無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(5)南町田~海老名01 下鶴間   

日時 2016.2.10(水)
天気 晴れ

少し風はありましたが、小春日和、絶好の条件です。
境川は武相の境、周辺は古東海道、鎌倉街道(下道)、
町田街道、瀧山街道など古道が交差するところです。

大山道の最初の宿泊地だった下鶴間宿、そして相模国分寺
のあった国分宿、もうひとつ渡辺崋山の「お銀さまの道」
みどころ一杯、楽しみながらがんばりました。


・・・鶴間(町田市)

律令時代には古代東海道が町内北部・町谷に通っていて、店屋駅(まちやのうまや)があったともいわれる。鎌倉時代には鎌倉街道上道、江戸時代には大山街道や浜街道も通っていた。元は武蔵国多摩郡鶴間村。当村をはじめとする境川(高座川)左岸(東岸)の各村(現町田市西南部)の一部は近世初期まで右岸(西岸)と同じ相模国高座郡に属していた。「鶴間」は現在の相模原市南区(上鶴間)および大和市(下鶴間)にまたがって広がる地名である。名前の由来は昔、鶴が飛来したという「鶴舞の里」から。下鶴間村(現在の大和市下鶴間付近)は大山街道の宿場町として、鶴間村(現在の町田市鶴間)は鎌倉街道や絹の道の宿場町として賑わったとされる。Wikipedia

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246号目黒交差点を振り返る/銀河橋


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鶴間の一里塚/ニトリ裏

高さ5m程の塚の頂には、地獄信仰の石祠がある。明治中期に火難・盗難除を祈るため奥多摩の御獄講を作り祭りを行ってきた。(みどころマップ・川崎国道)


d0183387_17250691.jpg横浜水道道路/銀河歩道橋先

近代水道として日本で初めて施設した鉄管水道。国道北側には当時の水道管が常設されている。明治20年には津久井郡三井村から相模川の水を約44km送水した。(みどころマップ・川崎国道


d0183387_17290005.jpg獅子頭供用栓

この獅子頭供用栓は1886年(明治19)頃英国から600基が輸入され、戦前まで横浜水道ののシンボルであった「ライオンの水道」を復元したもので、横浜市より譲り受けたものです。横浜水道創設時の1888年から約10年の間、市民への給水は複数の人が共同で使用する供用栓が主体で、獅子頭供用栓は道路に設置されました。この緑道は水源から横浜市へ水を運ぶ水道管の上に設けられています。(町田市)

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旧道風景/大ヶ谷付近(左手に日枝神社)


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圓成寺/
 
「武蔵風土記」に北条氏綱の家臣、山中修理亮貞信が遁世して、恵心僧都作とされる阿弥陀仏の立像を安置し、天正年間に当寺を開いたとされています。元は厚木市飯山に在し、三代か四代の頃に当地に移り住んだと語り伝えられ、開山了雲、二代空存、三代存永が墓石および過去帖に連記されていることからも推測されます。以来世襲絶えることなく四百年以上にわたり法灯が伝えられております。現在の本堂は16代徳行の時に再建されたもので、過去には何度か火災に遭いそのたびに門信徒の皆様のおかげにより、9代順栄、11代善応、14代栄雲の時に再建の記録があります。なお、本堂余間に安置されている「聖徳太子立像」は室町時代後期の作とされ、町田市指定文化財になっております。宗名:浄土真宗本願寺派(西本願寺)宗祖:見真大師親鸞上人(境内縁起碑)


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先の目黒交差点を横断         上流の鶴瀬橋へ


五貫目道祖神/合流先(右)
 
五貫目道祖神は徳川中期に旧青山街道(旧国道246号)の現所在地より約300m西方境川鶴瀬橋手前に祀られ、北は世田谷青山、西は伊勢原小田原、南は戸塚鎌倉に通ずる三方分離点として旅人の道標としての役を果たした道祖神です。現在の道祖神は徳川後期安政3年丙辰8月と印され、二代目道祖神と言い伝えられております。青山街道は別名大山街道とも言われ多くの旅人の行来した街道でした。五貫目地域住民も明治時代より平成の今日迄、長年114日道祖神地先にて1年の無病息災並びに豊作を念じて、左義長別名ダンゴ焼きの行事を実施しております。平成43月一般国道246号大和厚木バイパス開通に伴い建設省のご配慮により現在地に移転いたし、之れを後世に伝えるべく由来碑を建立し永く顕彰するものとする。(国道246号バイパス対策委員会 五貫目町内会)


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d0183387_18354588.jpg境川

東京都町田市相原町大戸の同市最高峰・草戸山(365 m)北東面(町田市立大地沢青少年センター付近)に源を発し、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れる。神奈川県大和市付近から南へ流れを変え、藤沢市の江の島付近で相模湾に注ぐ。上流部は現在の河川規模に比較して大きな河谷を形成しているが、これはかつての相模川の流路の痕跡であると考えられている。平安時代後期の境川筋は上流部を横山党の横山氏、中流部を渋谷氏、下流部を鎌倉党の俣野氏と大庭氏という武士団が支配していた。。(Wikipedia)


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鶴間付近の地図
(赤:大山街道 紫:鎌倉街道・町田街道 青:境川 橙:南町田・すずかけ台)



・・・
下鶴間(大和市)

江戸時代には大山街道 (矢倉沢往還)が通り下鶴間宿として栄え、宿場には渡辺崋山や伊能忠敬も泊まった。明治初期まで相模国高座郡下鶴間村に属していた。かつて住居表示の実施により新たに新町名が設置された際、中央林間・南林間・林間によって緑野小学校などがある西側と、大和市役所の東側とは分断されていた。現在の大和市・相模原市・町田市にまたがる広域地名に由来する。下鶴間村は大山街道の宿場町として、鶴間村(現在の町田市鶴間)は鎌倉街道や絹の道の宿場町として賑わったとされる。(Wikipedia

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鶴間山観音寺/交差点右角

当山は高野山真言宗で、中興開山頼満和尚は慶長13年(1608)に入寂、その昔金亀坊といわれたが、開山・開祖は不詳である。市指定重要文化財の厨子は天文13年(1544)造で、室町時代の様式を伝える貴重なものであるが、創建を知る手掛かりになるのであろうか。本尊の十一面観世音菩薩は寺伝によると、宝暦年間(175163)住職宥仁和尚と同様、瀬谷村中屋敷高橋是右衛門にも、この家に伝わる十一面観世音菩薩が霊夢に立たれ、当山に奉安せよとのお告げがあった。深見村の小林九兵衛はこの勧請を扶け、又下鶴間村領主で旗本の江原公の協力も得て観音堂を新築し安置された。後大火により地域一帯が焼失したが、観音堂だけが難を免れた。村人はその奇瑞に驚き、以後この十一面観世音菩薩を本尊と仰ぎ、寺号を今の観音寺に改めたといわれる。しかし宝暦より前に観音寺の記述が古文書に見られる。古老の話では以前は、地蔵菩薩が本尊で真言院といわれたという。建武5年と延文2年の板碑があるが、新編相模風土記稿に履歴を伝えずと記されている。辨天堂に江原公奉納の辨財天や十五童子などまつられ、当時の堂宇も江原公や村内巳待講中が施主であった。宝暦9年(1759)武蔵・相模に武相観音札所が創設され、その第一番となり以来卯歳には御開扉供養が一斉に厳修される。(縁起碑)


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大山阿夫利神社御分霊社・大黒天開運神社/
観音寺先右
お金に困らない財布なぜ清めの大黒天金運生の由来 
古い道として親しまれて来た旧矢倉沢街道、又別名大山街道と称していた。此の処は当時相州鶴間村宿場であった。江戸方面の旅人等は当地に一夜を明かし又は休み、わらじを取り替えて身を清め関東の霊山大山阿夫利神社の参拝詣の行にはかならず財布をなぜ清めて金運にあやかるように祈願していたのである。
毎月子日 祈願祭 甲子日 大祈願祭 出世・金運・長命 (大黒天開運神社)


d0183387_18071937.png新田義貞鎌倉進撃路 
当家の往昔史 
相模国風土記稿に観音寺境内に板碑2基ある事が明記されている。建武5年 延文2年墓石は髙下元祖・新田氏の墓より出土した者

也新田軍の鎌倉進撃路/南朝忠臣新田氏縁の家・挙兵650年記念

太平記の里
新田義貞公元弘3年(133358日群馬県新田郷生品神社境内で進撃の旗揚げをした 昭和5858日「1983年」(建主 元新田氏族系)





d0183387_18240061.jpg道標
相州鶴間村宿(是より東江戸十里 是より西大山七里)







・・・下鶴間宿

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宿場の辻


d0183387_21035156.pngここを東西に走る道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。東京都港区青山(東京都港区)を発し、神奈川県を西南方向に突っ切り、関本・矢倉沢・足柄峠(南足柄市)を通り三島へと至る街道です。また、大山街道とも呼ばれるように江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道としても栄えました。下鶴間宿には、紺屋、げんこく屋、かたい屋、そば屋、馬喰等の屋号を持った染め物屋・居酒屋・餅屋・質屋といった商家や、山本屋・松屋・三津屋・松葉屋・角屋・ちとせ屋の旅籠がありました。矢倉沢往還は宿場の中で瀬谷と町田を結ぶ通りと交差していましたが、その辻には高札場がありました。また、天保2年(1831)には渡辺崋山が小園(綾瀬市)に行く途中、この坂の上にあった旅籠を兼ねていた「まんじゅう屋」で一泊しており、その時のことを「遊相日記」に記しています。それによると、当時の下鶴間宿のことを「ものさびしい」と記しています。この宿場がにぎわいをみせるのは幕末頃であったようです。(
大和市教育委員会)


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下鶴間宿ジオラマ/下鶴間ふるさと館
(手前:坂下 目黒川 右上:鶴林寺・坂上方向)


d0183387_18444753.jpg高札場/旧小倉家前

高札は基本的な法令を板札に墨書し、庶民への法令の徹底を意図したものです。禁令の掲示は奈良時代からみられますが江戸時代に発達し、明治6年(1873)まで続きました。明治新政府は慶応4年(1866)旧幕府の高札を撤去し、新政府が定めたいわゆる「五榜の掲示」を掲げさせました。高札を掲示する場所を高札場といい、村では名主の家の前、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった場所に設けられていました。下鶴間村には2か所あり、そのうちの一か所がこの付近にあったことが絵図から分かっています。(右)慶応四年の太政官高札 徒党、強訴、逃散を禁止したもので、それを発見したときには役所へ申し出すれば、褒美を与えるとしています。(中)慶応四年の太政官高札 キリシタン禁止を定めたものです。(左)明治三年の太政官高札 火付、盗賊、人殺、贋札を作る犯罪者などを発見したときには役所へ訴え出ることを定めたものです。
ここに掲示した高札は、市内にあったものの写しです。(説明板)


d0183387_20185369.jpg目黒川

この川は本来、相模原市内に水源を持つ深堀川の下流部であるが、同市上鶴間で境川に短絡する暗渠の排水路が造られたために現在では深堀川の水は流れていない。境川には下鶴間の目黒橋付近で目黒川が合流する。Wikipedia


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下鶴間不動尊より下鶴間宿の景観


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下鶴間不動尊参道           お堂


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鶴林寺

宗派は浄土宗。山号を宝亀山寿翁院鶴林寺と称する。開山は永禄12(1569)以前といわれる。境内には即身仏となった瀬沼嵩信を弔う地蔵や鶴間学校跡、不動明王座像などがある。(みどころマップ・川崎国道)


d0183387_21234423.jpg鶴間学校
 
鶴間学校の前身は明治6年開校の鶴鳴学舎で、開設に際しては荒川論が教員に任命されています。その後、明治8年に鶴鳴学舎が鶴間学校と改名された頃からは、定方寺の寺子屋師匠土方徳仙が荒川論に代って教員になっています。明治14年の「取調書」によると、所在地は鶴林寺の坂下にある井沢藤八の貸家としており、当時は民家を借りて授業が行なわれていました。また、翌明治15年の「村立小学校設置開申」では、村立鶴間学校の位置を観音寺境内としており、本堂が仮校舎として使用されていました。この観音寺の仮校舎からやがて鶴林寺境内の校舎へと移ることになります。鶴林寺では芝居小屋「鶴栄座」の建物を使っていたといわれます。(大和市教育委員会)


d0183387_21312432.jpg坂上厄除地蔵/
右側









d0183387_21322490.jpg渡辺崋山とまんじゅうや(土屋家)/坂上
江戸時代後期の洋学者で画家として知られる渡辺崋山は、第10代田原藩主三宅康明の弟友信の命により、高座郡の早川村(綾瀬市)に住む友信の生母お銀の消息を尋ねるため、天保2年(1831920日弟子の高木梧庵といっしょに江戸の青山を立ちました。その日は都筑郡荏田村(横浜市緑区)に泊まりましたが、翌21日には矢倉沢往還下鶴間宿につき、俗に「まんじゅうや」(土屋家)といわれる旅籠屋に一泊しました。「まんじゅうや」は初代土屋伊兵衛が開いた旅籠で饅頭も商っていたといいます。土屋家には天宝11年の「大山く組」という看板が残っています。これは江戸の町火消「く組」が大山参詣の定宿としていたこと物語っています。(大和市教育委員会)

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まんじゅう屋



・・・山王原

d0183387_11395923.png大字下鶴間は、近世以来北部の公所(ぐぞ)と南部の下鶴間とに分かれていました。公所地区は高木・下村(したむら)・二津屋(ふたつや)・上村(うえむら)・中村・山谷(さんや)の各集落、下鶴間地区は山谷(さんや)・宿(しゅく)・坂上・山王原上・山王原下の各集落で構成されます。(大和市)




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右手に厄除け地蔵尊/山王原バス停付近


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諏訪神社/下鶴間

当社の創立は不詳なるも、古来式内石楯尾神社なりと伝えられ、新編相模風土記によれば文徳天皇天安元年(8575月祭祀のことあり。醍醐天皇延喜7年(907)の神名帳に高座小五座のうち下鶴間村に石楯尾社ありと。鎌倉中期の頃諏訪社として祀られたものと考えられ、延宝8年(1680)再建の棟札ありし趣によって徳川氏入国当時既に厳然と鎮座せしこと明かなり。なお元禄6年(16936月領主江原氏代官井沢喜兵衛、同都筑氏代官瀬沼伝右衛門本地を寄進し御神体として本殿に奉安せりと。宝永8年(17106月再建、安永7年(1778)再建の棟札現存す。更に安政5年(1858116日社殿完成間近に土人の失火により社殿悉く焼失せり。明治2年神仏分離令により、観音寺持より村持となり、氏子の熱意により明治5年社殿を再建遷宮の祭典を盛大に挙げた。明治30年秋期大演習の際、伏見宮貞愛親王殿下、祭神の大軍神なるを聞し召され御参拝さる。大正12年関東大震災により大被害受けたが昭和4年復旧工事が完了する。更に昭和99月朝香宮鳩彦王殿下演習統監のため当地を御通過の砌り鄭重に御参拝される。昭和15年村社に昇格、大東亜戦争勃発するに及び社名を諏訪神社と変更、社運益々隆昌せしが終戦を迎えるに至り、昭和21年国教分離令により宗教法人諏訪神社となる。(由緒説明板)


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拝殿                 元宮

諏訪神社御神像
木造の男神立像で、太刀を腰にさし右手に扇状の持ち物をもっています。製作方法は寄木造りで、目は玉眼嵌入、頭部と両手首先は差込みで全体に彩色が施されています。胴部の内刳はきわめて深く造られています。製作年代を印したものはありませんが、面部の作風からは下福田の若宮八幡宮の応神天皇座像(174年造)に通いあうものがあり、18世紀前半頃の像と推定されます。また由緒書によれば、元禄6年(16936月に領主江原氏代官石沢喜兵衛・領主都筑氏代官瀬沼伝右衛門が神像を寄進し、御神体として本殿に安置したと伝えていますので、この頃の像であろうと推定されます。なお、下鶴間村は三人の領主により支配されていましたが、もう一人は松平氏であり、共に将軍の直属家臣団であり御目見得できる旗本でした。(大和市教育委員会)

諏訪神社北辰一刀流奉納額

江戸時代後期に成立した剣道の四つの新興流派(北辰一刀流・鏡心明智流・無刀流・天然理心流)の分布が、額面に記載された奉納関係者一覧によって把握することができるものです。四つの流派ですが、北辰一刀流は幕末の三剣士といわれた著名な千葉周作を流祖とし、幕末に最もはやった流派です。鏡心明智流は桃井直由が流祖ですが、二代目桃井春蔵直一が有名で、千葉周作・斎藤弥九郎と共に三剣士の一人です。無刀流は山岡鉄舟が流祖で、鉄舟ははじめ千葉周作に北辰一刀流を学びのち無刀流を開きました。天然理心流は近藤内蔵之助長裕が流祖で、四代目は新撰組隊長の近藤勇です。三多摩を中心として県内では特に県央以北に流行しました。天然理心流に対して、北辰一刀流や無心流、特に鏡心明智流などはどの程度分布していたかわかっていないのが現状ですので、この奉納額は市域のみならず、県域の歴史を知る上で貴重な歴史資料と考えられます。(大和市教育委員会)


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瀧山街道交差点

瀧山街道
東京八王子の滝山城から鎌倉玉縄城をつなぐ街道で、武士団の移動、戦略物資の輸送など盛んに利用されていた。(みどころマップ・川崎国道)


d0183387_23322391.jpg山王神社
大山街道と滝山街道が交わる地点に位置する。境内手前には庚申塔や青面金剛立像が配置されている。(みどころマップ・川崎国道)



d0183387_23322667.jpg庚申塔/神社前東西矢倉沢往還 
南北滝沢海道の碑青山(港区)から矢倉沢(南足柄市)に至る江戸時代の古道で、県内を東西に結ぶ政治・経済上重要な街道でした。また江戸時代中期以降は大山信仰の参詣者の通る道として栄えました。(標柱)


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下鶴間付近地図
(赤:大山道 紫:瀧山街道・鎌倉街道 青:目黒川:境川 橙:ふるさと館)



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資料ファイル

下鶴間ふるさと館
市指定重要文化財の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されています。母屋は安政3年(1856)に建築されたもので、宿場の商家建築として県内でも数少ない建物です。土蔵は前身建物の古材を用いて大正7年(1918)に再建された商家の付属建築で、一般に袖蔵といわれています。旧小倉家住宅母屋は、東海道の脇街道である「矢倉沢往還」の下鶴間宿に残された宿場町時代の唯一の商家建築で、神奈川県下においても江戸時代の建築遺構はほとんどみられません。母屋は街道に面して建ち、間取りは街道から見て、左手に広い土間があり、土間沿いの街道寄りに床高の低い12.5畳の「みせ」、奥に10畳の「ざしき」、右手前方寄りに8畳の「なんど」、その奥に床と棚を持つ8畳の「おくざしき」があります。屋根は、建築当時は茅葺きを軒先まで葺き下ろした大きな入母屋造りの屋根でした。建築年代については、棟札など直接的に示す資料はありませんが、建築調査の際見つかった「ざしき」床板の裏側に書かれた落書き中に「安政三年」の年紀があり、また建築の構造手法からみてもこの時期の建築とみてさしつかえないようです。母屋の姿は、横浜居留外国人向け英字新聞「ザ・ファーイースト」明治4104日号に掲載された下鶴間宿の写真の中に見られ、当時の様子を窺い知ることができます。(大和市)


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旧小倉家母屋/ふるさと館


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d0183387_01092123.jpg小倉家と薬
 
小倉家は幕末の創建時から昭和20年代初め頃まで雑貨商を営んでいました。4代目祐一氏の時代(昭和初期)に金物を多く扱うようになり。「金物屋」と呼ばれるようになります。その当時のものと思われる「小倉祐一商店」の「布袋」には、「建築材料、和洋金物、薬品売薬」と記されており、「万屋」と呼ぶにふさわしい商店であったことが伺えます。薬品・医療用品は、軟膏、丸薬等の飲み薬、座薬、殺虫剤、注射薬、石鹸、栄養剤、シッカロール、薬品、マスク、分娩用紙、染料、整髪料、目薬、蚊取り線香など本当に多岐にわたっています。当時の「薬屋」にこれだけの品揃えが必要をされていたことは、周辺の農村部で必要とされていたことにほかなりません。農村部での医薬品の利用状況を知る上での大変な貴重な資料となっています。(説明板)


d0183387_01092433.jpg「征露丸」(正露丸)
木クレオソート(樹木を原料とするフェノール系化合物の混合物)を主成分とした吐瀉薬。明治35年(1902)「忠勇征露丸」と名付けられ発売された。(異説もある)ロシア(露)を征服する丸薬という名称から名付けられたもの。日露戦争は発売直後の明治3738年。40数年後第二次大戦終戦。他国を征服するという名称は国際信義上好ましくないという理由により「正露丸」と名称を変更した。今ではさまざまな医薬製造会社から「正露丸」として販売されているが、現在でも「征露丸」の名称で販売している製薬会社もある。ロシアとの関係悪化、日露戦争勝利の勝利、ポーツマス条約に対する世論の反発といった世情により「征露」という言葉は当時の流行語だった。世の中には「征露画報」「征露戦報」「征露蚊帳」などさまざまな「征露」商品があふれた。(説明板)


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下鶴間宿(明治4年)/ふるさと館(横浜美術館所蔵)


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坂上方向(西)からの景観


by Twalking | 2016-02-12 16:14 | 大山街道(新規)

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