無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 江戸城外濠(5)   

日時 2015.8.18(火)
天気 晴れ

街道では歩いていますが、改めて外濠として見てみました。
常盤橋、一石橋から外濠通りを有楽町、土橋へ、
土橋から右折して赤坂見附まで、東京低地の部分です。

道としては市街地ですから単調ですが、
史跡としては虎の門一帯の遺構が印象に残ります。
外濠を整理するのに大変参考になりました。


・・・日本橋川

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常盤橋から一石橋を見る/日本橋川

日本橋川

水道橋駅の西、神田川の小石川橋のたもとから南下し、大手町の北縁から呉服橋北、日本橋を経由し、永代橋付近で隅田川に注ぐ水路である。この川の西半部は外濠の一部を構成している。この部分を外濠川に含める場合もある。この部分はもと平川と呼ばれ、小石川沼から江戸湾へと注ぐ主要な川筋だった。江戸の都市整備で上流を神田川に奪われ、その後は小さな水路に過ぎなかったが、明治になって再度神田川に接続された。現在の一ツ橋、神田橋、常盤橋のたもとにはそれぞれ一ツ橋門神田橋門常盤橋門が、また雉子橋のやや南には雉子橋門があった。現在、常盤橋門周辺は小公園(常盤公園)になり、門の遺構を見ることができる。Wikipedia


d0183387_17254465.jpg常磐橋門跡/常盤橋上流
常盤橋門跡は寛永6年(1629)に東北の大名によって築かれた江戸城外郭門で、石垣を方形にめぐらせた「枡形門」と呼ばれる江戸城防御のための門の一つです。古くは外堀の正門であることから「追手口」、また浅草へ通じていることから「浅草口」などとも呼ばれていましたが、三代将軍家光によりこの名が付けられたと言われています。名の由来には『金葉和歌集』中の「色かへぬ松によそへて東路の常磐のはしにかかる藤波」(巻一)によるという説、あるいは徳川の旧姓である松平の「松の常緑」=「常盤」を祝ったものという説などがあります。この門は奥州道へと通じており、田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)などと共に江戸城と街道を結ぶ要衝として「江戸五口」に数えられます。将軍家や水戸徳川家も利用する重要な門でした。この門自体は明治6年(1873)に廃止され、その後、石垣の一部は取り壊されますが、外郭門のなかでは最も残りが良い城門であるため昭和3 年に史跡指定されました。また、明治10 年(1877)にそれまでの木造橋を洋式2連の石造アーチ橋(通称眼鏡橋)に架け替えられました。現存する東京最古の石橋です。この石造橋には「磐」の字を用いた「常磐橋」という名が付けられています。これは部首の「皿」が割れて縁起が悪いことからこの字にしたといわれています。(東京都文化財めぐり)


d0183387_17304824.jpg一石橋の親柱/常盤橋下流

皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊嶋郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘(きたさや)町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には幕府御用呉服所の後藤縫殿助(ごとう・ぬいのすけ)の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと『江戸砂子』に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。木橋としては最後となった明治6年(1873)の一石橋は長さ14間、幅3間の橋でした。大正11年(1922)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱4基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成9年(1992)には大正11年の橋本体はすべて撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱1基は残され、当時の姿をしのばせています。平成14年(2002)に中央区民文化財に登録されました。(中央区教育委員会)


d0183387_17304642.jpg一石橋 迷子しらせ石標

江戸時代も後半に入るころ、この辺りから日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。もし迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政4年(1857)にこれを建立したものである。柱の正面には「満(ま)よい子の志(し)るべ」、右側には「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。(東京都教育委員会)


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八つ見の橋
一石橋はその名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれた。橋上に立つと自身も含めて八つの橋(外濠の常盤橋・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三濠の銭瓶橋・道三橋)が見渡せたことが由来で江戸の名所のひとつであった。歌川広重が名所江戸百景において「八ツ見のはし」として描いている。Wikipedia











d0183387_13055765.jpg道三堀
(どうさんぼり)
天正18年(1590年)に徳川家康の命により江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸城の和田裏門橋から平川の河口の呉服橋門まで開削され、江戸湊まで続く運河。平川までは約1km余の長さで、人工の水路として江戸に初めて造られた掘である。南岸に幕府の侍医・曲直瀬道三家の屋敷があったことから道三堀と呼ばれた。江戸城への輸送路として活用されたが、明治43年(1909)に埋め立てられた。現在の皇居東にある和田倉門から辰の口(パレスホテル辺り)へ、さらに大手町交差点を経由し呉服橋交差点辺りまで横断し、東京駅の北側辺りで平川(日本橋川)に合流していた。道三橋、銭瓶橋などが架けられていた(銭瓶橋の名の由来は、開削の際に銭の入った瓶が出て来た、あるいはこの近辺で永楽通宝の両替が行なわれたことから銭替えから転じたなど、諸説ある)。(Wikipedia



・・・外濠川

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外濠通り

外濠川
数寄屋橋付近、旧朝日新聞本社(現有楽町マリオン)のたもとを流れる。かつて呉服橋交差点付近で日本橋川から分流、千代田区と中央区の区界を南下し土橋交差点付近で汐留川に合流していた流路。戦後埋め立てられ水面を失った。現在、首都高速八重洲線の地下車道が走っている区間にほぼ相当する。徳川家康が江戸幕府を開いた頃は、外濠川近辺は江戸前島と呼ばれる砂州であり、それより江戸城寄りには日比谷入江とよばれる入江が存在した。慶長期江戸城の外郭である外濠川の開削時期は2説あり、一つは関東入国から開幕前の平川移設時に開削されたとの説(別本慶長江戸図)、もう1つは1606年よりの天下普請による江戸城の建築・整備をする際に、日比谷入江埋立と並行して開削された説がある。川の西側は譜代大名の上屋敷が軒を連ねる武家地、東側は町人地として計画され、川にはいくつかの門が設けられた。江戸時代以来、近年にいたるまで水運の要としても機能してきたが、戦後に瓦礫処理のために埋め立てが進行。1950年(昭和25年)頃までにはその大部分が埋め立てられ、1959年(昭和34年)には呉服橋付近を若干残して水路としての外濠(外濠川)は消滅した。(Wikipedia



d0183387_13540867.jpg呉服橋跡/呉服橋交差八重洲寄り
以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門の一つ呉服橋門がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。「御府内備考」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。『古くは後藤橋といへり。(寛永中江戸絵図)呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。(江戸紀聞)今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼称なるべし。(後略)』これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(162443)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。なお、外堀が昭和291954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含め外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。(千代田区教育委員会)


d0183387_18080014.jpg北町奉行所跡/東京駅八重洲口

江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していました。南北2 か所に設置され、それぞれ何度か移転しています。北町奉行所は文化3 (1806) から幕末まで、呉服橋御門内にありました。現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺にあたります。発掘された敷地北東部の溝から角を削り面取りした石が出土し、屋敷の鬼門・艮(北東) の方角を護る呪術的な意味があると言われています。丸の内トラストシティの東側歩道に、復元された石組みの溝と解説板が設置されています。高橋英樹や松方弘樹が演じた「遠山の金さん」のモデル・遠山左衛門尉景元は幕末の北町奉行ですが、天保の改革に反対して僅か3 年で罷免されます。その際、町人の生活や娯楽を守ったため、「金さん」の芝居が盛んに上演され人気を博しました。後に南町奉行に返り咲き7年務めますが、南北両方の町奉行を務めるのは異例のことでした。南町奉行所跡は、現在の有楽町駅南東側です。(東京都文化財めぐり)


d0183387_13513953.jpg鍛冶橋跡/鍛冶橋交差点付近

この交差点とJR線の間には、かつて江戸城の外堀があり、鍛冶橋という橋が架けられていました。鍛冶橋のさきには江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門がありました。門の名前は『江戸紀聞』に「鍛冶町へ出る御門なればかくいへり」とあり、交差点の向こう側にあった鍛冶町に由来していると考えられます。門には鉄砲十挺、弓五張、長柄十筋、持筒二挺、持弓一組が備えられ、柳之間詰めの一万石余の外様大名が一年ずつ警備を担当しました。門内には南北の町奉行所が移転を繰り返し、一時期は中町奉行所も設けられました。門前には、幕府の御用絵師として有名な狩野探幽が屋敷を拝領し、以来代々住んだためこの家は鍛冶橋狩野家と称されました。明治維新後に門が撤廃された後も、外堀には引き続き鍛冶橋が架けられていましたが、昭和20年代に、外堀が戦災の瓦礫によって埋め立てられたため、鍛冶橋はその役割を終えました。(千代田区教育委員会)


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数寄屋橋交差点/外濠通り

有楽町

「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)(長益・ながます)に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。その「数寄屋橋御門」の名前は、外堀を渡ると数寄屋町に通じることから生まれました。江戸時代、大岡越前による、いわゆる「大岡政談」で有名な南町奉行所があったのもこのあたりです。(千代田区)


d0183387_18133740.jpg数寄屋橋跡/数寄屋橋交差点付近
数寄屋橋は寛永6(1629)江戸城外郭見附として架けられ、橋の有楽町側に有名な南町奉行所がありました。関東大震災後、近代的な美観の石橋に架け替えられ、以来銀座の入口として親しまれてきました。今は首都高速と地下鉄に上下を挟まれ橋の姿も消え、菊田一夫筆「数寄屋橋此処にありき」と刻んだ碑が建っているのみです。(中央区観光協会)



d0183387_18133077.jpg南町奉行所跡/有楽町駅南口
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。(東京都指定旧跡 説明板)


・・・汐留川(土橋)

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汐留川は首都高下を左へ分岐、右手ガード先に幸橋門がありました/土橋交差点


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幸橋門/JRガード先付近

汐留川
もともとは溜池の低湿地、およびその上流にあたる清水谷(紀尾井町周辺)、鮫川(新宿区若葉および信濃町駅周辺)、太刀洗川(檜町公園の池から北東へ流下)を水源とし、愛宕山の北あたりで日比谷入江へと注ぐ小規模な川があり桜川と呼ばれていた。17世紀・江戸時代に入ると江戸城総構えおよび江戸市街の整備工事が進み日比谷入江は埋め立てられたが、そこに人工の水路が切られ、溜池からの流れは外堀の一画として東へ導かれる形となった。後にその河口部の海を埋め立てて浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)が建設されると、それを取り囲むように水路は延長される形になったが、とくに浜御殿の西縁にあたる水路を指して汐留川と呼ぶようになった。


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右手・内幸町、左手が西新橋/外濠通り

内幸町

この界隈には江戸時代の初期から大名屋敷が置かれていました。安政3年(1856年)の絵図にも見られるように、陸奥白河藩阿部家、薩摩鹿児島藩島津家、肥前小城藩鍋島家、大和郡山藩柳沢家、日向飫肥(おび)藩伊東家、石見津和野藩亀井家の上屋敷がありました。明治5年(1872年)、阿部家、島津家、鍋島家の上屋敷を合併して内山下町1丁目、柳沢家、伊東家、亀井家の上屋敷を合併して内幸町1丁目となりました。内山下町、内幸町という町名は、山下御門、幸橋御門の内側に位置していたことに由来しています。明治時代の内山下町1丁目には内務大臣官舎や鹿鳴館、帝国ホテル、内幸町1丁目には東京府庁や社交クラブの東京倶楽部などがありました。鹿鳴館は明治16年(1883年)、政府によって現在の大和生命保険株式会社(内幸町1-1-7)の場所に建設されました。外国貴賓や政府高官などが集まり、舞踏会や演奏会で賑わいましたが、明治27年(1894年)華族会館に払い下げられました。また、東京府庁は同じく明治27年(1894年)内幸町1丁目から有楽町2丁目(現・丸の内三丁目)へ移転しました。昭和13年(1938年)区画整理により内山下町1丁目と内幸町1丁目の東側が合併して新たに内幸町1丁目となり、内幸町1丁目の西側は内幸町2丁目となりました。かつては上流階級の社交場であったこの町は、戦後、多くの企業が名前を連ねるオフィスビルなどに姿を変えました。(千代田区)



・・・虎の門

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虎の門交差点先三井ビル/外濠通り


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虎御門/虎の門交差点付近


d0183387_15231208.jpg溜池の南東端・現在の特許庁のあたり(写真先右手)には落し口(水位の段差地点 小さな滝になっている)があり、そこから東は汐留川と呼ばれる水路が東京湾へと通じており、虎の門、幸橋門などがあった。その後、川も門も失われて痕跡も遺っていない。虎ノ門に近い文部科学省の敷地内ではかつての濠の石組みが発掘されている。


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虎の門駅展示室

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東京はいうまでもなく江戸の城下町から発展した都市です。その中心である江戸城は慶長9年(1604)から寛永13年(1636)にかけて造られた近世最大の城郭です。なかでも江戸城外堀は築城の最終にあたる大工事で、これによっつて城下町を取り囲む延長約14kmの惣構が完成します。明治維新事後は江戸防衛施設である外堀は役目を終えて一部は埋め立てられますが、今も道路や鉄道網など都市の骨格に利用されています。この図は江戸城の痕跡や江戸の町割りを現代の街区に重ね合せたものです。この図から地形を巧みに利用して江戸城外堀や町がつくられ、それが現代の東京に引き継がれていることがよく分かります。(説明板)



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この図は発掘調査で判明した江戸城外堀をもとに江戸と現代の地図を重ね合せたものです。この図によって虎御門が現在の虎ノ門交差点付近に位置し、東の街区がかつて外堀となり、当敷地3ヶ所の石垣や櫓石垣は外堀西岸にあることを読み取ることができました。四神相応の大道を表す「白虎」に由来するといわれる虎御門は、かつて外桜田門から続く小田原道が通っていたといいます。外堀に唯一ある櫓は門とともにこの街道を守る拠点であったと考えられます。また、当地周辺では外堀に面して延岡藩内藤家の屋敷が、対岸の金毘羅神社は讃岐丸亀藩京極家屋敷内にあった社であることが分かります。このように遺跡発掘調査によって江戸城外堀跡が明らかとなり、そこからまちづくりの歴史を学ぶことができます。(説明板)

桜田通り
国道1号の桜田門交差点から西五反田1丁目交差点までの区間の通称。中世以前から存在する古道であり、徳川家康によって江戸時代の東海道が整備されるまでは江戸から西への街道であった(小田原街道、中原街道)。Wikipedia


石垣の刻印 
寛永13年の外堀石垣構築は、60家の大名を6組に編成して丁場(工事区域)を分担していました。発掘区域は、岡山藩池田光政を組頭として東から九鬼久隆、石道惣築(全員で築く)、戸川正安、毛利高直、池田長常の4家が担当しました。工事区域の分担は大名石高によって定められていました。発掘調査では、土台によって工事区域を示していたことがわかり、石垣表面には構築大名を示す刻印が付されるなど、丁場ごとに特徴がみられました。毛利家では家紋の矢筈が付けられ、多くの大名で築いた石道惣築では多種多様な符号が確認できました。矢筈の刻印は、伊東市宇佐美にある石材を切りだした丁場にも同じ刻印がみられます。(説明板)


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石垣図                外濠底面

d0183387_11440250.jpg文部科学省構内遺構



地形を利用した江戸城外堀
この地域は、地形図のように溜池の谷間から江戸城東方に広がる低地や入江を望む高台に位置し、周辺には弥生時代の遺跡が立地するなど古くから集落などが開けた場所でした。旧文部科学省庁舎は延岡藩内藤家上屋敷となり、台地縁辺から谷に至る傾斜地を利用して江戸城外堀を築いていました。発掘調査では、外堀石垣構築以前の内藤家屋敷跡に関わる溝が発見され、その一部が暗渠となって堀へ排水していたことがわかりました。このことは、寛永13年外堀構築以前にも既に堀があったことを示しています。こうした発掘調査によって、歴史史料だけではわからないことも明らかとなりました。(説明板)


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国史跡江戸城外堀跡・溜池櫓台/三井ビル前 
この付近の石垣は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩主池田光仲によって構築された櫓台の一部です。この地域の江戸城外堀は、虎ノ門交差点付近に虎御門を置き、そこから文部科学省に現存する3地点の石垣を通過して、この櫓台石垣に至ります。この地域の堀は明治時代に埋められましたが、これらの石垣によってかつての外堀をしのぶことができます。江戸城外張りの隅櫓は、このほかに筋違橋門と浅草橋門だけにあり、唯一この石垣だけが現存しています。これらの櫓は、江戸の南北をかんな通する主要道に面しており、特に2つの櫓を置くこの地域は、江戸初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にあたります。この石垣は、江戸城防備の要衝とともに、都市政策上も重要な地域であったことを示しています。(文化庁・千代田区)

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江戸城外堀と周辺地形

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江戸城外堀と史跡の範囲

霞ヶ関

皇居外苑南東端にある外桜田門から港区虎ノ門に至る桜田通りにかけての一帯は、霞が関(昭和421967年に霞ヶ関から改称)といいます。江戸城を守る外郭門のひとつであった虎御門(とらのごもん)は、江戸時代初期までは遠浅の海(日比谷入江)に面していました。霞ヶ関の名前は古代までさかのぼり、日本武尊が蝦夷(えみし)の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所「霞ヶ関」から名付けられたといいます。その名前は関所から雲霞を隔てた遠方を望むことができるということに由来し、江戸時代の地図にはすでに「霞ヶ関」と記したものもあります。江戸時代には、幾多の大名が住む武家地であり、日向延岡藩内藤家(文部科学省・会計検査院・霞が関ビル周辺)、筑前福岡藩黒田家(外務省)、安芸広島藩浅野家(国土交通省周辺)、出羽米沢藩上杉家(法務省旧本館・法曹会館周辺)などの上屋敷がありました。明治維新後、この一帯は政府用地として利用されます。1丁目・2丁目は、明治20年代以後の官庁集中計画に基づいて赤レンガ造りの官庁が林立し、現在の中央官庁街となりました。警視庁前に残る法務省旧本館の建物はその名残であり、重要文化財に指定されています。3丁目には明治4年(1871年)日本初の官立の工業技術教育機関である工部大学校(東京大学工学部の前身)が開校しました。のちには各国の大公使館も置かれ、政治や外交の中心地的印象が強い霞が関ですが、3丁目一帯は近代産業も芽生え、発展してまいりました。(千代田区)


・・・溜池

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溜池交差点/外濠通り

溜池

かつてこの一体にあった池の名前に由来する。元々は湧水であり、堤を作り水を溜めるようにしたためこの名がある。その形から別名ひょうたん池とも呼ばれた。神田上水、玉川上水が整備されるまではこの溜池の水を上水として利用しつつ、江戸城外濠の一部としても利用していた。溜池町(後の赤坂溜池町。現在の赤坂12丁目の各一部)という町名の住居表示が実施された1967年まで付近に存在していた。住居表示実施後は交差点の名称としてその名を留めているほか、かつて外堀通り上を走行していた都電の停留所の名称にもなっていた。「山王」とは付近にある山王日枝神社(千代田区永田町二丁目)に由来する。Wikipedia


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溜池発祥の碑             首相官邸下


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江戸名所図会 溜池 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


by Twalking | 2015-08-23 13:57 | 東京散歩(新規)

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