無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく04 佐須   

日時 2016.4.20(水)
天気 晴れ

午後から調布で集まりがありましたので、
その前に前回寄れなかった佐須界隈を訪ねました。

瀧坂道の終点は甲州街道の瀧坂ですが、それ以前は
国分寺崖線を北に進み人見街道から府中へだったようです。
佐須の虎狛神社祇園寺、狛江入道館跡など見どころ一杯、
ハケ下の深大寺自然広場もいいですよ~。。。


・・・調布


万葉集(巻143373・武蔵国歌)に「多摩川にさらす手(た)づくりさらさらに 何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」と布を晒(さら)すかわいい乙女に恋焦がれる様子をうたった詩があります。多摩川に近いこの地域では、古代にその土地の生産物を納める税(調=「みつき」ともいう、調とは税金のこと)として、布を晒(さら)して朝廷に納めたと考えられ、これが調布の名の由来とされています。「たづくり会館」はこの詩から取ったものです。「たづくり」とは手作りのことです。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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布田天神へ続く参道、ここは楽しいですね/天神通り商店街



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常行院大正寺/調布ヶ丘
開山は奈良時代と言われている。古くは上布田宿境にあった三栄山不動院寿福寺、下布田の紫雲山寶性寺、上布田の広福山常行院栄法寺の三寺を大正4年に合併し、開山時の年号に因み、三栄山常行院大正寺として創設された。栄法寺は、明治初年神仏分離のときまで布田天神の別当であった。本堂は(旧)山門とともに栄法寺より移築せるものにして文政10年の建築である。(調布七福神)

d0183387_12590484.jpg布田郷学校跡
郷学校とは、江戸時代中期ごろから明治時代前期にかけての教育機関のことで、寺子屋や私塾より公共性が高く、近郷でも数校を数えるにすぎない特色ある教育施設であった。布田郷学校はそのなかの一つで、上布田の住人原豊穣の設立した育英学校を、明治4年(1871)栄法寺を校舎として開設された。栄法寺は大正4年、町内の他2ヶ寺と合併して現在の大正寺と改名されたが、山門、本堂は寺域の北にあった栄法寺のものを今の位置に移築したものである。布田郷学校は、発足するにあたり原豊穣等五宿の有力者たちが中心となって、近郷の村々の協力を得て開校したものであるが、この郷学校は養豚所を経営することによって得た収益を学校の運営費にあて、授業料を一切とらなかったという特色のある学校であった。養豚所の経営不振から明治7年閉鎖し、公立布田学校(現在の第一小学校の前身)となるまで、公立学校に代わる重要な役割を果たしてきた。(調布市教育委員会)


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d0183387_13100095.jpg布多天神社/調布ヶ丘

当神社は延喜式神明帳「第60代醍醐天皇の延長5年(927)につくられた書物」にも記されている。多摩郡でも有数の古社である。もと多摩川畔の布天神というところにあったが、文明(1469-87)年間多摩川の洪水を避けて現在地に遷座された。そのとき祭神少彦名命に菅原道真公を配祀したと伝えている。また往古、広福長者という人が当社に77日参詣して神のお告げをうけ、布を多摩川にさらし調えて朝廷に献った。これが本朝における木綿の初めという。帝この布を調布と名づけられ以来、この辺りを調布の里とよぶようになったといわれる。ちなみに本殿宝永3年(1706)、覆殿昭和40年、幣殿拝殿向拝は昭和60年の造営にかかる。(社殿約170m方米)725五日の例祭日には奉納神楽があり境内は市がたち参拝者で賑わう。末社に大鳥神社、金刀比羅神社、祓戸神社、御嶽神社、厳島神社、稲荷神社、疱瘡神社がある。(説明板)

d0183387_13100566.jpg布田天神社本殿一棟、附棟札一枚

本殿は覆屋内にあり、外から見ることはできないが一間社流造で桁行一間、梁間一間の身舎の前に向拝の付く小社である。向碑の柱頭に象鼻や獅子頭を飾る。軒は二軒、本繁垂木。屋根はこけら葺きである。当本殿は、小社ながら装飾等に江戸時代中期の特色が見られ、社蔵する宝永3年(1706)の棟札から建立年代が明らかであることも貴重である。(調布市教育委員会)

太閤の制札

布田天神社所蔵の制札は、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻略したおり、当地方の人心を安堵させるため天正18年(15904月、郷中に下したものである。近世以前には布田の地名を補陀と書いたことなどがわかり、本市域における近世以前の唯一の制札として貴重な資料である。大きさは縦39cm、横68cm、厚さ1.5cm材質はけやきである。禁制 武蔵国多東郡補陀郷 1.軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事 1.放火之事1.対地下人百姓非分之儀申懸事  右、条々堅令停止乞若於違犯輩者速可被処厳科者也天正184月日 御朱印(調布市教育委員会)


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いい道ですね~/電通大裏        桜並木/調布ヶ丘


大寒桜/調布ヶ丘3
昭和37年、(株)ハリウッド化粧品が工場を設立する際に植えられたもので、市保存樹に指定されてます。(調布市観光マップ)


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野川の風景① 上流側に中央高速が走ります/又住橋(深大寺元町)



・・・佐須(さず)

この地名の起こりについては、佐須村の名主・温井三郎左衛門の先祖で、鎮守、虎狛神社の謝辞であった佐須豊後の姓にちなんだという説、また佐須は滞水地域の中の砂州であるといったり、枝から新しい芽が出るのをサスということから親村に対する分村の意味だという説、さらに、佐須は焼畑を意味する言葉だとする説などがあります。この辺りを柏の里というのは、深大寺縁起に柏江という所が出てくることから来ていますが、柏は狛の誤りで古(いにしえ)の狛江郷のことであろうともいわれています。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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虎狛神社/佐須町

虎狛神社は、今から1425年前の崇峻天皇2年(589年)8月に創建され、農業の神様である大歳御祖神(オオトシミオヤノカミ)がお祀りされて祭事が始まったと伝えられています。爾来、地元住民に崇敬され、地域の団結と発展、心の拠り所として佐須の中心となっております。後に穀物の神様である倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)も合祀され、江戸末までは虎狛山祇園寺の別当が神事を司っておりました。尚地域内には祇園寺東に位置し、天照皇大神をお祀りする「神明宮」、晃華学園南西角には「里の稲荷」別名「樫ノ木稲荷」があり、これらも神社の氏子によって守られてきました。建長5年(927)の『延喜式神名帳』には武蔵国の式内社44座、多摩郡8座の一つとしての記録があります。現在の社殿は天和3年(1683)に再建され、調布・狛江両市にあって最も古い建造物です。このため平成24年には社殿並びにその小屋裏に残されていた三枚の棟札が調布市文化財の指定を受けました。(説明板)

d0183387_14241817.jpg虎狛神社本殿附棟札三枚(市指定有形文化財)

拝殿の奥に位置する本殿は、天和3年(1683)に建立されたもので、市内では深大寺の深沙大王堂内宮殿に次いで古い建造物です。建築形式は一間社流造りの見世棚造りと呼ばれるもので、正面と側面に疑宝珠高欄付の切目縁をめぐらせ、向拝には五段の木階と浜縁が設けられています。屋根は銅板葺ですが、当初は茅葺であったことが棟札から明らかになりました。江戸時代初期の建築技法をよくとどめた建造物で、極めて高度な技量がうかがえます。小屋裏に収蔵された棟札から、願主貫井三良右衛門、新右衛門、牛込の大工柏崎佐太郎などにより建立され、文化12年(1815)に地元の大工によって修復されたことが判り、地域の歴史を知るうえでも重要な建造物です。(調布市教育委員会)

d0183387_14302327.jpg虎狛神社の「狛江郷佐須邨虎狛神社の碑」

拝殿前に建つ「狛江郷佐須邨虎狛神社之碑」には当社の歴史が記されています。文政11年(1828)、佐須の名主・温井義邦が文章を、深大寺住職79世堯偏が筆をとり、氏子の人々が建てたものです。碑文は難解な漢文体ですが、古い神社であることを後世に伝えたいと記しています。碑裏には温井義邦と桑田重定の和歌が二首刻まれています。境内にはその他に日清戦争の「征清従軍碑」や「講社登山記念碑」(大正10年)があります。(調布市)



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街道風景① 佐須街道、崖線の下に農地が広がります/佐須信号辺り



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祇園寺縁起/佐須町
天平年間(西暦729749年)深大寺と同じ満功上人の創建であり、誕生の地であります。昔、この地に住んでいた郷長の右近の長者という豪族とその妻の虎女の間に、ひとりの美しい娘が産まれました。娘が年頃になったころ、福満童子という若者が現れ二人は相思相愛の仲になりました。しかし、両親はどこの馬の骨ともわからない若者と一緒にさせるわけにはいかないと、娘を池の中の小島に閉じ込めてしまいました。困った福満が水神・深沙大王(じんじゃだいおう)に祈ったところ、池から大きな霊亀が現れ、彼を背中に乗せて娘の住む小島へ渡してくれました。この奇跡に、両親はふたりの結婚を許しふたりは男の子を授かりました。この子は満功(まんく)と名付けられ、成長すると両親の教えにより深く仏教に帰依し唐に渡りました。そして法相の教えを学び、この地に戻りこの島のあとに祇園寺を建てたということです。(祇園寺HP)

d0183387_14495594.jpg本堂
昭和53年再建され、ご本尊の阿弥陀如来像は故澤田政廣先生が文化勲章授章の記念として制作・寄贈されたものです。また、調布七福神の一つ福禄寿が、幸福・金運・長寿の神として本堂に祀られ、正月7日間は健康・商売繁盛を願う人で大変賑わっています。


d0183387_14500017.jpg薬師堂
薬師堂は享保年間と推定される建造物でありましたが、損傷が激しく平成17年に再建されました。秘仏薬師三尊は行基菩薩の作一木三体の作で、下野日光社の薬師如来もその一体だと伝えられています。通称「佐須のお薬師さん」と親しまれ、眼病をはじめ諸病平癒に霊験あらたかであり、他にも厄除け、家内安全、縁結び等を願う人も多く訪れます。御前立ちの薬師三尊は、往生要集を記し日本浄土教の祖、恵心僧都の作と伝えられ、江戸から明治時代にかけて毎月12日の縁日には、生姜市で大変賑わったといいます。

d0183387_14500348.jpg閻魔堂
桃山時代の遺構を残す建造物でありましたが、平成22年に再建されました。中央坐像の閻魔大王は、新宿大宗寺と兄弟閻魔と伝えられ、両脇には十王が向き合った形で祀られています。


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江戸名所図会 
狛江入道の旧跡 祇園寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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佐須神明宮/佐須町

佐須神明宮は佐須街道沿いに位置する虎狛神社(佐須町1-14)とともに昔から農に携ってきた地域の人々の深い信仰を受けてきた神社です。虎狛神社は崇峻天皇2年(589年)に大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)・農業の神様おして信仰されている)を祀り、以来佐須の鎮守として地域の安全、安心と団結や発展の中心的役割を果たしてきました。「延喜式神名帳」に武蔵国の式内44座、多摩郡八座の一つとして記されています。なお、佐須神明宮も虎狛神社と同様に明治の神仏分離令までは、隣接する祇園寺の別当が神事を司ってきましたが、それ以降も豊作を願う地域の鎮守の杜として地域の人々にとって欠かせない存在でした。(調布市環境部)


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農の風景① カニ山方向を望みます/佐須神明宮前


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野川の風景② 桜並木の下、気持いいですよ~/大橋・祇園通り(佐須町)



・・・ハケ上の風景

深大寺
湧水の豊富なこの地にまつられた水神、深沙大王(じんじゃだいおう)にちなむといわれる深大寺の寺名より起こり、戦国期には地名として出てきますが、寺名が地名となった時期ははっきりしていません。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)


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指定日に一般公開されてます/都立農業高校神代農場正門

d0183387_16360523.jpg神代農場のあゆみ/深大寺南町
昭和23年(1948年)に青年学校射撃用地から、都立農業高等学校の付属農場として譲渡されたのが始まりです。このときの面積は54.470㎡ありました。その後、農場中央部と中央高速道路が横断することになり、その為、4708㎡を道路公団に、続いて24.928㎡を東京都建設局に譲渡したため現在の面積は24.834㎡になりました。昭和29年(1954年)には働く青少年のための農業自営者教育を目標に、農業科1学級が本校の分教場として設置されましたが、6年後には本校に吸収され分教場はなくなりました。その後はワサビやシイタケ、モチ米の栽培、ニジマスの養殖、落ち葉はき、雑木林や竹林の利用、山野草の観察など農場の自然環境を生かした生徒の実習地として、また、ホームルームやクラブ活動の合宿場として活用し現在に至っています。(都立農業高校HP)

d0183387_16405104.jpg都立農業高校神代農場は国分寺崖線から入り込んだ谷戸地形の最奥部にあたり、谷戸頭の形状となっている。農場には湧水を利用した水路や池が点在し、斜面には竹林を含む樹林地となっており、住宅地の中にあるにもかかわらず水と緑の豊富な谷の景観を保っています。(調布市環境基本計画)



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農の風景② 農場外周路を抜けると畑が広がります/深大寺南町


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裏がすぐ中央道です          中央道の橋を渡り自然園へ下ります

池ノ上神社/深大寺南町

絵堂(旧字名)の鎮守社で創建は不詳です。明治406月に里の稲荷社と池ノ上の稲荷社を合祀して、池ノ上神社となりました。祭神は池ノ上大神と倉稲魂命(うがのみたまのみこと)の二柱です。社前には大ケヤキ(幹囲3.3m余り)やヤブツバキの大木があります。中央高速道路が社地にかかり、多くの大木が姿を消しました。(調布市)



・・・ハケ下の風景

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深大寺自然広場
深大寺地区の、通称カニ山といわれている小高い山を含めて、都有地約3ヘクタールの土地を、調布市が借り受けてつくられた公園です。多摩地域に自生していた野草を中心とした野草園や、カタクリの自生地があり、武蔵野の面影を残しています。(東京都環境局)


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深大寺自然広場

もともと神代農場の谷戸地につながった谷戸底とその周辺の斜面林からなる地形でしたが、中央道建設と谷戸底の盛土化によって、現在は東部の斜面臨林と開けた平地及び南西部の谷戸の出口にあたる広場から構成された地形となっています。神代農場からの水路は一部暗渠化されているものの佐須地域を流れる用水に繋がっています。広場内の雑木林は通称カニ山とも呼ばれ、まとまった樹林が残り良好な状態で自然環境が保たれています。(調布市環境基本計画)

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用水路暗渠部             同開渠部/柏野小付近



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深大寺自然広場・野草園

緑豊かな深大寺地区の通称かに山を含めて、都有地32千㎡を東京都から借り受けています。 キャンプ場、休憩広場、ホタルの小川などをはじめ、失われつつある調布の自然を守るための野草園やカタクリの自生地があります。(調布市)

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深大寺自然広場園内マップ


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狛江入道の館跡と伝わりますが「里の稲荷」が建っていました/晃華学園

狛江入道の碑/晃華学園
佐須町のマリア修道院晃華学園の構内にある石碑です。鎌倉期の『吾妻鏡』に「狛江入道増西が、承元2年(1208)に50余人の悪党を率いて、武蔵国威光寺の寺領に乱入し苅田狼藉に及び訴えられた」記録があります。その狛江入道の館跡の伝承地とされ、江戸後期の『新編風土記稿』に狛江入道館跡の説ありとして、古舘の規模、堀を繞(めぐ)らした跡や櫓台跡などを記しています。大正10年ごろ別荘工事の折、入道穴と呼ぶ所から石敷上に遺骨が出土し里人が壺に収め、その上に石碑をたてたといいます。実際には、この骨は古墳時代末の横穴墓が工事の時に壊され人骨が出土したものと思われます。(調布市)

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ハケ下とハケ上の様子ですが、碑は構内にあるので確認できませんでした。

悪党

日本の歴史において中世に既存支配体系へ対抗した者・階層を指す。この場合の悪とは、剽悍(ひょうかん・すばしこく、しかも荒々しく強いこと)さや力強さを表す言葉。あるいは、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価を指す。Wikipedia


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野川の風景③ ベンチで一休みしたくなりますね~/細田橋付近


・・・国領(こくりょう)

古代から中世にかけての国衙領(律令制下の諸国の政庁)がこの地にあったことに由来するとされたり、周辺にトビタ給、アゲ給、給田(きゅうでん・世田谷区内)という地名が残っていることから、これらは中世の給分(鎌倉幕府や荘園領主が御家人や荘官に給与した土地、米、銭などをいう)と関係のある地名とする説があります。また地元ではコクリュウとよぶ人もいます。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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街道風景② 甲州街道はこの先で左の旧道へ入ります/馬橋・調布警察前


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野川の風景④ 京王線を越えてハケ下を蛇行しながら狛江へ流れます/馬橋(国領町)


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「深大寺・自然と歴史コース」案内マップ
(赤:コース 橙:歩行ルート 紫:佐須街道・甲州街道・品川道 青:中央道 黄:調布・国領駅)

周辺には屋敷林や田園風景が広がり、今では残り少ない武蔵野の面影が偲ばれます。深大寺の門前では江戸時代からの名物「深大寺そば」を味わい、おみあげを探すのも楽しみです。(調布市観光マップ)

深大寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23058175/



・・・・・・・・・
資料ファイル

「品川道」を準備しようと思い、調布市の郷土博物館へ寄ってみました。
ここに「解説シート」というものが置いてありますが、調布市のことや
多摩川、野川、深大寺城などコンパクトに解説されている資料です。
これは初心の者には貴重ですね、有難く読ませて頂きます。

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調布市郷土博物館/調布市小島町
郷土博物館は、郷土の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報を展示や講演会・講座、月見だんご作り・深大寺赤駒作りなどの体験学習会を通して市民に提供しています。収蔵品は、市内の遺跡出土の土器や石器などの考古資料、江戸時代の村絵図や古文書、明治時代以降の教科書、古写真、太平洋戦争関係資料などの歴史資料、多摩川に生息する魚類のはく製など自然その他の資料、郷土ゆかりの美術資料があります。そのほか、調布の信仰行事、職人の手仕事を記録したビデオもご覧になることができます。(調布市)

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展示風景① 古代

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展示風景② 中世・近世

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展示風景③ 近藤勇生家(宮川家)復元模型
近藤勇は天保5年(1834)武州多摩郡上石原村、宮川久次郎三男として生まれた。幼名勝五郎といい、嘉永2年(1849)に天延理心流近藤周助の養子となり、江戸の試衛館に移った。15歳であった。生家宮川家は昭和18年調布飛行場の飛行機の離陸に危険との軍の命令により取り壊されました。現在は勇の産湯として使った井戸が残っている。昭和52年に「近藤勇生家跡」として調布史跡に指定された。(説明板)

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近藤勇像               調布市内の近藤勇関連地

「近藤勇生家跡」の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23052802/


屋外展示


d0183387_17140962.jpg享保12年銘庚申塔
この庚申塔の塔身の高さは130cm、幅は53cmで、市内の庚申塔では珍しい大型の石塔です。書面に邪気を踏みつけた六臂(ぴ・6本の腕)の青面金剛尊が、上部には日月と流雲、下部には鶏や三猿が浮き彫りにされています。碑銘には享保12年(1727)の造立年が、台座正面と左側面には旧金子村の庚申講14名の名前が刻まれています。甲州街道の拡幅などにより昭和7年と同37年の2度の移転を経て、甲州街道沿いの敷地(菊野台1-32-2)に置かれていましたが、平成26年土地の整理に伴い郷土博物館内に移転されました。(説明板)


d0183387_17141236.jpg庚申塔
庚申の晩に寝ると体から三尸の虫がめけ出して、その人の罪を天帝に告げに行くという道教の信仰に基づいた供養塔。この塔は青面金剛を主とし足元に二羽のニワトリと三猿を陽刻したものである。もと国領の小山稲荷境内に祀られていた。(説明板)


d0183387_17141484.jpg石橋元文4年銘

この石橋は深大寺東町6丁目24番地付近の大川(入間川)に架けられていました。その頃は川沿いの低地は一面水田でしたが、昭和30年代後半から急速に開発が進み瞬く間に住宅地に変貌し、大川すら現在の野ヶ谷通りになりました。橋を造る4本の角柱状の石材はほぼ同じ大きさで、石材は真鶴半島の安山岩です。向って右側の側面に「元文4年巳末11月吉日」と年号が刻まれています。この年号が石橋が架かられた年代を記すものかどうかの確証はありませんが、元文4年は深大寺東町56丁目付近が開発された時期に近く、村内の通行のために取り付けた可能性が考えられます。(説明板)




by Twalking | 2016-04-22 22:44 | リバーサイド(新規)

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