無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく03 深大寺   

日時 2016.4.6(水)
天気 晴れ

深大寺は毎年、初詣でお参りする神社です。
いつもは車ですから境内周辺だけでしたので、
今回は周辺をじっくり歩いてみました。

青渭神社、深大寺城址は訪ねてみたかったところ、
武蔵野の面影が残るいい道がついていました。
野川の川辺と丘陵を組み合わせると面白いと思います。


・・・三鷹

武者小路実篤、三木露風、山本有三、太宰治など多くの作家たちが住んだ街として知られる。北東に位置する井の頭地区には井の頭恩賜公園および井の頭池があり、東南方向に流れる神田川は井の頭池を源流とする。武蔵野市との境界を東南方向に流れる玉川上水は、万介橋から井の頭公園を横切り、牟礼地区を流れる。大沢地区の南側には野川が流れ、流れの北側に国分寺崖線という河岸段丘が存在する。また、上連雀地区・下連雀地区から新川地区を横断する仙川がある。
三鷹の名は、かつて徳川将軍家および御三家が鷹狩を行った鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来する(三領の鷹場)といわれている。旧三鷹村役場火災による資料焼失のため詳細は定かではない。Wikipedia


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野川の風景⑧ 水車の風景、和みます。近くの農家で本物を見れるそうです/飛橋


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出山横穴墓群第八号墓/大沢(ホタルの里)

三鷹市から国分寺の地域は東京都内でも横穴墓が数多く存在している地域です。三鷹市南西部には、国分寺市崖線およびその開折谷の一部に650基ほどの横穴墓が確認されています。本横穴墓群もこの6群中の一つで、野川左岸の浅い谷に面した国分寺崖線の西側斜面上部に占地しており、10基の横穴墓が確認されています。第八号墓は平成5年に三鷹市教育委員会によって確認調査が実施され、大型の石を入口部にアーチ状に積み上げるという特徴を持つ横穴墓であることが明らかにされました。第八号墓は、墓前域、石積み構造の羨門、羨道、前・後室の玄室からなります。玄室には礫が敷き詰められ4体の人骨が確認されました。7世紀中頃の須恵器の平瓶も出土しています。羨門部の大型の川原石をアーチ状に石積みした入口構造は珍しいもので、その中を川原石の礫で閉塞しています。玄室の残りも良く人骨も良好な遺存状態であったことなどから、保存して公開する施設となりました。(東京都文化財情報データベース)

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ハケの散歩みち-野川・深大寺コース(延長5.2km)

「雑木林」という言葉は、なんとなく心になごむ“ふるさと”につながるような味わいを持っています。国木田独歩があの「武蔵野」で賞楊した武蔵野の風景は、コナラやクヌギなどの樹種からなる雑木林や畑、水田、屋敷林が野の道や用水、崖線の緑によってつづられて構成された“農”の風景でした。しかし都市化の進展により、広く都民に親しまれてきたこのような景色は現在ではほんの一部の地域に残っているだけです。東京都では多摩東部地域に残る雑木林を保全し、この雑木林を中心として「雑木林の道」事業を進めています。「雑木林の道」は10コースで構成され、どのコースも半日あればゆっくり散策できる長さです。このコースは「野川・深大寺コース」で、野川の流れと深大寺周辺の崖線に残る雑木林を訪ね、古代多摩川によって形成された国分寺崖線に残る林で、ところどころに湧水があり、それと結びついた“農”の風景が今も見られます。(東京都環境局)
(青:野川 橙:人見街道 赤:深大寺・深大寺城)

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野川の風景⑨ 桜と菜の花の競演、華やかです/八幡橋手前


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古八幡社

祭神、応神天皇。祭礼日911日。創建年代は不詳であるが、現在の大沢八幡神社のもとになった地に、慶長3年(1598)長久寺境内に遷座後改めて奉祀したものと推測され、そこに現在の八幡神社に対して古八幡社と呼ばれるゆえんであろう。(三鷹市史)



・・・深大寺(調布市)

深大寺と神代植物公園(調布八景)
深大寺は天台宗の古刹です。江戸時代に書かれた縁起によると、天平5年(733年)に満功上人が開山したとなっています。神代植物公園は広さ47万平方メートル余りの中にバラやウメ、ツツジなどの花園と大温室や植物会館があり、植物は4,50010万株にのぼります。(調布市)

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深大寺
調布市深大寺元町五丁目にある天台宗別格本山の仏教寺院である。山号は浮岳山。日本三大だるま市の1つ「深大寺だるま市」で知られている。隣接する都立深大植物園は旧寺領であった。「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)を旅した中国僧玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来していると伝えられている。天平5年(733)満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。859年、天台宗に改宗する。1646年と1865年に火災に遭っており、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正年間の再建である。本尊は本堂に安置の阿弥陀三尊像。東京都では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。Wikipedia


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元三大師堂

慈恵大師(元三大師)像を安置しているのがこの大師堂です。江戸時代の大師堂は本堂の西南(新しい手水屋の在る辺り)に東向きに建っていましたが、幕末の火災で類焼したので本堂西の崖地を削って造成した敷地に位置を移して再建されました。被災直後の慶応3年(1867)に本堂をさしおいて復興されたことは、厄除元三大師がいかに多くの信者を集めていたかを物語っています。大きさはもとのお堂と同じくらいで、正面柱間は三間、側面四面、周囲に縁をめぐらしています。内部はもとは奥一間が仏壇で、その中央に火災を免れた厨子に慈恵大師像が安置されていました。現在、天蓋風の荘厳があるところがもとの厨子のあった位置です。昭和49年の改造では、内部を広くするために仏壇を後退させ、厨子の部分は堂の背後に突出する建物として新築しましたが、厨子の正面は江戸時代のものをそのまま用いています。また平成元年までの数回の改造増築で、両側の政所、縁の張り出しが行われました。(深大寺HP)


d0183387_21595017.jpg深大寺山門
桁行3.55m 梁間2.32m 建物は一間薬医門、切妻造、茅葺である。主柱、控柱ともに丸柱、上下粽付、下に礎盤を履き、薬医門特有の前寄り屋根を構成する。この門は和様を主調とするが、禅宗様(唐様)を併用し、一部に大仏様(天竺様)も巧みに取り入れた意匠的にも優れた建物である。深大寺は、慶応元年(1865)の大火によって建物の大半を失った。この山門はその時の災禍を免れた建物の一つであって、寺で保管する元禄8(1695)の棟札によって建立年代が明らかである。(調布市教育委員会)


d0183387_21595862.jpg梵鐘(国宝)
永和2年(1376)山城守宗光なる人物が鋳造した旨の銘があり、都内では3番目に古い。総高125.5cm、口径68.8cm、銅製。ひび割れなどの影響から平成13815日に新しい梵鐘が新鋳され、現在は釈迦堂に保管されている。Wikipedia



d0183387_22110044.jpg深沙堂
恵みの水神として祀られる本尊、深沙大王像は当山開基満功上人の作で、縁結びの神としてもあがめられています。(案内板)






d0183387_22132931.jpg不動堂

明治17年再建の堂宇で、本尊の不動明王ならびに二童子像は幕末の深大寺炎上の際にその難を逃れ、以来深大寺の仮本堂に安置されていたことが深大寺所蔵の『不動堂再建願』なる文書の記載から判明しています。幕末の頃より不動堂には独自の信徒講中が組織されていたようで、堂宇の再建も信徒の力によるところが大きかったようです。不動堂境域には東京都の名湧水57選にも入る「不動の滝」など見どころも多く、毎月28日には深大寺僧侶によって不動護摩供が修されます。(深大寺HP)


d0183387_22134520.jpg開山堂
この開山堂は、昭和58年(1983)の深大寺開創1250年記念事業として新築され、遙か天平の開創に思いを馳せる奈良時代様式のお堂です。ご本尊は薬師瑠璃光如来。脇侍に弥勒簿菩薩と十一面観音を奉安し、深大寺を開いた満功上人像と、宗派を天台宗に改めた大楽大師恵亮和尚像をそれぞれお祀りしています。毎月15日の午前9時より開山忌法要が執行されます。 深大寺の隆盛に因んで出世開運のご利益があります。(案内板)

d0183387_22134951.jpg延命観音
格子奥の大石に延命観音の御影が彫られています。これは昭和41年、秋田県像潟港の工事に際し海底の大石を引き上げたところ、表面に延命観音が彫られていることが判明しました。これは第3代天台座主の慈覚大師円仁が自ら刻まれたと伝えられるもので、縁あって発見の翌年深大寺に寄進され、当地に奉安されることになりました。毎月18日午後1時から厳修される延命観音供は多くの参詣者で賑わいます。(説明板)

d0183387_22141191.jpg大黒天・恵比寿像

深沙堂参道に七福神の恵比寿尊と大黒天の、まさに丈六仏を思わす大石像があります。この尊像は当山篤信総代であった故御林清一氏の邸宅の入り口に祀られていたものですが、平成18年に縁あって当地に遷座されました。(深大寺HP)



d0183387_22212337.jpg金銅釈迦如来倚像
飛鳥・白鳳・天平の三期の中で白鳳の仏像文化は飛鳥期と共に重要視されており、飛鳥仏の神秘的ながらややかたい美しさに対し、白鳳仏は豊満で清楚な流動美をたたえています。当山奉安の尊像は白鳳期の代表作と称され、殊に関東に伝わった経緯は不明ながら天平5年の当山開創の頃の本尊仏と推定されています。(案内板)




d0183387_22240430.jpg深大寺元三大師参詣の道標
深大寺の元三大師堂(がんざんだいしどう)にお参りに来る人たちのために、道しるべとして、元禄161703)年に常花講の人たちが建てたものです。元三大師とは、天台座主の慈恵大師(じえだいし)のことで大師には悪魔調伏(じょうぶく)の力があると信じられていました。毎年33日・4日には、厄除け・諸願成就の護摩供養が行われています。この道標は、もとは仙川町2丁目の甲州街道沿いにありましたが、道路拡幅により、深大寺の境内に移されました。(調布市)

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深大寺門前の風景 左が鬼太郎茶屋になります

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江戸名所図会 深大寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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深大寺地区案内図



・・・青渭神社

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はけの道⑥ 左手に坂を上ると青渭神社になります/多聞院坂(右)

d0183387_10070830.jpg深大寺小学校発祥の地
深大寺小学校は明治5年の学制令に基づき、深大寺村戸長・富沢松之助と浅田種蔵など村内有志がはかり、深大寺の末寺であった多聞院の建物を借りて、明治6年(1873)に設立された。このあたりが多聞院のあった場所であり、深大寺小学校発祥の地である。この地つづきに建つのが現在の深大寺小学校である。開校当時は「弘道学舎」と称し、その後「階梯学舎」と改称され「深大寺小学校」という名に改められたのは明治8年のことである。開校当時の生徒数は男子43名、女子16名で職員は3名であった。深大寺、佐須、柴崎の三村を学区としたという。(標柱)


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d0183387_23080776.jpg青渭神社(あおいじんじゃ)/深大寺元町
(主祭神名)青渭大神(水神様) 
(由緒)創立年月日は不詳であるが、往古(三千年~四千年以前)先住民が水をもとめ居住した際、その生活に欠くことの出来ない水を尊び、祠を建て水神を祀ったものと伝えられている。御祭神は水波能売大神・青渭押比売命、又一説には社前大池に棲む蛇を祀ったとも云われている。神社明細帳等によれば、当社は延喜式神明帳所載武蔵国多摩郡八座の内にて、官祭の社で重き御社であったと伝えられている。往古は社前におよそ五町歩余の境内地があり、大池に混々と湧水あり、音波をたたえていた所から、青波天神杜とも称された。旧深大寺町の総鎮守である。尚杜前に槻の老樹がそびえ、市内随一の巨木で、調布市文化財天然記念物に指定されている。(北多摩神道青年会)


d0183387_23072231.jpg青渭神社のケヤキ
神社の境内、拝殿の右前方道路に近く鳥居の横にある。幹は目通りおよそ5.5m、高さ34m。樹齢数100年の老樹であるが現在なお樹勢旺盛である。ケヤキは古名では槻(ツキ)といい『新編武蔵風土記稿』に「社ノ傍ニ囲一丈五尺アマリノ槻の老樹アリ」と、また『江戸名所図会』にも「社前槻の老樹あり、数百余霜を経たるものなり」などと見えて、文化文政の頃からすでに目立つ巨木であった。なおケヤキは武蔵野の防風林として特色を持っている。また社前を「池の谷戸」とよばれ昔は青波をたたえていたという。この附近から主として縄文時代中期の土器が発見され、殊に打製石斧が多量に出土したのでその製造所があったと推定されるなど、古代人の住居跡である。(調布市教育委員会)

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江戸名所図会 青渭社・虎狛社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・深大寺城(深大水生植物園)

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第二郭には発掘された建物跡が残ります
(建物跡) 
この石柱は発見された堀立柱、建物のうち2棟の柱穴の位置を示しています。建物は武士の屋舎であろうと考えられています。一般に戦国時代の城の建物は丸柱、板葺屋根で、床の中心的な屋形のみにあったといわれています。(説明板)


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第一郭入口には「都旧跡 深大寺城址」の石柱が建っています

深大寺城
深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、3つの郭からなる戦国時代の城跡である。台地の東側には開析谷によって形成された90m幅に及ぶ湿地帯が広がり、西側にも湧水を集めた支谷があり、南側は比高約15mを測る国分寺崖線によって画され、南方に多摩川とその対岸を望見することができる。城跡の北側の谷を挟んで古刹・深大寺が所在する。深大寺城跡は、戦国時代、関東の覇権を争う小田原北条氏と扇谷上杉氏の攻防のなかで、扇谷上杉氏方が造営した城跡である。文献に深大寺城の名が見えるのは戦記物『河越記』が初見とされ、『相州兵乱記』『北条記』『北条五代記』『鎌倉九代後記』にも記述がみえる。それらによると、深大寺城は大永4年(1524)北条氏綱によって重要拠点の江戸城を奪取された扇谷上杉朝興の息子朝定が、家臣の難波田弾正に命じて、天文6年(1537)多摩川を挟んで北条氏方の拠点の一つであった小沢城跡に対抗する位置に所在する「深大寺のふるき郭」を再興したものとされる。しかし北条氏綱は深大寺城を攻めずに同年7月、直接扇谷上杉氏方の河越城を攻め、朝定は松山城跡に敗走した。これによって一気に勢力図は塗り替えられ、深大寺城の軍事的意義は喪失、そのまま廃城となったと考えられる。
(小沢城関連記事はこちらへ http://teione.exblog.jp/22733570/


深大寺城跡に考古学的調査が入ったのは昭和33年以降であり、昭和44年まで深大寺城跡調査団によって発掘調査・測量調査が断続的に実施され、その後、平成67年に東京都教育委員会により、平成1718年度には調布市教育委員会によって発掘調査が行われた。それらによれば、城の縄張りは南北方向の堀と土塁により遮断された直線連郭式で、舌状台地最東端の土塁に囲まれた第1郭が主郭と考えられ、その西側の郭の2郭、さらに3郭が続く。

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(第一郭跡) 
この第一郭は江戸時代の「本丸」に当たる部分で、その構造がよく残っており周りに見える土塁(土を持った所)と右に見える空堀は外敵の侵入を防ぐ施設でした。深大寺城は半島状の台地の先端に位置しており、当時は南(左方向)が一望できる場所でした。(説明板)


1郭は郭のほぼ全周に土塁を廻らし、北東から南東にかけて自然の崖を障壁とし、北西から南西までの第2郭との間に堀を設ける。堀は北端と南端で崖に掘り落としてあり、その深さは78mに及ぶ。郭内部の規模は東西約50m、南北約90mを測る。土塁は北西付近で屈曲し、この屈曲部は西側にやや張り出した構造となっており、櫓台とも考えられる。土塁北側中央部に虎口が開く。東側土塁の斜面中腹には細長く延びる腰郭が付く。郭内で掘立柱建物4棟が検出されている。

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土橋                 空堀

土橋・空堀 
この土橋は空堀を渡り第一郭と第二郭を結ぶ道路に使われた土手を復元したものです。当時の空堀はもっと深く斜面は急傾斜であり、土橋は今より幅の狭いものでした(下図)が、埋設保存のためこのような形で復元しています。(説明板)

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d0183387_11471068.jpg2郭は、第1郭との間の空堀と約50m西側に掘られている堀との間に位置し、北東から南西まで約120m、東西間は約50mの規模である。土塁・堀を伴い、郭南辺の土塁中央部に虎口が開く。掘立柱建物9棟を検出した。第2郭では2時期の堀跡が確認された。第3郭は、東西幅約100m、南北幅は土地の改変があり不明である。土塁・堀が確認され、南西付近に虎口があったものと考えられる。

城跡から出土遺物は多くはないが、1500年以前、下っても16世紀前半代の青磁碗、瀬戸・美濃系天目茶碗、擂鉢などが出土し、2時期検出した堀跡の存在なども合わせると、第1期堀の構築時期に相当すると考えられる。文献に知られる「ふるき郭」が15世紀代に築造され、第2期堀や建物など現存する城郭遺構が構築されたと判断できる16世紀前半期の段階が、扇谷上杉朝定の築造した段階に相当するものと思われる。また武蔵国内の多くの城館が小田原北条氏の勢力下で改変されている中、深大寺城では改変は認められず、扇谷上杉氏系の築城技術を残すものと考えられよう。
このように、深大寺城跡は、16世紀前半、南関東を舞台に繰り広げられた小田原北条氏・扇谷上杉氏攻防のなか扇谷上杉氏が築造した城跡であり、小田原北条氏による改変を受けず扇谷上杉氏系の築城技術を残す16世紀前半期までの希少な城館と考えられ、関東における戦国大名及び城郭の変遷を知る上で貴重なものであることから、東西約230m、南北約250mの範囲を史跡に指定して保護を図ろうとするものである。
(文化遺跡オンライン

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深大水生植物園の風景 左手台地上が城址になります


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園内マップ



・・・榎木橋から布田・調布へ

布田(ふだ)

和名鈔(平安時代に成立した分類体百科事典)に新田「爾布多(にふだ)」とあったのを、のちに爾を略して布多と書き、さらに「多」を「田」に改めました(新編武蔵風土記稿)が、「府田」「捕陀」と書かれたこともあります。室町時代に、深大寺の住僧・長弁によって書かれた「私案抄」の中には「布田郷(ふだのごう)」として出てきます。多摩川の対岸にも布田という地名が今でもあります。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)


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野川の風景⑩ 夕暮れの野川も静かで趣があります/橋場橋付近(深大寺元町)


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中央道と東電富士見橋         榎木橋から布田へ


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國領神社

創建年月は不詳であるが、元国領町百四十八番地に鎮座し、『新編武蔵風土記稿』に「第六天社小社当宿の鎮守なり、除地の内北方にあり本堂(常照寺)を距ること凡そ二町」とある。御社殿は六尺に四尺の小社で、国領の鎮守社として崇敬されてきた。現在地に鎮座する神明社は、もとは多摩川の畔羽毛田、杉森の地に荻窪、小川、小林等の一族が鎌倉より移住し、この社に国土安定、五穀豊穣を祈願し、一族を挙げて敬神の念深く、たびたびの多摩川の洪水のためこの社とともに樹木のうっそうとして、特に藤の大木の茂い繁る現在地に奉祀したといい伝えられている。(北多摩神道青年会)

d0183387_13184706.jpg国領神社の千年富士 
神社の大木の藤は毎年初夏5月には華麗な花を咲かせる「ちょうふ八景」のひとつで、千年藤といわれています。本社はもと八雲台小学校北裏にあった国領神社と現在地にあった神明社を合祀して、昭和38年に新社殿を造営し遷座しました。(案内板)



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調布不動尊・常性寺/国領町

常性寺は正式には「医王山長楽院常性寺」と称し、鎌倉時代に創建された由緒ある寺院です。往古は多摩川沿いに壮麗な諸堂が建立されていましたが、安土桃山時代を経て江戸時代に入ったころ、旧甲州街道沿いの現在地に移築させられました。その後、中興の法印祐仙が、上総国成田山新勝寺より成田不動尊を勧請したのが始まりとされています。以来、「調布不動尊」と称され広く皆様に親しまれています。(常性寺HP)

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不動堂                地蔵堂


d0183387_14060862.jpg小橋馬頭観音塔

馬頭観音は六観音の一つで、破邪顕正、人々の煩悩を断つなどの功徳をもつ仏とされるが、頭上に馬頭をいただくことから、民間では馬の守護神として江戸時代中期以降広く信仰されるようになった。馬頭観音塔は、念仏供養、道供養として建立されるが馬の供養のため建てられることが多い。この塔は甲州街道の小橋(現馬橋から西50m)の「すてば」にあったものを、甲州街道の拡幅で再度にわたり移動し現在地に安置された。(すてばとは馬などの埋葬地である)この塔は、文政7年(1824)市域および近隣の19か村のほか、八王子の嶌(縞)買中などが協力して造立したものである。馬頭観音の像を彫った供養塔は市内でも珍しく、また商人を含む多数の村民が造立したことも知られる貴重な像塔である。(調布市教育委員会)


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蓮慶寺本堂

蓮慶寺/調布市布田
当山蓮慶寺は、日蓮宗大本山池上本門寺の直末で、山号を惺誉山と云う。開山は池上本門寺第十二世佛乗院日惺聖人(遷化慶長376日、1573年)その法号を正天院日誉と云う。開山と開基の法号にちなみ惺誉山と称する。過去帳史料によると、もと真言宗閻魔寺を中将出羽守が永禄年中改宗し草創と伝える。今開山日惺聖人筆慶長3年の御曼荼羅本尊を寺宝としている。江戸時代に入り、徳川三代家光将軍家より慶安4年御朱印地が下賜され、以降歴代将軍家の菩提を回向する御朱印寺として、赤門設立と住職の乗駕が許されてきた。今歴代将軍葵紋付き位牌と香炉を現存し法灯現住職第49代を経てきた。草創以来三世紀の間、当山檀信徒の護寺丹精は永く伝統を継承してきたが、歴史の風雪は本堂、山門を老朽化させた。ために今日の当山檀信徒は異体同心、結願して昭和42年本堂の大改修を完成させ、更に宗祖第七百年遠忌の報恩事業として赤門復興の浄願を発起して全檀信徒による勧募浄財によって昭和54415日祥当七百年を前にして完成をみた。復興とはいえ伝統と檀信徒先祖の威霊を宿す四脚門の旧赤門を取り毀すにあたり、惜別の情迫るものがありここに冠水門部分のみを保存し後世への遺産とした。(説明板)

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現山門                旧赤門


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街道風景 旧甲州街道を調布駅へ/布田宿(布田駅入口)

by Twalking | 2016-04-11 21:59 | リバーサイドウオーク(新規)

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