無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく01 小金井(1)   

日時 2016.4.6(水)
天気 晴れ


街道を歩いていて、多摩川左岸の野川&国分寺崖線を
一度じっくりと見てみたいと思っていたところです。
天気もいいし、桜も見頃、野川の源流から歩いてみました。

小金井は妻の実家ですし、東京2deyで歩いていますが、
今回は野川&国分寺崖線に的を絞ってみました。
野川リバーサイド、おもしろいですね~!いい所です。


・・・国分寺

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右手の研究所内に水源、一般公開は年2回とか/国分寺市本町


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野川の水源/国分寺市本町

ここ「日立中央研究所内」の湧水が野川の始まりです。この坂のあたりは国分寺崖線(通称ハケ)の一部です。ハケ下の周辺には湧き水がいたるところに見られ、「姿見の池」「真姿の池湧水群」などの水が集まって野川の流れとなっています。(中央線の下を潜ります)


d0183387_18201309.png国分寺崖線
国分寺崖線は通称“ハケ”と呼ばれています。この崖線は古多摩川の浸食によって出来た崖の連なりで、国分寺市の西町五丁目あたりから目立ち始め、世田谷区あたりまで続いています。国分寺市にいちばんはっきりあらわれているので「国分寺崖線」と呼ばれていました。
(青:野川 茶:国分寺崖線のイメージ 点線:野川導水路ルート)

湧水
ハケ上の台地に降った雨は水を通しやすい火山灰層(関東ローム層)を通り、下の砂利層(礫層)にたまります。その下には水を通しにくい地層があるため、たまった地下水は砂利層を横に流れ、崖線のすそからしみ出してきます。これが湧水です。野川の両岸では旧石器時代から縄文時代の遺跡が数多く発掘されています。野川は古代から豊かな実りをもたらす大切な川であったのだとされています。(説明板)

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周辺地図


d0183387_18330291.jpg姿見の池/西恋ヶ窪
かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み清水を湛えていました。現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていたことから「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って身を投げた池といわれています。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。平成10年度東京都と国分寺市は、湿地、用水路、水辺林等を含めた池周辺地域を東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」として整備し、かつての武蔵野の里山風景を見ることができます。(国分寺市)


d0183387_18331779.jpg真姿の池湧水群(ますがた)
真姿の池は、東京都内では青梅市の御岳渓流と共に環境庁の「名水百選」に指定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部であり、東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されている。真姿の池の由来は、嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21日間参詣すると、一人の童子が現れ小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところたちどころに病は萎え、元の美しい姿に戻った。それから人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになったという伝説からきている。真姿の池は「新編武蔵風土記稿」に「広さ2間四方許、池中(ちちゅう)の狐嶼(こしょう)に弁天の祠宇(しう)を置、この池水も田地へそそく」とある。周辺の雑木林は下草の刈り払いが行われ管理が行き届いており国分寺崖線の雑木林景観が良く保存されている。国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約15mほどの崖線で「ハケ」と呼ばれている。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝である。(東京都教育委員会)

姿見の池・真姿の池などの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21908236/



・・・国分寺街道へ

東京都道133号小川山府中線

小平市(喜兵衛橋)と府中市(大國魂神社前)を結ぶ一般都道である。通称は国分寺街道(おおむね国分寺駅付近から府中駅付近まで)、欅並木通り(府中市街における別名)Wikipedia

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野川の風景① 先の不動橋で元町用水を合わせます/国分寺街道・一里塚橋手前

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不動橋                石橋供養塔

石橋供養塔の由来/国分寺街道・不動橋

石橋供養塔は天保3年(1831)に造立されました。不動橋は以前石橋でした。おそらくこの供養塔が造られたころ石橋になったのでしょう。石橋供養塔は常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災いが入り込むのを防ぐ意味があります。庚申塔は延享21745)年218日の記年銘があり、造立者として国分寺村講中と11人の個人名が刻まれています。延享2218日は庚申の日です。11人の人たちは3年間連続して庚申待を行い満願を迎えたのでしょう。「不動明王」と刻み込まれていますがいつ、誰が造立したのかは不明です。この石にちなみ現在の橋の名を不動橋としました。(国分寺市観光協会)


d0183387_18535586.jpg新次郎池/東京経済大学

池を取り囲むように5ヶ所から水が湧出しています。以前はわさび田として利用されていました。北澤新次郎学長(195767在任)の時代に池として整備され、新次郎池と呼ばれるようになりました。20031月、都内の名湧水の保全回復を目的として東京都より選定された「東京の名水57選」に選ばれました。湧水の良は季節によって変化します。(東京経済大学)

d0183387_19573023.png坂-①くらぼね坂

東経大東側、貫井神社の西。国分寺市との境界。今の貫井北町や小平、国分寺方面から府中方面に行くこの道は、急坂の東が切り立つような赤土の崖で、雨の降る時などは人も馬も滑って歩けなかったといわれます。鞍(馬)でも骨をおるとか「くらばね」断崖の連続した段丘崖を意味するともいわれ、諸説があります。(小金井てくてくマップ)
(赤:新次郎池 緑:くらぼね坂)






・・・・新小金井街道へ

小金井市
市のほぼ中央に位置する武蔵小金井駅を中心に、東西にJR中央線が、南北に小金井街道が走る。市内の殆どが住宅地であり企業が少ないベッドタウン型の市である。北に桜の名所として知られる小金井公園、南は崖の辺りの自然林、又武蔵野公園、野川公園、多磨霊園にも面しており周辺部には緑が多く残っている。市の南部を東西に走る国分寺崖線の「崖(がけ)」を地元では古くから「はけ」と呼んでいたが、その「はけ」と呼ばれる多摩川の河岸段丘の各所に湧水が見られる。段丘の北側は古来水の便が悪く、本格的に開発が始ったのは玉川上水の開削以降である。
Wikipedia

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野川の風景② ここから下流は両岸に遊歩道があり、川の中も歩けます/鞍尾根橋


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貫井神社/貫井南町3
祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 相殿:大貴己命おおなむちのみこと) 境内社:稲荷社、八雲神社、愛宕神社
はじめ弁財天と称したのを明治維新のとき、いまの社名に改称された。貫井発祥の地と伝えられる下弁天に鎮座してあった厳島神社(祭神市杵島姫命)に稲穂神社(祭神大貴己命)を合祀する。鎮座の年月日縁起など明らかでないが、古く創建されたものと推考される。社殿の彫刻など小金井市にはめずらしい建築であり、境内も市内有数の景勝地である。本社は間口、奥行とも5.46m、拝殿は間口5.46m、奥行3.64m。往昔は真明寺が累世別当職に任じ、祭紀の職を兼ねたが、明治2(1869) 1月、はじめて司掌をおいた。例祭は915日。『新編武蔵風土記稿』に「弁天社 除地八畝十歩、村の北にあり。その地に広さ二畝ばかりの池あり。その孤嶼に安んず。本社二間に一間半、拝殿三間に二間。前に木の鳥居を建つ。神体木の坐像三寸ばかり。弘法大師の作という」と記載しである。(「小金井市史」より)

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ひょうたん池
                貫井プール碑


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はけの道① 静かないい道ですね~/貫井南町

はけの道
金蔵院から二枚橋の崖線下約2kmをはけの道と呼ぶ、この付近は小説「武蔵の夫人」の舞台となった。(坂とはけの道めぐり)

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薬師道はけの道名所案内図
(黄:はけの道 青:野川 紫:新小金井街道・小金井街道 橙:連雀通り 緑:坂)


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坂-②さわらび坂            貫井トンネル/新小金井街道


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野川の風景③ 緑がいいですね~/貫井大橋(新小金井街道)

東京都道248号府中小平線
府中市と小平市を結ぶ一般都道である。全線で多摩南北道路2号線(府中清瀬線)に属する。小金井街道(都道15号府中清瀬線にほぼ並行して新たに建設されているため、新小金井街道と呼ばれる。Wikipedia


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滄浪泉園(そうろうせんえん)
浪泉園は 明治・大正期に三井銀行等の役員、 外交官、衆議院議員など歴任した波多野承五郎氏(雅号・古渓)により、武蔵野の特徴的な地形である「ハケ」とその湧水を取り入れた庭園を持つ別荘として利用されて来ました。その名の由来は大正8年、この庭に遊んだ犬養毅(雅号・木堂)元首相によって友人古渓ために名付けたのので、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」との深い意味を持っています。入口付近の石の門は木堂翁自らの筆によるもので、波多野氏の雅遊の友であった篆刻家足立壔邨(ちゅとん)によって刻まれたもので、萬成と呼ばれる大きな赤御影石が使われています。昭和に入って三井鉱山の役員であった川嶋氏の手に移り、茅葺の大きな家や長屋門などが風雅なたたずまいを見せていましたが、昭和52年に買収される直前取り壊されてしまいました。(パンフ)


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滄浪泉園の池


d0183387_23490375.jpgおだんご地蔵

このお地蔵様は正徳3年(1713)今からおよそ266年前、念仏供養のためにまつられたものです。何を見、何を想っているのでしょうか。素朴で柔和なお顔立ちは、このお地蔵様がたどって来た長い年月を私たちに語りかけてくれるかのようです。お地蔵様の足元にはエビネが自生し、5月頃には花のじゅうたんを敷き詰めふくいくとした香りを届けます。(案内板)


d0183387_23492473.jpg鼻欠け地蔵様
この石仏は寛文6年(1666)今からおよぞ313年前に庚申さまとしてまつられたので、市内でももっとも古いお地蔵さまです。信仰のため何度も触れられたからでしょうか、目や鼻などが欠け落ち、昔の人々の厚い信心が伝わってくるようです。背後の椿は樹齢100年を悠に越すと見られ、季節には真紅の花を散らせお地蔵様を飾ります。(案内板)

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園内マップ



・・・小金井街道へ

東京都道15号府中清瀬線

府中市から清瀬市に至る主要地方道(東京都道)である。通称は小金井街道・新小金井街道。Wikipedia


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崖線上は連雀通り(134号)が東西に、昔は江戸道といったそうです/小金井工校前

東京都道134号恋ヶ窪新田三鷹線

国分寺市東恋ヶ窪(埼玉県道・都道17号所沢府中線)交点から、小金井市を経て、三鷹市牟礼(都道14号新宿国立線)交点に至る一般都道である。通称連雀通りWikipedia


d0183387_23583746.jpg坂-③平代坂(へいだいざか)
商工会館西側から薬師通り)
万延か文久(186064)のころ、坂の東側に住む梶平太夫が玉川上水の分水を使って水車を回したので、平太坂と呼んでいました。いつのころかこれが平代坂といわれるようになりました。(小金井てくてくマップ)

d0183387_23564813.png平代坂遺跡・前原千佳式横穴
この遺跡は平代坂(上小金井村名主・梶平太夫の名にちなむ)周辺の武蔵野段丘上に立地しています。昭和465月、宅地造成の赤土の中から焼け石が発見され、本格的な調査が行われました。関東ローム層から8層に及ぶ旧石器時代(約35000年~15000年前)の人々の生活の跡と590点に及ぶ石器類が発見されました。また付近のB地点から縄文時代(約4500年前)の住居跡2軒が見つかっています。前原地下式横穴は室町時代の墓跡又は祭祀場とみられ、瀬戸焼、常滑焼の陶器類が出土しています。また、付近から古墳時代末期の横穴古墳(墓)が発見されています。(小金井市教育委員会)


d0183387_00004797.jpgどんぐりの森公共緑地(坂途中)

この緑地は緑豊かな環境をいつまでも後世に残し伝えるため、崖(はけ)に残る雑木林を中心として保全されている緑地です。園内にはどんぐりの実をつけるコナラやクヌギなど武蔵野の面影を残した貴重な緑地です。(説明板)


d0183387_00503830.jpg坂-④念仏坂
梶家東側~薬師通り)
昔、江戸街道から薬師通りへ通じており、農民が便利にしていたこの道は、狭く両側から笹や樹木が生い茂っていました。坂の中段東側に墓地があり、人はいつしか念仏を唱えながら通ったのでこの名があります。(小金井てくてくマップ)


d0183387_01015511.jpg幡隨院
慶長8年(1603)徳川家康が浄土宗・幡隨意白和尚を神田の台(現在の駿河台)に招き、神田山新知恩寺の号を与えて開山し、徳川家の祈祷所と定めました。昭和15年(1940)現在地へ移転、広いお庭が素敵です。(小金井てくてくマップ)


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坂-⑤白伝坊の坂(
連雀通り~第一小学校南東)
万延の頃(1860ごろ)から明治初めにかけこの坂の中段、西側にある墓地に「白伝」という僧が住み着いており、農家を托鉢に回ったのが由来といわれています。(小金井てくてくマップ)


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坂-⑥質屋坂(
前原坂上より斜めに下ります)
志木市から府中へ商人が往来した志木街道の旧道で、この街道では最も険しい坂でした。この坂に沿って幕末から明治の初めにかけて、当時の下小金井村の星野家が開いた質屋があったのが由来です。また坂が鍵の形に似ているところからかま坂ともいわれています。(小金井てくてくマップ)


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はけの道② ガード先の妙貫坂を登ると「六道の辻」になります/小金井街道

坂-⑦妙貫坂/小金井街道右側

前原坂上交差点はその昔「六道の辻」と云って六本の道が交差していた。そのうちの一本がこの道で畑や水田耕作のための農道であった。急な坂の東側に墓地がありその南側、現在のカシの並木があるあたりに明治の中ごろから大正の初めごろまで「妙観(貫)」といわれる僧が「庵」を造り住んでいたので妙貫坂といわれるようになった。(標柱)


by Twalking | 2016-04-08 12:19 | リバーサイド(新規)

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