無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 登戸道 弦巻~登戸02 喜多見   

日時 2016.3.25(金)
天気 晴れ

世田谷通りは車などでよく通りましたが、喜多見は初めてです。
国分寺崖線から下る縄手道、これ荒玉水道道路でしたが、
わくわくするようないい道ですね。

中世の世田谷は吉良氏は聞きかじっていましたが、喜多見氏は
知りませんでした。秩父平氏の支流・江戸氏の末裔なんですね。
慶元寺、氷川神社周辺はよく史跡などが残され、
景観的にも世田谷とは思えないほどの趣がありました。

こんがらがってはいますが、入口に立ったので少しづつ
整理していこうと思います。


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喜多見(世田谷区)

中世
には本拠地である江戸を追われた江戸氏が本拠地を構え、江戸時代には短期間ながらこの地に藩庁を置く喜多見藩が存在した。1300年代初期には「木田見」とある。16世紀後半頃に「木多見」「喜多見」や「北見」と見られる。この付近は古くの古代集落の遺跡が発見されており、歴史は古い。しかし地名の語源ははっきりしていない。Wikipedia

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国分寺崖線を下ると野川です/水道橋(荒玉水道道路)

荒玉水道
(あらたま)
大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を砧(世田谷区)から野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するために使用された地下水道管のことである。現在も砧から杉並区梅里までの荒玉水道に沿って「荒玉水道道路」(都道428号)がある。「荒玉」の「荒」とは荒川、「玉」とは玉川すなわち多摩川を指している。Wikipedia


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用水を復元しています。かつての野川の流域だったようですね/次大夫堀公園・民家園前


d0183387_15554196.jpg次大夫掘公園/喜多見

1983年に開園した公園で、園内のメインは民家園である。かつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などが復元され江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現されており、かつての暮らしぶりを体験できる。園内には公園の名の由来になっている「次大夫掘」という用水が流れており(後年復元されたもの)、これは稲毛・川崎領(現在の川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年から15年の歳月をかけて開発された農業用水の一部である。この用水は正式には六郷用水といい、昭和初期までは周辺農地などに使われていたが、現在大半は埋められたか雨水用の下水に転用されている。世田谷区内では次大夫掘公園内に復元された約600mの流路と丸子川として一部分のみ残っているのみである。Wikipedia

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次大夫掘公園マップ(登戸道は赤線の茶屋道橋~内田橋へのルートです)


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旧道風景 内田橋から荒玉水道道路を横断・直進します


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寳壽院山門

d0183387_16180229.jpg寳壽院(光傳寺)/喜多見5
当寺は、長徳山寳壽院光傳寺と号し、浄土宗鎮西派で京都の知恩院直末である。本尊は阿弥陀如来坐像で、平安末期から鎌倉初期の作と認定され世田谷区有形文化財に指定されている。寺の創建は永禄13年(1484四)で、開山は西誉上人方阿玉公和尚である。慶安2年(1649)七世本誉上人万休竜長和尚の代に、三代将軍家光より七石二斗余の御朱印をうけ御朱印状九通が寺宝として保存されている。現本堂は、16世荘誉上人願阿意俊和尚の代、寛延3年(1750)に庫裏と共に造営されたものである。また、当寺は明治9年より同11年まで喜多見学校の校舎として使われ、明治23年から同35年までは喜多見尋常小学校高等科教場として使用されていたが、同年5月喜多見、朝陽の両校合併により砧尋常高等小学校が設立され、同校中央教場となり明治403月まで使用されていた。当寺は玉川六阿弥陀三番札所である。(世田谷区教育委員会)


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旧道風景 郵便局を右折、ここを左折、二つ目を右折。直進が品川道(筏道)です/知行院前


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知行院山門

d0183387_16280813.jpg龍寳山常楽寺知行院
本尊は薬師如来で延暦寺の末寺、文明頃(146987)の草創で天正16年(1588)頼存法印が中興開山といわれる。喜多見若狭守勝忠が館の鬼門除けの祈願所として不動明王、閻魔大王をもあわせ祀り、除地若干を寄進した。また須賀神社
の別当寺でもあった。慶安2年(1649)江戸幕府より寺領八石二斗余の朱印状を受け幕末におよんだ。明治6年本堂を喜多見小学校(現在の砧小学校)の仮校舎として使用した。(世田谷区教育委員会)


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喜多見須賀神社

須賀神社は、承応年間(16521654)に喜多見久大夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりといわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれている。湯花神事(湯立)は例大祭の82日に執り行われる。社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周りに振りかける行事である。この湯がかかると、一年間病気をしないといわれ今日も広く信仰を集めている。湯花神事は浄め祓いの行事になっているが、湯立によって占いや託宣を行うのが本来の姿であり、神意を問うことであった。素朴で普遍的な神事であったが、当区では唯一となり都内でも数少ない行事となった。(世田谷区教育委員会)


d0183387_16523894.jpg第六天塚古墳/喜多見4

古墳時代中期(5世紀末~6世紀初頭)の円墳。昭和55年と昭和56の世田谷区教育委員会による墳丘及び周溝の調査によって、古墳の規模と埋葬施設の存在が確認された。これにより本古墳は、直径28.6m高さ2.7mの墳丘を有し、周囲に上端幅6.87.4m下端幅5.2m〜6.7m深さ5080cmの周溝が廻り、その内側にテラスを有し、これらを含めた古墳の直径は3233mとなることが判明した。またこの調査の際に多数の円筒埴輪片が発見された。埋葬施設は墳頂下6070cmの位置に、長さ4m幅1.11.4mの範囲で、磔の存在が確認されていることから礫槨ないし磔床であると思われる。なお同古墳については「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が生えていたとの記載が見られる。この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中世陶器の壷と鉄刀が発見されており、同墳が中世の塚として再利用されていたということも考えられる。(世田谷区教育委員会)


d0183387_16524688.jpg稲荷塚古墳/喜多見4(稲荷塚古墳緑地)
喜多見稲荷塚古墳は砧古墳群の一つである喜多見古墳群の中の1基で、墳丘の直径が13m、高さが2.5mの円墳です。昭和34年(1959)と55年(1980)の2回の発掘調査によって、周溝や泥岩切石積み石室の存在が確認され、石室からは古墳に葬られた人の身分を示す圭頭大刀(けいとうのたち)、耳環(じかん)=ネックレスや土師器(はじき)などが出土しています。これらの副葬品から、この古墳は6世紀末~7世紀初(約1,400年前)につくられたと考えられます(世田谷区)


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喜多見慶元寺界わい/喜多見4

江戸氏の祖を弔って建立されたといわれる。江戸氏は皇居のあたりに居を構えていたが、家康が江戸築城のおりこの地に退き姓も喜多見と変えた。江戸氏追善の塔がある。広い寺域に沿う小道は、奥多摩から多摩川を下った筏師が歩いて帰ったという「いかだ道」で、ところどころにのどかな郊外の風景を見ることができる。(せたがや百景)

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本堂


d0183387_17044188.jpg永劫山華林院慶元寺/喜多見4

浄土宗、京都知恩院の末寺で本尊は阿弥陀如来坐像である。当寺は、文治2年(11863月、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、当時は岩戸山大沢院東福寺と号し天台宗であった。室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り、その後天文9年(1540)真蓮社空誉上人が中興開山となり浄土宗に改め、永劫山華林院慶元寺と改称した。更に文禄2年(1593)江戸氏改め喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建し、元和2年(1616)には永続資糧として五石を寄進し、また、寛永13年(1636)には徳川三代将軍家光より寺領十石の御朱印地を賜り、以後歴代将軍より朱印状を賜った。

d0183387_00540970.jpg現本堂は享保元年(1716)に再建されたもので、現存する区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。墓地には江戸氏喜多見氏の墓があり、本堂には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木像が安置されている。山門は宝暦5年(1755)に建立されたものであり、また、鐘楼堂は宝暦9年に建立されたものを戦後改修したものである。境内には喜多見古墳群中の慶元寺3号墳から6号墳まで4基の古墳が現存している。(世田谷区教育委員会)

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江戸氏喜多見氏墓所(世田谷区指定史跡)

江戸氏は関東の武家の名門で、室町時代の中頃、旧領江戸庄を離れ木田見に移住したと伝えられています。後北条氏にかわって関東に入国した徳川家康は、関東各地に潜居していた名族の者を取り立て、江戸勝重(のち喜多見勝忠)も推挙されて家康の御家人となりました。勝重の孫・重政は5代将軍家綱の側用人となり2万石の大名に出世しましたが、元禄2年(1689)一族の刃傷事件に連座して御家断絶となってしまいました。墓所には寛永4年(1627)に没した勝忠をはじめ一族の墓石や江戸氏歴代の供養塔、石灯籠などが置かれています。(世田谷区)


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旧道風景 この先慶元寺幼稚園角を左折。直進し塀沿いに行けば氷川神社です


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喜多見氷川神社と梼善寺跡/喜多見4

一千年以上も前の創建と伝えられている。境内は保存樹林地となっており、昼なお暗いほどうっそうとし野鳥も多い。長い参道をたどって社殿に至るが村の鎮守の杜の姿そのままだ。ここに伝わる里神楽は区内の貴重な民俗芸能の一つとなっている。(せたがや百景)

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d0183387_17390952.jpg氷川神社

祭神として素盞嗚尊を祀っている。旧社格は郷社。旧喜多見村の鎮守。当神社は天平12年(740)の創建と伝えられているが、室町時代に洪水などで神社にまつわる古文書など流失してしまっているため、詳細は分かっていない。古くは多摩川沿いにあったといわれている。永禄13年(1570)に江戸城からこの地の移り住んだ江戸氏の当主・江戸刑部頼忠が荒廃していた当神社を修復して祈願所としたと言われている。江戸時代になり江戸氏は喜多見氏と改姓し、天和2年(1682)喜多見氏の初代・喜多見若狭守勝忠により神領五石が寄進されたなど、現在の神社の礎が完成した。承応3年(1654年)には、喜多見重恒・重勝兄弟が今に残る石の鳥居を寄進している。(世田谷区有形文化財)また当神社の別当は華蔵院という寺院(明治初期に廃寺)であった。Wikipedia)

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江戸名所図会氷川明神社・祷善寺・慶元寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・狛江市へ

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旧道風景 砧上浄水場へ直進、外周に沿って右回り/こまえ苑前

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GSを左折駒井大通りへ        駒井西を右折


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岩戸八幡神社/岩戸南2
戦国時代のこととして、岩戸八幡神社の由緒に係る次のような伝承があります。永禄元年(1558)に、北条氏康の招きに応じ、古河公方の足利義氏が鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した際、神前にて八幡神体を懸賞にした大相撲が催されました。吉良頼康に従っていた岩戸の秋元仁左衛門という人物は、この大相撲に勝ち、岩戸に八幡神像を持ち帰って八幡神社を勧請したといいます。江戸時代は村の鎮守で、別当寺は西に隣接する明静院でした。(おすすめ散歩コース)


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日枝神社/駒井町1
日枝神社ははもともと山王権現と称し、江戸時代の記録によると、木の鳥居が立つ小さな祠でした。円住院は、影向山毘沙門寺と号す天台宗の寺院で、山王権現の別当寺でした。もとは毘沙門堂だったようで、元和二年(1616)に喜多見氏が再興したという記録があり、毘沙門堂が円住院になったものと考えられます。日枝神社の参道は、イチョウやケヤキの木に囲まれ、円住院の入口には庚申塔がまつられています。(おすすめ散歩コース)


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旧道風景 駅入口右折、次の信号を左折して世田谷通りへ/和泉多摩川駅


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前駅前広場の地図モニュメント(青:登戸道 緑:世田谷通り)

狛江市

多摩川中流左岸に位置する。市域の北端は国分寺崖線および野川、南端は多摩川にほぼ一致する。このため北から南方向に緩やかに傾斜しているが概ね平地といえる。標高は2030mの間にある。市域は「枝豆」の形をしており、市役所を中心とした半径約2kmの円内に収まる。


・・・多摩水道橋

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多摩川の景観(下流側) 世田谷通りを横断し、狛江高校を左折して橋へ/多摩水道橋


d0183387_23384155.jpg多摩水道橋

狛江市と川崎市の境界であると同時に東京都と神奈川県の境界でもあり、狛江市内で多摩川に掛かる唯一の橋である。多摩水道橋の旧橋は1953年(昭和28年)道路及び水道管の併用橋として開通した。この場所には「登戸の渡し」があったが橋ができたことにより廃止された。現在の多摩水道橋は1997年(平成7年)に竣工した2代目で、エメラルドグリーンのアーチ型になっているが、初代は青色の直線型の橋であった。狛江市の大動脈である「世田谷通り」(正式な名前は世田谷町田線 川崎市では津久井往還と呼ぶ)と川崎市の長沢浄水場から都心へ向かう「導水管」が橋の上で共存している。橋長:358.8m幅員:213m形式:下路鋼3径間連続ローゼ桁橋Wikipedia
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登戸の渡し/小田急ガード先
江戸への往還にかかる重要な渡しであった。江戸時代はやや下流、明治になり上流に移り、終わりのころはここから対岸の和泉に渡った。1952(昭和27)年に廃止(プレート)

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狛江周辺地図
(赤:登戸道 紫:品川道・筏道 緑:世田谷通り 橙丸:喜多見・狛江・和泉多摩川駅)


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資料ファイル


d0183387_22150649.png江戸氏と喜多見氏

喜多見氏は武家の名門・江戸氏の末裔である。喜多見氏の系譜については現存する江戸氏(喜多見氏)の系図に良質なものがなく、その記載もまちまちなことから判然としない部分が多く残されている。しかし、現在までの研究成果を総合すると、喜多見氏は「関東一円の大福長者」とよばれた江戸重長の孫・重方から連なる家系で、室町時代の中頃まで江戸庄に住していた江戸氏の直系と考えられる。この江戸氏が喜多見の地に移り住んだ時期についてははっきりしないが、「平氏江戸譜」には三郎・右京亮(8代目康重、嘉吉頃の人)の代に至って武蔵国木田見(喜多見)牛丸郷を本拠とした江戸氏庶流木田見氏の嫡流が木田見の名跡を継いだこの時期を、その移住期と考えるのが自然であろう。江戸時代に入ると、その末裔・喜多見重政2万石となり本拠地・喜多見の地には陣屋が置かれることになった。(世田谷区郷土資料館)


d0183387_22164216.jpg江戸重長(しげなが)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。武蔵江戸氏二代当主で、江戸重継の子。通称は太郎。治承4年(1180817日の源頼朝の挙兵に対し、平家方で同族である畠山重忠が、源氏方の三浦氏と合戦となると、重忠の要請に応じて一族の総領家である河越重頼と共に武蔵国の武士団数千騎を率いて出陣する。勢力を回復した頼朝軍が武蔵国に入ると、重長は畠山重忠、河越重頼と共に頼朝に帰伏する。同族の河越重頼、畠山重忠は鎌倉幕府初期における内部の勢力争いによって滅ぼされたが、重長は一族の重鎮として幕府に仕え、子孫も長く繁栄した。江戸氏の菩提寺である世田谷区の慶元寺に重長の供養塔である五輪塔と銅像がある。Wikipedia


江戸氏
武蔵江戸氏は武蔵国を発祥とする武家。鎌倉幕府の御家人にして武蔵国の国人領主。本姓は平氏。家系は鎮守府将軍・平良文の孫、平将恒を祖とする秩父氏の支流の一族。後三年の役で先陣を務めた平武綱の子・秩父重綱の四男・江戸重継は平安時代の末(12世紀半ば)に武蔵国江戸郷を領して「江戸四郎」を称し、江戸氏を興した。江戸氏は後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館を構えていたと推定されている。ただし正確な位置は不明である。重継は室に関政家(小山政光の叔父)の娘を迎え、その子・重長は猪俣党の藤田政行の娘を室に迎えるなど、江戸氏は武蔵国内の御家人との間に婚姻関係を展開した。治承・寿永の乱(源平合戦)において、江戸氏は治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した時、武蔵国内で勢力を拡大した秩父平氏の有力な一角となっていた。重継の子、江戸重長は初め頼朝と対立して、衣笠城合戦で畠山重忠、河越重頼とともに頼朝方の三浦義明を討って衣笠城を落城させた。頼朝が再び安房から挙兵した際には、周辺の豊島氏・葛西氏は頼朝にすぐ従ったが重長は畠山・河越とともに従わず、頼朝が武蔵国鎌倉に入る障害となった。(Wikipedia抜粋

喜多見氏
名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の後裔の一族。江戸氏は平安時代後期に江戸郷を領地とした江戸重継を祖とし、多数の支流一族を配して武蔵国の広範囲に勢力を拡大した。しかし武蔵平一揆で惣領家は衰退し、戦国時代になると江戸氏は江戸を太田道灌に明け渡して喜多見に移り、その後は後北条氏に属して世田谷城主吉良氏に仕えた。しかし天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの余波を受けて世田谷城も攻撃され、吉良氏朝は下総に逃れた。徳川家康が江戸に入ると、江戸勝忠(喜多見勝忠)は家康に仕え、喜多見の地を安堵された。そして江戸氏を改めて喜多見氏とした。(Wikipedia抜粋

江戸城の関記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22004332/



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d0183387_09340539.jpg狛江の地形と遺跡

狛江市は多摩川の左岸、武蔵野台地の南の縁に位置しています。現在、市の北を野川が南を多摩川が流れていますが、昔の野川は市北部のほぼ中央から南東に向かって流れ、また、狛江駅近くの弁財天池からは清水川が東に向かって流れていました。市内は標高20mくらいのほぼ平坦な地形ですが、かつての野川や清水川の流路と多摩川沿いはやや低い低地になっています。昔の狛江は川の流れる低地と小高い台地からなり、水と緑が豊かな環境だったと考えられます。実際に、狭い市域でありながら昔の人々が生活した痕跡である遺跡は68か所あり、人々は川に近い台地の縁に生活していました。(狛江市)


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次大夫堀流路図(赤:登戸道 緑:品川道・筏道 紫:大山道)


狛江の古い道

一の橋の交差点に立つ文政6六年(1823)の「石橋供養塔」には「東六郷江戸道」「西登戸府中道」「南家村道」「北ほりの内高井戸道」という道しるべが刻まれている。旅人は仏の像を配したこの供養塔に合掌したあと、自分の行路を確認したことであろう。道しるべを刻んだ石塔は狛江市内に10基を数える。その多くは三叉路や十字路に立っている。こうした石に刻まれているこの道の行く手となるいろいろな地名をたどると、狛江の村を通過した人たちが目指したのがどこかということがわかる。またこうした道しるべの立つところをつなぐことによって狛江の古い道を推定することも可能となる。狛江を過ぎる主要な道には次の三つがあった。①江戸-世田谷-喜多見-岩戸一の橋(または駒井)-和泉-渡船場-登戸②六郷-大蔵-喜多見-岩戸一の橋-和泉-国領(または矢ケ崎)③高井戸-祖師谷-入間-覚東-和泉-田中橋-渡船場-登戸。①は狛江を東から南西に横切るもので江戸道、大山道、登戸道ともいわれた。昭和10年代までは東京方面へ下肥を汲みにいく車で早暁からにぎわった。②は品川道、六郷道、府中道、筏道とも呼ばれた。狛江を東から北西へよぎる道である。大正頃までは多摩川を六郷まで筏を運んだ筏乗りの家路を急ぐ蓑笠姿がよく見られたという。③は狛江を南北に縦断する道である。高井戸道、鎌倉道とも呼ばれた。かつて田中橋の南の用水に鎌倉橋という橋がかかっていたが、鎌倉道の伝承に基づいて名付けられたものであろう。狛江に入る少し手前の調布市入間町には「是より泉むら子安地蔵尊二十五丁」とある百万遍供養塔(天明元年・1781)と「西 いづみ村ぢぞう道」とある庚申塔(文化9年・1812)が残る。泉龍寺の子育地蔵に参詣する人が少なくなかったことを語っている。(狛江市)


by Twalking | 2016-03-30 08:49 | 東京散歩(新規)

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