鎌倉街道「早ノ道」 能ヶ谷
天気 晴れ
天気予報がめまぐるしく変わり雪マークがつきましたが、
はずれたみたい、青空が広がってきました。
出遅れたましたので、近場の「早ノ道」&「武相荘」を訪ねました。
行ってみようと思っていた「武相荘」、やっと実現しました。
内部が撮れないのはちょっと残念ですが、やはり印象深いですね。
柿生・鶴川周辺も少しわかってきましたので、つぎは南へ進みます。
・・・栗木(麻生区)
浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来立像。親鸞聖人の高弟乗念(常念)が開山したと伝えられる。創建当時の本堂は江戸時代中期に焼失し、明和年間(1764~1772)に現在の本堂が再建された。江戸時代の浄土真宗寺院の建築様式を残す貴重なものといわれている。ここには六地蔵があり「いぼとり地蔵」と言われ信仰を集めている。地蔵の頭をつげぐしで撫でてそれをいぼにつけるといぼが取れると伝えられている。(川崎市農業振興センター)
・・・広袴(町田市)
町田市の北東部に位置する。 北には川崎市麻生区片平がある。地名は小山田の臣・前島半弥が見回りをした時に「この地の形状はあたかも袴を広げたごとし」と語ったことに由来すると伝わる。(Wikipedia)
「峠の辻」
ネットなどを見ると、黒川から能ヶ谷の矢崎橋までの道筋は尾根を下る『尾根ルート』とこの辻を下り山裾を行く『低地ルート』があったようです。
『尾根ルート』の記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22795650/)
早ノ道
『鎌倉道に鎌倉へ一刻も早く情報を伝えるために早馬を走らせたという道筋があります。詳細はよくわかりませんが、上ノ道から中ノ道への連絡路で、概ねその道筋は上ノ道の府中国府から多摩市の関戸、連光寺、聖ヶ丘を通り、川崎市黒川を経て、町田市の真光寺、広袴、鶴川、能ヶ谷と、真光寺川の水辺を下りおり、川崎市麻生区岡上と町田市三輪緑山を分ける県道139号線を通り、その先は横浜市青葉区に入り、こどもの国を抜け、奈良川・恩田川の水辺の道を辿って、横浜市緑区青砥辺りで鎌倉街道中ノ道に合流していたと推定されています。元弘3年(1333)新田義貞が大軍を率いて上ノ道を南下して鎌倉攻めをした折、討幕軍の一部はこの早ノ道を通っていち早く鎌倉に至ったと伝えられ「早ノ道」と呼ばれるようになりました』(麻生の歴史を語る・タウンニュース)
神明社/広袴
御祭神:天照皇大神(言うまでもなく八百万の神々の中心に位置する女神 皇室の祖であり、全国の神社が本宋と仰ぐ伊勢の神宮の御祭神である) 由緒:創立の年代は明らかではないが、嘉永7年(1854)の「村差出明細帳」に神明社とあり、「風土記稿」に小社の儀故旧来より神社なく村内妙全院(別当)で守護していたとある。昭和22年氏子の労力奉仕で山を切り開き、現在地に本殿覆宮、幣殿(洗心舎)、拝殿を建立して、昭和22年11月遷宮祭並竣工奉祝が斎行された。昭和29年には宗教法人となり平成7年には拝殿が大改修された。 社屋:本殿、幣殿、拝殿が高低をもって分かれているのが特徴的である。本殿、拝殿とも神明造り、拝殿は萱葺入母屋造のものから平成7年に改築された。(説明板)
・・・能ヶ谷(のうがや)/町田市
町田市にある町名。武蔵国都築郡幡屋郷に属し、その後多摩郡小山田庄三矢田郷に属し、その後多摩郡柚木領に属した。鎌倉時代に紀州田鍋郡から神蔵勘左衛門重信、鈴木四郎左衛門、夏目与三衛門、森半兵衛の4人が開拓してから集落になり「直ヶ谷」と呼ばれたが、天正年間から「能ヶ谷」と記されている。(Wikipedia)
能ヶ谷神社
当社はもと東照宮とよばれ正保年間(1644〜1647)の創建です。安永元年(1854)4月に再建されています。明治10年6月には村社に列せられました。大正3年4月谷戸の住吉神社(文治六年創立)下能ヶ谷の天照大神社(応永2年創立)上能ヶ谷の表谷神社(文明9年創立)並び神明社(創立年代不詳)の四社を以前からの東照宮に合祀し大正3年社名を能ヶ谷神社といたしました。現社殿は昭和6〜7年の再建によるものです。御祭神は徳川家康公、天照大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、大山咋神です。(説明板)
真光寺川町田市と川崎市麻生区を流れる河川。(鶴見川水系)町田市真光寺町に源を発し、町田市、川崎市麻生区岡上地先の鶴川駅付近で鶴見川(谷本川)に合流するする。真光寺2丁目から広袴3丁目の町田市立広袴公園までは暗渠となっており、暗渠の上は「鶴川台せせらぎ緑道」として緑道が整備され、広袴3丁目地内ではせせらぎ水路が流れる親水施設になっている。 町田市立広袴公園内の広袴調整池から鶴見川合流点までは一級河川に指定されている。(Wikipedia)
妙行寺/能ケ谷
町田市能ケ谷町字下にあるが、もと五町ほど下の二ノ倉とよぶところにあり、一乗坊、覚林坊、盛円坊の三坊から成立していた。しかるに、天文年中(1532~1554)火災のため全焼、これを僧日通が中興した。しかしこの寺も寛永年間(1624~1643)再び炎上、以後50余年再興ならず。僧日静に至り二ノ倉から現地に移して再建した。宗派:日蓮宗。山梨県身延山久遠寺末。山寺号能ヶ谷山妙行寺。開山:日億、久遠寺第八世で永和元年(1375)2月12日開山。永徳元年(1381)8月16六日示寂した。本尊:三宝諸尊。(町田市史)
・・・武相荘/能ヶ谷
白洲次郎・正子旧宅
戦後の新憲法制定に深く関わり、東北電力会長としても活躍された白洲次郎と、美術評論家・随筆家として読売文学賞2回受賞、町田市名誉市民第1号の白洲正子のご夫妻が能ヶ谷のこの地に農家を買いとり移住されたのは、昭和17年(1942年)であった。寄せ棟造りで東側妻面兜造りの重厚な茅葺屋根の母屋と、カキ、シタカシ、などを配した広い庭のたたずまいは、多摩地域の養蚕農家の面影をいまに伝える貴重な文化遺産である。整型四間取の間取や材料・構造から見て19世紀以降のもので、明治初期の建築と推定できる。養蚕農家として明治・大正・昭和と使われてきた『家・屋敷』が原型に近いかたちで今日に残されたのは、古い民家などに限りない価値を見出した白洲ご夫妻の独自のライフ・スタイルの賜物であろう。冠せられた『武相荘(ぶあいそう)』という愛称も、古い農家に具わる”静謐な美”に寄せるご夫妻の慎み深い敬称と読みとれる。(町田市教育委員会)
『父・白洲次郎は昭和18年に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付けておりました。武相荘とは武蔵と相模の境にあるこの地に因んでまた、彼独特の一捻りしたいという気持ちから無愛想をかけて名付けたようです・・・』(牧山桂子・パンフ)
1937型ベントレー(41/4リッター スペシャルトウラー)
ベントレーがロールスロイス傘下に収まったのち「サイレントスポーツカー」と称された時期の美しきベントレーです。対英戦争の可能性が高まる中、次郎が見た最新式のベントレーは、おそらくこんな車だったのかも知れません。(案内板)
白須次郎
兵庫県生まれ。若くしてイギリスに留学、ケンブリッジに学ぶ。第二次世界大戦にあたっては、参戦当初より日本の敗戦を見抜き鶴川に移住、農業に従事する。戦後、吉田茂に請われてGHQとの折衝にあたるが、GHQ側の印象に「従順ならざる唯一の日本人」。その人となりを神戸一中の同級・今日出海は「野人」と評している。日本国憲法の成立に深くかかわり、政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫きいくつもの会社の経営に携わる。晩年までポルシェを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長を務めた。「自分の信じた『原則(プリンシプル)』には忠実」で「まことにプリンシプルと毎日うるさいことであった」と正子夫人。遺言は「葬式無用、戒名不要」。まさに自分の信条(プリンシプル)を貫いた83年だった。(パンフ)
白須正子
樺山伯爵家の次女として、東京に生まれる。祖父は薩摩藩出身で警視総監や海軍大臣を歴任した樺山資紀、父の愛輔は貴族院議員。幼い頃から能を習い、14歳で女性として初めて能舞台に立つ。学習院女子部初等科を卒業、同年アメリカのハートリッジスクールへ入学。帰国後、白須次郎と結婚し二男一女を得る。戦後、小林秀雄、青山二郎らと親交を結び、文学、骨董の世界へ踏み込む。銀座に染織工芸の店「こうげい」を営み、多くの作家を見出す。初の著書「お能」を皮切りに「韋駄天お正」と命名されたとおり自分の目で見、足を運んで執筆する姿勢は終生変わらなかった。「お能」「かくれ里」でともに読売文学賞。他に「明恵上人」「十一面観音巡礼」「西行」「両性具有の美」など。(パンフ)
(武相荘 http://buaiso.com/)
(赤:「早ノ道」 紫:津久井道 黄:武相荘 橙:鶴川駅)
by Twalking | 2016-02-09 08:58 | 鎌倉街道(新規)