無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(3)二子~荏田01 二子・溝口宿   

日時 2015.12.18(金)
天気 晴れ

小春日和のいいお天気、清々しいです。
二子橋から富士&大山を見ながら西へ向かいます。
二子・溝口宿は街道の面影が残っていていいですね。

それに、案内板も随所にあり、行政や地域のみなさんが
保存に力を注いでおられる様子がよく分かります。
じっくりと見させていただきました。
ありがとうございます。


・・・二子の渡し

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対岸から二子玉川を望む/二子橋交差点


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二子橋
片側1車線の道路橋。歩道は下流側にのみある。東京都側(東詰)は橋を渡ってすぐの場所にある二子玉川交差点で多摩堤通り・駒沢通りと接続する。神奈川県側(西詰)は多摩沿線道路・大山街道(溝口大通りとも)に接続する。(橋長 : 440m 幅員 : 11.1m)


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ニ子の渡し/二子交差点(左)
 
ニ子橋の完成は大正14年。それまで、街道を行く人々はここニ子の渡しから多摩川を渡った。徒歩船、馬船。河原には茶屋、蕎麦屋。船待ちや川遊びで、渡し場は大いに賑わった。(川崎歴史ガイド)


・・・二子


d0183387_13543664.jpg律令時代に武蔵国の国衙が置かれた府中と各地を結ぶ府中街道(現・国道409号)が当町の南部を通っており、久良岐郡(現在の横浜市の一部)・橘樹郡(現在の川崎市の大部分および横浜市の一部)より武蔵国国府、および8世紀以前の主要街道であった東山道へ至る道として活発に利用された。この当時、二子村の中心は府中街道沿いにあり、府中街道周辺の字名に「元居村」の名を残している。
1641(寛永18)、多摩川の洪水に悩まされていた光明寺が、矢倉沢往還が整備されるとともに周辺の住民とともに街道沿いに移動した。これが二子村の起こりと言われる。江戸時代中期には、江戸と上方を結ぶ足柄道として、また大山信仰の参詣道として、矢倉沢往還は大山街道と呼ばれるようになった。すると、かつては府中街道沿いに立地していた中心街が、おのずと大山街道沿いに移ってゆくこととなる。Wikipedia


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二子神社

多摩川の二子橋にほど近く二子神社があります。もと神明社と称し、創建は寛永18年(1641)といわれ旧二子村の村社でした。境内には揺らぐ炎のような〈夢幻の白鳥〉が浮かぶような白いモダンアートの記念碑があります。「誇り」と名づけるこの岡本かの子の文学碑は川崎をはじめ全国の愛慕者によって昭和37年(196211月建てられたもので、彫刻の台座には「この誇りを亡き一平とともにかの子に捧ぐ 太郎」という制作者で長男の岡本太郎の銘が刻まれ、その横に「としとしに わが悲しみは深くして いよよ華やぐ いのちなりけり」という歌が、かの子の筆跡から拾字されて御影石に刻まれています。これはかの子の代表作「老妓抄(ろうぎしょう)」に女主人公の歌として小説の末尾に掲げられたもので、晩年の自身の心境をそのままに歌ったものといえます。また、かの子の業績を讃える亀井勝一郎の文を川端康成の書によって刻んだ碑もあり、まれにみる豪華な文学碑を形造っています。

d0183387_14172800.jpg岡本かの子は明治
22年(188931日、旧二子村(現・高津区二子)の旧家大貫家の別邸(東京市赤坂青山南町、現・港区)に生まれ、本名はカノ、幼時を二子で育ち、次兄雪之助(晶川)の影響で文学に親しみ跡見女学校入学後、与謝野晶子に師事「明星」「スバル」などに短歌を発表しました。画学生・岡本一平と結婚し、歌人・仏教研究家として活躍しましたが、足かけ4年におよぶ欧米滞在から帰国後、一平の献身的な協力と川端康成の指導を得て多年念願の小説制作に移り、出世作「鶴は病みき」を発表してから3年ほどの間に、生命力をひたすら純文学に傾けて驚くべき量と質の作品を発表しました。代表作に「母子叙情」「老妓抄」「河明(かわあか)り」「生々流転(しょうじょうるてん)」「女体開顕」などがあります。昭和14年(193921849歳で死去。多磨墓地に埋葬されました。なお、夫の一平(18861948)、長男の太郎(19111996)はともに芸術家として活躍しました。(川崎市教育委員会)



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岡本かの子は明治2231日誕生し多摩河畔ニ子の郷家にて生長せり祖先代々武蔵相模に栄えし旧家の血筋と多摩川の清流とはかの子の生命に深く愛染し作品のうちに多様なるすがたをもって表現されたりかの子は若くして和歌を学び長じて佛道を修めあるひは東西の藝文にひろく接して昭和14218日眠去の日まで華麗なるいのちを燃えあがらせつつ幽玄にしてまた絢爛たる文学の道を辿れりここに川崎市有志ならびに友人知己その業績を讃え故人をしのびてかの子文学碑を建立す (亀井勝一郎 文 川端康成 成書)


d0183387_14144752.jpg大山燈籠
大山は神奈川県中央部にある山岳で標高1246m、年間降雨量が多く雨降山の別名がある。山頂に阿夫利神社があり、山腹に不動尊で有名な大山寺がある。両者を総称して一般に大山様と呼ばれ、古くから農業、商売繁盛、技能芸能の神仏として農工商の庶民に厚く信仰された。阿夫利神社の神官や大山寺の社僧を「御師」といった、御師は関東一円に特定の受持ち区域を持ち常々村々を巡回し大山信仰の布教と大山講の組織作りにつとめた。大山信仰がさかんになったのは江戸文化が発達した中期頃からで、江戸市民は多くの大山講を組織して集団で登山参拝した。落語の題材にもなっているように、江戸から大山街道を通り伊勢原に至り大山登山参拝後は一路平塚に出て、江ノ島・鎌倉・藤沢等の名所旧跡を見物し神奈川より舟で品川に渡り江戸に帰る行程は、江戸市民が大山詣を兼ねた、三、四泊の観光慰安旅行であった。往来する大山詣での鈴の音は夜の大山街道に遠くからひびき、ニ子宿や溝口宿は大山詣の御客でにぎわった。古くから阿夫利神社は農業の神として信仰され、特に日照りが続くと大山様に雨乞いすればかならず雨が降ると信じられた、事実雨乞いをすれば不思議と雨が降った、このため各村々には早くから大山講が組織され信者は毎年726日の山開きには村内一定の場所に大山燈籠を建て827日まで、連夜にかかさず灯明をつけた。大山街道沿いに立つ大山燈籠は夜間通過する大山講中の道標ともなった。この燈籠は当時の夏の風物詩であった、旧高津村がニ子神社前に建てた実物です。総桧造りで大正末期に再築されたもので電球で灯明した、その昔はニ子の渡場に建てられ油、ローソクで灯明されていた。(鳥居右・説明板)


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二子通りの風景/光明寺門前


d0183387_14365753.jpg大貫家の人々/
ニ子二丁目公園()
大貫家は岡本かの子の生家。若くして逝った兄・雪之助は藤村門下で、谷崎潤一郎とも親交が深かった。かの子は、のちに漫画家岡本一平と結婚。岡本太郎はその長男である。(川崎歴史ガイド)


d0183387_14370483.jpg礎石
について
大山街道沿いのこの地域はかつて宿場町でありました。この石は古い町並みとして建物の礎石として実際に使われていたものです。(川崎市環境局)

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光明寺

浄土真宗光明寺の開基は、甲斐武田氏の家臣小山田宗光で、武田氏滅亡後慶長6年(1601)、出家して宗専を名のり、二子塚のある字「本村」に当寺を興しました。当寺、二子村には七軒百姓と称する農民が二子塚のあたりに住んでおり、塚(古墳)のうち1基は寺持ち、1基は村民持ちでした。その後寛永18年(1641)、光明寺は七軒百姓とともに、矢倉沢往還に面する字「居村」の現在地へ移りました。これは幕府による矢倉沢往還の継立制の確立に伴う措置と考えられます。さて、浄土真宗寺院は本山である京都・本願寺から拝領する五尊を礼拝の対象として安置します。
d0183387_14495018.jpgこのうち本尊は来迎印を結ぶ阿弥陀立像の木仏で、他は4幅の画像です。浄土信仰の隆盛に伴って造立された阿弥陀彫像の場合は、観音勢至の脇侍を従えることが多いのですが、浄土真宗では宮殿(くうでん)内に弥陀1尊のみを奉安します。光明寺には寛永18年に拝領した木仏本尊、寛文12年(1672)拝領の絹本着色聖徳太子像と絹本着色浄土七高祖連座像、宝永2年(1705)拝領の絹本着色親鸞聖人像、明治38年拝領の厳如上人画像が伝世しており、このうち親鸞聖人像、聖徳太子像、浄土七高祖連座像の三幅が市重要歴史記念物に指定されています。これらの仏画は拝領時の関係文書を伴い、京都のアトリエで制作された正統的な近世仏画として貴重です。また、宝暦12年(17624月に鋳造され、惜しくも第2次大戦で供出された梵鐘は、江戸時代末期から明治にかけて、矢倉沢往還で継立を負担する農民たちに正確な時刻を知らせるため「時の鐘」として使用され、人々に親しまれておりました。なお、現本堂は、浄土真宗地方本堂の様式をとどめ、街中の寺院ながら落着いた佇まいをみせております。(川崎市教育委員会)


d0183387_14500871.jpg大貫雪之助の墓

大貫雪之助(晶川)は、明治20年(1887222日橘樹郡高津村ニ子(当光明寺前が元大貫家)の大貫寅吉の次男として生まれました。第一高等学校在学中に文才を認められ、妹カノ(後の岡本かの子)と共に与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新思想」が主宰する創刊にあたり、谷崎潤一郎・和辻哲郎・木村壮太・後藤末雄などと共に同人として活躍し、その前途を期待されましたが、大学を卒業した年の大正元年(1912112日丹毒の病で急逝しました。当光明寺境内の大貫家墓地にその墓碑があります。(高津観光協会・高津区役所)



d0183387_15071735.jpg飯島商店大釜(右側)

口上 この釜こそは、あのNHKテレビ大河ドラマ「黄金の日々」に出演した根津甚八ふんする石河五右衛門を釜ゆでにした代物である。(飯島商店)



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国木田独歩碑/高津図書館入口      岡本かの子歌碑/図書館前

国木田独歩碑
明治30年(1897)みぞれまじりの春に、国木田独歩が溝口を訪ねたとき、当時旅館であった溝口の亀屋に一泊しました。このことは独歩の作品「忘れ得ぬ人々」のモデルとなり、この作品によって明治文壇に不動の地位を築きました。独歩と亀屋の関係を後世に記念するため、当時の亀屋主人、鈴木久吉が建碑を計画しましたが、志しなかばで世を去りました。彼の俳友達が意思を継ぎ、独歩27回忌を記念し、昭和9年(1934)夏、亀屋の前に碑を建てました。題字は島崎藤村が書いたものです。(高津観光協会・高津区役所)


d0183387_15242606.jpg蔵造りの店
田中呉服店)/(右)
重い瓦屋根と土の壁、母屋との境は厚い土戸。二階には頑丈な格子窓。防火、防犯などの蔵の特徴を生かした重厚な店構え。田中呉服店は、明治に建築された代表的な蔵造りの店である。(川崎歴史ガイド)




・・・高津交差点(409府中街道)

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手前右角に大山街道案内板、横断した右角が田中屋秤店/高津交差点


d0183387_15500974.jpg大山街道 
江戸赤坂御門を起点として、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道。東海道と甲州街道の間を江戸へ向う脇往還として、「厚木街道」「矢倉沢往還」等とも呼ばれ、寛文9年(1669)溝口村・ニ子村が宿として定められた。江戸時代中期には、庶民のブームとなった「大山詣」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として有名になった。江戸後期には、駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこ等の物資を江戸に運ぶ輸送路として利用され、これらを商う商人たちで大変栄えた。

d0183387_15501467.jpg納太刀
(おさめだち)の習慣
大山詣は、江戸を中心とした関東一円の他、遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、越後、岩代、磐城などのも及んでいたと推測されている。参詣の際には納太刀をする習慣があり、自分の背丈よりも長い木太刀を担いでいる参詣者の姿が多くの浮世絵などに描かれている。(大山街道活性化推進協議会 高津区役所地域振興課)






・・・溝口


d0183387_00055990.jpg多摩丘陵方面から流れてくる「溝」のような細幅の小川が姿を現す場所、つまり「溝」の入口となることから「溝口」(みぞのくち)と呼ばれるようになったと考えられている。街道筋に古くから開けた地域であり、また、かつてはあまり人手の入っていない自然林が広がっていた多摩丘陵へのここが入り口であったことを地名が物語っている。1669年(寛文9年)には幕府により二子村と共に宿駅 (継立村)に指定された。公儀の旅行者のための伝馬人足の常備が義務付けられ、宿泊施設を兼ねるために光明寺を南二子から現在の大山街道沿いに移転、同時に「七軒百姓」も移住させて往還道の集落を形成させた。
Wikipedia


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溝口大通りの風景/大山街道ふるさと館


d0183387_16594072.jpg灰吹屋薬局/
(右)
江戸時代からの薬屋。江戸期、この辺りで唯一つの薬屋だった「灰吹屋」。街道を行く旅人はもちろん、小杉、登戸方面からも買いに来たという。今に残る蔵は、昭和三五年まで店として使われていた。(川崎歴史ガイド)


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灰吹屋向かいに大山小径があり、この辺りに旅館亀屋がありました。


d0183387_17100213.jpg大山道の道標/大山街道ふるさと館
大山道は、江戸時代、赤坂御門を起点にして多摩川を「ニ子渡し」でわたり、溝口を経て、相模・駿河方面に通じていました。途中、矢倉沢の関所をとおるので正式には矢倉沢往還といいますが、江戸から大山までは大山阿不利神社の参詣で賑わいましたので、むしろ大山道の名で親しまれてきました。一方、府中方面にむかう府中道は、多摩川の右岸に沿って通じ、東海道川崎宿と甲州街道八王子宿を往来する人々や高幡不動金剛寺(日野)への参詣路として利用されました。この道標は、文政12年(1829)その大山道と府中道が交差する角に建てられたものです。(現在地より北方へ約25mほどの位置)〔銘文〕(正面)是ヨリ北高幡不動尊道 南:川崎道 (左側面)西:大山道 文政十ニ己丑年三月吉日 (右側面)東:青山道 (裏面)北:登戸エ一リ大丸エ二リ高幡エ二リ 日野エ十町余八王子エ二リ 願主江戸 太田氏(大山街道ふるさと館)

陶芸家浜田正司の家/ふるさと館隣
第1回人間国宝の陶芸家・浜田正司が10歳まで過ごした「大和屋」(川崎歴史ガイド)


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大石橋/二ヶ領用水

d0183387_10503252.jpg二ヶ領用水と大石橋
 
徳川家康の命を受け、代官小泉次太夫は、14年に及ぶ難事業を完成。用水は、川崎のほぼ全域にあたる稲毛・川崎の二ヶ領を潤した。その本流は、ここ大石橋で大山街道と交わる。(川崎歴史ガイド)



d0183387_11094884.jpg二子・溝口宿問屋跡/大石橋右角








d0183387_11055843.jpg鈴木時計店/左

(口上)創業明治33年(1900)川崎で一番古い時計店として現在に至る。二代目、鈴木栄蔵は精工舎服部時計店で宮内庁お出入の鑑札を持つ時計職人として皇居内の時計修理をしていた。昭和20年より眼鏡販売も始め現在に至る。(大山街道(有)鈴木時計店)


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川崎の祈願所 溝口神社/右

御祭神:天照皇大神 日本武尊
(神社のいわれ)神社の創立年代は定かでないが、神社保存の棟札によれば、宝永5年(1709)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されている古社で、江戸時代まで神仏習合の神社として、溝口村の鎮守・赤城大明神と親しまれ、社名を赤城社と称しておりました。明治維新後、神仏分離の法により、溝口村・下宿・中宿・上宿・六軒町・六番組の各部落を統合、総鎮守として祀るべく新たに伊勢の神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称、更に明治6年(1873)弊帛共進村社に指定されました。今日では、伊勢神宮の分霊社として、川崎市内でも最も尊い神社の一社として広く信仰を仰いでおり、開運・厄除けをはじめ安産・子育て・縁結び・家内安全の御利益で広く知られております。お祭り毎年915日に近い土・日曜日。(案内板)



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拝殿                    御神木「長寿のけやき」

溝口神社と簡易水道 
赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。この辺りは飲み水に不自由した。親井戸から水を引いた時代、ようやく完成させた簡易水道の時代。参道わきの水神社や水道組合碑が当時の苦労を物語る。(川崎歴史ガイド


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宗隆寺/
右奥
宗隆寺と御会式 日蓮宗のこの寺では、御会式(おえしき)が古くから行われ、その賑いは、池上本願寺に次ぐという。今も1021日の夜、近くの寺や講中から担ぎ出された万燈(まんとう)が、灯りの列を作って集まってくる。(川崎歴史ガイド)

d0183387_17595354.jpg芭蕉句碑 
文政12年(1829)玉川老人亭宝水(溝口の灰吹薬局二代目二兵衛)によって建立された芭蕉の句碑があります。『世を旅に 代かく小田の ゆきもどりと刻まれ、宝隆寺山門と同様に時代のおもかげを残しています。(高津観光協会・高津区役所)


d0183387_17595808.jpg陶芸・濱田庄司の墓 
陶芸家、故、濱田庄司先生は「橘樹群、高津村、溝ノ口」に明治2712月に生まれました。父方は「溝ノ口の大和屋」という江戸時代から続いた菓子舗で、母方、太田氏も藩医を努めた溝ノ口の旧家でした。明治十四年、先生は高津村小学校に入学し、そこには上級生をして「大貫カノ」、のちの岡本かの子氏がおりました。陶芸家として世に出た先生は栃木県益子に窯を築き「世界の濱田」と称えられる活躍をされましたが本籍地は生涯「溝ノ口672」のままでした。先生は優れた業績と現代陶芸界にあたえた大きな影響力により人間国宝の指定、文化勲章の受章など栄誉をうけられましたが、川崎市においても郷土の生んだ偉大な芸術家として川崎文化賞を受賞されています。宗隆寺は濱田家の菩提寺であり先生の本葬もここで営まれ墓所も当寺にあります。


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栄橋交差点(左:溝の口駅)

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さかえ橋の親柱石/
栄橋交差点左角
この角型で細長い石造物は欄干の親柱で、橋の名は字の通り「さかえはし」。その名は平瀬川と根方掘(二ヶ領用水)が交差したこの場所にあった。ここが溝口村上宿と下作延村片町の境にあったことから「境橋」、あるいは古代から中盤にかけこのあたりに馬上からの検見(見積り)で税などが免除された田畑があったと伝えられていることから「馬上免橋」とも呼ばれてきた。また、明治21年の溝口村の「地誌」には「栄橋」とある。これは溝口村と周辺の村々の繁栄を祈願して命名されたものであろう。その地誌には「栄橋 所在 字南耕地 幅巾:弐間 長:長四間 構造:木造 雑項:本橋ハ矢倉沢往還ニ属シ橘樹郡菅生村字長沢ヨリ発源ノ谷川ニ架設ス」とある。橋は、長さ四間(約7.2m)・幅二間(3.6m)の「木橋」であったので、この親柱が建った「石橋」はそれ以降に架けられたことになろう。このたび溝口駅北口再開発事業の工事にともないさかえ橋の親柱石の一本が掘り出されたので、それをここに保存・展示し、地域に伝わる貴重な歴史を後世に伝承することにした。(川崎市建設局)


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大山街道踏切(南部線)         ねもじり坂入口


d0183387_18371880.jpg濱田庄司生誕の地/
南武線踏切先(左)
1回人間国宝・文化勲章受章者・濱田庄司はここで生まれました。父の家は溝口の和菓子「大和屋」です。「陶芸こそ人の役に立つ」とのルノワールの言葉で陶芸作家板谷波山が教える東京高等工業学校(現在の東京工業大学)窯業科に進み、卒後は京都市窯業試験場で釉薬調合の実験に従事しました。河井寛次郎や柳宗悦、志賀直哉、バーナード・リーチと意気投合し、帰国するリーチと共に英国セントアイブスに窯を構え、最先端の芸術運動に触れました。帰国後、栃木県益子で陶作に励み、世界各地の民芸品を収集し「益子参考館」に展示しました。夏は益子、冬は沖縄で作陶し、昭和5315日益子にて84年の生涯を終えました。菩提寺の溝口宗隆寺で本葬され眠っています。碑意は「陶匠は跡を留めず」(高津観光協会・高津区役所・大山街道活性化推進協議会)


d0183387_18372292.jpg庚申塔と大山道標/その先左
 
「見ざる・聞かざる・言わざる」で知られた庚申信仰は、平安時代に始まる。特に盛んになった江戸期、この地に作られた庚申塔は、大山街道をゆく旅人の道標をかねていた。(川崎歴史ガイド)






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大山街道ルート案内図(赤:大山道 紫:府中道 橙:246 青:二ヶ領用水)


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資料ファイル

『川崎市大山街道ふるさと館』(川崎市高津区溝口3-13-3)


d0183387_11332381.jpg大山街道沿いの二子・溝口
溝口村、二子村が大いに発展したのは江戸時代に大山街道の宿場駅となってからでした。江戸からあるいは江戸へ。いろいろな産物がここを通り、旅人相手の旅籠や商家が軒を並べました。明治時代まで街道沿いには蔵がたちならんでおり、いくつかは現在も残っております。また、この地にゆかりのある人として国木田独歩や岡本かの子、岡本太郎、浜田正司などがあげられます。国木田独歩は明治30年に溝口にあった旅館「亀屋」に一泊し、その主人を作品「忘れえぬ人々」の一人として描きました。岡本かの子は明治22年、二子にある大貫家で誕生し、与謝野晶子から短歌を、川端康成から小説の指導を受け活躍しました。二子神社境内には長男岡本太郎による「岡本かの子碑」があります。岡本太郎は明治44年、二子で生まれ逢坂万博の「太陽の塔」などで知られています。また、浜田正司は第一回人間国宝であり、益子で陶芸活動に力を注ぎましたが、溝口で明治27年に生まれ10歳まで過ごしました。浜田正司の作品を本館で見ることができます。一方、大石橋の下を流れる二ヶ領用水は、稲毛領と川崎領と二ヶ領の農地に水を引くため江戸時代に建設されました。久地円筒分水は昭和16年に、当時としては最も理想的かつ正確な分水装置のひとつとして造られました。(パンフ)


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二子・溝口宿
二子の起りは、江戸時代この土地の南にある坂戸村の近くに二つの塚があったので地名の由来となった。塚の前は古奥州街道であったが、矢倉沢往還が開かれてから廃道になったと言う。二子塚の土はかまどを作るのに良いと言われ、古くから掘りとられ、明治時代に入って掘り尽くされてしまった。その時に石棺、刀剣、埴輪が出土していることから、時の権力者の古墳ではないかと考えられている。


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近世神奈川の主要道と矢倉沢往還(大山街道)

神奈川県には江戸時代臨海部を通る東海道、山地で県域を通る甲州街道、そして県央を縦断する矢倉沢往還(大山街道)など、江戸に向う道路網が発達していました。また、多摩川に沿う八王子道(府中道)など山地と沿岸を結ぶ地域に密着したルートも数多くありましたが、継立制や休泊の施設がみられず制度としては未整備な道でした。矢倉沢往還は村方支配に訪れる領主や村役人の江戸表出向の道でした。その外地域生活路、あるは在地生産物の輸送路として重要な道で、特に大山、富士参詣者によって賑わう巡礼道としての一面もありました。東海道は幕末期になると横浜の開港で外国人の往来が多く、世情を反映して交通規制も厳しくなりました。そこで公用旅行者は矢倉沢往還を利用するようになり、交通量が増大し東海道にかわる脇往還として注目されました。(解説文)
(赤:矢倉沢往還 橙:東海道 紫:中原街道 茶:甲州街道)



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溝口・二子の地形と台地

現在の多摩川は左岸の武蔵野台地と右岸の多摩丘陵・下末吉台地の間を流れています。赤坂御門を起点とする大山街道は、多摩川を二子の渡しで越え、溝口から下作延に入る所で「ねもじり坂」と呼ばれた急坂を登り下末吉台地に至ります。これに対し低地部の二子や溝口は沖積低地と呼ばれ、度重なる多摩川の氾濫で徐々に形成されたものです。一方、武蔵野台地は今から67万年前に東京の青梅を扇の要として多摩川が広い扇状地を作って流れていた時期の氾濫面です。下末吉台地は「ねもじり坂」あたりで低地と台地の標高差が30m以上になりますが、台地が形成された時期は約1314万年と古く、当時の地球温暖期に海面が上昇し(下末吉海進)海域が内陸部に拡大した時期の地層を基に作られています。この時期の東京湾は現在の九十九里浜あたりを湾口にして直接大きく太平洋に開いていました。(古東京湾)下末吉海進が二子や溝口に及んだ時、梶ヶ谷などの谷に海水が進入(溺れ谷しましたので、溺れ谷では貝化石を豊富に含ん下末吉層を見ることができます。また、溝口周辺では下末吉海進期の海岸線にあたり、陸に近いこともあってナウマンゾウ、ニホンムカシジカ、カメ等の陸上動物の化石が多数発見されています。(解説文)


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武陽玉川八景乃図

大山街道の宿場町として発達した溝口が宿駅に指定されたのは徳川4代将軍家綱の時代、寛文9年(16691220日で、人足2人と馬2頭を供給した。問屋役(人や馬を用立てる)は溝口宿名主・丸屋(鈴木家)がつとめた。溝口・二子宿を中心とした村々の田園風景は春は桜、夏は多摩川の鮎狩、秋は月、冬は雪と四季折々の変化に富み、旅情詩情を漂わせた。特に大山街道の便もあり、江戸から近く多くの江戸庶民の行楽地として親しまれ、また有名無名の文人墨客が訪れた。

d0183387_00365950.pngこうした人によって「近江八景」を模して定められたのが都築ヶ丘夜雨(大松に近き都築の夏小立 嵐も時に雨かな)、喜多見ノ晴嵐(実を結ぶ梅の雨とて南より 喜多見に晴るゝ朝嵐かな)、登戸ノ夕照(登戸の口もまつかに夕てりの うつりすぎて色のさゝ色)、向丘秋月(網下の秋の月見を夏の日や あつき利生に祈誓かけたり)、溝口ノ暮雪(六月の雪を沢山ぬり桶に つゝみ余りたる溝口のくれ)、瀬田の落雁(近江路をかたたをせたにうつしけり かりの名づけて人にしらさん)、二子帰帆(夕風を孕んで帰るむしろ帆に 月の生まるゝ宿河原道)の「武陽玉川八景乃図」である。これを青陵岩精が描き、江戸馬喰町2丁目森屋治兵衛が版元となり、出版されたのがこの錦絵である。この錦絵は溝口名主・丸屋七右衛門が販売元となり、街道を往来する旅人に売られた。歌人・佐野渡は玉川八景に歌をそえた。(解説文)


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東京近郊全図

この地図は江戸近郊の名所、史蹟、寺社等を遊覧する人々のために江戸末期の弘文元年(1844)に発売されたもので観光案内図である。当時の江戸の日帰りか一泊程度の遊覧はこの程度のものであった。今から約160年、前の作図であるから間違いも多い。例えば二ヶ領用水と鶴見川が混同し、河口が鶴見付近となっている。自然河川と見たためで、流末が田畑に吸収される人工の農業用水であることを作者は知らなかったのか、現地調査が不十分であったためであろう。距離測定に「コンパス」を使えと説明しているのも当時としては面白い。(解説文)


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二ヶ領用水 
水田開発や治水のために、江戸時代に徳川家康小泉次大夫に命じて造らせた用水路。「二ヶ領」とは江戸時代の稲毛領と川崎領に由来します。パネルには二ヶ領用水の誕生、歴史、役割のほか水騒動などについて記載しています。(パンフ)


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大日本職業明細図乃(大正13年作成・高津村地図)

矢倉沢往還(大山街道)と府中道が交差した溝口は古くから高津地区の中心地でした。様々な販売店、製造業者等がずらりと並ぶ街の様子を伺い知ることができます。(パンフ)


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by Twalking | 2015-12-21 09:23 | 大山街道(新規)

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