無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり本郷~巣鴨03 小石川   

日時 2015.11.11(水)
天気 晴れ

文京区役所から春日通りを上り、
伝通院、播磨坂、教育の森、小石川植物園裏を通り、
江戸橋通りを巣鴨へゴールしました。

中山道は丘の上の道ですが、このコースは丘を横断し、
脇道に入りますので、変化があって面白いですね。
JWAのみなさん、お世話になりました、ありがとうございます。077.gif


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春日通り/伝通院前

小石川(地域)
文京区のおよそ西半分を範囲とし江戸・東京の山手を構成している地域のひとつである。こんにゃくえんまで知られる源覚寺、伝通院など所在。小石川後楽園(史跡・名勝)は後楽に、白山には小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)がある。石川啄木、幸田露伴がこの地に居を構えた。文京一帯が北条氏に支配されていた当時の文書に「小石川」の地名があった。江戸時代、武蔵国豊島郡小石川村は江戸の北辺に位置し、その多くは伝通院の寺領であったと伝わる。小石川の名は、伝通院の前の川に小石や砂が多かったことからついたとされるWikipedia

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伝通院 
浄土宗 無量山 寿経寺 傳通院。慶長8年(1603)徳川家康が生母お大をこの地に葬った。後に堂宇を建立し伝通院となった。伝通院はお大の法名にちなむ。将軍家の帰依も厚かった。浄土宗の関東18檀林の一つで、常時1000人の学僧が修行していた。境内には、お大の方、千姫(豊臣秀頼妻・2代徳川秀忠の長女)をはじめとして徳川家ゆかりの女性の墓が数多くある。(文京区)


d0183387_15301543.jpg浪士隊結成の処静院跡の石柱
この石柱は、伝通院の塔頭(たっちゅう)の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。処静院は、その後廃寺となった。文久3年(186324日、幕末の治安維持を目的とした組織浪士隊の結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清川八郎を中心に、総勢250人。その後、浪士隊を離れて新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久328日京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことであった。(文京区教育委員会)

d0183387_15301886.jpg新選組の前身 新徴組発会の処静院跡
幕末の歴史に1頁を残した新選組の前身新徴組は、江戸市中から応募した浪士隊として清河八郎、山岡鉄舟らの呼びかけで、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが参加し、文久324日伝通院山内処静院で発会したと記録されている。処静院はその後火災に遭い消失したが、この碑建立の一帯が処静院で大黒天に隣接していた。幕末時、処静院住職琳瑞和尚は、清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺されたが、今なお伝通院内に墓碑が建立され供養されている。(文京区教育委
員会)

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江戸名所図会 伝通院 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



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播磨坂
この道路は終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。かつて、このあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあった所である。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。昭和35年頃、「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって「環三のグリーンベルト」は立派に育てられている。昭和43年から桜まつりが行われ、文京区の新名所となった。


環三通り桜並木の由来
かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り「播磨田圃」へ下る坂ということで「播磨坂」とよぶようになった。坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年(1947)、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年(1953)には小針平三氏他有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ平成7年(1995)には装いを新たにした桜並木が完成した。昭和43年(1968)には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。(文京区教育委員会)


d0183387_15365403.jpg石川啄木終焉の地/小石川5丁目
石川啄木は、明治19220日(または181027日)岩手県南岩手郡日戸村(盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。盛岡中学校入学後『明星』を愛読し文学を志した。生活のため故郷で小学校代用教員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが作家を志望して上京、朝日新聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』『悲しき玩具』、詩集『あこがれ』『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。啄木は、明治4487日本郷弓町の喜之床(文京区本郷2丁目38番)の2階からこの地の借家(小石川区久堅町74番地46号)に移り、翌年病没するまで居住した。この地に移った啄木は既に病魔に侵されていた。明治45413日午前930分父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により26歳の若さで亡くなった。法名は啄木居士。(東京都教育委員会)


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カイザースラウテルン広場(窪町東公園)
窪町東公園のうち春日通り沿いの一角に、ヨーロッパの開放的な都市広場をイメージした、石張り舗装の広場があります。そこには文京区とドイツのカイザースラウテルン市の「姉妹都市提携」のシンボルとして、同市の彫刻家ゲルノト・ルンプフ、バルバラ・ルンプフ夫妻の作成した「神話空間への招待」と題する、ヨーロッパの伝説上の動物である一角獣を中心とした彫刻を設置しています。当地は窪町東公園の飛び地で、もともと植え込み地となっていましたが、教育の森公園や文京スポーツセンターに向かうアプローチとして重要な位置にあるため、隣接する区道と一体的に整備を行いました。(文京区)


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教育の森公園/大塚
この地は徳川光圀の弟頼元が万治2年(1659)に屋敷とした。その子頼貞は元禄13年(1700)常陸国茨城・同行方・陸奥守山の32万石を受け、守山藩主として大学頭を名乗った。邸内敷地62000坪という。氷川下の低地にある池は当時吹上邸として有名な占春園の名残である。ホトトギスの名所だったという。明治36年東京高等師範学校が、お茶の水(現東京医科歯科大学の所在地)から移転して来た。戦後、東京教育大学、筑波大学へと発展した。昭和59年区民の念願により、旧東京教育大学のうち約29haの払い下げを受け、区民の憩いの場、防災広場、スポーツセンターとして活用するため都心の緑の地として設計した。そして由緒ある地を「教育の森公園」と命名した。(文京区教育委員会)

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占春園 
明治36年東京高等師範学校(戦後の東京教育大学、筑波大学に改組)が湯島からこの地に移り、占春園は校地の一部になった。現在は、筑波大学付属小学校の自然観察園として、同校が管理し、区民にも公開されている。(文京区教育委員会)


d0183387_15543005.jpg東京大学大学院理学系研究科附属植物園(小石川植物園)
徳川5代将軍綱吉の館林藩主時代の別邸の地。それ以前にここにあった簸川(ひかわ)神社や白山神社は別邸建設に伴い現在地に移されたが、それにちなみ白山御殿とも呼ばれた。貞享元年(1684)、麻布御薬園がこの地に移転することとなり、享保7年(1723)には小石川養生所が置かれた。明治維新後、薬園は東京府、その後文部省の管轄になり、明治10年に東京大学の附属となり植物の実地研究の場となった。敷地内には旧東京医学校本館(国重文)が移築保存されている。平成24919日に国指定名勝及び史跡に指定された。(文京区)

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網干坂
白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあっている。むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水となり、昭和9年に千川は暗渠となった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。(文京区)


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d0183387_15593436.jpg簸川神社

社伝によれば当神社の創建は古く第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)である。源義家(10391106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の1つであった。もとは現在の小石川植物園の地にあったが白山御殿造営のため元禄12年(1699)この地に移された。社殿は先の空襲にあい全焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。境内の幟建一対は江戸時代、全仁寺門前町氏子中により奉納された貴重な石造物である。なお、1基は平成12年久堅町民会の尽力で修復されたものである。(文京区)

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江戸名所図会 氷川明神社・祇園橋(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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氷川坂(簸川坂)
氷川神社に接した坂ということでこの名が付けられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である坂下一帯は、明治末頃まで「氷川田圃」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年暗渠が完成し千川通りとなった。神社石段下には千川改修記念碑がある。(文京区教育委員会)


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ゴールの江戸橋公園を目指して一直線/江戸橋通り

千石

御三卿のひとつ一橋徳川家より寄付された樹林地・千石緑地が史跡として残る(もともと一橋徳川家屋敷内)。武蔵野台地の先端部分である白山台地と指ヶ谷の境界。小さな森のような緑地には樹齢100年以上と推定される文京区内でも有数のムクノキの巨木がある。以前からある歴史的な地名ではなく1967年住居表示実施に伴い小石川北部の西丸町、大原町、林町、氷川下町、丸山町、(巣鴨)西原町、(巣鴨)西丸町などを合併して誕生。小石川植物園のそばを流れる千川(現在は暗渠)の千と中山道の「せん」の読み、小石川の石からその名を採った。(Wikipedia


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資料ファイル
JWA11月月例ウオーク(文京区の名所・旧跡コース)

日時: 2015.11.11(水)
集合場所:神田神社(神田明神)
     9:30(スタート10:00)
主催:日本ウオーキング協会
主管:日本ウオーキング協会独歩会
認定:日本市民スポーツ連盟認定

コース(10km)
神田明神→清水坂→湯島天神→麟祥院→東大赤門→三四郎池→安田講堂→正門→
農学部→菊坂下→源覚寺→富阪下→春日局像→伝通院→真珠院→吹上坂→梁間坂→
啄木終焉の地→教育の森公園(昼食)→窪町東公園→小石川植物園裏→簸川神社→
文京宮下公園→江戸橋公園

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コース地図(赤:歩行コース 緑:中山道)


文京区
文京区は東京都の東部、皇居の北側に位置する。武蔵野台地の坂、神田川などにつくられた低地部、5つの台地(関口台、小日向台、小石川台、白山台、本郷台)や谷から成り立ち、坂の多い地域である。高度は古後楽園一丁目の海抜3.1メートルを最低に、大塚五丁目付近で海抜34メートルである。特別区では4番目に面積の小さい区である。(歴史)中世に至り上杉氏の支配下に入り太田市氏・豊島氏などの豪族の影響を受け、後北条氏の支配地となり徐々に発展していったようである。1590年(天正18年)徳川家康の江戸幕府により、武家屋敷や寺社が建った。徳川光圀(水戸黄門)で有名な徳川御三家の一つ水戸徳川家屋敷をはじめ、徳川家康の生母である於大の方(おだいのかた)が埋葬された伝通院、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いにより創建された護国寺などの寺社。三代将軍徳川家光の乳母である春日局、大奥の奥女中であった音羽が土地を拝領した事から「春日」「音羽」など現在でも地名として使われる。白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代のお屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿と言われた。綱吉の将軍職就任後は、御殿跡を幕府の薬園とした。1722(享保7)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。明治になってからは東京大学の付属植物園となった。大政奉還後は15代将軍徳川慶喜が旧小日向(春日)居住。Wikipedia



by Twalking | 2015-11-13 19:51 | 東京散歩(新規)

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