中原街道(2)五反田~小杉03 小杉
天気 晴れ/曇り
洗足池から現中原街道を西に進み、環8から桜坂を下って、
丸子の渡しから対岸の小杉へ向かいます。
桜坂は福山雅治の歌で一躍有名になりましたが、
ここは昔の面影が残っていていいですね。
対岸から振り返ると荏原台地、国分寺崖線がよく分かります。
文化11(1814)に、品川の御忌(きょき)講(御忌とは法然上人の忌日)という浄土宗を信仰する人々が再建したものである。背面の銘文から、延宝6年(1678)に森氏道円が願主となり建てた旧碑が、何かの事情で失われていたものを再建されたことがわかる。この塔のような角柱型に文字を刻んだ庚申供養塔は、江戸時代後期によくみられる特色のものである。また向かって右面に刻まれた銘文により九品仏(浄真寺、世田谷区奥沢)への道しるべを兼ねたものであることがわかる。この地点が中原街道から浄真寺に至る旧道の分岐点に当たることは、古い地図からも確認できる。 江戸時代の民間信仰の様相を示すものとして貴重である。(大田区教育委員会)
石橋供養塔/呑川手前
安永3年(1774)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主になって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。(大田区教育委員会)
・・・田園調布本町
田園調布
1918年(大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により開発、大正12年から分譲された地域である。大田区田園調布以外に、田園調布本町(ほんちょう)、田園調布南の住所表記もあるが、旧「大森区田園調布」に相当する地域で、大田区田園調布の南側に位置する。この地は古くには上沼部村と下沼部村とがあって、1889年(明治22年)にこれらに鵜の木村と峰村とを合わせた4村が合併し「調布村」になった地域である。住宅地としての「田園調布」の起源は、1923年(大正12年)に田園都市会社が「田園都市多摩川台」として分譲を始めたことにある。(Wikipedia)
東急多摩川線沼部駅から東光院前を通り北東へ向かうと、田園調布本町19番あたりから石垣にはさまれた切通しの坂道になります。これが桜坂で、坂名は坂道の両側に大正時代に植えられた桜にちなむものです。この坂は旧中原街道の切通しで、昔は「沼部の大坂」といい、勾配がきつく荷車などの通行は大変であったようです。また、かつてこのあたりの村落(沼部の村落)は荷車、旅商人の往来でにぎわい、腰掛け茶屋などが坂道の両側にあったともいわれています。坂下には、かつて六郷用水が流れていたましたが、下水道の普及につれ、この用水も埋められました。しかし、少しでも昔の姿を残そうと、その一部を自然の湧水を使って「六郷用水の跡」とし、現在は保存しています。(大田区)
旧中原街道
中原街道は江戸から相州の平塚中原に通じる道で中原往還、相州街道とお呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されていたため御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以前に存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後部分改修されて造成した道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。また、平塚からは東海道より短距離であったため急ぎ旅人に近道として好まれたという。中原街道の旧道の様子を残しているのは区内でもこの付近だけである。(大田区教育委員会)
おいと坂/坂下左
大森区史は「下沼部にある。伝えるところによれば、北條時頼行脚して中原に来た。病を得て難治であった。井戸水があって使用したところ程なく全治した。その井戸は沼部に一つ中原に一つあった。後、中原の井戸を沼部に移し雌井(めい)、雄井(おい)と称した。おいと坂は即ち雄井戸坂のことであろう」と記している。(標柱)
ジャバラ(六郷用水物語)
この水車は、ジャバラ(足踏み水車、踏車ともいう)と呼ばれる揚水用水車の模型です。かつては、六郷用水流域の水田においても、早春や干ばつ時の水が少なくなった時に、羽を足で踏んで回転させ、田に水を揚げていました。(実際に使われていた水車とは若干異なります。)/案内板
多摩川丸子の渡し
丸子の渡し跡
丸子の渡しは、沼部(現田園調布本町)と上丸子(川崎市中原区)とを結ぶ多摩川の渡しで、古くは「まりこのわたし」ともいった。渡し守子の「もりこ」がなまって「まりこ」となったともいわれる。この付近は、すでに鎌倉時代の文書に「丸子荘」と記載されたり、また文明18年(1486)から19年にかけて、京都から東国方面へ旅行した際の記録である『廻国雑記』に「東路のまりこの里に行かかりあしもやめずいそぐ暮れかな」と詠まれた。中世以来の渡し場と推定される。江戸時代になると、中原街道が整備され、物資の搬入時に利用され、昭和9年(1934)丸子橋が完成するまで利用され、江戸東京の玄関口として大きな役割を果たしていた。(大田区教育委員会)
多摩川台公園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21872403/)
・・・丸子橋
等々力(川崎市)
多摩川を挟んで対岸の世田谷区にも等々力という地名が現存し、両者は明治末期までひとつの大字であった。当地は、もともと多摩川の流れが南に屈曲していたところに張り出した、荏原郡等々力村に属する半島状の土地であったが、洪水や多摩川の付け替えが行われた結果、対岸の飛び地となった。江戸時代には旧河道の土地をめぐり等々力村と小杉村で争いとなり、宮内村が立ちあって境界が定められ、幕府側でのその裁決の文書には大岡越前守の名も残っている。明治末期に、多摩川に沿って府県境が引き直され、当地は神奈川県橘樹文中原村へと編入された。(Wikipedia)
川崎歴史ガイド
徳川家康が初めて江戸の入った天正18(1590)年、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向うこの道を通った。江戸時代の初め、江戸に通じる主要街道として使われたこの道も、東海道が整うと徐々にそれまでの賑わいを失っていく。しかし、その後も沿線の物資や農産物輸送などに欠かせない大切な道として、中原街道は、人々の生活に深い関わりを持ち続けてきた。
原家九代目文次郎は、明治24年から22年の歳月をかけて、この地に母屋を大正2年に完成させました。総ケヤキ造りの母屋は、高度な木造建築技術を駆使した明治時代を代表する建築物として平成13年に川崎市の重要歴史記念物に指定されました。11代目正巳はこの建造物を多摩区にある川崎市立日本民家園に移築復元することによって、後世の多くの人々が郷土の暮らしぶりや、先人達の知恵を学ぶ屋舎として活用されることを望んだものです。(12代目 原正人)
旧名主家と長屋門
江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている。(川崎歴史ガイド)
明治の醤油づくり
「キッコー文山」の商標で石橋醤油店が醤油作りを中原の地で始めたのは明治三年。昭和二四年に創業を終えるまで、ここには大樽を据えた醸造工場や蔵が建ちならび活況を呈した。(川崎歴史ガイド)
碑橋
八百八橋江戸と平塚を結んでいた中原街道は、物資や農産物の輸送に欠かせない道として地域の生活に深いかかわりを持ってきました。今も街道沿いには、小杉御殿跡や名主家長屋門、陣屋跡、石仏などが残り、この地域で織り成されてきた歴史を偲ぶことができますが、今でも地域に語り継がれているものの一つに、「八百八橋」があります。18世紀の中頃に、丸子の渡し周辺の旧松原集落の街道沿いで、「ほしかや」の2代目として肥料問屋を営んでいた野村文左衛門が、地域の人々のために中原街道筋に千個の石橋をかけることを思い立ち、安政三年にこの世を去るまでに数多くの石橋をかけ、その功績から後年「八百八橋」として、人々に語り継がれるようになったものです。昭和39年には、武蔵中原観光協会が八百八橋の顕彰碑とともに石橋を一部復元し、武蔵小杉駅北口駅前広場に展示しましたが、広場の改修にともない顕彰碑と歩道の中に埋め込まれた石橋の一部が残されているだけとなってしましました。そこで、特定非営利活動法人小杉駅周辺エリアマネジメントでは、平成20年2月16日に「八百八橋をさがせ」と題して、この忘れられた「八百八橋」を子供達とともに探しだし、ワークショップを行い保存の道筋まで検討しました。子供達の「八百八橋を残して」という思いをうけ、地域で育まれてきた歴史や、地域に刻まれたまちづくりへの思いなど、野村文左衛門を始めとする先人の思いを次世代に橋渡しする取り組みとして、武蔵中原観光協会との共同事業で、関係者の理解と協力を得ながら、ここに「八百八橋」の移設を行ったものです。(武蔵中原観光協会 特定非営利活動法人小杉駅周辺エリアマネジメント)
・・・小杉御殿町
武蔵小杉駅の北、新丸子駅の西に位置し、町内を東西に中原街道が、町の東端を府中街道が貫通する。町名の由来は、中原街道上にあった将軍の宿泊地である小杉御殿がこの地にあったことから。現在は西明寺境内の跡地に碑が残るのみである。
小杉御殿
江戸時代初頭の1608年に現在の川崎市中原区小杉御殿町にあたる中原街道上に造営された徳川将軍家の宿泊施設、本陣である。中原街道がクランク状になった場所の西側、現在の西明寺の境内にあった。江戸時代初期にはまだ東海道は整備されておらず、中原街道が江戸と西方を結ぶ主要な街道とされていた。徳川家康も江戸と駿府との往還に用いたという。小杉には中原街道を利用する際の将軍の宿泊地として小杉御殿が設けられた。中原街道沿いに設置され将軍の鷹狩等で街道を通行する際に利用された。1660年に廃止された。現在の神奈川県では他に、神奈川御殿、藤沢御殿、中原御殿がおかれていた。(Wikipedia)
史蹟 徳川将軍小杉御殿跡
小杉御殿はこの附近東西旧多摩川河畔迄約四万平方米の地に1608年(慶長13年徳川秀忠の代)造営され1672年(寛文12年徳川家綱の代)に全部撤収となったものである(武蔵中原観光協会建之)
西明寺と小杉学舎
真言宗知山派。境内の弁財天には中興の祖北条時頼にまつわる伝説がある。参道付近はよく公の場として使われた。明治六年には、本堂に「小杉学舎」が置かれ、近代小学教育の場となった。。(川崎歴史ガイド)
西明寺の名は遠く弘法大師が勅命をうけて渡支(804)した際の宿坊の寺号に発し、帰国後大師の東国御巡化の砌りこの地に留錫し高弟泰範上人に命じ堂宇を建立す。その後北條時頼公(1263)の信仰篤く当時は最明寺とも称した記録がある。近世徳川家康公も小杉御殿の隣地西明寺を崇敬し境内を殺生禁制の地と定め祈祷料として御朱印地を寄付された。文化3年(1806)仁和寺宮一品親王より菊桐御紋章幔幕を下付された。当時の本堂(大正14年焼失)昭和9年新築の外、十一面観世音菩薩を安置する観音堂あり。寛永5年(1628)長谷川丹後守寄進の鰐口が現存している。また鐘楼堂(昭和38年改築)閻魔堂等七堂伽藍があったと伝えられる。多摩川の両岸にわたり末寺二十有余の談林として真言密教の法鼓を鳴らし今日に至っている。(案内板)
小杉駅と供養塔
川崎宿から50年遅れて小杉も宿駅に指定された。供養塔にも稲毛領小杉駅とある。台座の「東・江戸 西・中原」は街道は平塚の中原と江戸を結ぶ道であったことを示している。(川崎歴史ガイド)
庚申塔と大師道
この庚申塔は「見ざる聞かざる言わざる」で知られる庚申信仰の最盛期、江戸時代のもの。道標を兼ね東江戸道、西大山道、南大師道と彫られている。昔ここから大師へ向った。(川崎歴史ガイド)
小杉十字路
中原街道が府中街道と交差するこの場所は、明治後期から大正時代、特に賑わった。乗り合い馬車の停留所、料理屋、旅館、劇場、鉱泉宿、床屋、医院、郵便局などが集まっていた。(川崎歴史ガイド)
二ケ領用水と神地橋
稲毛領、川崎領を潤した二ケ領用水の本流は、神地橋で中原街道と交わる。用水の恵みを受け、この辺りでとれた質の良い米は特に「稲毛米」と呼ばれ、江戸の人々に喜ばれた。(川崎歴史ガイド)
・・・小田中
「小田中」の名が史料に登場するのは1164年(長寛2年)の「大江某注進状」であり、当地が藤原氏の荘園であったこと、また年貢として八丈絹を納めていたことが読み取れる。小田中が上下に分かれたのは戦国時代頃と見られ、1549年(天文18年)に吉良頼康が泉沢寺を「上小田中宝地」へ移した記録が残る。
当寺は浄土宗に属しています。当寺は、延徳3年(1491)武蔵国多摩郡烏山(現・東京都世田谷区)に吉良氏の菩提寺として創建されました。その後、天文18年(1549)堂宇がことごとく焼失したため、その翌年、世田谷領主吉良頼康が現在の中原区上小田中に新しく建立しました。当寺には、中・近世からの歴史を物語る数多くの文化財が所蔵されており、次の文化財は川崎市重要歴史記念物に指定されています。古文書では当寺再興に関する吉良頼康関係の判物、北条氏政の禁制(虎の印判状)、徳川家康の代官神谷重勝の寺領朱印状下附に関する書状、徳川氏奉行人連署奉書があります。仏像では江戸城内にあった五代将軍綱吉の霊廟に祀られていた木造・四天立像(広目天・多聞天・梵天・帝釈天)と、南北朝時代(14世紀)制作の銅像・阿弥陀如来立像が所蔵されています。(川崎市教育委員会)
泉沢寺と門前市
室町末期、世田谷からここに泉沢寺を移した吉良氏は、税を免除して居住を促し、また門前市を開き、この地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び広く知られていた。(川崎歴史ガイド)
中原街道(2)五反田~小杉02-洗足池の関連記事はこちらへ(https://userconf.exblog.jp/entry/?srl=22250160)
by Twalking | 2015-10-02 19:18 | 中原街道(完)