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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(6)海老名~愛甲石田03 愛甲石田   

日時 2016.2.26(金)
天気 晴れ


矢倉沢往還(大山道)は現在の中心部を相模川に沿って
南に向かい、岡田を通り酒井から西に向かいます。
途中、右手に大山、玉川を越えると真正面に見えてきます。

旧玉川を渡ると宿愛甲、小さな宿だったようで、
特に説明版などはありません。見所が沢山でしたが、
日が長くなったお蔭でなんとか予定をこなせました。
愛甲氏の関連個所は東名の北側なので、次回に訪ねたいと思います。


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「歩道がないので公園を」とありました/ふじみ公園


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石碑2基
/公園出口           御嶽神社 岡田一本杉バス停(右)


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三島神社/東名高速手前(左)
岡田村の鎮守、祭神は事代主神(ことしろのしのかみ)である。岡田村は近世後期には上岡田・下岡田村の二村に分かれていたが、もとは一村であった(『新編相模風土記稿』)。戦時中に供出された鐘は、元禄4年(1691)村内の細野久右衛門が奉納したもので、雨乞い祈願のため伊豆国三島神社(静岡県三島市)を勧請したという創建由緒が刻まれていた。例祭は4月第3日曜日(古くは929日)である。境内には近隣に存在した石祠(せきし)が祀られている。
(本殿)一間社流造で桁行5.4尺の大形社殿。17世紀末から18世紀初頭の建立と推定されている。覆屋がないため彩色は落ちてしまっているが、もとは朱塗りだった。
(扁額)社殿の正面、文政4年(1821)烏山藩主大久保佐渡守忠成書。
(えがら天神社)旧所在地は旧字えがら841番地付近の水田中の塚上であった。銘文は「明治4未 正月25日 再建」。江戸初期に山口九兵衛が鎌倉の荏柄天神を祀ったという。
(白山神社)『新編相模風土記稿』に村民持ちとして記されている。銘文には「寛延21749)己巳年929日」。(
あつぎの文化財獨案内板)


大山街道(6)海老名~愛甲石田03 愛甲石田_d0183387_17185892.jpg旧渡船場/三島神社東・東名脇辺り
江戸時代、岡田村には渡船場が設けられていた。新編相模風土記稿は『村持ちで渡船ニ艘を置くが、天正年中家康が渡河の際、架橋して以来春冬ニ季は船を渡すと伝えている』と記している。(あつぎの文化財獨案内板)




大山街道(6)海老名~愛甲石田03 愛甲石田_d0183387_17211385.jpg矢倉沢往還/
三島神社入口左角
江戸時代に江戸より武蔵と相模を横断していた街道に関東支配の重要性から、江戸と西とを境とする足柄上郡矢倉沢峠に関所が設置され旅人・荷物などを検査した。この道を矢倉沢往還と呼称された。(標柱)



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長徳寺/岡田
 
山号は寿永山慈雲院、宗派は浄土真宗東本願寺(京都市)。開祖は浄光(建長元年<1249>卒)といい、もとは真言宗の寺院であったが、寛喜元年(1229)に親鸞が関東逗留の時、弟子となり改宗したという。本尊は阿弥陀如来立像(高さ68cm)である。戦国期、当時の領主、津久井城主・内藤左近将監の推挙で、天正年中に当時の小田原城主北条氏直公より寺領10石を、慶安2年(1549)に徳永家光公より寺領10石を賜るが元禄16年(1703)の元禄大地震に本堂より出火し、御朱印と秀吉の制札が焼失したという。(『新編相模風土記稿』)

大山街道(6)海老名~愛甲石田03 愛甲石田_d0183387_17273147.jpg(本堂)正徳元年(1711)の建立で、市内の浄土真宗本堂ではもっとも古くまた規模も大きい。大工棟梁は大山大工・明王太郎、当地の先進的な真宗の本堂様式を取り入れながら地方的な特色も有する、貴重な建物である。
(木造聖徳太子立像)父用明天王の病気平癒を祈る16歳の孝養象である。美豆良に結った髪、袍の上の袈裟、沓をはく姿を示す。制作の時期は14世紀末頃の南北朝時代末頃とみられている。(高さ113cm)
(木造阿弥陀如来立像)寄木造、玉眼嵌入、白毫・肉髺珠は水晶である。全体的に平安時代後期の藤原様式を示しているが、制作時期は断定できない。(報恩講)浄土真宗の宗祖、親鸞の徳をたたえる法会で、毎年1015日に行われる。式終了後は檀信徒により「お斉」という食事会が行われるが、昔は「お講番」と呼ばれる檀家が全ての準備を行った。
(塔頭)『新編相模風土記稿』は順恩寺、応念寺の二寺を記しているが廃寺となった。
(駿河屋彦八の墓)江戸時代後期、大住郡酒井村の2代目彦八は厚木の侠客として名を馳せた。天保2年(18319月、厚木宿二止宿した渡邊崋山は「遊学日記」に「侠客彦八像」とともにその人となりを描いた。(あつぎの文化財獨・ひとり)


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大山街道(6)海老名~愛甲石田03 愛甲石田_d0183387_17273405.jpg法徳寺/岡田
 
山号は知恩山高栄院、宗派は浄土真宗で西本願寺(京都市)の末寺である。開山は教信(永正元年<1504>卒)、本尊は阿弥陀如来立像である。本堂は寛政12年(1800)の建築で、須弥壇は享保3年(17188)に飯山村の大工西海杢兵衛ほか4人によって造られた。
(木造聖徳太子立像)美豆良を結った16歳の孝養象で寄木造り、玉眼嵌入である。制作年代は室町時代末から桃山時代頃とみられている。胎内には江戸時代に作られた高さ12.2cmの木造聖徳太子立像と文書3通が収められている。(あつぎの文化財獨・ひとり)


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旧道風景 リバーサイド入口二又先の角を右折(右角に石塔)/下岡田 


大山街道(6)海老名~愛甲石田03 愛甲石田_d0183387_19244059.jpg法雲寺/右折先(左)
山号は来迎山勝長院、宗派は浄土宗で、元は芝増上寺(東京都)の末寺である。開祖は山角次郎右衛門勝長(慶長19年・1614卒)で境内には山角氏代々の墓碑がある。本尊は阿弥陀如来坐像である。(山角氏の墓)境内南側の江戸時代の宝篋印塔を含む墓地が、酒井村を領した山角の墓である。山角氏は小田原北条氏の家臣で、主家滅亡後に徳川家に仕えた。(木造不動明王立像・神奈川県指定重要文化財)飯出明神社の別当一重院(廃寺)の本尊の可能性が指摘されている。寄木造、彫眼(ちょうがん)、莎髻(しゃけい)、弁髪(べんぱつ)歯牙、宝剣、羂索(けんさく)など正統な像で、忿怒の表情や浅めの整然とした衣文(えもん)など藤原様式をよく備えた優品で、製作は12世紀頃とみられている。(高さ95.5cm)(痢病神社)リビョーガミサンと呼ばれ、当り日の74日近くの日曜日に祭りが行われている。眼病によいといわれる。
(双盤念仏・厚木市指定無形民族文化財)双盤念仏は双盤という鉦(かね)を叩きながら、南無阿弥陀仏を念仏を長く伸ばして唱える独特の念仏で法雲寺と伝承され、檀家が講を組織し継承している。毎年お十夜に行う。(薬師堂)虎薬師と呼ばれ12年に1度の寅年1010日頃に開帳され、双盤念仏が奉納される。(あつぎの文化財獨・ひとり)


大山街道(6)海老名~愛甲石田03 愛甲石田_d0183387_19244495.jpg薬師堂(酒井寅薬師)/酒井蒔田交差点手前
薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来と申され除病安楽を祈願して信仰される佛様です。この薬師堂の本尊は平安時代の高僧を恵心僧都の御作言い伝えられておりますが、おそらく南北朝時代(足利尊氏の頃およそ650年前)の作と推定され、後の時代の傑作といえる寄木造立像の名品です。現在は秘佛として厨子に収められ12年に一度虎寅年に開帳しております。寅年のお開帳は酒井部落挙げて執り行われ、近隣の信者が多数参詣に集まります。特にこの時張られる双盤興行は何百年も伝承されている貴重な無形文化財です。堂内には本尊の他に不動明王(現在は法雲寺本堂に安置)閻魔十王像、奪衣婆なども安置されています。ある時、山角氏の某が眼病を疾いこのお薬師様にお参りしたところ、たちどころに平癒したとの事です。以来山角家はこのお薬師様に篤く帰依し、当主勝長は薬師堂を修復し、法雲寺を中興開基して代々の菩提寺と致しました。以後薬師様の御利益は益々評判隣近郷近在の人々がこぞって参詣したといわれます(説明板)


大山街道(6)海老名~愛甲石田03 愛甲石田_d0183387_19263161.jpg酒井の道標
元々は酒井のバス停付近にあったが、現在は法雲寺薬師堂の脇に移されている。銘は摩滅により判別ができないが、頂部に不動尊があしらわれ、酒井村が矢倉沢往還や八王子道といった街道の追分けであったことがわかる。(みどころマップ・川崎国道


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岡田・笹井付近地図(赤:大山道 橙:八王子道 青:東名高速)


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笹井蒔田を横断し玉川に架かる新宿橋を渡る/笹井

玉川

厚木市の伊勢原市との境界付近に源を発し東へ流れる。厚木市の南部を流れ、厚木市戸田付近で相模川に合流する。元来、花水川(金目川)の支流として南へ流れ平塚市に至っていたが、度々氾濫を起こし河川域に水害をもたらしていたため、河川改修によって現在の流路に変わり、相模川水系の支流の一つとなった。平塚市北部で伊勢原源流の歌川・渋田川・旧・玉川の合流地点を見ることが出来る。他の玉川にも見られるように、玉(勾玉)の材料の石が採取できたからであるといわれている。源流近くの日向薬師近辺ではそれらしき石が見つけられる場合がある。Wikipedia


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双体道祖神/新宿橋先(右)       石塔郡/その先(右)


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旧道風景 正面に大山を見ながら歩きます


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小田原厚木道路を潜ります/片平     旧玉川を越え、先の二差路を左方向へ


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すぐの二差路を左に登ります      右角に道標

愛甲宿の道標
旧愛甲宿の中程に建つ庚申塔。享保元年の銘があり、左に大山道、右にはあつぎ、江戸青山と刻まれている。みどころマップ・川崎国道
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大厳寺本堂

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大厳寺からの展望


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西嶺山円光寺
宗派:円光寺派 (本山)
沿革・縁起:円光寺、西嶺山と号す。臨済宗。開山仏覚 (本寺第20世建武元年1018)中興開山久山長公 (寛文824日卒)本尊正観世音、脇に勢至を置 (共に愛甲季隆守護仏と云伝う)愛甲三郎季隆の位牌を安ず。(案内板)

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本堂 
                    愛甲三郎供養塔

愛甲三郎季隆の歴史
愛甲三郎季隆(すえたか・生年不詳~1213)は愛甲庄を領した武将である。愛甲庄は厚木市愛甲を中心とした庄園でその庄域は七沢・小野・愛名・船子・岡田(厚木)を含む玉川流域に広がっていた。愛甲三郎は平安時代末期武蔵国におこった武士団武蔵七党の一つである横山党の流れをくむ。父は山口季兼。三郎季隆は愛甲庄を領したことから愛甲氏を名乗ることになった。(案内板)


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旧道風景 信号角を右折、カルバーと・甲斐段を上り愛甲駅へ/宿愛甲交差点

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左角に道標            右角からカルバートを潜る


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旧道風景 愛甲石田駅前

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愛甲石田付近の地図
(赤:大山道 橙:246号 紫:東名 青:旧玉川・愛甲石田駅 赤丸:愛甲氏)



by Twalking | 2016-03-02 17:16 | 大山街道(新規)

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