無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく02 小金井(2)   

日時 2016.4.6(水)
天気 晴れ


小金井の後半は「はけの道」の坂を登り下りしながら
周辺にある寺社や緑地など見て回りました。
崖線周辺には緑が保存され野川の旧跡などが残ります。

野川公園は三鷹に住んでいた頃よく遊びに行きました。
近くに近藤勇の生家跡がありますが、甲州・日光・東海道など
で新撰組の足跡が必ず出てきますので、立ち寄りました。


・・・武蔵野公園へ

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はけの道③ 少し野川から離れますがのどかな道が続きます/金蔵院前


d0183387_00243114.jpg西念寺・
小金井三郎の墓/前原町
関東に3千人の子分を持ったといわれる侠客。三宅島へ流された際「小次郎井戸」を掘り島民に尽くしました。墓碑銘は親交のあった山岡鉄舟の筆です。(小金井てくてくマップ)



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金蔵院山門

d0183387_00305030.jpg金蔵院/前原町

新義真言宗豊山派。永禄9年(1566)中興といわれます。本尊は十一面観音。明治には公立小学校、大正では村役場として使われたこともあります。白い萩が見事です。(小金井てくてくマップ)


d0183387_00311038.jpg金蔵院のケヤキとムクノキ

金蔵院境内のケヤキ(左側)とムクノキ(右側)は樹形や樹皮の特徴からそれぞれ樹齢300年以上を経たものと思われ、幹囲・樹高とも市内では有数のものです。ケヤキはニレ科の落葉高木で、古くから防風・建築用材として屋敷の周りに植えられました。ムクノキはニレ科の落葉高木で、屋敷林によく見られます。秋には卵状球形の実を結び、熟すと黒く甘くなります。葉の表面がザラザラしており漆器や鼈甲(べっこう)等の表面研磨にも使われました。(小金井市教育委員会)


d0183387_10302134.jpg坂-⑧金蔵院の坂




d0183387_00350918.jpg旧谷口家のオニイタヤ/前原町

オニイタヤはカエデ科の一種、イタヤカエデの亜種で羽が大きく、裏面全体に毛があるのが特徴です。この種は関東地方では海抜1000mくらいの山地に分布し、斜面下部の湿潤な立地を好んで生育します。旧谷口家のオニイタヤは樹高14m、幹廻り4.2mの個体で、一部に腐朽が見られますが樹勢の衰えは見られず旺盛な育成をしています。国分寺崖線には山地から下降したこの種が稀に見られますが、ここに生育する個体もその例で、分布の希少性、その大きさから貴重です。(小金井市教育委員会)


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小金井神社参道

d0183387_00390357.jpg天満宮・小金井神社/前原町

主祭神 菅原道真 創立は元久2年(1205)武蔵国開拓の当時、里人が菅原道真公の鴻徳を敬慕し社殿を造り神霊を奉祀、天満宮と称したと伝えられる。宝暦元年(1751)本殿を改築、拝殿は明治22年に工事を始め5年の歳月をかけて明治279月に竣工。明治維新に天満天神と改称、更に明治312月に小金井の里の総鎮守として小金井神社と改称する。氏子区域は前原町、中町、緑町、桜町、本町の広い範囲に及ぶ。近年は学問の神様として篤く崇敬されている。(北多摩神道青年会)


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はけの道④ 緑地や果樹園などもあって静かな趣があります/中町



d0183387_00435222.jpg坂-⑨車屋の坂
(連雀通り・第一小学校南西~はけの道)

かつてここは2台の水車があった。西側には豊かな自然を残しており風情がある。(坂とはけの道めぐり)



d0183387_00455612.jpg坂-⑩白伝坊の坂
(連雀通り・第一小学校南東~はけの道)
万延の頃(1860ごろ)から明治初めにかけこの坂の中段、西側にある墓地に「白伝」という僧が住み着いており、農家を托鉢に回ったのが由来といわれています。(小金井てくてくマップ)


d0183387_00492341.jpg坂-⑪おお坂

江戸時代、国分寺へ通じる薬師道の起点となった坂。この坂の途中に美術の森と美術館へ通じる入口がある。(坂とはけの道めぐり)




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竹林の階段を下ると湧水の池があります/美術の森

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美術の森

この場所は、大岡昇平の小説「武蔵野夫人」のモデルになった場所で、小説にも描かれた当時の情景を今も変わりなく伝えています。国分寺崖線という武蔵野から沖積層低地へ移る斜面地で、ハケと呼ばれる崖下の砂礫層からは豊かな地下水が湧きだしています。たくさんの種類の動植物のすむ、この貴重な自然を末永く保存するため平成2年東京都市町村樹林地公有化資金の適用を受け保全した緑地です。芸術院会員でもあった洋画家・中村研一が後半生を過ごした屋敷跡を建築家佐藤秀三の設計による山荘風の旧宅「花侵庵」と名付けられた茶室がありました。一つ一つの草や木、石にも故人の愛情と思い入れがしみこんでいる場所です。(小金井市)


d0183387_00582505.jpgはけの小路
森の美術館から流れ出る湧水が敷石を連ねた「はけの小路」のせせらぎに流れ込み野川へ注がれてます。(小金井てくてくマップ)





・・・武蔵野公園

野川に沿って残る草原や雑木林を配した野趣に富んだ公園。東京都の各公園や街路に植える苗木を育てる苗圃をもち、散歩しながら木々の育成の様子を観察することができます。4月中旬には、園路沿いのサトザクラが見事な花のトンネルをつくります。また、浅間山公園・多磨霊園・野川公園、神代植物公園、深大寺、国立天文台などと一体になって武蔵野の森をつくっています。(むさしの都立公園HP)

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野川の風景④ 武蔵野公園
園内を貫流する野川はたくさんの魚や生き物によい環境を与えています。一部分は親水護岸となっており水遊びを楽しめるようになっています。また両岸には、春にはハナミズキ、秋には紅葉が楽しめ、バーベキュー広場や第一調節池にある「どじょう池」という名称のビオトープなど野川は訪れる人々の憩いの場となっています。(むさしの都立公園HP)

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くじら山

公園の一画にある小さな丘で、その形が鯨の背に似ているところからこの名がつけられました。野川の向こうに「ハケ」と呼ばれる崖線が見渡せます。北側には、「はらっぱ広場」として開放されている草地が広がります。何も無い広いはらっぱが、かえっていろいろなイベントに利用するのに好都合で、訪れる人にも広い空間がなによりの開放感を与えてくれます。毎年、夏休みには、はらっぱ広場と河川敷を使って地元の人達が「わんぱく祭」を催しています。 (むさしの都立公園HP)

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はけの道⑤ レンギョウの咲く径、大きな桜の木の下でお花見、最高ですね
 

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野川の風景⑤ 西部多摩川線の高架先から野川公園になります/二枚橋

二枚橋

その昔、小金井の東南の淋しい山道を流れる野川に調布や染谷を結ぶ一本の丸木橋がかかっていた。染谷の庄屋の息子は小金井の山守の娘と恋仲になり、夜毎この橋のたもとで逢瀬を重ねていた。やがて村中の評判となり頑固な庄屋の怒りを買うことになった。二人は実らぬ恋とあきらめ渦巻く野川に身を投げてしまった。暫くしてその娘の怨念が大蛇になって住みつき、もう一本の幻の丸木橋に化けて村人を惑わし通る人を川の中に落した。庄屋は若い二人の魂を哀れんで二人の供養にと、大木を二枚に挽き割って立派な橋を作りねんごろに霊を慰めた。以来、村人はこの橋を二枚橋と呼ぶ(案内板)



・・・野川公園


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野川の風景⑥ 左手が自然観察園になります/野川公園

野川公園

調布市野水12丁目、小金井市東町1丁目、三鷹市大沢236丁目にまたがる都立公園。園を東西に東八道路が横切っており、その北側を野川が西から東に流れる。もとは国際基督教大学(ICU)所有のゴルフ場であり現在でもかなりの面積で芝生が広がる。園南西部にテニスコート、西部にデイキャンプ場、南部にバーベキュー、駐車場、中央部に児童遊具施設(わんぱく広場)とアスレチック場を備える。東八道路と野川に挟まれた区域や東八道路以南の各所には武蔵野の森が多く残存する。Wikipedia

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大芝生 

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わんぱく広場             散策路

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野川のあらまし
野川は国分寺をみなもとに小金井、府中、三鷹、調布、狛江、世田谷と流れて多摩川に注ぐ約20kmほどの河川です。その流域には国分寺崖線と呼ばれる多摩川の河岸段丘(「はけ」とも呼ばれます)が連なり、その崖下からは清らかな湧水が湧きだしています。野川の流域には縄文あるいはそれ以前の遺跡があり、昔から多くの人々が生活していたようです。また、最近まで豊かな水を利用し稲作が行なわれ、ワサビも栽培されていました。今でも野川のまわりにはたくさんの野鳥や植物が見られ、豊かな自然環境が残されています。武蔵野の面影が残る水と緑の一体となった自然をいつまでも大切に守り育てましょう。(野川流域おすすめスポット)

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野川公園自然観察園案内板(赤丸:入口 橙:東八道路)

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園内マップ
(赤:ルート 橙:人見街道 黄丸:龍源寺・近藤勇生家跡)



・・・新撰組ゆかりの地へ

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龍源寺/三鷹市大沢
曹洞宗、府内高安寺
末。箕輪将監の開基で箕輪家の墓所守であったという。創建年月は不明だが、開山の家山明伝の寂年は承応元年(1652)である。本堂うらの墓地には東京都旧跡・近藤勇の墓がある。(三鷹市史)


d0183387_11484203.jpg近藤勇の墓
天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって28歳で天然理心流四代目を襲名した。文久3年(1863)土方歳三らと京都に上り、慶応3年(1867)大政奉還までの4年間新選組として活躍した。京都、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。慶応4年(明治元年)425日板橋宿で処刑された。享年35歳。法名は貫天院殿純義誠忠大居士。(三鷹市教育委員会)

d0183387_11493476.jpg近藤勇と天然理心流

この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した近藤内蔵助長裕が創始した『天然理心流』の四代目を継いだ剣豪です。その真髄は「誠の剣」であり、「力の剣」であると言われています。古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。『天然理心流』の木刀五本の形と柄砕三組の演武のフィルムが日本武道館の古武道協会に永久保存されています。三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。(三鷹市剣道連盟会長 石川金次)



d0183387_14451144.jpg近藤神社/調布市小島町
近藤神社は徳川将軍家のために忠誠を貫いた近藤勇を尊び、昭和初期に東京一円の有志たちによって近藤勇の生家跡に建立された。その後、荒れるにまかせていた社を一時別の場所に移設していたが、昭和52年に生家跡が市の史跡に指定されたのを受けて、昭和54年に戻したものである。(調布市観光協会)

d0183387_14464959.jpg近藤勇生家跡/調布市小島町
この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は天保5年(1834)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。15歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。当時、宮川家の屋敷は面積約70002の広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は屋敷の東南部に位置し、昭和18年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。(調布市教育委員会)

d0183387_15581637.png新選組局長・近藤勇
近藤生家「宮川家」
天保5年
(1834 109日、武蔵国多摩郡上石原村辻(現在の調布市野水1丁目)の宮川家に3人目の男子が生まれ、勝五郎と名付けられた。 天保9年 (1838)の上石原村「宗門人別五人組帳」によれば、宮川家は多摩郡大沢村龍源寺の旦那(檀家)で、家族構成は百姓源次郎(宮川家の当主は代々「源次郎」を名乗った)67歳を筆頭に倅の久次郎、40歳(近藤勇の父)、娵(よめ)のみよ37歳(勇の母)、孫の音二郎9歳、粂蔵(くめぞう)7歳、勝五郎5歳の6人であった。宮川家は裕福な農民であったといわれているが「宗門人別五人組帳」の記載をみる限りでは、石高は七石一斗二合で上石原村では中間的な階層に属していた。(写真:生家の説明板)

d0183387_12045007.jpg天然理心流入門、近藤家養子に
龍源寺にある「神文血判帳」(近藤周助の門人帳)によれば、宮川家の三兄弟は嘉永元年
1848 1111日に揃って天然理心近藤周助の門人となっている。嘉永2年6月に周助が宮川勝五郎に与えた目録も龍源寺にある。同年1019日付けで周助から上石原村の源次郎(勝五郎の父)宛に養子縁組の書状が出され、勝五郎は入門後あまり時を経ずに天然理心流を継ぐため周助の養子となったことがわかる。養子になって周助の旧姓島崎を名乗り名前も勝太と改めた。安政4年(1857 )頃までには島崎勇となり、万延元年(18603月に松井ツネと結婚した。その後近藤勇を名乗り、文久元年(18618月、府中六所宮(大国魂神社)で天然理心流四代目の襲名の野試合を行い、翌年には一人娘の瓊(たま)が生まれた。
(写真:龍源寺入口の近藤勇像)

d0183387_15375507.jpg浪士組に参加して京へ、そして 新撰組結成
文久3年
(1863 2月、近藤勇は上洛する将軍・徳川家茂警護のために編成された浪士組に道場の門人たちと共に参加したが、浪士組が江戸へ戻ることになった時、京都残留の嘆願書を提出し京都守護職の任にあった会津藩預かりとなり、京都市中の見回りに当たることになった。以降、慶応4年(18681月、隊士と共に江戸に戻るまで当時政局の中心となっていた京都で新選組局長として活躍した。
(写真:東海道本宿・法蔵寺にある「近藤勇首塚」に建つ近藤勇像 関連記事は琴こちらへ「http://teione.exblog.jp/21175789/」)

d0183387_15010111.jpg近藤勇、板橋で死す
慶應4年
3月、甲陽鎮撫隊が甲州街道を甲府へ向かう途中、大久保剛と名を変えた勇は上石原の鎮守である上石原若宮八幡神社を遥拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、慶応4年425日に板橋において刑死した。勇の甥・宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷(慶応年12月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人びとは野川にかかる相曽浦(あいそうら)橋で迎えたと伝えられている。龍源寺の近藤家墓所には、勇の一人娘瓊と結婚して近藤家を継いだ勇五郎やその息子の久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新選組隊士だった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。(調布市教育委員会
(写真:中山道・板橋駅南口にある「近藤勇と新撰組隊士の供養塔」関連記事はこちらへ「http://teione.exblog.jp/21122165/」)


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近藤勇生家(宮川家)復元模型/調布市郷土資料館


d0183387_16280603.jpg近藤道場撥雲館/調布市小島町

豪農で篤農家でもあった近藤勇の父・宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺小屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を開き、勇兄弟をはじめ近在の子弟を集めて学問や武術を指導していた。天然理心流は近藤長祐を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古していた。小技より気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。三代目近藤周助は月に23回招かれた久次郎の道場に通っていたが、勇の度胸と技量を見込み、近藤家の養子として迎い入れた。勇16才の時であり、28歳で4代目を襲名した。勇が近藤家に入ってからは、高弟や後の理心流達人と云われた長兄の子・宮川勇五郎(勇の養子となり五代目を襲名)等が主となって多摩一円の門人を指導、その数三千人とも云われている。勇五郎は、父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場としていた。この道場が「撥雲館」である。その名の由来は、ある時ここを訪れた山岡鉄舟が命名し看板に揮毫したと伝えられている。「撥」は「とりのぞく」という意味を持つが「撥雲」という館名は暗雲を取り除くと言う意味で、当時の世相からうなずけるものである。「撥雲館」はその後手狭になったため、門下生の協力で昭和7年北側空き地に改築し盛大な道場開きが行われた。しかし、勇五郎はその翌年83歳で亡くなった。その後も道場は門人たちの手で医事され、稽古は続けられた。太平洋戦争が始まり、調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅取壊しの際にも、門人達の熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峰岸家の土地に移築された。戦後になって人見街道の拡幅のため再移転する時、再び近藤家敷地内の現在地に移築され今日に至っている。(調布市教育委員会)


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人見街道/御狩野橋

人見街道

府中市と杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」。人見街道の名は「人見村」を通って府中へ至る道であった説、府中市の北東部の地名「人見」ないし、その地域の一族「人見氏」に由来すると言われるが、さらに人見の北にある浅間山の別名が人見山であってそれが由来であるとする説もある。Wikipedia


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野川の風景⑦ 左岸には深大寺の丘陵、右岸は調布飛行場になります/相曽浦橋


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野川公園周辺案内図
(青:野川 橙:東八道路・人見街道 紫:旧甲州街道 赤丸:源流・近藤勇生家)



by Twalking | 2016-04-09 17:37 | リバーサイドウオーク(新規)

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