登戸道(1)弦巻~登戸01-大蔵
天気 晴れ
晴れの予報に誘われて世田谷に行ってみました。
津久井往還は三軒茶屋から分かれ津久井へと向かいます。
大山道とは弦巻まで同じ道筋、ここで分岐します。
この界隈は住んでいたので見知ったところですが、
街道として歩いてみると、また違った味わいがあります。
馬事公苑、砧公園の桜が見頃を迎え、気持よく歩けました。
・・・弦巻
登戸道
大山道から分かれ、弦巻の追分から始まり登戸に至る区間の道を登戸道と呼ぶ。正式名称は津久井往還、別名黒駒道とも言われていた。農作物や登戸近在からの果物を江戸へ運び、江戸からは肥料として下肥えを運び農業に役立てたと言われている。(世田谷区)
弦巻追分道標(世田谷資料館にある元の道標)
銘文:(正面)左延享三丙寅 さがみ □月吉日(梵字)大山道 世田谷上宿同行五十人 年代 延享三年(1746)
伝来:この道標は、もと弦巻5-16-31の三叉路にあったが交通量の増加に伴ない、通行車両の振動や接触などで下部は土中に埋没した状態になっていた。そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって当館へ移設されたものである。なお、道標のあった場所にはそのよすがを留めるために同型の石碑が建立され、次の銘文を刻んでいる。「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。財)大場代官屋敷保存会世田谷上町町会」(世田谷区教育委員会)
大山道・三軒茶屋から用賀への関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22614408/)&(http://teione.exblog.jp/22619327/)
・・・馬事公苑
東京オリンピックの馬術競技の会場になったことで有名。背の高いケヤキ並木をくぐって入る苑内は広大で、多くの樹木や草花が季節をいろどる。雑木林を散策するとかつての武蔵野の姿が思い浮かぶ。ケヤキ並木の道は広場として整備され、また一つ魅力を加えた。(せたがや百景)
馬事公苑の由来と苑訓
馬事公苑は騎手の養成、馬事普及および馬術振興のため昭和15年(1940)9月29日に開苑いたしました。当時の苑訓として次の三訓が掲げられました。
・至誠を以って騎道作興すべし
・努力を以って百錬自得すべし
・和協を以って人馬を一如たるべし
この苑訓は、時が移り人が代わっても、馬を愛し馬術を志す人の心に、脈々と受け継がれております。開苑50周年を記念して、正門を改修すると同時に、ここに記念碑として設置いたしました。(説明文)
・・・桜丘
世田谷区の地理的中央部に位置し世田谷地域に属する。旧・荏原郡世田谷村。隣接する世田谷区桜に置かれた桜小学校に関係がある。大正11年9月、桜小学校の分校として横根分教場が置かれる。昭和5年横根分教場は独立して第二桜尋常小学校と改名。昭和16年さらに桜丘国民学校(現:桜丘小学校)に改名され、これに由来する。(Wikipedia)
天台宗、深大寺末で南照山東耀寺という。無住の時代が久しかったので古い文献は一切所蔵されておらず、したがっていつごろ開基されたかはっきりしないとの事であるが、開山の良尊法師が天和1年(1681) 2月13日に没していることが墓碑に記してあるので、天和年より2.30年前に建立されたものであろうと思う。本尊は7寸の阿弥陀如来(坐像〉で脇侍は観音・勢至の両菩薩である。(せたがや社寺と史跡)
祭神:宇迦之御魂神 新編武蔵風土記稿の荏原郡の部に「宇奈根山谷、村の西の隅にあり」と記されて居るので、今の宇山の名はこれが縮まったものと思ふ。明治初年無格社稲荷神社であったので、相当昔から土地の人等が稲荷社を祀って居た証拠である。其の後明治42年6月12日当時の合祀令により郷社宇佐神社、今の世田谷八幡宮に形式上合祀されたが、昭和29年1月26日神社本庁所属の宗教法人稲荷神社として登記された。「西向稲荷」と稱して参拝する人もあり又「防ぎ神の神事」等古来の信仰行事を続けて居るのもこの神社を除いては少なくなった。(境内由緒板)
・・・砧
古く7、8世紀のころ、朝廷に納める布を衣板でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたといわれています。女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。(世田谷区)
街道の風景⑤ 街道は直進、左へ進み砧公園に寄り道/大蔵1
往古より三本杉横根のお稲荷様と尊称され、稲荷講を中心として篤い崇敬と深い信仰をあつめてきました。御社殿は永い年月により老朽化がはなはだしくなり、相寄りあい語らいて御造営をいたし、御神徳をお慰め申し上げることに致しました。子々孫々に至まで大神様のご加護を戴き互いに睦び和らぎつつ平和な世をおくり稲荷様の杜を後世に伝え護ることを祈念いたします。(建設委員会)
日比谷公園の約2倍の園内には一面緑の芝生が敷きつめられている。ゆるやかな起伏と木々が公園の景観にほどよい変化を与えている。家族連れやグループでのんびり一日楽しむには絶好の場所で、遠近各地から訪れる人々が多い。園内にオープンした区立世田谷美術館も人気を呼んでいる。(せたがや百景)
・・・大蔵
『江戸名所図会』は延暦期に武蔵国守兼大蔵卿の石川豊人が居住していたことを由来とする。1240年(仁治元年)足立景盛の次男兼周が石井郷を拝領して石井氏を名乗り、現在に至るまで旧家として残る。永享の乱で鎌倉を逃げ延びた二階堂盛秀の子秀高(清仙上人)が1490年(延徳2年)、鎌倉大蔵ヶ谷にあった永安寺を同じ地名のここ大蔵に再建した。16世紀には吉良頼康の所領で、1557年(弘治3年)大平氏に給付された。1633年(寛永10年)彦根藩領となる。江戸時代後期には国学者石井至穀を輩出した。(Wikipedia)
仙川・石井戸橋 砧小横断右折、すぐ左折
妙法寺(みょうほうじ)
世田谷区大蔵にある日蓮宗の寺院。開基はおおよそ今から350年であると言われている。寛永年間の頃に現在の世田谷区宇奈根にある常光寺に当地の人が発願して、この地にも寺院を作ってもらったのがルーツであるとされている。発願した代表者は、当地に長年住んでいた安藤家の人で、安藤家の旧住居は現在世田谷区の文化財に指定されている。現在の本堂は1938年頃のもので、山門は江戸時代に現在の目黒区の碑文谷にある法華寺(現:園融寺)の門として建てられていたものを1986年に当地に移築したものである。1994年に境内に高さ8mの「おおくら大仏」が完成、「回転する」ハイテク大仏として知られている。(Wikipedia)
砧小学校の桜
小学校の校庭に咲く春の桜は誰にとっても懐かしい思い出のあるものだ。砧小学校の桜の老木には地区の子ども達の入学と卒業を何十年にもわたって見守りつづけてきた。(せたがや百景)
(後で調べたらこの水道橋へ下る道は荒玉水道道路でした。登戸道は右折し上流の茶屋道橋を渡る道筋になります)
(黄:登戸道 橙:大山道 青:烏山川・品川上水)
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資料ファイル
(赤:登戸道 橙:大山道 緑:瀧坂道 紫:甲州街道 青:鎌倉道)
世田谷の道つくりについて
世田谷の道づくりの歴史は古く、人口2万人足らずの農村地帯だった明治初期には村落と村落とを結ぶ道路が自然発生的にでき、人々に使われていました。その中でも甲州街道や大山街道(現在の玉川通り)、登戸道(現在の世田谷通り)は、当時から幹線道路としての役割を果たしていました。(世田谷区より抜粋)
(赤:登戸道 紫:おおやま道 橙:甲州街道 黄:滝坂道)
滝坂路02-松原の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22847697/)
by Twalking | 2016-03-27 13:22 | 東京散歩(新規)