも知れないこの井戸は、内径で1.8mを測る規模の大きな井戸です。井戸は焼けた壁土などで埋まっており、府中御殿が正保年間(164448)に火災にあっている記録とも合致しています。また、井戸内からは徳川将軍家を象徴する三葉葵紋がつく鬼瓦も見つかっています。(府中市)



・・・府中本町駅~郷土の森公園へ

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第二都市遊歩道を中央道高架下へ


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階段下から遊歩道へ               矢崎町3西横断・高架を潜る


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ふるさと通り(御茶屋街道)/大東京卸売センター前

御茶屋街道

御茶屋街道の名は、この道が府中御殿(本町)の茶の湯の水を多摩川より運ぶ道だったことに由来します。府中御殿は正保3年(1646)の大火で焼失しています。(石柱)  


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卸売センタ角を矢崎小正門へ           矢崎小を回り釣り堀池からゴールへ


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資料ファイル

府中市郷土の森博物館

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やすらぎの池

府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_11131726.jpg府中市郷土の森博物館 
府中市
にある、建築物を中心とした野外博物館である。多摩川の是政緑地に隣接した自然の多い場所にあり、敷地面積は13haを超える。郷土資料を展示する本館を中核として、府中市域の江戸中期から昭和初期の建築物を移築復元して保存している。府中市は武蔵国の国府という中心地であったため遺跡が多く、それら市内遺跡からの出土品を展示している。昔の生活道具や農耕道具の展示と体験イベントを通じて当時の民族を伝えている。多摩川の砂利採掘跡を利用しており、はけ、多摩川、浅間山、梅園など、地形を再現したりそれを生かした建物や田畑などと自然を楽しめるようになっている。天文に関する知識を得られるようにイベントが行われており、また平床式日本最大級のプラネタリウム(非常に近い位置にある五藤光学研究所製)でも知られる。常設展展示解説・復元建築物解説をはじめ、各種イベント等が行われる。Wikipedia


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武蔵国府のマチ復元模型/府中市郷土の森博物館

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ぶちゅう地下マップ/府中市


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武蔵国府のマチ 復元模型
国府を中心として広がる国府のマチの空間を模型で復元してみました。年代は750年前後。マチの北方で国分寺の建設が急ピッチで進み、国衙の建物も瓦葺きに改められた頃です。模型の西端には東山道武蔵路という国道が南北に縦走し、国衙の東隣には「多磨寺」と呼ばれた寺院がありました。その南方の低地には水田が開かれていたと推測されます。竪穴建物は630棟を配置しています。この範囲ではこれまでに発掘された竪穴建物跡は4000棟を越え、未発掘の含めればその総数は2万棟に達すると推測されます。こうした数値から750年頃に同時存在した竪穴建物の数を推定しました。竪穴建物の多くは庶民の住居の場でしたから、134人住んでいたとすると、国府のマチに暮らす人々は2000人を越えていたことになります。普通のムラとは隔絶した規模の集落であったことは間違いありません。国府はたんなる政治の拠点ではなく、当時としては多くの人口を抱えた都市的な空間だったのです。なお、この模型は、発掘調査の成果を最大限に取り入れていますが、もちろん想像した部分も少なくないことをお断りしておきます。縮尺は1/450です。(府中市郷土の森博物館)


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村落首長たちの墓
府中市内には直径10~30mほどの小型円墳からなる古墳群が3ヶ所あります。いずれも見晴らしのよい、台地の縁地にあり、その多くは6世紀から7世紀後半に築造されています。


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鎌倉街道上道
鎌倉と各地をつなぐ鎌倉街道のうち上道(かみみち)中道(なかみち)下道(したみち)と呼ばれる3路線は幹線を成すものでした。なかでも武蔵府中を通過し群馬方面に向かう上道は、政治的にも軍事的にも重要な役割を担っていました。


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小田原北条氏
小田原に拠点を置いた北条氏は相模、武蔵、そして関東諸国へと勢力を伸ばしました。しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉軍の攻撃により本拠である小田原はもとより、各地の支城も陥落し、戦国の世は終わりを告げました。


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甲州街道府中宿模型

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大国魂神社                     高札


移築建物

府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_12313645.jpg旧府中尋常高等小学校校舎 
この校舎は、昭和
109月に現在の市立府中第一小学校の場所に建設され、以後昭和54年に新校舎建築に伴って取り壊されるまでの間、親しまれてきました。バルコニーを持つ木造2階建てで、一般教室35室、特別教室4室、来賓室、応接室、教員室からなり、延床面積は5,870㎡に達し、当時北多摩郡随一の規模を誇っていました。移築復元したのは、このうちの中心部分です。近代教育のあゆみの展示や昔の教室の再現など、教育資料館の機能を持たせるとともに、府中ゆかりの詩人、村野四郎氏の記念館を1階に併設。(府中市郷土の森博物館)


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_12322175.jpg旧田中家住宅(府中宿の大店) 
田中家は幕末から明治にかけて、府中宿を代表する商家です。明治天皇の休憩所や宿所として利用されたこともあり、その御座所として使われた奥座敷部分が残されていました。そこで、当時の屋敷図や写真資料により復元設計がされ、屋敷全体を復元しました。現在、表店
(おもてみせ)部分などを休憩所やそば処として利用するほか、座敷の一部は貸出もしています。旧島田家住宅 島田家は旧甲州街道・府中新宿の商家です。移築・復元したのはその店蔵(みせぐら)部分で、明治19年(1886)から足掛け3年の歳月をかけて建築されました。同家には、この店蔵の普請帳が残され、建築の実態を詳細に知ることができます。復元にあたっては、この普請帳を参考にしながら伝統的な方法を再現し、同じく足掛け3年をかけて完成させました。(府中市郷土の森博物館)


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_12332655.jpg旧島田家住宅 
島田家は旧甲州街道・府中新宿の商家です。移築・復元したのはその店蔵(みせぐら)部分で、明治19年(1886)から足掛け3年の歳月をかけて建築されました。同家には、この店蔵の普請帳が残され、建築の実態を詳細に知ることができます。復元にあたっては、この普請帳を参考にしながら伝統的な方法を再現し、同じく足掛け3年をかけて完成させました。(府中市郷土の森博物館)


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_12324398.jpg旧府中町役場庁舎 
府中市は昭和294月に府中町・西府村・多磨村の12村が合併して誕生しましたが、この建物は大正8年(1919)から3か年計画で建築され、同10年に竣工した府中町役場です。ドーマウィンドウなど洋風を多く取り入れながら、裏側に和風建物が接続する特色のある建築で、当時の大正デモクラシーの雰囲気を伝えてくれます。府中市制以後も市役所、市立図書館、教育研究所等に利用され、昭和59年解体、61年に竣工当時の姿に復元しました。多摩地区に現存する最古の役場建築で、大正時代の建物としては東京都指定の第1号です。(府中市郷土の森博物館)


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_13134955.jpg旧府中郵便取扱所(旧矢島家住宅) 
日本の近代郵便制度は明治4年(1871)、郵便規則の制定と郵便切手の採用によってスタートしました。これに基づいて翌53月、府中では当時府中番場宿の名主兼問屋の矢島九兵衛が郵便取扱役に任命され、その居宅が郵便取扱所に当てられました。移築復元した矢島家住宅がこれで、建築年代は幕末から明治初頭(5年以前)の間と推定されています。昭和6061年の解体に至るまで、増築や代々の当主の職業によってその都度改造されてきましたが、府中宿での近代化を物語る郵便取扱所として復元しました。(府中市郷土の森博物館)


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旧河内家住宅 
河内家は、市東北部にある浅間山の南を東西に走る人見街道に面した旧人見村にありました。移築した母屋はハケ上の農家としては一般的な造りですが、旧大沢村(三鷹市)から天保15年(1844)に移築されていることが、解体時の調査で明らかになっています。昭和58年に解体されるまでの間には度々改造が加えられていましたが、復元にあたっては創建当初の形とはせず、府中で養蚕が盛んであった様子を知る手掛かりとするため、明治後期の姿としました。(府中市郷土の森博物館)


府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_13140095.jpg旧越智家住宅 
越智家は、郷土の森の敷地の西隣の旧芝間にありました。色紙型敷地を持つハケ下の一般的な農家で、その母屋は、旧坂浜村(稲城市)から明治22年(1889)に移されており、創建は江戸時代後期に遡ると推測されます。この建物も長い年月の間に改造・増築を繰り返していましたが、郷土の森では創建当初の姿に復元しました。(府中市郷土の森博物館)


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修景池/郷土の森公園

府中ウオーキング下見03 郷土の森_d0183387_21413658.jpg府中はハスのメッツかなり
明治16年(1883)4月28日、岡山県吉備町で生まれた大賀一郎博士は岡山一中、第一高等学校を経て東京帝国大学に入り、明治42年理科大学植物科を卒業されました。昭和20年(1945)5月に中野の自宅を戦災で失い、同年6月から府中に住まわれ昭和40年(1965)6月15日東大病院において病死するまで、蓮、まんだら、布目瓦(武蔵国分寺瓦)などの研究を行われました。相和26年に千葉県検見川で古代の丸木舟が発見された泥炭層を発掘し、青泥層から出土した2000年以上前の種子を府中で発芽させ、翌年7月に開花させました。このことは報道各社が取り上げ、国外では11月17日付米国ライフ誌に掲載され「2000年蓮」「大賀蓮」として世界に知られることになりました。大神博士はこのほか、孫文蓮、ネール蓮、妙蓮など20数種の花蓮を自宅、市立第一小学校などで育成し各地に分根されました。昭和34年8月9日には妙蓮の開花を記念して中央公園ハス池前で第1回観蓮会が行われました。妙蓮は大賀博士が昭和33年5月に国の天然記念物である金沢の持明院の非常に珍しい蓮を移植したもので、ピンクの蕾は普通の蓮に似ていますが、中からいくつかの花が並んで現われることから「多頭蓮」の名があります。この花の花弁数は合計3000枚から6000枚になりますが、花のまま枯れてしまいます。府中市では昭和48年3月に中央公園から府中健康センター修景池に大賀蓮、妙蓮など各種の蓮を移植しました。現在郷土の森公園集景池には大賀蓮をはじめ30種類の花蓮が植えられています。開花は6月下旬から8月下旬ですが、身頃は7月中旬から8月中旬の朝8時頃までです。(案内板)


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府中街道

東海道・甲州街道が東西路とすれば、府中街道は南北路の代表です。この街道は、川崎宿の六郷の渡し辺りから多摩川に沿って上流に進み、小杉で中原街道、溝口で大山街道、登戸で津久井道、そして多摩川を超えて府中に達します。府中はかつて川崎を含む武蔵の国の国府が置かれていたところ。しかし、鎌倉に幕府が開かれるようになると、各地の武将と鎌倉を結ぶ政治・軍事上の道「鎌倉道」が生まれ、府中街道の一部分もその役目を果たしていました。街道が二ヶ領用水に沿うあたりは、周囲より高く堤防の役目を果たしていました。特に中原地区の市ノ坪は、かつては豊富な水を利用した花づくりの産地として知られていました。(川崎市)

津久井道(つくいみち)

登戸から西へ、生田、柿生、鶴川に向かい、さらに鶴見川の上流に沿って相模原市の橋本から津久井地方に至る道です。同じ道を東へ進むと三軒茶屋で大山街道と合流し、赤坂御門まで続くことから、多摩川から西の地方では「江戸道(えどみち)」と呼ばれていました。この街道は、津久井・愛甲の絹を江戸へ送るいわゆる「シルクロード」として利用されると同時に、黒川炭などの特産物も運ばれていました。しかし幕末の安政の開港にともない絹は横浜へ運ばれるようになり、江戸向けの物資も減りました。いまでは、多摩丘陵におけるやすらぎの散歩道となっています。(川崎市)
登戸道(1)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23014190/

大山街道

大山街道は江戸赤坂御門を起点に、多摩川を渡り、二子、溝口を経て多摩丘陵を上る道です。街道はさらに厚木、大山のふもとの伊勢原、秦野を経て関所のあった矢倉沢を通って足柄峠を越えます。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として「厚木街道」とも「矢倉沢往還」とも呼ばれてきました。古くから大山詣りの道として知られ、また駿河の茶や真綿、伊豆の椎茸、乾魚などの物資を輸送する商業ルートとしても重要な役割を果たしてきました。周辺には当時が偲ばれる蔵造りの商家が残っています。現在では、昔の道筋をほぼ踏襲し、国道246号となっています。(川崎市)
青山通り大山道(1)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22543057/

中原街道
東海道に平塚の宿場があり、このはずれに中原という所があります。ここからほぼ真っ直ぐに江戸へ延びているのが中原街道です。中原の宿を出るとすぐに相模川を越え、用田、瀬谷、佐江戸(さえど)の宿を過ぎ、川崎の小杉の宿に着きます。江戸に入るのは丸子で多摩川を越え、馬込、中延、戸越、下大崎、三田を経て江戸城の虎ノ門に達していました。中原街道の名の起こりは、平塚の中原に徳川家康が御殿をつくり、そこを通って江戸へ向かうために中原街道と呼ばれたものです。現在では県道丸子中山茅ヶ崎と呼ばれています。(川崎市)
中原街道(1)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22220930/


by Twalking | 2015-08-10 22:10 | たまのさんぽ道(新規)

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