大山街道(7)愛甲石田~伊勢原03 上粕屋
天気 曇り
歌川と鈴川に挟まれた小高い台地に上杉館はあったようです。
道灌の誅殺された場所、供養塔や七人塚などが歴史を今に伝えます。
日向薬師への道が交差しますが、こちらも歩いてみたいですね。
上糟谷を過ぎると上り道、大山を見ながらエッちらオッちら。
やがて、宿坊が見えてきて、「もうすぐ」と気持を後押ししてくれます。
次はいよいよ山登り、ケーブルていうわけにはいかないでしょうね~。
・・・上粕谷
大山道/市川工業十字路(右折)
この大山道は、江戸青山からまた東海道戸塚方面からの大山詣りの人が歩いた参詣道で、土地の人は「戸田道・青山道」と呼んでいました。道に沿って流れる水路は大山を源流とする鈴川から引水した灌漑用水で「千石堰用水路」と呼ばれて、昔は小魚が泳ぎホタルが飛び交っていたといいます。この三所石橋造立供養塔は、ここの場所に作られたと思われる三ケ所の橋を供養するために、洞昌院住職と村人達によって享和2年(1820)に建てられました。(アド・おおやまみち)
洞昌院(とうしょういん)と太田道灌の墓
洞昌院の開基は太田道灌で、開山は崇旭和尚である。道灌のお墓は本堂の西側の森の中にある。(みどころマップ・川崎国道)
大田道灌の墓
大田道灌(1432~1486)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長または持資といった。また仏門に帰依してからは道灌と号した。道灌が生まれた頃、父資清は相模の粕谷に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生まれたものと思われる。幼い頃から非常に利発で神童と言われていた。当時の日本は戦国時代で各地の武将の間に戦いが絶えなかった。道灌は25歳の時(1457)武蔵野の原に海に臨んで城と町を築いた。後にこの城は江戸城といい徳川幕府300年の居城となった。明治以後、町は東京と呼ばれ城は皇居となった。これにより道灌はいまでも東京の基礎を築いた人としてその名が高い。道灌は築城軍略の大家であるばかりでなく、詩歌を好み風流を愛する文武兼備の人であった。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多い。晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが互いに協力して政治を行なわなければ平和は望めないと考え力を尽くした。しかし、主君の上杉定政は己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ志半ばにして粕谷の上杉館で謀殺された。時に54歳であった。道灌の墓もあるここ洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と伝えられている。現在、伊勢原市では毎年10の第1土・日曜日に観光道灌祭を行って道灌の偉業を偲んでいる。(伊勢原ライオンズクラブ)
太田道灌と山吹の花
文武両道にすぐれ人々から兵法の師範と称された道灌は、若年の頃は武略のみを心がけ、文の道はかえりみなかったと伝えられる。しかし、父の道眞資清は当時和歌の名手として又、連歌の達者として知られ馬上に打物取っては並ぶものなき勇者でもあった。狩りに出た道灌が雨にあい、雨具を借りに立ち寄った賎が家の乙女の差し出した山吹の花の意味が分からず、自ら深く愧じて学問に志した説話は余りにも有名である。関東に生まれ関東に育った武将の中で、京都の文人にも劣らなかった文化人であり又、江戸の築城にあたっては都市計画の先駆者でもあった道灌の非業の死をいたんで、花が咲いても実とならぬ山吹の花をえらんで道灌への思慕への情を託したものであろうか。『みやび男の子の 道灌さまは 花も実もあるあづま武士』土地の人が歌った道灌追慕の唄である。(洞昌院27代当主 足立久雄)
江戸城の築城で有名な大田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀叛心あり」と疑われ定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣七名の墓で「七人塚」と伝えられています。こ塚は、上粕谷神社の境内の杉林の中に七つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています。(環境省・神奈川県)
上粕屋神社由緒
祭神:大山咋神・大穴牟遲命・若山咋命
本神社の勧請年月日は詳らかでないが大同弘仁の頃近江の国の日吉神を当所に移し勧請したと伝える。又風土記によれば天平年中に僧良弁の勧請なりと言う。元禄4年幸末社殿を再建し、山王権現と称した。徳川幕府朱印高壱石五斗であった。明治2年6月日枝神社と改称し、当時の例大祭は3月2日で、競馬神事神楽を奉納、6月22日と12月2日には年の市を執行した。明治6年葵酉7月、字、和田内鎮座の熊野神社(朱印高壱石)と字、石倉上鎮座の白山社を合祀し、上粕屋神社と改称した。更に、昭和39年4月、字、峰岸鎮座御嶽神社を、昭和41年10月字、秋山鎮座の五霊神社を合祀して現在に至っている。(説明板)
大山道
この道は東海道戸塚からの大山道と江戸青山から厚木を経ての大山道が下糟屋宿で合流した大山参詣道で、夏山例祭中は大変賑わいました。地元の人はこの道を「戸田道」「厚木道」「青山道」と呼んでいました。
千石堰用水路
この用水路は子易明神社の左斜めの大山川から取水して下糟屋の渋田川へ流れる灌漑用水であります。つくられた年代は定かでありませんが、小田原後北条時代または江戸初期かと思われます。
道標
正面「上り 大山道」右側面「下り 戸田道 厚木道」左側面「寛政11年未年6月 当村念仏講中」裏面「右ハ 田村道 左ハ むら道」と彫られています。
庚申塔
正面に青面金剛像と三猿が彫られています。この庚申塔は道標にもなっています。右側面「享保6年 辛丑天 奉造立庚申供養」左側面「□□大山道」と彫られています。
道祖神
悪疫の進入を防ぐために村境に建てられていますが、夫婦和合、出産など繁栄を願う男女の双体道祖神もあります。(アド・おおやまみち)
庚申塔(道標)
この庚申塔は、伊勢原市三ノ宮竹ノ内591番地の田中家にありましたが、道路造成用地となったため田中家所有のこの土地に移設されたものです。右の庚申塔は道標にもなっていて、正面「庚申塔」向って左側面「此方 かない道」右側面「□□道 寛政九丁巳九月吉日 講中」と彫られています。左の立派な庚申塔は正面に「正徳4申牛 天講中 奉造立 庚申供養塔10月 大吉日9人」と彫られています。(アド・おおやまみち)
石倉橋の道標
蓑毛・日向越えの大山道を除くほとんどの大山街道はここで合流する。道標には「右 い世原、田村、江ノ島道、左 戸田、あつぎ、青山道。此方はたの道、此方ひらつか道」と刻まれている。(みどころマップ・川崎国道)
比比多神社(子易明神)由緒
鎮座地 伊勢原市上粕屋字子易1,763番地1 御祭神 神吾田鹿葦津姫命・又の御名木花咲耶姫命 例大祭 7月15日
御神徳
「天平の頃、当国守護の任にありし染谷太郎時忠(藤原鎌足の玄孫で関東総追捕使)が当国安土・子宝を願い勧請す。後、その内室懐胎に及び、信仰益々篤くひたすら安産の祈祷奉るに忽ち霊験現る。依って社頭以下設備怠りなく造営す。」と伝う。後に醍醐天皇の勅願所となり、神階・御告文その他旧記等宝殿に蔵せられしが、天正18年小田原落城の折惜しくも亡失す。雨来神号を「易産大明神」又は「子易大明神」として称え朝野の別なく尊信極めて篤く安産守護神として崇敬される。
御社殿
創立年月日不詳 ただ天平年中とのみ 以降、寛文2年修築 神宮鵜川権太夫直積 代享保2年再建(現在の社殿 工匠は荻野の宮大工)
御神木 桜の老樹一株・椰(なぎ)一株・共に市指定保存木
向拝の柱:往年より参拝者が子宝安産の符として削り持ち帰ったため細りしもので、現在の柱は3代目と言う。現在は社殿保持のため削るのを禁止、神共米を配布。底抜柄杓:妊婦が安産を祈願し納めしもの。美人図絵馬:歌川国経筆 享和2年12月吉日荻野住人神崎氏等3名納昭和35年11月4日付 県指定重要文化財解除の次第と祝詞 国学の四大人の一人伏見稲荷の神官荷田宿弥信満が宝永4年その門人鵜川直積に与えしもので、貴重は文献である。(現在神官鵜川宅に所蔵)(案内板)
板絵著色歌川国経筆美人図絵馬
この絵馬は厚木市上荻野出身の浮世絵師歌川国経によって描かれました。花魁を中心に左に新造(しんぞう・花魁付きの若い女性)、右に禿(かむろ・花魁に仕える10歳前後の少女)が描かれています。絵馬の額面右上には「東都、一陽斎歌川豊国門人国経画」と絵師名が、右下には「上荻野 願主神崎半兵衛」、左下には「綱島佐七、神崎長佐衛門、斉藤伝右衛門」と奉納者の名が記されています。奉納した人々もまた、国経と同じ厚木上荻野の人手であったことが分かります。歌川国経は本名を斉藤源蔵といい、安永6年(1777)に生まれました。長じて浮世絵界で名筆といわれ、美人画、役者絵を得意とした歌川豊国(1769~1825)の門人となりましたが、絵師としての活動は少なく作品はわずかしか残されていません。この絵馬は国経が26歳の時に描いたものといわれています。国経は文化5年(1808)に32歳の若さで障害を終えています。日向の淨発願寺の入口には国経を偲ぶ六角形の供養塔が今も静かにたたずんでいます。(伊勢原市教育委員会)
(赤:大山道 橙:ルート 青:鈴川・千石堰用水路)
崇源寺の「ぼた飴あみだ」
本堂前の阿弥陀堂に木造阿弥陀如来坐像が安置されている。祈願成就の際、ぼた餅を供えてお礼参りをしたので、「ぼた餅あみだ」といわれている。(みどころマップ・川崎国道)
・・・子易
這子坂
現在の県道が整備されたのは昭和初期で、それ以前はこの這子坂が大山道であった。這って登るほど、急な坂だったといわれており、この坂で赤ん坊が這っているときに鷲にさらわれたという言い伝えもある。(みどころマップ・川崎国道)
元慶3年(879)の大地震によって大山寺のほとんどが壊滅した。再興が早急には成り難い事を知った当時の大山寺別当四世弁真上人は、やむなくこの地に一道山地蔵院易往寺を建立してここに移った。(みどころマップ・川崎国道)
三の鳥居
三の鳥居から上が門前町である。この鳥居は江戸火消し「せ組」によって建立され、「せ組の鳥居」ともいわれている。すこし先には二つ橋があり、江戸時代は高札場であった。現在はお堂と石仏が残されている。(みどころマップ・川崎国道)
旧参道/加寿美橋(右折)
大山参りの盛んになった江戸時代には大山参りの人達は子の参道を通った。当時のたたずまいを残す宿坊や大山名産店の家々、また全山の支配所旧八大坊別当(現大山阿夫利神社社務所)が並ぶ。(石碑文)
阿夫利神社社務局
毎年8月27日~29日、阿夫利神社本社から祭神の大山祗大神を迎え、秋季例大祭が行われる。10月には、「火祭薪能」が開催される。(みどころマップ・川崎国道)
良弁堂(別名開山堂)
堂内には幼い頃と42歳の時の2体の良弁像が置かれ、いずれも自作の像と伝えられています。(子ども像)赤子の良弁が鷲にさらわれ東大寺二月堂の杉にかかられた時、山王の使いである猿があらわれて助け降ろしたという伝説に基づくものです。猿が赤子の良弁を抱いている姿です。(45歳の像)紅と藍の色鮮やかな衣を身にまとい、右手に如意を持って穏やかな顔で座っています。
良弁滝
良弁僧正が大山を開くために修業をしたと伝えられています。江戸時代には大山詣での人たちが威勢よく水しぶきをあげながら水垢離(みずごり)をしました。(いせはらのむかし・伊勢原市)
豆腐坂
夏山祭りなどの暑い盛りに講中が奴豆腐を掌に載せて歩きながら食べ、喉を潤したことから、豆腐坂というようになったといわれている。(みどころマップ・川崎国道)
(赤:大山道 橙:246号 紫:東名 青:歌川・鈴川 青丸:愛甲石田・伊勢原・鶴牧温泉駅)
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史料ファイル
上杉館跡(市指定史跡)/上粕屋字立原
文明18年(1486)7月26日、太田道灌は相模糟屋にあった上杉氏の「府第(ふてい)」に招かれ、主君・定正により殺されてしまいました。風呂で襲われ「当方滅亡」と叫び絶命したといいます。史料的には当時の詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が記した「相陽糟屋の府第」とあるのみで、後に「上杉館」あるいは「糟屋館」と呼ぶようになりました。鎌倉幕府が倒れると、伊勢原市域を中心に広がっていた糟屋荘と呼ばれる荘園は倒幕に功があった足利尊氏に与えられました。足利尊氏の母は上杉氏の出身でした。足利尊氏は京都の幕府とは別に、鎌倉に東国を支配するための「鎌倉府」を置きました。この鎌倉府には関東(鎌倉)公方と呼ばれる足利氏がいて、東国の武士を率いていました。上杉氏はこの関東公方を補佐する関東管領と呼ばれる地位に就きました。上杉氏は大きく山内(やまのうち)、犬懸(いぬがけ・上杉禅宗の乱で没落)、宅間(たくま・早期に没落)、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の四家に分かれていましたが、やがて犬懸、宅間は没落し、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の二家が残りました。扇谷上杉持朝(もちとも)は15世紀の半ばに相模守護になり、相模守護の役所=守護所を糟屋に置いたと考えられます。後に扇谷上杉氏は河越城(埼玉県川越市)を築き、拠点を移しましたが糟屋の館は残されたようです。この館がいつ頃まで使われたのかは分かりませんが、永正9年(1512)に岡崎城が北条早雲により落城します。これ以前に扇谷上杉氏は糟屋の地を離れたと思われます。扇谷上杉氏の館跡の所在は不明とされていましたが、明治以降上粕屋に残る立原(たてはら)、的場(まとば)、馬防口(ませぐち)といった地名から、現在産業能率大学がある台地が上杉館とされたようです。昭和50年から51年にかけて産業能率大学建設に先立ち実施された発掘調査では館としての明確な遺構は発見されませんでした。調査報告書では、大学のある場所の東側に存在しているのではないかと推定しています。台地は東西に延び、南・北・東を堀(鈴川・渋田川の旧河道)に囲まれています。東西1600m、南北700mもある台地ですが、上に述べたようにこの台地の中程から東側が館跡と推定されています。周囲の堀の幅は最大100mもある広大な館跡です。なお、『伊勢原市史 通史編 先史・古代・中世』では「道灌殺害時より少し時代の下った戦国期には上粕屋一帯は「秋山郷」と呼ばれており、「糟屋」の地名で呼ばれたのは下糟屋地域一帯に過ぎなかった」と記述されています。(伊勢原の指定文化財より)
墓所
伊勢原に首塚(下糟屋の法雨山大慈寺)、胴塚(上粕屋の幡龍山公所寺洞昌院)がある。毎年秋には道灌まつりが同市で開催されている。埼玉県入間郡越生町の龍穏寺に分骨したと伝わる太田道灌公墓がある。鎌倉市の北鎌倉から源氏山に抜けるハイキングコースに太田道灌の首塚と言われる朽ちた供養塔が存在する。(Wikipedia)
太田道灌の墓(大慈寺)/下糟屋 大慈寺
下糟屋の集落を東西に流れる渋田川に面して太田道灌の墓があります。江戸時代の天保12(1841)年に成立した『新編相模国風土記稿』では墓の周囲は水田で、三基の五輪塔があり中央の塔が道灌の墓とされています。かたわらには榎の大木がありました。五輪塔は洞昌院の宝篋印塔と同様に、太田道灌のころのものと考えられています。現在では観光事業として整備が図られています。春には桜が爛漫と咲き誇り、花見の名所となっています。墓の東100mほどのところに臨済宗・法雨山(ほううざん)大慈寺があります。この寺は鎌倉にあった扇谷上杉氏の氏寺・建徳寺を扇谷上杉定正が糟屋に移し再興したものという説があります。再興時の住職は四世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)で太田道灌の一族です。下糟屋地区には大慈寺をはじめ上杉・太田氏関連の社寺(高部屋神社、普済寺)があります。(伊勢原の指定文化財より)
太田道灌の墓(洞昌院)/ 上粕屋洞昌院
上粕屋にある曹洞宗・蟠龍山(ばんりゅうざん)洞昌院の境内の一角にあります。本寺は15世紀の武将・太田道灌が中興開基です。室町時代文明18年7月26日、主君扇谷・上杉定正(さだまさ)の糟屋にあった館に招かれた太田道灌は、定正の手の者により殺されてしまいました。55歳でした。道灌の最期についてはいろいろな伝承があるようですが、子孫に伝わったものとして、館の風呂場で刺客に襲われ「当方滅亡」(これでこちらは滅亡するぞ)と叫んで亡くなったとされる話が一番有名です。遺体は洞昌院の裏手で荼毘(だび)に付されたといいます。墓には宝篋印塔が建てられていますが、年代的にも道灌の亡くなった時期と矛盾しないようです。また、墓前の左右には松の大きな切り株がありますが、道灌の49日の供養に当時関東にいた詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が祭文(さいもん)をささげ植えた松と考えられます。明治半ばに描かれた墓の絵を見ると立派な松が二本そびえています。さらに木刀と思われるものが奉納されています。風呂場において丸腰の状態で刺客に襲われた道灌に、せめて刀があったならという信仰からのものと思われます。道灌の力により戦乱が鎮まっていた関東では、その死後程なくして扇谷上杉氏と山内上杉氏との間で戦闘が始まり(長享の乱)、やがて北条早雲により両上杉氏とも滅亡に追い込まれることになります。(伊勢原の指定文化財より)
by Twalking | 2016-03-22 10:30 | 大山街道(新規)