ぶらり日野(1) 百草周辺
天気 晴れ
百草は近いので散策の範囲にしています。
甲州街道で歩いていますが、これは主に新撰組関係でした。
中世は武蔵七党の西党の領分、いずれ再訪したいと思っていました。
先日、日野市郷土資料館を訪ねた時「真慈悲寺」のことを伺いました。
初めて耳にしましたので「???・・・」ちんぷんかんぶんです。
七生丘陵はウオーキングルートとして魅力のある所ですが、
今度は「中世の日野」をテーマにして歩いてみようと思います。
・・・万蔵院台地
万蔵院という名は中世~近世にここに万蔵院というという修験の寺があったことにちなんでいます。それ以前の時代についても、遺跡から多くの石器や土器が発見されており縄文時代の大きな集落があったことや古墳時代の小古墳も発見され、古くから人が住んでいたことが判っています。(日野市観光協会)
大栗川
八王子市および多摩市を流れる多摩川水系の一級河川である。八王子市鑓水付近を水源とし、都道20号府中相模原線(柚木街道・野猿街道)に沿って大きく蛇行しながら概ね北東に向って流れ、八王子市松木付近で支流の太田川を合わせる。多摩市に入り多摩市和田の宝蔵橋付近で大きく東へ向きを変え連光寺付近で乞田川を合わせた後、稲城市との境界付近で多摩川に合流する。(Wikipedia)
和田&倉沢谷戸の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23498179/)
・・・百草観音堂
『新編武蔵風土記稿』によると百草園の所にあった「松連寺の観音堂は武相33所の札所である」と記されています。明治になり松連寺が廃寺となると、寺の仏像などはこの地にあった庵に移されたのだと言われています。百草観音堂は現在でもこのコースにある真照寺、清鏡寺とともに武相48観音の一札所になっています。武相観音めぐりは12年に一度、卯歳に開扉され盛大に札所巡りが行われています。観音堂内部には聖観音菩薩を中心に大日如来座像、阿弥陀如来座像が安置されており、聖観音菩薩は日野市の有形文化財に指定されています。(日野市観光協会)
百草観音堂仏教彫刻群
百草観音堂に安置されている仏教彫刻群は、平安時代〜江戸時代までの様式を備え、いずれも美術的・技巧的に優れたものである。これらは平安時代末〜中世にかけて百草に存在したと推定される真慈悲寺(しんじひじ)や、江戸時代に存在した桝井山松連寺と後に続く慈岳山松連寺との関連が考えられ、百草地区における寺院の変遷を考える上で重要なものである。
1.木造聖観音菩薩立像(平安時代12世紀)
2.木造十一面観音菩薩立像(江戸時代 宝永・ないし享保年間・1716〜36)
3.木造阿弥陀如来坐像(鎌倉時代14世紀)
4.木造大日如来坐像(平安時代12世紀)
5.木造僧形倚像(江戸時代18世紀)
6.木造僧形倚像(江戸時代18世紀) 附 横幕(真慈悲寺弥陀如来と墨書 年代不明) 手水鉢(小林正義銘 宝永5年・1708銘) 鰐(銘文あり 江戸時代19世紀)(日野市教育委員会)
手水鉢
小林正利の6男・正義が宝永5年(1708)に寄進(日野市指定有形文化財)
(小林正利は江戸時代に百草村を知行していた旗本で、枡井山観音堂を建立した)/百草周辺の歴史散策ガイド
・・・百草画荘
日野市立小島善太郎記念館
日野市百草で晩年を過ごし日本洋画史に多大な功績を残した「洋画家・小島善太郎」。2013年(平成25年)ご遺族から住まいやアトリエ、残された作品約80点などが市に寄贈され、このたび日野市立小島善太郎記念館(小島善太郎「百草画荘」)として、一般に公開されます。アトリエは1971年の建築で後に茶室が増築されました。小島善太郎生前の雰囲気を可能な限り残しつつ、晩年を中心とした作品約30点とさまざまなゆかりの品を展示します。(日野市)
小島善太郎(1892-1984)
大正-昭和時代の洋画家。明治25年11月16日生まれ。安井曾太郎 (そうたろう)に師事し、大正7年二科展に入選。フランスでゲランにまなび、12年サロン-ドートンヌに入選。昭和5年里見勝蔵らと独立美術協会を設立した。昭和59年8月14日死去。91歳。東京出身。代表作に「林中小春日」。著作に「巴里(パリ)の微笑」。(コトバンク)
日野市立小島善太郎記念館
所在地:日野市百草776
開館日:毎週土・日曜日、祝日
10:00~16:00
入館料:大人300円
・・・京王百草園
百草園(松蓮寺跡)
百草園のある百草地区一帯には、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、鎌倉幕府の御願寺であった真慈悲寺があったと推定されている。その後この地に松連寺という寺院が建立された。この寺は江戸時代中期に小田原藩主大久保加賀守忠増の夫人であった寿昌院慈岳元長尼が再興したことで知られている。江戸時代近郊の名所として『江戸名所図会』などにも紹介され、太田南畝ら多くの文人墨客が訪れたが、明治になって廃寺となった。明治20年(1887)に百草出身の貿易商青木角蔵が庭園百草園として一般に公開し、北村透谷や若山牧水ら多くの著名人が訪れた。現在は京王電鉄株式会社の所有となり梅の名所として広く知られている。(日野市教育委員会 日野市指定名勝・史跡)
百草園は鎌倉街道上道、多摩川の渡し、武蔵野国府などを一望する要衝の地にあります。この地を含めた百草一帯には平安時代末から鎌倉時代にかけて真慈悲寺(しんじひじ)という大寺院があったと推定されています。江戸時代になると、この地に松連寺が建立されましたが明治時代になって廃寺となり、同20年(1887)、百草出身の生糸商人青木角蔵により百草園が開園されました。昭和32年(1957)に京王電鉄株式会社の所有となり現在に至っています。(案内板)
この石は以前、園内の土中から出ていたもので、本来は寺の入口にあり「不許葷酒入山門」という文字が彫られていたと思われます。これは葱等の臭いのある野菜、酒を口にした者は寺内に立ち入りできないという意味ですが、不許の文字は以前から割れており現在はありません。(説明板)
寿昌梅
小田原城主大久保侯室・寿昌院慈岳元長尼が徳川家康長男、岡崎三郎信追悼のため植樹したと伝えられる(案内板)
子育て地蔵
梅の名所として有名な百草園は、江戸時代の松連寺として禅寺の跡である。江戸時代の末には将軍ゆかりの尼寺として栄え、現在残っている茶店の藁葺屋根の一部にはその名残を留めている。庭の造りも凝っていて心字池を中心に枝ぶりのよい松や梅、柳その他の古木が今もなお美しい影を池に映している。池には鮒や緋鯉が泳いでいる。この百草園の中庭に子育て地蔵がたっていて、昔交通事故で亡くなった子の物語が伝えられている。昔、尼寺であった頃のことである。尼寺の女中ウメがいちのまにか庭師の善吉と人目を偲ぶ仲となり二人の間にはかわいい女の子が生まれ、トキと名付けた。しかし働き者ウメに比べて善吉はなまけ者で暮らしに困ったウメはトキを連れて郷里の新潟へ帰ったが、過労がもとでまもなく死んでしまった。ウメの死に目が覚めた善吉は心を入れ替えてトキお背負って庭師おして働くようになった。ところがトキが4歳いなったある日のこと、道端で遊んでいたトキに恐ろしい勢いで走って来る暴れ馬があっという間にトキを踏み殺してしまった。善吉は悲しんで百草の尼さまに悲しみを訴えた。尼さまは「いくら嘆いても死んだ者は帰らない。それよりもお地蔵様を彫ってお祀りすればそれが何よりの供養です」といって慰めてくれた。そこで善吉は心をこめてお地蔵様を刻んだのがこの百草の子育て地蔵の始めである。このお地蔵様は明治の廃物棄却で一時土中に埋められたが、京王電鉄がこの土地を買収した時、土中から掘り出したものである。(日野のむかし話より)
草園と若山牧水
度に生きた憂愁の歌人として有名な若山牧水は、まだ学生であった明治40年前後に百草園の自然を愛し、しばしば訪れていました。41年春には小枝子という美しい名の恋人を連れて泊まり、熱烈な恋の歌を詠んでいます。しかし、この恋は悲恋に終わり1年後にふたたび百草園を訪れた牧水は、ひとり静かに思いにふけり歌集「独り歌える」を作りました。そしてこの時期に歌人として立つことを決意したのです。この牧水と百草園との深いゆかりを伝えるために昭和46年秋に建立された歌碑には、牧水の長男若山旅人氏が設計しています。(案内板)
「山の雨 しばしば軒の 椎の樹に ふりきてながき 夜の灯かな」「摘みはすて 摘みてはすてし 野のはなの 我等があとに ほく続きぬ」「拾ひつる うす赤らみし 梅の実に 木の間ゆきつつ 歯をあてにけり」百草園にて 牧水
若山牧水生誕百周年建立歌碑
「小鳥より さらに身かろく うつくしく かなしく春の木の間 ゆく君」
芭蕉句碑
「志ばらくは 花の上なる 月夜かな」芭蕉
芭蕉天神
当園の北部、旧三沢村下郷の篤学農民・土方誠助(文政7年~大正3年)が学問の大切さを子孫に知らしめるために祀ったという。そのお蔭か子孫・龍之助は昭和26年旧七尾村(現在日野市の一部)の村長となった。以前、北方40mにあったものを平成2年2月吉日に現在地へ遷祀した(案内板)
真慈悲寺の推定地出土の中世瓦42点
平成元年に京王百草園内で行なわれた発掘調査で、13世紀中頃と同後半に制作されたと考えられる約5000点にのぼる大量の中世瓦が出土した。特に13世紀後半には総瓦葺きの建物が存在したことが推測され、その軒先に飾られた「蓮華唐草文軒平瓦」は東京都内で他に類例の無い特徴的なものである。なお、京王百草園に隣接する百草八幡神社所蔵の阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)の背中に刻まれた銘文から、建長2年(1250)に武蔵野国多西群吉富郷(百草、落川及び多摩市を中心とした地域)に「真慈悲寺」という寺院があったことが知られる。また鎌倉幕府の記録書である「吾妻鏡」の文治2年(1186)の記述には、「武蔵野国真慈悲寺は、御祈祷の霊場なり」とあり、重要な寺院と認識されていた事がうかがえる。これら瓦の出土によって、真慈悲寺の存在とその所在地が京王百草園一帯に推定されることになり、貴重な資料といえよう。(日野市教育委員会)写真:「百草周辺の歴史散策ガイド」より
・・・百草八幡神社
百草八幡神社
創祀は『百草村升井山正八幡宮伝紀』によれば、康平5年(1062)源頼義が宣旨を受けて奥州下向の時とあるが、下向の時とすれば永承6年(1051)が正しいようである。また『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』・『江戸名所図会』・『調布日記』にも康平5年等の記述がある。『武州多摩郡百草村桝井山正八幡宮伝紀』元禄14年(1701)5月、別当寺の松連寺の住職・臨済宗35世亀光鑑によって書き著された(破損が甚だしいため昭和51年修復)。金銅阿弥陀如来坐像一体 建長2年(1250)施主源氏某より、源家の祈禱所(吾妻鏡)であった当所真慈悲寺に寄進され、同寺廃亡後は百草八幡宮の本地仏となっていた。昭和25年国の重要文化財に指定された。(日野市史)
鎌倉時代の建長2年(1250)武州西郡吉富郷真慈悲寺の僧慶祐が、施主源氏一門の願により天皇をはじめ幕府執権、当国国司、地頭、名主の安穏泰平、子孫の平安を祈り造立されたものである。吉富郷はこの百草の地一帯の旧称であるが、真慈悲寺は早くに廃絶しその旧跡もいまは不明である。阿弥陀の定印を結び、端然と結跏趺座の姿につくられている。やや均整を欠く両肩の線や重厚な体軀、そして大きく孤を描く強い肩、抑揚のない眼尻、しっかり結んだ口唇など個性的な表情をみせている。その素朴な表現には鎌倉時代特有の力強さと親しみやすさが感じられる優品である。本像の背面に造立の由緒を伝える銘文が刻まれているのも貴重である。なお木製の光背、台座は後補である。(日野市教育委員会)
百草のシイノキ群
百草のシイノキ群は百草園裏山から百草八幡神社境内や百草観音堂にかけて群生している。幹の周囲1m以上のものが60株繁茂し、シラカシやアラカシもまじって多摩丘陵中他に類をみない常緑樹林を形成している。特に百草八幡神社には樹齢300年から400年と推定される巨木も含め、成木が数十株茂って遠くからも目に付く纏まった林相を呈している。これらのシイノキはすべてスダジイで、実は食べることができる。(日野市教育委員会)
松連禅寺の碑解説板
この碑は文政13年(1830)に松連寺8代住職魯庵によって建立されたもので、撰・書家は小田原藩士岡田雄(岡田左大夫光雄、御番頭、右筆)による、像高1.7m、総高2.7mの精巧な作りである。松連寺は明治6年(1873)に廃寺となり、百草出身の横浜貿易商青木角蔵翁が買い取り、明治20年に百草園として公開した。昭和32年に京王電鉄株式会社の所有となっている。
この碑文によると、この地に天平年中に道慈により建立された寺があり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖の頼義・義家が奥州の前九年・後三年の役に際して祈願し、戦勝後、伽藍坊門を建てた。昔は五百石の祭田があったが名前のみが残る。新田義貞が北条氏を討った分倍河原の戦で寺は消失したが、年を経て慶長年中に新たに庵を造り海印を庵主とした。後に黄檗宗瑞聖寺の末寺となり、光鑑を主僧、慧極を中興開士とし光宗・無文・悦門・関捩・自穏・祖門・魯庵と八代続く。
小田原城主・大久保忠増の室・寿昌尼は慧極・北宗とともに慈岳山松連寺を建立した。寺宝には源義家の木像や軍器をはじめ、真慈悲寺と背銘のある阿弥陀仏など多数ある。魯庵の項には寺は衰微していたため、松連寺十八景を新たに作り、宝物を展観し昔の歴史を広く知らせた。この魯庵を当地の代官中村八大夫知剛が助け、殿堂を修繕しこの碑の費も負担したとある。
江戸時代初期には、桝(増)井山松連寺に源義家に関わる寺宝や、真慈悲寺と背銘のある阿弥陀仏等が相伝していたが、享保2年(1717)に慈岳山松連寺に引き継がれた。松連寺を別当としていた百草八幡神社は中世には鎌倉の鶴岡八幡宮と関係があったとされ、義家と墨書された古い神像等を伝えているとされる。魯庵が松連寺を整備し、江戸の文人を招致したため紀行文が多く残され「江戸名所図会」等にも記された。現在松連寺のことがかなり判明するのは、この碑をはじめとする魯庵の業績に負うところが大きい。なお、碑文では松連寺が奈良時代に建立されたように読めるが、その点には疑問がある。また、分倍河原合戦にて寺は消失したとあるが、その痕跡はまだ発掘調査では見つかっていない。(日野市郷土資料館)
・・・朝日山緑地(百草八幡裏山)
朝日山緑地
山に囲まれた倉沢地区に一段と高い南北に連なる山があった。この山はどの山より早く朝日が輝いたことから、昔から朝日さん、朝日さまといわれてきた。山の峰には小さな祠が祭られていた。そこから富士山もよく見えたという。(日野市緑と清流課)
松連寺詩碑
松連寺詩碑と題する五言律詩を刻んだこの碑は天保12年(1841)9月、慈岳山松連寺第8代住職魯庵により建立されました。百草八幡神社社殿裏手のこの場所も当時は松連寺が管理していました。魯庵はさびれた寺を興隆させるための地形を活かして、松連寺18景の整備を進めました。本碑もその一環として、江戸の文人との交流の中で生まれたものであろう。碑には次のように刻まれている。
松連寺詩 五山僊史題 金洞山樵書井題額
天平留寳躅 佛日照千年
開士新剮鑿 将軍舊祷虔群
山青繞一水碧蜿蜒 心地空今古真堪了萬縁
天保十二年歳次辛丑秋九月 慈岳山第八世住持沙門魯庵立石 廣群鶴
碑文のうち松連寺詩は以下のように読み下せる
天平の寳躅(ほうちょく)を留め 佛日は千年を照らす
開士(かいじ)新たに剮鑿(さんさく)し 将軍舊く祷虔せり
群山の青は繚繞(りょうじょう)として一水の碧は蜿蜒(えんえん)たり
心地今古(きんこ)を空しうし 真に萬縁を了するに堪えたり
松連寺は天平(729-749)以来千年にわたり法灯を伝える。和尚(魯庵)は今新たに18景たる名所を作り、源頼家・義家父子も旧は奥州平定の道すがら、ここで戦勝を祈願した。山々の青葉に囲まれて多摩川の流れを目にすれば心は時間を超越し、世俗のしがらみを忘れてこの世の本質を感じることができるほどすばらしい。松連寺の歴史のふるさと眺望のしばらしさを巧みに詠みこみ、さりげなく魯庵の功績にも触れている。この詩は天平年間に松連寺が建立されたとする伝承に基づくが疑問の余地もある。碑の冒頭にある「五山僊史」は漢詩人の菊池五山、「金洞山樵」は書家の市河米庵。ともに江戸後期を代表する文人である。石工の名匠「廣群鶴」。「廣群鶴」は「広瀬群鶴」の略名で、谷中(台東区)を仕事場として、代々その名を継承し、多くの石碑や墓碑を刻んだ。18世紀後半以降、昭和にかけての作品が知られるが、本碑は建立時代から考えて、広瀬群鶴の手になるものであろう。それぞれの分野の第一人者による本碑は多摩の詩碑の白眉とも評されている。(日野市郷土資料館)
・・・七生丘陵散策東コース
三沢砂土緑地
緑地前の百草園登り口に地蔵堂がある。その堂の後背地は東光寺の跡地であり、東光寺は三沢医薬(明治39年高幡山金剛寺に合寿された)の末寺であり、山号を砂土山(するどさん)としたが、明治6年廃仏毀釈のあおりを受けて廃寺となった。寺の南方境の山林一帯は多摩丘陵の各地に露出する平山砂層で、東光寺の山号「砂土山」もこれに由来する。(日野市公園緑地課)
大宮神社/日野市落川
祭神:大国主神 天宇受売命(あめのうづめのみこと)宮比竜神(みやひめのかみ)矢之渡波使命(やのはばきのみこと)大宮姫命(おおみやひめのみこと)
創建年代はよく判っていません。現在は川崎街道からも見える鳥居から急な階段を上がった丘陵の中腹に社殿があります。しかし、寛文10年(1670)ころは、三沢の大宮耕地にという場所に鎮座していて、文久2年(1862)に現在地へ移されたといわれています。その理由は明らかではありませんが『新編武蔵国風土記稿』によると、「その地が河内の居住人数に対し広きに過ぎるので、酒二升を供してその地面を譲り渡し現在の境内に達した」また「昔、浅川が中島部落前を流れていたので水害の影響を恐れて移した」とも記されています。現在の社殿は昭和61年に改装されたものです。大宮神社から多摩動物公園まで七生丘陵散策東コースが設定されています。(日野市観光協会)
清谷山蓮華院真照寺/日野市落川
真言宗智山派に属し総本山は京都東山七条の智積院で、高幡山金剛寺と同じ宗派です。ご本尊様は大日如来で、本堂の左側のお堂に千手観世音と恵比寿天が勧請されています。開基は今より約千年前、11世紀の始め頃といわれており、この落川地区には奈良時代から平安時代にかけ一大集落があったことが遺跡の発掘調査から明らかになっており、百草園周辺に存在していたという「幻の真慈悲寺」との関係も推察できます。大正10年に不慮の火災で堂宇、仏像、古文書などすべて焼失してしまいましたが、幸い消失を免れましたご本尊、大日如来と山門は共に元禄時代(17世紀末)の作であることが判明しています。江戸時代には当寺に寺子屋があり、明治時代より小学校・分校等がおかれ、その後、昭和43年より当寺の子育、安産の信仰として霊験あらたかな観音様の本誓をうけて寺立の日野わかくさ幼稚園を創立し、地域の幼児教育を推進しております。尚、裏山一帯には環境省が絶滅危惧植物に指定している貴重な「多摩の寒葵」が自生しており、寺庭にも数株移植されております。(境内掲示板)
落川神明神社/日野市落川
当神明神社は大日孁貴尊を祭神として寛政8年(1797)建立されたものです。爾来、社殿は数回の補修を重ねましたが、近年とみに老朽化が進み改築のため、氏子・崇敬者の寄進を求めたところ、表記の浄財が得られました。ここに社殿・社務所を新築するにあたり、ここを記念し奉納者名を留めます。(境内石碑)
地蔵座像
明治41年(1908)庚申塔 天明8年(1788)
慈岳山松連寺山門
現在の京王百草園内にあった山門を明示の始めに移築した
馬頭観音
天保13年(1842)台座に「松連寺道」刻銘
東光寺跡の地蔵堂
阿弥陀如来立像:貞享元年(1684)
地蔵立像:貞享4年(1687)
地蔵立像:享保3年(1718)
庚申塔:安永年間(1772-1781)
(百草周辺の歴史散策ガイド)
(赤:東コース 紺:散策コース 橙:歩行ルート 青:程久保川・大栗川)
ぶらり日野(2)高幡&万願寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23825154/)
by Twalking | 2016-05-09 23:11 | たまのさんぽ道(新規)